野呂芳男「福音と人間の結節点」1959 Home  >   Archive  /  Bibliography

福音と人間の結合点

野呂芳男            

初出 : 『福音と世界』1959年5月号、32−37頁 。

(1)    日本人は主体性に欠けているとよく言われる。この日本人の主体性のなさに対して、福音は二つの役割を果すと私は思う。第一に、福音は日本人のもっている主体性のなさを裁くという面をもっている。第二に、裁くばかりでなくそれと同時に、福音はこの日本人との結合点をみつけてゆく。第一の、主体性のなさに対する福音の裁きは、理解するに容易であるが、第二の場合、福音はどのような仕方で結合点をみつけてゆくのであろうか。この問題の理解は、結局人間をどのように理解するかにかかっている。人間は単なる物質的存在ではない。それは自由を持った存在である。たとえば、日本人のように自由をはぐくみ育てなかった伝統文化に支えられている人間であっても、限界状況まで押しつめられれば、当然自由をみとめざるを得ないのではないであろうか。いいかえるならば、人間は究極的には主体的な自由に生きざるを得ない存在である。このような人間理解は、福音への前理解的なものと言い得るであろう。ただこの場合に、このような人間理解が、イエス・キリストにおける啓示によらない時に、真実の意味で深く掘り下げられて理解され得るかどうかが問題である。人間が自己についての本質的な理解を失って生きているときに、キリストにおける啓示はそれを彼に自覚させるのではないであろうか。しかしこの場合も自己の実存の深みにあったものに目覚めさせるという仕方なのであって、空洞に啓示がはいりこむようなものではない。人間の真の自己理解を妨げるものを裁きつつ、同時に隠されている本質的なものを表に出すという役割を福音が果すのではないかと私は思う。    私は自由という言葉によって、二つの自由を意味したい。一つは、自己の実存を最も深く生き抜くために、神に依存して生きるか、それとも自分自身の外に依存すべき何ものをも認めないで生き抜くかという二者択一をする自由である。第二に自由とは、人間の実存がもっとも創造的に生きるという意味での自由である。キリストにおいて私と出会うところの神にどうしても依存しなければ、最も深く自分が生かされない、というような意味での自由である。私はこの第一の自由と第二の自由の関係を、ニコラス・ベルジャエフ等から学んだのであるが、ベルジャエフによれば、第二の自由は第一の自由を前提にすることなしには存在し得ない。第一の自由によって神を選ぶ時に、人間は創造的に、すなわち、第二の自由に生きられるのである。第一の自由によって神を否定し、自己を絶対化した生を送る時、いつのまにか第二の自由を失うことはもちろん、第一の自由さえ失うに至る。ついには神を求めることさえ出来なくなる。第二の自由の喪失は、遂には、その人にそのような運命的状況を生み出すのである。    結局人間は、神に自己の実存を投げ出して生きる時に、もっとも創造的に生きられるのである。こういう前提なしには、他者に対して福音を述べつたえることは出来ない。自分が福音によって自由に創造的に生きており、それを喜び誇らかに思うことなしに、福音伝達の情熱などあり得るはずがない。福音を語る時に、他者もその実存の自由の中で豊かな創造性を見出し、その生の深い豊かさによって福音との結合点を体験し、福音を理解するということが起り得るのである。    それゆえにキリスト教の伝道には、キリストにあらわれた神の側からの啓示ということだけでなく、それを受け取る人間の側の問題がある。この二つを絶えず見つめてゆくことによって、われわれは具体的な伝道の結合点を発見するであろう。
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  (2)    人間が福音を受けとるのは、第一の自由によってである。しかしそのようにして産み出された創造的生が、いつのまにか律法的生にきりかえられるという事態が起り得る。福音の生活はたえず主体的に決断しながら第二の自由に歩んでいくものであって、第二の自由は第一の自由を予想している。それが忘れられるとついに福音が律法化され、人間はいやいやながらも、第二の自由に生きようという律法的な努力をする。これは真の意味での豊かな創造的生ではあり得ない。結合点を予想し得ない福音の理解は、結局のところ律法化される。    私は運命と宿命という言葉を次のような区別をして用いてみたい。運命(fate)は第一の自由が失われ、外側から働きかけてくるものによって流されていくような生活状況である。宿命(destiny)は、人間が第一の自由をもってより創造的に生きるためには、自分はこういう生き方をせざるを得ないという仕方で、自分の内部に、第一の自由を犯さないで、しかも、自己の創造性の方向づけを既に与えられたものとして持っているという生活状況である。