野呂芳男「神の死の神学」1974

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実存諭的視角より回顧した弁証法的神学

野呂芳男

     

初出:『理想』408号、理想社、1967年、5月、14-23頁




  「キリスト教的実存主義」という言葉は、明瞭化されねばならないものであろう。我々はむしろこれを「実存論的キリスト教」と表現する方を好むが、それは、実存主義という言葉によって我々が直ちに想起するのは、人間の理性作用によってのみ実存の諸問題を解明し、その解明の土台の上に生への勇気を築くところの実存主義の哲学であるからである。ところが、少なくとも我々の思索においては、論議の対象がキリスト教である以上、当然人間の実存に向かって語りかけ、行為される神、何らかの意味で実存に対して超越者である神を予想する。従って、キリスト教に対して実存論的な接近の仕方をなすということと、哲学的な実存理解とは異なる。前者においては、実存はただ、超越者なる神との交わりの中でのみ解明され、その生の方向付けを与えられるのである。これは、自律の自己理解とは違い、所与たる神という他者との関係の中での自己理解である。併し、神と人間との関係を、実存の解明とその生の方向付けという角度に集中させ、脇目も振らずにそれにのみ情熱的にかかわるという仕方で理解することは可能である。そして、我々はこれを実存論的キリスト教と称するのである。

 この小論の課題は、いわゆる「弁証法的神学」とこの実存論的キリスト教理解との関連を探るところにある。普通弁証法的神学の陣営に属する神学者たちとしてその名をあげられる人々は、カール・バルト、エドワルト・トゥルナイゼン、エミール・ブルンー、フリードリッヒ・ゴーガルテン、ルドルフ・ブルトマン、ポール・ティリック、ラインホルド・ニーバーたちであるが、彼らの活動の初期、近代主義的キリスト教に対して一様に反逆したという意味では、「弁証法的神学」という名称により総括し得たでもあろうが、その後彼ら相互の相違があまりにも顕著になり、彼らを総括的に呼ぶことは不可能である。

 いわゆる「弁証法的神学」の陣営に属する巨人たちの中で、もっとも指導的な立場を今日に至る迄堅持してきたのはバルトである。ベルリン大学では著名な教会史家ハルナックの下で、マールブルク大学では組織神学者ヘルマンの下で学んだこの1886年生まれの神学者は、近代主我的キリスト教の提供する最も良き要素を吸収し、また、チューリッヒの牧師クッターが唱えていた経済機構をキリスト教化しようという理想であるところの「社会的福音」の主張に影響されながら、その牧師としての生涯を、社会主義はイエスの教説によって霊感されることを待っている無自覚ではあるがキリスト教的なものである、と信じて歩み出した。スイスの小村ザーフェンヴィルの牧師に任命された時期より、バルトは自分の社会的福音の立場に疑惑をもちはじめたようであるが、彼の思想を急転させたものは、第一次世界大戦であった。人間の力によって人間とその歴史を救うことの不可能性に深刻に目覚めさせられたバルトは、キリスト教的生活は神の恵みの啓示に依存するという立場に移ったが、その思想的移行は、忘れられていたバーゼルの神学者フランツ・オーヴァーベックや、ゼーレン・キェルケゴールなどからの影響下になされたのである。

 バルトを中心とした「弁証法的神学」の運動は、歴史的には1921年の、バルトの「ローマ人への手紙の講解」の第2版の出版から始まったと言えるであろう。バルトの「ローマ人への手紙の講解」の初版は1919年の出版であるが、ここではまだバルトは近代主義神学を清算していない。この時期のバルトの思想は、確かに弁証法的神学と呼ばれるに相応わしいものであった。即ち、バルトによれば、天使でない人間が神について語る時にはどうしても、1つの叙述で表現すると同時に、同じ事柄をそれと反対の内容をもつ叙述で表現しない訳には行かないのである。例えば、創造における神の栄光について語る場合には、自然の中における神の完全なる我々の目からの隠蔽性を、人間の中における神の像について語る場合には、その人間が堕落している存在であることを、人間が罪を知るのはその罪が赦されていることを知るのと同時であるということを、叙述しなければならないのである。(Das Wort Gottes und die Theologie, 1925, p.172)こういう逆説的な弁証法は、ヘーゲルのそれでは勿論なく、キエルケゴールの弁証法である。

