野呂芳男「ニヒリズムとキリスト教倫理」1967

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ニヒリズムとキリスト教倫理


野呂芳男


       


初出:『福音書研究−高柳伊三郎教授 献呈論文集』青山学院大学基督教学会編、1967年、247−273頁)






 高柳伊三郎教授への記念論文集に掲載する論文の一つとして、組織神学関係の私の論文を入れて下さることになった。高柳教授が新約聖書神学の分野で大きな貢献のあった教授であり、その貢献への感謝を表わす意味の論文として、主題をどのようなものにすべきかといろいろ考えた結果、聖書のもっている道徳思想と現代のニヒリズムの関係を取り上げることによって、その課題を充たしてみたいと考えた。

 新約聖書は全般的に終末論――シュヴァイツァーの主張したような徹底的終末論であろうが、神が人間を究極的に支配しておられるという意味での広義の終末論であろうが、――を土台にしているのであるから、その倫理はどうしても人間にとっては不安定なものにならない訳に行かない。倫理の根本を形成する道徳性が人間の中に、人間の自由になるような仕方で存在せず、神の意志にあるからである。ここで私は道徳性と倫理とを区別して用いている。前者は人間の終末論的な神の意志への服従の実存的態度を表現し、後者はそれが実存の具体的状況の中でとるところの相である。新約聖書が終末論的であるということは、究極的に言って神の自由と主権が人間を支配するという意味であり、どれ程倫理的な発言が新約聖書の中に存在しょうとも、最後的には新約聖書には倫理は存在しない。人間が恒久なるものとしてそれに依存し、遂には恒久であるが故に、それを知った以上は逆にそれを支配できるものになってしまうものとしての倫理的教訓は存在しない。新約聖書にあるものは人間の道徳性への要求だけであると、最終的には言われなければならないだろう。主権者たる自由な神は、人間の支配をいかなる意味でも超越するものなのであり、遂には倫理の恒久性をも超越することにより、人間による支配を逸脱される存在であろう。キェルケゴールがその「倫理の目的論的中止」の概念で表現したように。そこに新約聖書終末論とニヒリズムとの絡み合いが生まれてくる。と言うのも、ニヒリズムも我々の人生体験の中から恒久の倫理的教訓がそのままの姿で浮かび上がって来て、我々に把握を許すものであると考えていない。ニヒリズムの中には、ニーチェの思想のように「権力への意志」として、とにかく道徳性を肯定するものもあろうし、あるいは、完全に無道徳なものもあろう。いずれにせよ、この小論の意図は、キリスト教信仰のもつ道徳性が歴史社会の具体的な状況の中に生み出す倫理と、ニヒリズムのなす歴史社会への投影との織り成すいろいろの綾に照明を当ててみることである。


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 第二次世界大戦の直後、世相にはニヒリズムの冷い風が吹き荒んでいた時に講義されたものが土台になってまとめられた、ヘルムート・ティーリケの『ニヒリズム』(1)という書物は、我々の追求する問題の解明のために多くを教えてくれるように思う。

 著者は、ニヒリズムは、その言葉がその通俗的な用法によってとかく人々に連想させる生への享楽的な態度を意味しないことを指摘する。敗戦国ドイツには当時連合国側による戦争犯罪人たちの裁判が行なわれていたのであるが、そこに著者は自分の指摘の好例を見出す。ナチスの戦争犯罪人たちは、戦争中の自分たちの行動は上層から命ぜられた義務を実行しただけであるとし、無罪を主張した。また実際、彼らの多くは自身無罪を信じていた。彼らは非常に真面目であり、その義務を良心的に遂行した。著者はこれらの人々を役人根性の持主(Funktionaere)(2)と呼んでいるが、彼らの真面目さは、機構の中の一つの機能を果たして行く上での良心であった。彼らが改変不可能な自分たちの運命と思ったもの、独裁的政府の機構という大きな機構の一つの歯車として自分を感じそれに忠実であったのである。ティーリケは、このような彼らの行動の土台にあったものが運命信仰であり、客観性への逃避であり、また、神なき世界への恐怖であったと主張する(3)。ティーリケによれば、これこそニヒリズムという病なのであり、この病に犯されたものは「決断するという個人的な責任の平面から、命令を実行するという客観的な責任の中に沈む」のである(4)。

 さて、著者はこのニヒリズムのもつ真面目さ、また、その真面目さの土台をなす恐怖について説明するに当たり、例としてピカソの絵画をあげているが、大変面白い(5)。

 ピカソのある絵画が示すように、人間と世界との本来そうであるべき有機的な結合は、現代においては破壊されている。全てのものが機械的に分析・分解され、人間も世界もそのような分析・分解の対象としてのみ取り扱われ、人間の恐ろしい程の非人間化が起こっている。ティーリケがピカソの絵画の象徴する現代状況を説明するものとして引用している、ニコラス・ベルジャエフの言葉を私もここに引用しておこう(6)。


 ピカソの芸術は、もはや全体の人間の完成を求めない。事実のところ、それは全体的な解釈の能力を失ってしまったのであり、自然的存在の内的な構造をあらわにするために、層から層へとただ裸にして行く。あるいは、ますます深く押し進んで、それは其の怪物を発掘する。