自由な、創造的な息吹の豊かな宿命的生こそ、キリスト者の生活である。このように考える時に、よく言われる日本人の主体性の無さは、いつのまにか福音までも運命的なものに変えてしまっているのではないだろうか。    さて、伝統的にプロテスタンティズムでは、神の恵みによってのみ人間は救われると主張して来た。その場合に神の恵みと人間の第一の自由との関係は、神の恵みが全部であるから人間の第一の自由は無であるということになるのであろうか。人間がすこしでも第一の自由をもてば、それだけ神の恵みは減らされるという考え方は、神の恵みと人間の主体性というような、実存の深みにおいて起る信仰体験を、われわれの眼に映ずる世界の出来事の一つであるかのように神話化しているのである。人間の実存の深みにある問題は、人がものを眺めるような主観−客観(subject−object)という対立的な、世界観的な理解の仕方で理解され得るものではない。このような実存的真理は、そのなかにとびこんで実存してみる時はじめて理解されるものである。われわれが自由に神を選び、自己の創造的な宿命を体験してゆくことのなかで、このように生きているのはただ神の恵みによるのであるという真理を体験するのである。神の働きをどのように考えるかということが結局問題であろう。それはこの世的な行動や事件と 並んで 起るものではなく――そうであるならば、それはブルトマンのいう神話になるであろう――むしろ、この世的な行動や事件の なかで 起るものであると私もブルトマンと同じように考える。隠れて働く神は 信仰 の眼によってのみ見抜かれうるものであろう。信仰の眼をもってみなければ、そこには単に極めて自然な、この世的現象のみが見られる。私の 自由な決断 、私の 自由な創造性 のなかに、私は神の絶対的な恵みを体験するのである。  
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(3)    福音が人間と結びつく場合に、決してそのまま結びつくものではないということは、前述した通りである。すなわち、福音は人間を裁きつつ結びつく。裁きのみでは人間は神への反逆をますますつづけるであろう。これを救うものが神による罪の赦しである。ところが、そのゆるしに対しても人間は反逆する。それをもゆるす絶対の恩恵があってはじめて、結合点が存在する。前にも述べたように、空洞のなかに恩寵が流れこんでくるような意味で結合点が存在するのではない。人間は自己の創造的な宿命を成就することを求めざるを得ない。その模索の途上で、キリストによる福音以外のものによって見出そうとしては失望する。キリストの福音に出会っても、最初はそれに反撥もするであろう。そういう人間を裁きつつ同時にゆるすという意味で、福音と福音に反逆せざるを得ない人間との結合点は起るのである。具体的にそれはどのようにして起るのだろうか。    自我を強烈に主張する人と、自我を失ったような自己喪失的人間とは、共に責任をもたないということで一致している。自己の宿命に対して、両者共に責任をもたないのである。英語やドイツ語の責任という言葉(responsibility, Verantwortlichkeit)の元来の意味が、応答するということであるのは、暗示に富んでいる。応答するということが責任をとるということである。他人を蹴飛ばしても自分を主張するような自我の主張の仕方は、自己の宿命を創造的に生きぬく生き方ではない。絶対他者への応答を自己の創造的宿命の根底にもち、隣人への応答をなすことが、自己の宿命成就に責任をもつことである。    ある者は強烈な自我の主張のゆえに、自己の宿命の根柢たる神に対して責任をもたないで勝手な方向に走り、非創造的な無意味な生に顛落する。ある者は自己喪失のため絶対者に対して責任をもたない。自己喪失というのも、 自由なる主体 として神に対して応答すべく創られた人間がその責任を果さない罪である。これも自己の宿命から外れている生き方である。こういう点で両者とも責任をもたないという意味で、福音から裁かれねばならない。    福音は徹底的に他者に対して責任をもつものである。人間の創造的な宿命も、神が人間に対して徹底的に責任をもち、人間が神に対して徹底的に応答するということにおいて成り立つ。自己の創造的な宿命が、このように神への応答を基礎に持った、隣人への愛の応答において成り立つという実存的真理が、そのなかに実存してみて初めて認識されることは、詳説する必要もないと思う。福音の真理が他者に伝えられるのも、他者をして自己のなかにこのような結合点を見出さしめることであり、他者をこの真理のなかに実存させることである。    このような考え方は、主観−客観という世界観対立思惟に慣れた人々には、あまりにも冒険的に見えるかも知れない。なぜなら、このような実存的な考え方には、客観的に把握出来るような安心の拠り所がないからである。