バルトが弁証法的な真理として発見した「不思議な・新しい聖書の中にある世界」はキエルケゴールと親近性をもつ、超越者なる神の支配する世界であった。(ibid.., chap.2)

 キエルケゴールにとって、神はこの世と少しも連続性をもたない存在であった。永遠と時間との間には、無限の質的相違が存在するのであり、只歴史の1点においてだけ永遠が時間の中に侵入してきた。それがイエスにおける神の受肉であった。併し、イエスにおいて我々が出合うものは、神についての一般的真理ではない。イエスは、人間の中に潜在する真理を引き出したソクラテスとは異なり、イエス自体が真理そのものである。1920年に師アドルフ・ハルナックにより、神と人間との質的連続についても語るようにと要求された時バルトは、彼自身認めるように内的激動を経て、上述のキエルケゴールの思想に極めて類似した角度から「否」を発言している。「キリスト教の本質」(Das Wesen des Christentums, 1900)に表現されている如く、ハルナックにおいては、キリスト教の本質はイエスの説教に宣言されているあの神の父性と人間霊魂の無限の価値とこの地上に人間の努力により実現され得る倫理的理想としての神の国であった。即ちハルナックにとって、キリスト教とは単純な、しかも崇高な実践的真理であり、歴史の中に働く神の力によって、時間の中にありつつも人間が永遠に浸された生をおくることであった。ここに見られるものは、キエルケゴール的な永遠と時間の質的相違ではなく、むしろその連続であり、従って永遠なる神の体験は、人間の生の豊かな展開、文化的向上の中で獲得され得た。これがバルトの否定した文化的プロテスタント主義(Kulturprotestantismus)であった。

 バルトにとって永遠なる神の啓示は、地上の平面を直角に切断する全く他なる次元であった。そして、問題なのは、我々が神についてどう考えるかではなく、神が我々についてどう考えるかであった。人間は罪の固まりに過ぎず、いかなる方法によっても神を知ることの出来ない存在であった。理性によっても体験によっても善き行為によっても、直接的な神秘的体験によっても神学によっても歴史によっても、人間から神に至る道は存在しない。自然や人間や人間の良心のどこにも、神を知り得る接点は皆無である。歴史的人物であるイエスを通してさえ、神は隠されている。神を知らせ得るのは神のみであり、神のよしとされる時に、神は人間に向かって、イエスにおいて隠されつつも啓示されているご自分を開示される。

 バルトの神観念がキエルケゴールのそれと親近性をもつことはあまりにも明瞭であるが、併し、両者は同一ではない。キエルケゴールに存在しバルトに欠けているものは、キエルケゴールが「主体性が真理である」というような言葉で表現した事態である。あるいは、バルトの神学は実存的(existenziell)ではあるが実存論的(existenzial)ではない、という表現を借りることもできるであろう。我々はここでハイデッガーに做ってこれらの表現を用いたいのであるが、実存的であるとは、個人としての人間に可能なものとしての、生の姿勢のとり得るいろいろな具体相である。個人の生の姿勢の実際的な可能性の1つとして、バルトの主張するような神の一方的な行為の中にとり入れられ、そこに生き甲斐を発見することは勿論あり得る。ところで、可能などの人間の生の姿勢をとっても、それらの全てが、何種類かの数の枠の中に種類分けされて一応まとめられ得るものであるが、そういう仕方で人間の生のいろいろな姿勢を分析して、人間の生の姿勢のとる一般的な諸種の可能性を探索し、それを通して人間の真実に迫ろうとするのが真理への実存論的な接近の仕方である。

