野呂芳男「実存論的方法論確立の苦悶」1965

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―わたしの戦後20年―

実存論的方法論確立の苦悶



野呂芳男



初出: 『興文』1965年12月号、2−5頁、 キリスト教出版協会、2−5頁




 
戦争中にキリスト者としての信仰告白をなし、戦争終了の年に神学校にはいったわたしにとって、戦後20年について書くことは、わたしの神学形成の経過全体について語ることになってしまう。そういうことのすべてを書く紙数はもちろんないのであるから、わたしは自分の思索を刺戟してきた二、三の問題を並べてみようと思う。
   今までにわたしが一番苦しめられてきた問題は 不条理 の問題である。もちろんこれには、戦争中の体験が大きな影響を与えている。しかし、そればかりではなく、性格的にそういう問題に敏感に悩むように作られているからかもしれない。    自分の罪の責任のために悩み苦しむのは、当然の刑罰として甘受もできるが、自分もその中にはいってはいるけれども自分の責任だけであるとはとうてい考えられないような、社会集団の責任によって戦争がはじめられ、わたしたちの年令層は戦争の中に追いこまれて大きな被害を受けてしまった。個人の責任と集団の責任との関係は一体どうなっているのであろうか。集団の責任を、いきなり個人の責任として感じなければならないと言うのは、少し無理であろう。そうすると、両者の間には断絶があることになり、個人が自分の罪でないもののために苦しむのは、やはり不当なことのように思われてならない。それに、決して日本の戦争責任を軽く見るわけではないが、今度の戦争には、日本の過去の歴史の圧力、地理的条件、アジアの歴史的・地理的条件等が幾分は日本を戦争に追いやった力があったのであり、全部があの時の日本人だけの責任とは言えないであろう。人間の責任的行為は真空の中で行われるものではなく、そういう人間の行為の行われる環境には、人間を罪の方へと 誘う 要素がある。これはわたしたち個人の生活についても言えることであろう。遺伝だとか、精神的・身体的疾患だとか、その個人がその中で育てられた環境からの影響だとかは、そういう例を提供している。    戦争・戦後の生活体験を通して、自分をもふくめて人間の罪の醜さをいやというほど感じたけれども、それだけでなく、人間の 悲しさ をも深刻に感じた。そして、この感じは牧師として、実際に人々の悩みや苦しみを身近に知るようになるにつれて増加した。その悲しさは、この世界は人間のために それほどつごうよく創られてはいない という実感なのである。自分の生存に気がついてみたら、 人間は不条理の中に投げ出されていた という感じである。    したがってわたしにとっては、バルトが攻撃したような意味での自然神学は、はじめから問題にならなかった。自然や人間のありのままの姿を観察することから神に到達できるとは、とうてい思えなかった。そんなことをしても、わたしには不条理しか見えなかったのだから、結局神を信じるならば、それは 啓示 による以外には方法がなかったのである。    しかし、人間の根底には、自分が無条件で罪赦され、愛されたいという欲求があるのであって、それを啓示と対応するもの、啓示への応答の可能性として把握することがなぜいけないのかわからず、この点ではバルトについて行けなかった。こういう啓示と対応するものを求めるわたしの傾向は、わたしの育てられた教会の信仰の背景であり、また、わたしが終始一貫して興味をもちつづけているウエスレーの 体験主義 から来ているのであろう。    東京神学大学の前身である日本基督教神学専門学校卒業(1948年)当時のわたしは−−卒業論文は「ジョン・ウエスレーにおける義認と聖化」であった−−不条理の問題に苦しみ、それが正統主義的な創造論・摂理論とどういう関係にあるのかさっぱりわからずに困っていた。わたしが神学校時代、組織神学の面でお世話になったのは熊野教授と北森教授であったが、あの頃北森教授の「神の痛みの神学」に惹かれたのにも、そういう理由があったと思う。ところが、北森教授の神の痛みは、人間の罪のためからだけの神の痛みであり、不条理のためからではないがゆえに、ここでもわたしは安住の地を得られなかった。    1949年から1956年にわたるドルー神学校・ユニオン神学校留学時代は、まったくの暗中模索であった。ドルー神学校では、エドウィン・ルイス教授、カール・マイケルソン教授、スタンレイ・ホッパー教授、英国のケンブリッジ大学から客員教授として来ておられたジョン・S・ウエィル教授たちから大きく影響されたし、ユニオン神学校ではポール・ティリック教授、ラインホルド・ニーバー教授、ジョン・ベネット教授たちの思想の中にわけ入った。また、カール・ハイム、ルドルフ・ブルトマン、フリードリッヒ・ゴーガルテンたちの神学を紹介されて、その勉強をはじめたのもその頃であったし、スウェーデン神学、特にギュスタフ・アウレンの神と悪魔の闘争を基として神学を作ろうとする思想や、英国のカトリック・モダニストであったフリードリッヒ・フォン・ヒューゲルの神秘主義的・存在論的思考に興味を覚えたのも、また、ゼーレン・キルケゴールやニコライ・ベルジャエフの思想にゼミナールを通して触れたのも、その頃のことであった。    