 現代人にはモーツァルトの音楽によって象徴されるような調和の世界は失われているのであり、現代の芸術の中に表現されているものは、機械的にまたは偶然的に我々の生を支配する運命への服従であり、その我々にとってどうにもならない運命への恐怖である。そこには、愛において人間や世間を信頼しようとの意欲は欠けている。人間や世界はカミュ(Albert Camus)の小説『ペスト』(La Peste)にあらわされているように、気味の悪い仕方で、理由もなく我々に襲いかかる運命に満ち溢れたものなのである。こういう事情から現代の人間は、社会や世界を人間のための場所に変えて行こうとする情熱をもっていない、とティーリケは言う。こういう状況において人間に可能なことは、その運命を受容し愛することにより、カミュの『シジフォスの神話』(Le Myth de Sisyphe)のように、少なくとも運命に対して積極性を回復することだけである(7)。

 ティーリケはニヒリズムが運命論的なものであるという点に、特に我々の注意を向けているのであるが、このことからティーリケの相手取っているニヒリズムが実証主義的な理性主義とも関係づけられるものであることは明らかであろう。と言うのは、このニヒリズムから生まれてくる人生観は、理性主義的なもの、数学で表現するような人生への評価態度であるからである。全てを計量・計算し見積らなければ気がすまない。こういう実証主義的な態度は、自分の生活を送る人間の姿勢をどう変化させるか。自分の生活が何らの挫折も体験しないように運営されて行くことにのみ、人間の注意は集中されることになる。人間は良い生活管理を通して損をしないような計算づくの生活を送るのであるが故に、ここには冒険がない。人生への怯儒と恐怖とが見え透いていると言わなければならない。こういうようにニヒリズムには、冒険から生ずる生の豊富さと美しさに対する吝嗇(りんしょく)とも言うべき一面もある。

 以上のティーリケの論述から明らかになったように、彼はニヒリズムの究極的な原因を人生の恐怖としている訳であるが、さてそれを征服する唯一の力は、彼によると愛である。その理由は、愛だけが人々から、また、社会から新しいものを期待し創造するからであり、従って運命論に反抗するものなのである(8)。更に、このような愛は結局のところ、我々の父として、世界で生をおくる我々を愛し導く創造者なる神を信ずることに依存するのであり、我々は歴史の中に神の力によって新しいものがいつでも創作され得ることを信ずることによって、初めて究極的な人生の恐怖から、従ってニヒリズムから解放されるのである。

 ところで、ティーリケのニヒリズム批判には、神を信ずるかあるいはニヒリズムかという「あれか―これか」が、換言するならば、神を信ずればニヒリズムから解放され、神を信じないならば全く絶望であるというような思想が、暗黙の中にでも根底に存在していると思われる。我々とニヒリズムとの関係は、実はそれ程簡単ではないという感じを懐くのは私だけであろうか。我々はニヒリズムの中に健康な要素を全然見ないのであろうか。

 我々の生の現実には、信仰をもったからと言って、単に消極的に神の摂理の空白と考え、それに目を閉じて行くものと言うよりは、積極的にどう考えても神の摂理に矛盾するとしか思えない不条理が存在しているのであって、信仰か不信仰かによって現実の全体を肯定するか、あるいは、その全体を否定するかというような「あれか―これか」で解決できないものがある。信仰をもつものにとっても、ニヒリズムは単に全面的に拒否されなければならないものではなく、現実の不条理を我々に直視させて、甘い幻想から我々を解放するという健康な要素を所有しているのではないか。

 こういう皮肉を学問的なものとして受け取ることはどうかと思うが、併し、オーデンがカール・バルトのモーツァルトへの愛好に言及しながら言ったことは面白い。「バルトのモーツァルトとのロマンスは、過ぎ去った日に対する彼のノスタルジア、また、現代人の心の内的現実との彼の接触の欠如を示す手がかりである。現代人の心のニヒリズムとシニシズムとを、彼は全く意味のないものとして排斥しているのである(9)。」

 同様に確かに、ティーリケの非難にも拘わらず我々は、ピカソやカミュの中に正直な深い感動を覚える。そしてその感動が神を信ずることといきなり矛盾するかどうかを問題にするのである。信仰とニヒリズムのもつ一面とが必ずしも矛盾しないという実感は、ディートリッヒ・ボンへッファー(Dietrich Bonhoeffer)の、成人した世界(die mündige Welt)というような思想の中に端緒をもつところの戦後の神学史の潮流と結合し得るものであろう。大人になった人間は、ボンへッファーによれば、神から委託されて世界を管理するのであり、世界の中に自分の生の根底を求めるという宗教的な要求から解放される。従って彼は世界を非宗教的に解釈する。この神学の潮流に立てば、世界を理路整然と我々が理解できる統一的秩序をもったもの、または、理解できないような世界の現実は我々の知性能力の足らなさを表明するものに過ぎず、やがて我々の知性が天的な光に照らされる時には、それらも理解できる可能性をもつものであるというように、世界を合理的・宗教的に説明することからの解放があり得ると思う。我々の信仰は、もはやそういう世界への依存から自由でなければならない。こういう潮流には、神を信じつつも不条理な世界の現実を実感する姿勢が可能であるような、論理の根拠付けの萌芽が見えると言えるであろう(10)。