 キエルケゴールの思索は、人間理解の実存論的な接近の仕方が、神の理解と相即するところの独特な神学であった。周知のように「主体性が真理である」という発言は、ヘーゲルの哲学体系に対する抗議であった。キエルケゴールによれば、ヘーゲル哲学は客観主義であった。そこにおいては、全ての人間の生が歴史の中に自己を展開させて行く絶対精神の弁証法的過程の中に巻込まれている。そこで忘れられているものは、そういう哲学的知識を思索するのが実存する個人、時間の中で成長しつつある具体的な人間であるということである。歴史の中で成長しつつある人間の思索も成長し得るものであり、従って、真理の誤り無き絶対的把握などは存在し得ない筈である。(Kierkegaard: Concluding Unscientific Postscript, trans. by Swenson & Lowrie, Princeton, Princeton University Press, 1944, pp.169-170)これに対してヘーゲル哲学の立場からは、人間の実存としての理解はその体系の中に取り入れられているとの抗議がなされるであろうが、それに対してキエルケゴールは、その体系の中にとり入れられているのは実存についての観念であり、具体的な実存についての思索、実存論的な人間理解ではないとの反論がなされるであろう。即ち、ヘーゲルの体系の中には、人間の理解が確かにその場所をもっているけれども、そこで理解されている人間と具体的人間との間に、キエルケゴールは越えることの出来ない断絶を見出したのである。ヘーゲル哲学の実存理解は、実存の外に先ず思想体系の基本を設定し、その基本から実存を理解してそれを体系の中に取り入れたに過ぎない。これに反して、キエルケゴールの認識方法は具体的な実存自体の内部での自己理解から実存理解を出発させる。人間と異質な神との出合いも、実存の底に沈潜し、言わばその底を突き破っての出合いであって、実存の外での出合いではない。「最大限の内面性は客観性としてあらわれる」(キエルケゴール。Wahl: Etudes Kierkegaardiennes, Paris, Librairie Philosophique, 1949, p.313よりの再引用。)

 バルト神学に欠けているものは、キエルケゴールのもつ最大限の内面性が同時に客観性であるという、主体性を通しての真理追求であるが故に、キエルケゴールの神観とバルトの神観がどれ程共通したものをもっていても、バルト神学の人間理解はその神学体系の中にとり入れられた人間の観念であり、その点でヘーゲル哲学の人間の観念と同じように具体的な人間の理解ではない、それは客観主義である、という非難がなされ得るであろう。

 バルト神学のように客観主義の立場をとる人々は、キエルケゴールに見られるような実存論的な立場の神学に対して、それが結局のところ、人間から神に至る道の提唱であり、生まれつきの罪ある人間が、そのままの姿でも神を知り得るとするヒューマニズムの楽天的人間観であると批判するが、これはキエルケゴールの立場に対し公正ではない。生まれつきのままなる人間性、人間の直接性は一応全く否定されなければ神との出合いは成立しない。この意味でキリスト者の生活は死を経た生であり、啓示はどうしても弁証法的になるのである。(Wahl:op cit.,p.142)

 我々はバルトの弁証法的神学と言われたものが、実存論的なキエルケゴールの弁証法的神学と、どのような類似性と相違とをもっているかを以上において検討してきた。これはバルト神学と今日の実存論約神学との相違を、キエルケゴールを媒介とすることによって明瞭にするためであった。併し、バルト神学を更に検討する前に、我々はここでキエルケゴールの神学と今日の実存論的神学との相違にも注目しておく方が便利であろう。それはキエルケゴールの逆説(paradox)の観念に関するものである。

 ワール(Wahl)はボーリン(Bohlin)に賛成しながら主張しているが、キエルケゴールの逆説の観念は全くヘーゲル的なものである、と言う。キエルケゴールは逆説によって、神性と人性とが、永遠と時間とがイエスという一人物において、1つの人格を形成したことを意味した。これは人間の理性能力に衝突することであるにも拘わらず、これを受容しない限り人間は、真の自己形成への道を踏み出すことができないが故に、逆説なのである。併し、ワールは、これがヘーゲルに対するキエルケゴールの曖昧な関係から由来しているもの、永遠なるものと有限なるもの、即ち相反するものの結合という形而上学であり、静的であり少しも実存論的ではない、と主張する。エマヌエル・ヒルシュ (Emanuel Hirsch)にも賛成してワールは、キエルケゴールの逆説が、論理的に矛盾するものへのヘーゲルの軽蔑に対する、キエルケゴールの単なる激怒であるに過ぎず、それはヘーゲルの影響から脱却してはいない、と言う。その通りであろう。(Wahl:op. cit.p149)今日の実存論的神学は、イエスにおける永遠なるものとの出合いについて、永遠なるものと時間的なるものとが、 実存の外で あるイエスにおいてどういう逆説的な仕方で結合するかを問わない。むしろ、時間的存在であるイエスと実存との出合いが、実存にとって永遠なるものとの出合いでもあるかどうかという仕方で、 実存を内に含めて 問うのである。