しかし、そのように冒険的なものこそ聖書の言う信仰ではないだろうか。キリストにおいて私に語られる神のことばは、私の実存から一応離れて、その真理性を実証するようなものではないのである。しかし、自己の創造的宿命はキリストにおける神の啓示に出会うところにないと主張する人に対して、われわれは何と言うべきであろうか。こういう人に対してわれわれが言えることは、その通りなのか、という問返しだけである。神への憧憬を覚えたこともなければ限界状況につきあたったこともなく、死をおそれたこともなければ、明日の生活への不安をもったこともない、従ってそういうような信仰による自己の創造的宿命の成就にたいする責任を感じたこともないという人に対しては、単に本当にそうなのかと問い返すことしか、われわれには出来ない。そのようなわれわれからの問返しによって、その人は自己をもう一度実存的に反省するかも知れない。キリストの福音との結合点が、このようにして彼の中に出来上がって来る可能性を、われわれは望むのである。
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(4)    ここで私自身のことを少し語るのを許していただきたい。私がこのように、言わば実存的な福音の理解をするに至ったのは、私がウェスレー的な伝統によって最も私の信仰を養われたからであると思う。ウェスレーの神学は 体験 神学である。私の今まで論じ来ったものは、実はこのウェスレー神学における体験の問題を神学的に表現しようという努力であった。このような私の体験への思索が、プラグマティズムに極めて接近していると思われるラインホルト・ニーバーの神学的認識論や、聖書の実存的解釈学を主張するルドルフ・ブルトマンの神学的方向へ導かれることは、一応理解して貰えることではないだろうか。特にこの小論との関連で私にとって重要なことは、今まで論じ来った創造的宿命成就という福音と人間との結合点を、さらに聖書解釈の原理として、すなわち福音理解の鍵として理解すべきであると私が考えるようになって来たことであるが、それはブルトマンの実存的な聖書の解釈に影響されたのである。すなわち、聖書の使信(ケリュグマ)は私の創造的宿命を成就させるようなものであって、神話とはこのケリュグマをわれわれが聞く場合の雑音である。これがブルトマンによる聖書解釈の非神話化の方法論についての、私なりの表現である。このように福音と私との結合点がそれ自体で福音解釈の原理であるということは、福音と私との関係が主観と客観という関係から離れ、真に福音が私にとって主体的、実存的なものとして迫って来ることを保証している。このような実存的な神との関係においてのみ、私は神に対して好奇心を幾分かでも含むような態度を棄てて、真面目な愛と服従との関係にはいることができる。なぜならば、神についての好奇心は非人格的に神を対象化しているところから来るのであるから。    このように重要な問題を提供していると私は思うので、ブルトマンの非神話化について少しく書くのもこの小論の趣旨に副うことであろう。ブルトマンの提起した問題は、結局のところ、どのように聖書を解釈し福音を理解するかということである。聖書解釈の方法については、従来二つの大きな傾向があったように私は思う。一つは聖書の一字一句を文字通り信じるもので、われわれはこれを根本主義(fundamentalism)と呼んで来た。もう一つは、過去の他の書物と同じように聖書を取り扱って、それを純粋に科学的歴史的に研究してゆこうとするものである。この第二の立場によるならば、たとえ聖書のなかに永遠の真理があるにしても、それは聖書が過去の書物であるから、他の古典類と同様に科学的歴史的に研究することによってわれわれのものになると考えられる。たとえば、プラトンの古典からその哲学的な普遍の真理を探究するというような意味で、聖書のなかからもそのような普遍的な真理を把握しようとする態度である。この第二の立場は、究極的にはその時代時代の思想傾向等によって、聖書のなかにその思想傾向に適合するものを読みこむことに終ってしまうのが常であった。問題は、ブルトマン以前においては誰もこの二つの立場と異なった第三の立場を明確に出さなかったところにあると私は思う。この点カール・バルトといえども、明確な聖書解釈の原理をもっているとは私には思えない。    日本のように文化程度の高いところで福音を述べ伝える時に、聖書を一字一句文字通りに信ぜよという第一の立場をとることはもちろん出来ない。そしてまた教会が第二の立場をとってよいかというに、それの不可なることは言うをまたない。私にとって、多くの他の人々にとってと同様にブルトマンが魅力ある存在であるのは、彼が明確に第一でもなく、第二でもない解釈原理をもって聖書を理解しているからである。    