 ボンへッファーが端緒を作った論理を発展させたものとして、我々はゲアハルト・エーベリング(Gerhard Ebeling)の律法に関する思索に注意を向けるのも面白い。彼は今日の人間にとっての律法は「神なくして現実を処理すること」(Fertigwerden mit der Wirklichkeit ohne Gott)、「この世における神の無能力」(die Ohnmacht Gottes in der Welt)であると言う(11)。今日の人間にとってそれによって生きなければならないもの、信仰によって生きた後、再びそこに帰ってこなければならないものである律法とは、まさにこれなのである。人間は神なしに自分たちの力で、世界に秩序をもたらし、自分たちが人間らしく生きられる世界を作って行かなければならないのであるが、これが律法なのである。我々にはその律法を成就し得ないが故に赦しの神へ追い遣られ、そこで信仰によって神に受容されて再び帰ってくる場所は、まさに神なくして処理しなければならない現実なのである。「キリストの召して下さる生活とは、この世での神の無能力に参与することである。そして、まさにこれが、これのみが、信仰の意味なのである」(エーベリング)(12)。

 ボンへッファーやエーベリングの思想系譜に立って思索するならば、カミュの『ペスト』に表現されているもの、気持の悪い、理屈に合わない、不条理なカとしか言えないようなものが世に存在することを、我々はティーリケのように神経質に、神の全能の世界支配と矛盾するが信仰においてそれらも神の支配内にあるものとして、言わば、鵜呑みにしなければならないものと考えなくてもよいだろう。成人した世界では、もはや神の世界支配の現実を把握することから出発しないのであるから。私は既に不条理の思想については触れたので(13)、ここには詳しく述べる必要を認めないのであるが、ニヒリズムと対決するに当たって我々は、神信仰がそれを完全に否定するものと思わなくてもよいのである。ありのままの不条理を率直に認めるならば、現実には神の意志とも矛盾し、我々の力でもどうすることもできない、または、もしそれが我々の力である程度どうにかなし得るものであるならばそれに反抗して戦わなければならないような、そういうものが存在するのであり、諦めの感情から全てを神の意志として承認するような宗教的態度を止めなければならないのである。信仰の冒険、愛の行為、新しい驚きを歴史の将来に期待することは、形而上学的に神が世界を完全にその全能の力によって支配されていると信じなくても可能であり、神の力の外側に存在する不条理を設定してもかまわない。イエスの十字架と復活に象徴されている神の愛の力は、不条理の現実の間を縫い、不条理に囲まれた詮方無い状況をも突き抜けて我々の生を創作させて下さる。ある場合には不条理を迂回させ、ある場合にはそれに反抗させそれを征服させて下さる。ある場合には、ある程度それを征服させ、どうしても征服できない部分はそれを逆に利用して行かせるというような仕方で、不条理の間を縫って我々を導いて行かれるのが神の愛の全能――形而上学的な全能ではない――なのであり、これこそエドウィン・ルイス(Edwin Lewis)の言葉を使えば神の適応性(adequacy)なのである(14)。イエスの十字架は神の詮方無い状況を象徴し、復活はそれをも乗り越える神の力を現わす。

 「成人した世界」の住人と神との関係はどうなのか。愛の本質は相手をその真正の存在に成長させることにある。自由なる主体として成長し行くことが人間の真正の存在の根底をなすが故に、神の愛は我々が大人になることに矛盾しない。人間への大人になる力の供給源こそ神であろう。こういう発想は存在論的なものであり、神と人間とのもつ人格的・対話的な我と汝の関係から逸れ、とかくするとその関係を神秘主義的な存在関係に変えてしまうことを恐れるのであるが、併し、神を我々の存在の根底とか、あるいは、力の供給源とかいうような存在論的な言葉で表現する以外に仕方のない面が確かに存在する。要は、止むを得ず存在論的発想をしなければならなくなっても、実存論的な人格関係を忘却せず、それと矛盾しないように努めることであろう。そして、真に神を知ったものは、――神が存在論的に考えられている場合でも――神のこの世からの超越を知らされ、この世の一切のものを神と同一視する偶像崇拝から解放されるのであるが、これこそ成人した人間の世界への態度以外の何ものでもない。神を知らない者は、知らずして世界内の何ものかに自分の生を依存させているのである。


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 我々は前にティーリケのピカソ批判に言及して、この事実がティーリケの思考における現代社会との深層での接触の欠如を示すものであるかも知れないと示唆した。ティーリケがピカソの芸術で抵抗を感じている面は、彼の引用したベルジャエフの言葉の中に明瞭であった。ピカソの芸術は「自然的存在の内的な構造をあらわにするために、層から層へとただ裸にして行く」のであり、それは「全体的な解釈の能力を失ってしまった」のである。我々はこの小論の第一節において、世界の中の不条理の存在を許容したのであり、人間は生きるに当たって世界観的に統一ある全体を形成する必要はないし、ニヒリズムかそれとも世界観的な統一の信仰かというティーリケの「あれか―これか」を排除した。信仰とはそういう世界観的に統一ある全体をもつことではなく、不条理をも縫って行かれる神の適応性を信ずることである、という事実を提示したのであった。「全体的な解釈の能力を失ってしまった」というベルジャエフの言葉が、世界観的な意味であるならば、現代状況はその通りである。併し、統一的全体に執着する世界観の喪失を「成人した世界」の特徴として肯定する者にとっては、ティーリケに反してこれは悲しむべきことではない。ところが、ベルジャエフのいう「全体的な解釈」が世界観への言及ではなく、人間性の全体という意味であるならば、――そして私はベルジャエフの発言の意図はそこにあったと思うが――確かに「全体的な解釈の能力を失ってしまった」ことは由々しいことである。勿論このことは、ベルジャエフのピカソ解釈に同意することを必ずしも意味しないが。