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キエルケゴールの思想における実存の内面への沈潜に対する親近性をもたず、その超越的な神観と類似性をもつバルト神学は、神と人間との関係を言うにしても、ひたすらに神の側からのみである。人間から神に至る道は皆無である。神のみが啓示の真理を人間に知らせることができる。

 ところで、神のみが神を人間に知らせることができるというバルトの立場で、一体神認識は可能なのであろうか。神と人間との間に何らかの類比を言わなければ、神について語ることは不可能ではないか。こういう疑問が当然起こってくる。中世紀において発展した存在の比論(analogia entis)の教理は、その疑問に答えるものであった。それは神と人間との相達を前提にしながらも、人間の良い面を無限大に拡大することにより神について発言しようとする。例えば、人間の愛のもつ崇高な要素を無限大に拡大することにより、神の愛について語るのである。このように、神と人間との間に比論を設定するのである。

 初期のバルトは、存在の比論の教理を悪魔の発明であると棄却していたが、ローマ・カトリックの神学者エリッヒ・プルッィワラ(Erich Przywara)との論争においては、神認識に対するバルトの立場の考え抜かれたものであることが明瞭に示されている。全然知られ得ないものについて語ることは不可能なのであるから、バルトと雖も神と人間との間の何らかの類比を肯定しない訳には行かない。この間題は同時に、神学と哲学との関係をバルトがどう考えるかにも関係してくることも勿論である。

 バルトは1931年に中世の神学者アンセルムスの神の存在の本体論的証明と通常呼ばれているものに関する研究書「知識を追求する信仰」(Fides Quaerens Intellectum)を出版したが、それはアンセルムスの立場に対する同意を表明したものであった。但し、バルトはアンセルムスの試みを神の存在の 証明 とは考えず、神を信じたものがどのように 神の存在を理解する かについてのアンセルムスの 信仰的理解の追求 とみるのであるが。

 上述したところにより幾分明らかなように、この書物の中でバルトは、信仰が先を行き、その後を理性が追うという立場を展開した。従って、彼によれば、信仰と無関係に思索された哲学であっても、神学はその哲学の言葉や観念を借りて神学の言おうとする内容を表現してもよいのである。併しそれはただ、神の言葉である聖書の内容に従属していなければならない。哲学は聖書の内容を疑問視することも許されなければ、また、聖書の内容を確認することも許されない。神の言葉は神の言葉だけが確認し得るのである。むしろ、哲学は神の言葉によって疑問視され、それによってさばかれ、哲学の中に見られるところの神さえも人間の自由にしようとするその傲慢を打ち砕かれて初めて、そのもつ言葉や観念が、神の言葉に奉仕するものとなるのである。

 神と人間との類比に関するバルトの立場も、哲学に対するその態度と変わるものではない。また、この点に関するバルトの意見が、その「ローマ人への手紙の講解」に見られるものから、根本的に変わったと言うのも言い過ぎであろう。バルトは確かに、「ローマ人への手紙の講解」の中で、神と人間との全くの断絶、人間からの神の絶対的な他者性を主張した。ところが、神と人間との何らかの類比についてバルトが発言するようになった時も、この神観が根本的な変貌を遂げたとは思えないのである。バルト自身がその「教義学」において(Barth:Die Kirchliche Dogmatik,vol.?/1. p.715)自分の「ローマ人への手紙の講解」の中の極端な発言に触れ、あの時にはあのような一方的な発言をなす必要があったとしている。そして、その発言には誤りはなかったと今も思うが、併し、聖書の講解を十分な仕方でなすためには、もう一方の極の発言も必要であったのであり、それが「ローマ人への手紙の講解」の時代には欠けていた、とバルトは言っている。

 神と人間との間のある意味での類比を肯定するに至ったという点では、バルトは確かに神の絶対の他者性の主張から後退したと言えるであろうが、上述したところからも、これから述べるように、バルトの神と人間との間の類比がとういうものであるかを知ることからも、現在のバルトも根本的には、神から人間を理解するのであり、「ローマ人の手紙の講解」時代のバルトから変化していないことが分るであろう。