しかし、この当時一番強く影響されたのは、エドウィン・ルイス教授からであった。教授もわたしと同じように、人生の不条理観に苦しめられていたからである。そして、ルイス教授からわたしは、創造論や摂理論を別の仕方で考える方法があるということを初めて知らされた。神が世界を創造されるに当っては、その行為の中に 破壊的なものの力の介入 を許さないわけに行かなかったのであり、そういう力の介入にもかかわらず、神は創造の行為にふみきられたのである。神の全能とは、何でも神には可能であるとするような力という角度から考えられるべきではなく、 愛の全能 であり、破壊的なものの力の介入があるような状況において、神はその力の介入を、ある時には征服し、ある時には迂回し、ある時には利用して、可能な限りその状況を良いものに変えて行ってくださるのである。神のそういう 適応性 こそ神の全能であり、摂理とはそういう適応性によって形成されて行くものである。このようにルイス教授にしたがって考えれば、不条理は神の 創造の外 にあるものであり、創造の中に神にとって不本意にも介入してきたものであり、 神の敵 ということになる。それゆえ、信仰は不条理への諦念的服従ではなく、反抗なのである。イエスの十字架も神にとって不本意なものであったが、そういう独り子の死という出来事の介入によってのみ、人間の救いが可能になるという 神の悲劇 であった。    前述したように、この頃はわたしにとって暗中模索の時代であった。確かに、旧約聖書から新約聖書に移るにつれて、神話的な表現であるが、悪魔は神の支配から外に出て独立して行く傾向が見られる。したがってルイス教授は、自分の立場を聖書的なものであると弁護できるわけである。破壊的なものという教授の主張の聖書的根拠は、実にこの悪魔なのであり、この悪魔は神の敵なのであるから。ところが、この当時、わたしの中に存続していた正統主義が、こういう思想に強く反撥した。ユニオン神学校に提出した論文は、体験主義に立脚していたとは言え「神の不受苦性」という、こういう主張に反対したところの正統主義的な香りのきわめて強いものであった。    日本に帰ってきてからのことは、他に書いたことがあるので(拙著『実存論的神学』の「あとがき」)、ここでは省略したけれども、どうしても触れなければならない出来事は、1958年のカール・マイケルソン教授の客員教授としての来訪である。恩師であり友人であるこの神学者と、ほとんど毎日のように顔を合わせてわたしは通訳をしたり、彼のために日本語の神学文献を英語に訳しつつ読んであげたりした。こんなことをしているうちに、彼との神学的対話は、わたしの心の中に決定的な神学的方向を作りあげてしまった。マイケルソン教授は、ブルトマンたちの実存論的聖書解釈を土台にして組織神学を作ろうとしていたのだが――ここにわたしが過去形で書くのは、友人たちにとって本当に悲しいことに、彼は数日前飛行機事故で、まだ50才なのにこの世を去ったからである――彼にはルイス教授やわたしにあるような不条理感はなかった。しかし、彼の神学的方法論を採用すれば、わたしの信仰の土台であるウエスレー的な体験主義とも矛盾しないし、彼が意図していなかったものであるが、不条理の問題のルイス教授による解決も受入れることができるのではないであろうか。実存の問いの答えを得るという角度だけから啓示を問題にするのが、実存論的神学の方法論なのであるが、こういう方法論の上に立てば、創造論や摂理論を正統主義の神学のようには、神の全能の客観的支配という思弁的形態で考えなければならない必要性がなくなってしまう。客観的に不条理が存在しようが、神の世界支配について論理整然と言い得なくても、実存が真に生きて行けるように、われわれの実存に滲透しつつ助けて下さる神の力について神学的に発言できさえすれば、実存論的には神の摂理および創造について思索することができるのであり、したがって、ルイス教授の神の適応性の概念を受入れてよいわけである。こういう問題を中心として書いたのが、拙著『実存論的神学』である。こういう方向をたどろうと決心した時に、わたしはほっとした。これで自分に正直になれたという実感をもったからである。しかし、心配であったのは、こういう神学ではたして教会形成ができるだろうかということであった。これは実践してみるよりしかたがない。そういうわけで、どうしても何らかの形で、わたしは伝道の第一線に関係をもって行きたいのである。これはわたしの問題であるばかりでなく、実存論的な方法論を神学的に採用されている方々すべての問題であると思う。    したがって、今のわたしの心を占めているのは、広い意味での教会論の形式である。礼典・教会制の問題や倫理の問題である。どうやら論理構成の方向だけは自分なりにきまったような気がしているが、まだまだである。それに、自分の中にあるウエスレーの体験主義と実存論的神学との関係を、ウエスレー神学の解明という側からもっと明らかにしてみたい。道は遠く、課題は多く、自分には力のないことを嘆いているのが現状である。                                    (1965年11月12日)

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入力:平岡広志

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2002.10.4