 さて、「自然的存在の内的な構造をあらわにするために、層から層へとただ裸にして行く」ことは、必ずしも人間性の全体という意味での「全体的な解釈の能力を失ってしまう」ことではない、と私は思う。層から層へと裸にして行くことは次元的思惟である。体験において一つである現実を深く理解するために、どうしてもその一つの現実の持ついろいろの面を次元的に区別し、我々の生の努力を一つ一つの次元に一応排他的に集中させ、その上で諸次元間の区別を排除しないまま全部を有機的に統一あるものとして理解してこそ、その現実はできる限りの全貌を我々に示すのである(15)。

 次元的思惟の典型的なものとしては、マルチン・ブーバーによる周知の「我―汝」と「我―それ」の両次元の区別がある。これらの用語によって、主体が相手(人間及び物体)に対してとる態度をブーバーは二つの次元に区別したのであるが、「我―それ」は相手に対して客観的・対象的に距離を置き、主体が相手を処理可能なものとして取り扱う時の態度である。「我―汝」は、相手との出合いが主体の深層をあらわにするようなもの、主体が相手に情熱的に巻き込まれてその奥底を曝け出すような態度なのである。この両者は一主体の体験なのであるから有機的に結合していることは言うまでもない。

 これら二つの次元では表現できないもう一つの次元が現代社会の倫理においては取り上げられなければならない、という主張がハーヴェイ・コックス(Harvey Cox) によってなされているが、賛成である。それは「我―汝」(I−thou)、「我―それ」(I−it)に対して「我―あなたがた」(I−you)(16)である。「我―あなたがた」によってコックスの意味するものは、町の道徳(town morality)に対する都会の道徳(city morality)のもつ新しい次元であり、「我―汝」と「我―それ」との中間概念とも言えるものである。成人した世界である都会をコックスは非聖の都会(the secular city)というが、その形状(shape)の特徴として彼は匿名性(anonimity)と可動性(mobility)をあげている(17)。前者は、ただ距離的に近いが故に「我―汝」の関係に互いに入らなければならないとする町の道徳からの解放であり、近隣の人々に対しても一応匿名になることによってそういう律法から自由になることである。匿名になったからと言って、そういう人々をそれとして取り扱う訳ではなく、それらの人々の自由や権利を尊重する訳であるから、どうしても「我―あなたがた」というような概念が必要となる。距離の律法から解放された都会人は可動性によって、真に自分の好み尊敬する人々と「我―汝」の次元での交わりをもてるのである。場所とか距離とかを神聖視しないイスラエルの宗教、荒野を移動し、パレスチナにおいては場所の宗教であったバール礼拝と戦ったイスラエルの宗教、ユダヤ人と異邦人との中垣を破ったキリスト教の福音が、こういう可動性に基礎づけられた都会倫理を肯定する、とコックスは言う。

 我々は今、都会の空間的な倫理面での次元的思考をコックスの思想において検討したのであるが、都会の時間的な倫理面、コックスの表現によれば非聖の都会の容姿(the style of the secular city)での次元的思考を探ってみよう。

 コックスはこの容姿として実用主義(pragmatism)と非聖性(profanity)の両者を提示するが(18)、我々は既に非聖性についてはこれ以上検討する必要がないであろう。何故なら、コックスは創世記二章において被造の人間が、神が創造されたところの、自分より下層の生物に名前を与えることを神に命じられている事実を指摘し(19)、人間は神に委託されて世界を支配するのであると主張しているが、世界が神的なものでなく、人間の支配に委ねられている非聖のものであるというこの思考は、明らかにボンへッファーの「成人した世界」の展開だからである。すなわち、ここでは人間は神と世界との間に立ち、一人の人間の一つの体験の中に神に対しては絶対の服従、世界に対しては委託された支配という、二つの次元の区別がなされなければならないのである。コックスはアメリカ合衆国の前大統領ジョン・F・ケネディ(John F.Kennedy)を例にとりながら、実用主義について説明しているので、我々はコックスの言うところを聞いてみよう。


 工業技術によって形成された都会に住む人間が実用主義的であると言うことの意味は、彼が一種の近代的な禁欲者であるということである。彼は諸問題に接近するに当たって、当面の問題と関係のない考慮からそれらを隔離し、いろいろな専門家の知識を用いることによってする。そして、これらが一時的に解決されたならば、新しい一連の問題と取り組む用意をする。彼にとって生は一揃いの問題であって、測り知ることのできない神秘ではない。彼は処理できない事柄を括弧の外に出してしまい、処理できる事柄を処理する。彼は「究極的な」あるいは「宗教的な」問題について考えるために、殆んど時間を空費しない。そして、彼は非常に暫定的な解決で生き得るのである (21)。                                                                             