 一例を挙げてみよう。神が創造者であることを我々はどのようにして知るのであろうか。「もしも我々が創造者なる神について知るとするならば、それは全的にも部分的にも、創造に類するあるものを我々がまえもって知っているからではない。それはひたすらに、神を知るようにと神の啓示によってそれが我々に与えられたからなのである。そして、我々が創始者や原因について知っていると以前考えていたところの事柄が、疑問に付され、向きを逆にされ、変形されるのである」。(Barth:Die Kirchliche Dogmatik, vol.?/1, p.83)同様のことが、神の父なることや支配者たることや人格性についても言える。人間が子に対して父であるとはどういうことかを、また、人間の人格性がどういうものでなければならないかを、我々は神を知ることを通して知るのであり、その逆ではないというのがバルトの主張なのである。
     
 それ故に、神と人間との間にある類比をバルトが主張しても、それは飽く迄も神の言葉への服従であるところの 信仰 の出来事の中で言われるものである。従ってバルトは、それを信仰の比論(analogia fidei)、あるいは、恵みの比論(analogia gratiae)という言葉で表現し、存在の比論(analogia entis)から区別している。(Dogmatik, vol.?/1. pp.257ff)

 こういうバルトの立場からすれば当然、全体としての人間の理解も神の側からの理解となる。しかも、神はご自分をイエスにおいて啓示されたのであるから、人間の理解は、神であり同時に人であるイエス・キリストを通してだけ正しくなされ得る。イエスはまさしく人間であったけれども、我々とは異なり原罪を背負っていなかった。見えざる神の像であるイエスは、人間としての本来のあるべき罪なき姿を表現している。それ故に人間は、自分をイエスから理解しなければならないのである。このように、人間は自分を一方的に神の側からキリストにおいて理解するのであるから、ここにある神と人間との間の類比は、キリストの比論(analogia Christi)とも言えるものであろう。

バルトは1956年に「神の人間性」(Die Menschlichkeit Gottes)を出版し、その中でも初期の自分の強調したものの他に、彼が神の 人間性 と呼ぶところのもの、即ち、神がご自分を人間と関係させるところの、人間へ向かう神の面を強調しなければならないことを主張している。併しここでも、我々はバルトが人間を一方的に神の側から理解しようとする点で、変貌したとは思えないのである。

 事態は明らかである。バルトのように神の側から、具体的には聖書の中の神の言葉から全てを理解しようとすれば、全ての事象のそのような理解が、その事象の一般の文化的な理解と衝突してくるのである。その上に、バルトの主張するような全ての事象の理解が独断的であること、それが真の理解であるかどうかを、人間が自分の責任において自由に決定するのを許さないものであることは明らかである。バルト神学には、まさにキエルケゴールの言う「主体性が真理である」という契機が内包されていないのである。主体のぎりぎりの深みまで人間が苦闘し、遂にそこを突き抜けて絶対他者に出合うという意味での、人間の自由はバルト神学にはない。バルト神学では人間の自由までが神から理解され、神への服従こそ自由であると言われるのである。これが客観主義でなくして何であろうか。ここには実存の観念は存在するかも知れないが、一般の文化的な事象理解の中で、その真偽を追求し苦闘しながら、情熱的に真の自分の在り方を追い求める具体的な実存は、この神学体系には影を落していない。

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  その初期の神学活動においてバルトと共に弁証法的神学の陣営に属するものと数えられながら、やがてバルトと袂を分かって行った2人の神学者について触れなければならないであろう。彼らはフリードリッヒ・ゴーガルテン(Friedrich Gogarten)とエミール・ブルンナー(Emil Brunner)とであるが、彼らに触れることは、バルト神学の問題点をも良きにしろ悪しきにしろ明瞭にすることになるであろう。