彼はよく、ハイデッガーの実存哲学をとりあげてそれを聖書のなかに読みこんだと批判されている。多くの人々は、彼が前提をもって聖書を読んでおり、その前提にしたがって、自分の読みたいことだけを聖書のことばのなかから選んで読んでいると、彼を批難する。しかし、何らの前提もなく人が聖書を読むということはあり得ない。人間は自己の実存的な問題をいつも持って生きている。全然それをもっていないものは人間ではない。そのような人間が聖書を読むのである。そのような実存的な問題を持って来る人間に対して、聖書の神のことばは裁きとゆるしを同時に語ることにより、その人間と結びついてくる。このような聖書と私との実存的な結びつきのない聖書の読み方は、聖書が私に望んでいる読み方ではない。    さて、実存的前提を持たないで聖書を読むということはないのであるから、神学的反省なしにしているこの事実を神学的に反省するに過ぎないのが、ブルトマンの実存的解釈である。ハイデッガーの哲学はブルトマンにとって、この神学的反省をなすために、人間の実存的な問を明確にするために役立っているにすぎない。人間が人間である以上、実存的な限界状況を経験せざるを得ないのであって、そのような限界状況のなかで時に前述したような結合点が生起する。この事態を神学的に反省し、組織だてようというのが、ブルトマンの非神話化なのである。これは何も通俗的に理解されているように、聖書のなかにある非科学的な部分をすててしまうということではない。聖書のなかの20世紀前の世界観によって書かれたもの――この世界観的雑音のなかで、私の実存に決断をうながし、私の実存を創造的ならしめる神のことば(ケリュグマ)は聞かれるのである――を、今の私の実存との結びつきにおいて解釈してゆこうとするものである。なぜなら聖書が書かれた時にもそのような実存的な問題として取り上げられて書かれたのであり、そのような実存的な人間の問や、それへの神からの答がその当時の世界観であらわされているのであるから、聖書自体の問うているのと同じ問をもって聖書をとりあげるとき、聖書はもっともよく理解されるからである。聖書がこのように実存的な問を問うているかどうかは釈義的な冒険であろうが、われわれはこの冒険をしながら、この冒険をした方が聖書の真理をより深く把握出来るということを、体験的に理解して行くより仕方がない。そこに聖書と私との問の結合点が生起する。他の人に聖書を説く場合には、今の私の言葉で、私が自己のなかに体験している結合点がその人のなかにも実存的に生起することを期待して語るのである。    このようなブルトマンの解釈学は、自分の側にだけ問題を集中し、神が問題にならないような、いわゆる福音理解の主観化を来させないであろうかという危惧もあろう。私が人間の創造的宿命という福音と人間との結合点を、福音理解の鍵としたいと言う時にも、同じ危惧をもって見られるかもしれない。しかし、この危惧は誤解から来ているものである。実存的神学は孤独な実存のひとりごとではない。むしろそれは対話である。実存的にこの対話のなかに生きるものとして、精一杯に生きようとするのである。その時にはもはや神を世界観的対象であるかのように思索することは妨げになるだけである。    それゆえに、聖書のなかにある神の働きについての世界観的表現を、実存的に解釈するという非神話化が必要になるのである。こうして私に決断を迫る、語りかける汝としての神の把握の仕方が、神学の方向になってくるのである。ブルトマンが神話という言葉であらわしているのは、人間にたいする神の働きを、人間の実存的な決断を通して把握するものとは異なるような仕方で表現しているもののことである。例えば、奇蹟(Mirakel)や過去の世界観は、神からの私に向かっての実存せよという命令をその雑音で妨げてしまう。聖書が書かれた当時においては、奇蹟を日常のこととする世界観が、その神の国期待というきわめて実存的決断を要求するものの枠をなしていたのである。しかし、現在のわれわれにはその枠は明らかに実存的決断の妨げになる。それゆえにブルトマンは、非神話化という方法によってその雑音のなかで語られる神のことばを雑音なきものとして解釈し、実存せよという神の命令を厳しく純粋に受けとろうとしているのである。このように実存的神学においては、すべてのものが今、私が実存するためにいかに神のことばを聞くべきかということに集中される。    このように考えて来ると、ブルトマンの非神話化によって解釈された福音の理解の方が、むしろ強烈な仕方で、我と汝という神と人間との関係を表わすものであって、聖書のケリュグマをより明らかにわれわれに与える可能性をもっていると私には思われるのである。
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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/
2002.10.13