 コックスのこの発言の中からも、我々は都会人の次元的思考を探り出すことができる。都会人の実用主義は先ず、当面処理しなくてもよい諸問題の次元と、処理しなければならない問題の次元とを区別し、後者の次元に集中するという次元的区別の上に成り立っている。これを一応空間的次元的区別とも言えよう。同時にそこの空間にある諸問題を空間的に幾つかの次元に分けて処理するのである。次に、実用主義には時間的次元的区別とも言うべきものがある。それは未来の諸問題の次元を一応視野の外に置いて、現在・将来的な問題の次元に集中し、今の暫時的な解決を重んじるという態度である。

 実存を賭けてその時その場での一つの問題に集中するという態度、空間的にも時間的にも全体の詳細な把握よりも部分そのものに浸りきり、全体を把握して当面の部分の処理に確かさをもとうとすることを諦め、むしろ、全体の把握は部分部分を理解し処理することを通して徐々に開け行くものであるとする実用主義の態度は、世界観の放棄と生への実存的勇気とを結合している。宇宙や歴史全体の世界観的把握が無くても生きて行けるのであり、本当のところ生きるということは、そういう客観的な確実性を放棄してまさに来らんとする生の局面の中に――それが神の愛から我々に与えられるものであるが故に――真に自分を生かし抜く場がそこであることを信じて跳躍することなのである。コックスが実用主義の角度から見て、マルキシズムのもつ歴史的唯物弁証法は未だ非聖の世界に徹底していないと言う時に、それは、マルキシズムが歴史を世界観的に把握しょうとする一つの試み、歴史の方が人間を支配するところの神的なものであるとする見解に過ぎないとの批判である(22)。

 こういう次元的思考が、前述したところの神の摂理についての実存論的な思索、すなわち、摂理が客観的に歴史及び世界全体を神がどういう仕方で支配されているかについての思索ではなく、不条理の間を縫っていかなる状況にも適応性をもつものとして神の摂理を理解しょうとする思索と、同調し得るものであることは多言を要しないで理解されよう。実存論的摂理論においては、この時この場という時・空の次元的区別による今への集中が、その論理の基礎をなしているのであるから。

 我々はコックスの示唆するところ多い思索から多くを学んできたのであるが、それらが全て人間の生の技術的な次元に属する問題であることに注意を向ける必要がある。倫理がどういう仕方でこの世の我々の生涯を送るべきかの技術的な問題である限り、コックスの発言に傾聴しなければならない。こういう面でコックスが、倫理の標準は天からの金の板に書かれて人間に与えられたものでなく、文化の変動につれて変わり行くものである、と言っているのは正しいであろう。併し、人間が人間である限り変わらない人間性が存在するのであり、そこから生まれてくる人間のあるべき姿、すなわち道徳性の次元に支えられてこそ、技術的な面での倫選は真に大切なものになってくるのである。この点でのコックスの発言は非常に不用意である。

 我々が前に引用した文章の中でコックスは、「彼(引用者注――都会人)は『究極的な』あるいは『宗教的な』問題について考えるために、殆んど時間を空費しない。そして彼は非常に暫定的な解決で生き得るのである」と言っているが、これは全くコックスが人間性の根底にある神秘を忘れ、道徳性や生の意味への問いがそこから生まれてくるような次元さえも問題処理の技術的次元の中に解消している証拠である。コックスは宗教という言葉を偶像崇拝、処理すべきこの世のものを却って我々の生の根拠にしてしまう人間の未熟さという意味で使っているのであるから、我々は彼が反宗教的であるのは理解できる。併し、人間が生の究極的な問いを問う事態さえも、コックスがその人間の未熟さを示すものであると主張する時、我々は承服できない。時代や場所の相違に伴いその形式はいろいろであるが、人間は全て「究極的な関心事」(ultimate concern)への問い――それへの答えがキリストにおける神の啓示であるような――をもたない訳には行かないとしたポール・ティリック(Paul Tillich)を批判して、コックスはこういう問いを前提として神学することは実用主義的な、こういう問いをもたない現代人には無関係であると言う。果たしてそうであろうか(25)。こういうコックスの立場からは、ニヒリズムとキリスト教、及び、その倫理との問題などは真剣に取り上げられる筈がない。

 時代を越えて変わらない人間の究極的な問いは、形は変わろうとも、いつでも自分の存在することに意味があるのかというニヒリズムを回る問いである。コックスがこの次元を無視してしまったことは、人間の深みの次元を水平の次元・技術の次元のために忘却し、遂には自分の人間性喪失に陥り行く現代人の病を露呈したものでないか。詩人パース(Saint-John Perse)の言葉を引用すれば、「人間が自分は地から土挨によってつくられた事実を忘れたとしても、土挨の方がその霊的性質を人間に思い出させるであろう」ということなのである(26)。真に現代に徹する道は、現代の潮流に棹さすだけであってはならない。現代のもつ病や昏迷の底を突き抜けて現代を将来に向かって創作する道でなくてはならない。我々はここで、こういう人間性の根底の問題を深く掘り下げた宗教哲学者の労作を取り上げてみよう。