 ゴーガルテンの関心は最初から歴史にあったと言える。その学的生涯を哲学者フィヒテの研究より始め、フィヒテの倫理主義の立場より、歴史を人間の行為の場として理解することから出発した彼は、独自の立場を既に「我は三一の神を信ず」(Ich Glaube an den Dreieinigen Gott, 1926)の中で明確に表明している。それはエブナーやブーバーなどによって提唱されていた「我と汝」という基本語をもって人間対人間、人間対宇宙、人間対神の諸関係を理解しようという現実理解の方向に多分に影響されたものであり、歴史を神と人間との人格的な「我と汝」という形態における出合いの場、こういう人格的な神の呼びかけに対して人間が応答的行為をなす場として把握しようとするものであった。このようにして、ゴーガルテンの神学は、一切を人間の神に対する決断、人間の歴史創作に集中して思索する傾向があったのであり、神の思索も歴史創作する人間についての理解と重なり合ってなされたのであるから、ゴーガルテンの神学は実存論的なもの、神学的人間学を中心にしたものであったと言っても誤りではない。バルトが神から人間を理解しようとしたのに対して、キエルケゴールの思想と接近するような仕方でゴーガルテンは、真の人間の在り方を歴史を創作する存在という角度から把握し、人間をそういう人間たらしめるものとしての神という角度からのみ神を思索する傾向があった訳である。

 ところで、ゴーガルテンによれば、歴史創作をする人間は抽象的に他者から遊離した個人では勿論ないし、また、人間の歴史創作的行為も、今その人間が置かれている歴史の流れの断面でなされなければならないのであり、抽象的にいつどこでもなされ得るような倫理行為をなして良いものではなかったし、そういう倫理行為はなし得るものでもなかったのである。従ってゴーガルテンは、近代主義的なブルジョア的個人主義、ドイツ観念論の影響下にあった理想主義的・個人主義的・楽天的人間観に基礎づけられた歴史観に反撥し、国家や民族に関する独自の理論により、神の律法を当時のドイツ民族の律法の中に具体的に体験され得るものと主張した。彼がこれをなし得たのは、その神学的人間学の中に場所を占めている創造の秩序の観念からであったが、彼の国家や社会についての思索からゴーガルテンは、ナチスの国家社会主義に1933年頃に一時的ではあったが加担した。この点で我々は、告白教会の指導者としてバルメン宣言を友人たちとともに出し、ナチスとの徹底的な抗争に入ったバルトの方に称賛を送らない訳には行かない。

 バルトによって完膚なきまでに敲かれたゴーガルテンの思索、創造の秩序たる神の律法を当時のドイツ民族の法の中で体験できるという主張は、ルター派に属するゴーガルテンにとっては、むしろルター派の創始者マルチン・ルターの思想との親近性を感じさせるものであったであろう。後にゴーガルテン自身がルターに触れて述べているところでもあるが、ルターは神の律法を二重に考えていた。神の律法は元来現象的には隠されており、人間の心の底に存在するものである。人間の心の中にあるその律法が、現象的にはいろいろな時代に応じて、また、民族的・国家的事情に応じて異なった形態をとり歴史の中に現われてくる。(Gogarten:Der Mensch zwischen Gott und Welt, 1956, pp94ff.)従って、ゴーガルテンは当時のドイツの律法の中に神の律法を部分的であり歪められた姿においてではあっても、体験し得ると主張したのである。

 ゴーガルテンのナチスへの加担を我々は少しも弁護しようとは思わないけれども、併し、これは真摯な神学者の当時のドイツの 状況についての判断の誤り と見なければならないものであって、その神学の誤りとは見做され得ないものであろう。と言うのは、それぞれの神学的色合の相違をもちながらも、歴史のその時の状況の中から――キリストに現わされた神の意志とその状況とを対決させながらではあるけれども――行動への神の呼び掛けを聞こうとする点では、ゴーガルテンと軌を一にするラインホルド・ニーバーやポール・ティリックが、徹底的にナチスと抗争したことからもこのことは明瞭だからである。