 西谷啓治氏の『宗教とは何か』(27)においては、宗教という言葉が人間の深みの次元をさすものとして用いられている。我々はここで、この名著の全貌を知ろうとするものではなく、我々の議論の展開にあたって吸収すべきものだけを吸収したいのであるが、先ず西谷氏とサルトルとの対決が我々の興味をそそる。西谷氏はサルトルの思想が生まれてきた歴史的状況に関して同情的である。西欧における有神論的なキリスト教の神観念の伝統は近代社会の自律精神と矛盾するに至った。神への服従と徹底した自律存在であろうとの意欲が相克し、遂にそこから神を否定する無神論的な立場が生まれたのである。サルトルもその流れに立つ限り、西谷氏の高い評価を享受する。それにも拘わらず西谷氏の立場から言えば、サルトルのヒューマニズム的な無の立場は、無が人間とまだ対抗するものとして把えられている。無は人間の底の壁のようなものであって、それと対決することを通して人間は、自分の生の一切の責任を引き受ける存在となる(28)。それは尚、無を相対的なもの、人間の自由と対立関係にあるものとして把えているのであり、この立場は不徹底であって、仏教的な絶対無の立場たる空の体得にまで突き抜けなければならない。無は空の立場においては、人間の自由に対立する壁であることを止め、人間の自由そのものの中に浸入・滲透する。人間の自由は、無そのもの、一切が滅び行くものであるという現実に安住し、その現実を端的に表現するところにしかない。こういう空の体得から一切のものとの同一感が生まれ、其の道徳性が成立する、と西谷氏は主張する。

 サルトルの立場は西谷氏によると、まだ主観−客観の思惟構造を越えていない。主観−客観の思惟構造こそ、生の技術的な次元の特徴なのであり、サルトルはこの次元で人間の深みの次元をも理解しようとしている。無は、そこでは主観である人間の自由に対立する客観として把えられており、空こそ実に主観−客観をこえた無の体得であると主張されている。

 ハーヴェイ・コックスがニヒリズムは、神を棄てて自律し価値の相対化を体験した近代人の青春相を表現すると言う時、そのニヒリズムは、まさに西谷氏がサルトルにおいて批判されているようなものである。


 それは、神々が死んだ時に人間が所有する自由の目のくらむような称揚から、確実なまた頼むにたる意味と標準との世界へ帰りたいという希望的なあこがれへと、繰り返し動揺する。精神分析的な角度からいうならば、ニヒリストは、神及び伝統的価値によって表わされている権威像に向かっての深い愛憎並存(ambivalence)をあらわに示している。父親をはねのけたが、尚も彼は成熟と自己実現とを達成することができない。それ故に、ニヒリズムはしばしば、一種の悪魔主義になる。新しく発見された神の暴政からの自由を、そのニヒリストは真の人間になるために使わないで、死んだ神がかつて禁じた全ての事柄に耽るために使う。ニヒリズムは、結果的には一つの新しい神を所有する。それは虚無であり死んだ神の逆の投影である (29)。


 計らずも我々はここに、仏教にご自分の究極的な足場を求めておられる西谷氏の所論と、我々の立場とが一致するのを見たのであった。確かにキリスト教の人格神がある特定の場所に座を占め、人間を外側から束縛するような形の有神論において、すなわち、神話的な形態において信ぜられる時には、神を否認するニヒリズムは正しいのである。

 ヴァハニアンが言うように、今日の文化的状況は、後(ポスト)キリスト教文化的であり、神の死を土台にしている。これは人間の自律・自由の達成であり、今日の文化はこの意味で内在主義(immanentism)なのである(30)。世界支配の人間の自由という内在の論理を破る神、人間の主体性を未成熟のままでとどめておくような神には死んで貰わなければならないし、人間の主体性の欠落を補なう必要という意味では神は必要ではない。「無神論者は、来るべき神の先駆である。我々の宇宙の内在的な体制の中では、もはや必要でないところのまさにその神の先駆である」(ヴァハニアン)(31)。「神はもはや必要ではない。神は避けられないのである」("God is no longer necessary,he is inevitable".)(ヴァハニアン)(32)。

 ヴァハニアンの言う来るべき神、避けられない神はどのような神であろうか。それは西谷氏の批判したサルトルのニヒリズム、コックスの相手としたニヒリズムの青春相を超克したもの、神の死を通過したもの、神が必要と見られてきたいわゆるキリスト教文化の後のもの、その意味で後(ポスト)キリスト教文化的でなければならない。神と人間との関係は、単に主観−客観の思惟構造では捕えられない。神の愛の力は人間の自由の向こう側に距離をおいて立つのではなく、先手に愛の行動をとり人間の自由の応答をうながし、人間の主体性を確立させる。愛(アガペー)は主観−客観のもつ距離に堪えられない焦燥をその本質とする。併し愛は自分を無にして他を生かす。これこそ神話の神が所有しない心であり、その神は自分の自由(主権)のために他の自由を侵害する。併し、アガペーの愛の自己を無にした促しに滲透される時、人間は心の奥底から自由に(主体性を確立して)応答するのである。主観−客観の思惟構造の超克という実存の面では、キリスト教の説く神との出合いは、西谷氏の主張されるところの空の体得における主観−客観の思惟構造の超克との類比をもつ。
 
キリスト教の使信は、どうしても人格的な象徴を用いて神を説かない訳には行かない。人間は他者なる神によって罪人なる自分が赦され、受容されなければ最後まで孤独なのであり、祈りが示しているように、モノローグの世界から対話の世界へ解放されなければならない。更に我々はベネットの告白を考えてみるがよいだろう。