 バルトとゴーガルテンの訣別の事情は、根本的にはバルトとブルンナーとの訣別の事情と同じであったと言えよう。ブルンナーはその「出合いとしての真理」(Wahrheit als Begegnung, 1938)がよく示しているように、ブーバーの「我と汝」の基本的思索に影響されたところの、実存論的傾向を相当程度にもつ神学者であるが、1933年頃にバルトといわゆる自然神学に関する激しい論争を行なった。バルトによれば、自然の・生まれつきのままなる人間の中には、神の言葉を受容するに当ってそれへの積極的な備えとなるような結合点(Anknüpfungspunkt)は存在しない。神の言葉への結合点は、人間の中に神によって新しくつくられるのであり、それによって人間は神と交わりをもつようになるのである。これに反してブルンナーは、堕落して神から分離されている人間ではあっても、人間には歪められた形においてではあるけれども神の像(imago Dei)が残存し、それによって人間は、ある程度の神についての知識を啓示によらないでも所有し得る、と主張した。併し、ブルンナーによっても、この残存している神の像は、内容をもたない形式であり、あまり役に立たない。残存せる神の像の力だけでは人間は、真の神の知識に到達できないのであり、啓示との出合いを通して始めて、この神の像の働きの有効性も認識される。ブルンナーの「自然と恩恵」(Natur und Gnade-zum Gespräche mit Karl Barth, 1934)及びバルトの「否」(Nein! Antwort an Emil Brunner, 1934)において展開されたこの有名な論争は、一応バルトの勝利に終った。それはバルトの論理が、神から人間を理解する立場に根拠を置いて一貫していたからであり、それに対してブルンナーの論理の展開が混雑していたからである。例えば我々は、ブルンナーの言う神の像の形式と内容との区別により、何が具体的に意味されているのか、また、両者が一体区別され得るものなのか、疑問をもたない訳には行かないのである。

 それにも拘わらず、この論争において神学的に正しかったのはブルンナーであってパルトではない。この論争においても、既に詳述されたところのパルトの客観主義が明瞭である。バルトの自然神学の完全な否定は、聖書の中にそれが僅かではあっても肯定されているという事実に反するし、人間の生体験の中に神との出合いのための積極的な結合点をバルトのように拒否して、ひたすらにキリストにおいて与えられる神からの啓示にのみ神との出合いの根拠を求めることは、神との出合いを全く独断的なものにしてしまう。ここでは、信仰者が未信仰者に対して、キリストにおける神の啓示を信ずることが、信仰者と未信仰者とが人間として共通にもつところの諸問題の解決のために、どういう役割を果しているかについて話し合いをなし、未信者を積極的に決断の場まで連れてくることの可能性さえ論理的に否定されているのである。ブルンナーが結合点や神の像によって表現しようとしたものは、最大限の内面性が同時に神の客観性に通ずるという、あの実存論的な真理追求の方法論に外ならないのではないか。

 我々は、ブルンナーが「出合いとしての真理」やバルトとの自然神学論争において表白した実存論的傾向をもった方法論に、彼の神学の具体的な組織体系の展開において、残念ながらいろいろの面で忠実であったとは認めることが出来ない。その良い例が、ブルンナーの倫理学の展開である「命令と諸秩序」(Das Gebot und die Ordnungen, 1932)に表現されている創造の秩序の観念である。あまりにも融通のきかない仕方でブルンナーは、歴史の変遷に煩わされないところの倫理的な秩序を、いつの時代でも人間がそれに拘束されなければならない規範として並列する。我々はそれがブルンナ一によって、キリストによる神の啓示と無関係に、現状肯定的であまり批判的ではない哲学的思索から簡単に割り出されたものではないかとの疑いをもつのである。

 併し、ブルンナーもゴーガルテンも、具体的に発表した思想やとった行動において誤っていたとしても、その発想は正しかった。即ち、神の律法に対しての、現実の我々の生体験の中にある、結合点を追求した点で彼らは正しかった。我々の倫理的体験の深みにおいて、倫理的ないろいろな困惑を解決してくれるものとしてのアガペー、キリストを通して現わされた神の愛に出合うのである。このように、倫理的な生の深みの実存論的な探索と、神の律法の認識とが相即するのである。これとは異なって、神の律法が客観主義的に問題にされるところでは、実存が脱落しており、神の律法と、実存による真の生を求めての苦闘との間には、越え難い溝が存在することになる。

 1941年頃より始ったブルトマンの非神話化論の提唱及びそれを回っての論争、また1948年における十有余年にわたる沈黙を破ってのゴーガルテンのブルトマンの立場の擁護、及び、ゴーガルテン自身の実存論的神学の発展的展開については、我々の小論の範囲を越えるものであるが故に、論評を諦めなければならない。
(1967年3月21日記)

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入力:黒田良孝
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2005.2.26

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