「私にとって無神論が信を置くに足るかどうかの試金石は・・・我々の経験するこの世界が何者によっても記憶されないで、永遠に失われるであろうところの一つの島であるという事実を信じ得るかどうかである。こういう仕方で失われてしまうと言うことは本当であるのかも知れない。併し、これを信ずることは、神を信ずること以上に私の信仰能力に酷な要求をする(33)。」信仰とは結局のところ記憶もされず赦されもしないモノローグの淋しさに耐えられないという、従って、神は避けられない(必要ではないが)という被造者たる人間の深い素朴さの決断的な肯定なのである。これがキリスト教的実存の体験なのである。我々はここで非神話化論の制限とも言うべきものを肯定し主張しなければならない。神は無用の長物 (de trop) であると言うことは、現代の後(ポスト)キリスト教文化的状況の内在主義の犠牲者であるに過ぎない。大人の世界に生きる成人した人間は委託された世界管理をなすのであり、委託されているという現実を忘却する時、その世界管理は自己主張の中に混乱・頽廃する。それでは具体的に、この委託と人間の主体性との関係はどうなるのであろうか(35)。



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以上のようなキリスト教とニヒリズムとの対話から二つの重要な推論が導き出されなくてはならないであろう。第一に、中世に発展したローマ・カトリック教会の自然法と人間法との教会による結合に見られるような、倫理は超歴史的・自然的なものであって、時代が変わり状況が変わろうとも永遠に一定不変であるという構造は排斥されなければならない。こういう倫理の立場を超歴史主義と呼びたいが、これは明らかに歴史の時間全体を前もって神が知っておられるという形で完全に支配しており、神にとっての新しい何ものも歴史の中には生起しないという事態を仮定した上での議論である。ここでは歴史が神の自由と人間の自由(委託された世界管理)との交錯の場とはみなされず、自然的なもののように法則的に把握可能なものと考えられている。現代の神の死の文化的状況またニヒリズムの状況は、まさにこういう法則が人間を生かさないし、人間が一人ひとりユニークな存在であるという具体相に適しないが故の反逆なのであった。我々はこの反逆を正当なものとして承認したのであった。

 第二に、人間にとって倫理的問題は、常に新しい将来的なものであり、その場その時に何が善であり悪であるかを探って行かなければならない苦悩に満たされたものである。これこそ人間の委託された世界管理の責任の苦悩である。ところが、実は神にとっても倫理問題はそのようなものであることを我々は主張しなければならない。神の摂理を我々のように考える以上、このことは当然である。併しそうであるからと言って、イエスの十字架と復活にその心を啓示された神への信仰は、ここで神にとっては勿論のこと人間にとっても、明日を創作する正しい倫理の発見に絶望しない。我々が生きるに十分な倫理的支えを歴史の中に神は必ず創作されるのであり、それを神の委託に値する人間はその理性をもって知り得るのである。超歴史主義的倫理か、それとも、全くの無秩序かという未成熟な「あれか―これか」のニヒリズム的態度は取るべきではない。この点で我々の興味を引くのは、ディートリッヒ・ボンヘッファーが最後のものと最後の一つ前のもの(36)とを区別していることである。ボンへッファーによれば最後のものとは義認の恩恵の中に示されている神の愛、アガペーの愛において一切のものからキリスト者は罪赦され自由にされているという事情である。これはキリストにある神の言葉との究極的な出合いであるが故に、我々の全てが要求され、審かれ罪赦されるのであり、相対的な我々の倫理的生活の強弱は、神に受容されるという場では、少しも問題とならない。ボンへッファーが最後のものの一つ前のものを提唱する時、それは、それ自体価値を持つものとして提唱してはいない。それは最後のものへの道備えである(37)。それは信仰者が、この世での日々の生活を神の意志へ服従しつつ送っていかなければならないという現実から単純に由来している。それは神の創造への嫌悪を内在させているところの、最後のものだけで生きようとする徹底主義でもないし、最後のものへの嫌悪を内在させ、この世の規準に生きようとしている妥協主義でもない(39)。それはキリストとこの世との出合いの出来事にキリスト者の生活が参与することである(40)。道備えのあるところとそうでないところに最後のものが生起するのでは、事情が異なるのである。

 ボンへッファーはこの最後のものの一つ前のものの中に四つの委託を考えている。彼は存在論的な背景をもつ秩序(Orders)という用語よりも、神が人間に課されるものであるという面を強調するために委託(mandates)という用語の方を好む訳であるが、彼は聖書に与えられているこれらの委託として、労働・結婚・政府・教会を主張する(41)。当面の我々の興味はボンヘッファーがこれらの委託を一つ一つ具体的にどういうように考えていたかの検討にはない。併し、我々はボンへッファーが妥協主義でもなく徹底主義でもなしに、最後のものたる神のアガペーと委託とを、どういう神学的操作をもって結合しているのか、必ずしも明僚ではない事実を指摘しておかなければならないだろう。ボンへッファーの思索の中で恐らくこの結合帯をなすものは、――人間が人と神とに対して義務づけられていること、また、人間自身の生が自由であることという二つの――責任ある生活の構造(the structure of responsible life) と彼が呼ぶものであろうが、これでも尚、明瞭さを欠くと言われなければならないだろう。併しこういう事情は、神のアガペーへの人間の応答がこの世の中で行なわれなければならない以上、何らかの形で最後のものの一つ前のもの、人間からの神への最後のものたるアガペーの応答(道徳性)とは一応別に、具体的にこの世でどう行動するかという倫理を思索しなければならない点を明らかにしようとした、ボンへッファーの貢献を曇らすものであってはならない。

 結局のところニヒリズムにも拘わらず生き続ける倫理は、時代を越えて変わらない人間性にその基礎を置き、それと変わり行く環境との関係の中から導き出されなくてはならないだろう。超歴史主義倫理のように自然や歴史の中に変わらないものを探すのではなく、それを人間の中に探すのである。不変の人間性の主張がしばしば歴史上、既存の秩序を権威的に強制するために用いられてきたことは事実である。その秩序が不変の人間性に適合しているが故に、その秩序をも不変であると主張されたのであったが、こういう点を注意するならば、矢張り心理学者フロム(Erich Fromm)が次のように言うことを首肯しなければならないだろう。


 人間はその上に文化が跡を残すところの一枚の白紙ではない。人間はエネルギーで満たされ特定の仕方でその構造をもっている存在である。それは確かに外部の条件に適応して行く一方、特定の確かな仕方でそれに対して反応する。仮りに人間が動物のようにそれ自身の本性を変えることによって自家成形的に(autoplastically)外部の条件に適応し、そして、彼が特定の適応性を発達させたある種の条件の下においてだけ生きるのに適当なものになったとする。その時には人間は、専門化という袋小路に到達したのである。これはあらゆる種類の動物の運命であり、このために動物には歴史がないのである。他方、仮りに人間は、その本性に反するところの条件と戦うこともなく、あらゆる条件に自分自身を適応できたとする。実はここでも人間は歴史をもたなかったのである。人間の進化は人間のもつ適応能力と、その本性の中にある、ある滅ぼし得ない性質に根を下している。その本性の滅ぼし得ない性質が人間に、彼の固有の必要にもっと合った条件を求めることを決して止めさせないのである (43)。


 そして、このように不変の人間性が設定された場合には、人間性と環境との関係で、人間性に近い場の倫理であればある程不変に近く、――例えば、殺人や盗みなどが倫理的に悪いという意識は殆んど普遍的・恒常的であると言っても良い程である――環境に近ければ近い程、変化に近いものになることは思考され得る。我々はこの点を詳細に述べる余裕をもたないのであるが(44)、それでは不変の人間性とは何であろうか。

 前述したようにそれは究極のところで対話の世界に生き、神の中に受容されている事実を通し、自分の大切さを、また、自分を受容して下さった神に創造され、その神の愛の相手である隣人の大切さを知る人間性、しかも、一旦事ある時は、神の意志がそこにあると信ずるならば自分の大切な命をも隣人のために棄てる覚悟をもち、そのアガペーに基礎を置いて日常を生きる人間である(45)。

 この人間性は不変ではあるが常に自覚されているとは限らない。人間には心理学の対象になる心理的次元、決断をそこでしなければならない実存的次元、存在一般との関係で思考される存在論的次元等の深みの階層が存在し、人間は自分をどの次元で今問題にするかの決断を迫られているのである。キリスト教倫理は人間のもっと深い次元、神とのあの対話の次元を根拠としている。この深みまで下ってこない実存は、まだその宿命に生きていないと告白するのであり、人間性の宿命は神と隣人へのアガペーを土台として個のユニークなものを生かし抜くところにあると信ずる。こういう宿命成就の倫理こそキリスト教倫理のもつ性格である(46)。
                               一九六六年八月







(1)Thielicke, Helmut : Der Nihilismus, Tuebingen, Otto Reichl Verlag, 1950.
(2)ibid., p.92.
(3)ibid., pp.67−68,90,93.
(4)ibid., p.90.
(5)ibid., p.120,159.
(6)原文にはベルジャエフからの引用箇所が書かれていないが、次からのものである。Berdyaev, Nicolas : The Meaning of History, trans., by George Reavey, London, Geoffrey Bles, 1936, p.173.
(7)Thielicke : Der Nihilismus, p.116.
(8)ibid., pp.165ff.
(9)Oden, Thomas C.: Radical Obedience, Philadelphia, The Westminster Press, 1964, pp.21−22.
(10)勿論このことは、ティーリケが非難するナチスの機構の中に入れられた人々の真面目さを弁護するものでもないし、また、人生における冒険的な要素を否定するものでもない。むしろ、ティーリケの主張する、人間を深く愛に生きさせる根拠が、必ずしもティーリケの言うような「あれか―これか」の思索の態度によらなくてもよいと言っているにすぎない。
(11)Ebeling, Geerhard : Wort und Glaube, Tuebingen, J.C.B.Mohr, 1940, p.154,158.
(12)ibid.,p.158.
(13)拙著『実存論的神学』東京、創文社、1964年、36頁以下。
(14)上掲書、40頁以下。
(15) 上掲書、117頁以下を参照のこと。
(16)Cox, Harvey : The Secular City, New York, The Macmillan Co., 1965, pp.48−49.
(17)ibid., pp.39ff.
(18)ibid., pp.60ff.
(19)ibid., p.73.
(20)神と世界との間に立つ人間についての創作的な思索は、ボンヘッファーの後を受けてフリードリッヒ・ゴーガルテン(Friedrich Gogarten)が最もよく展開した。拙著『実存論的神学』215頁以下及び235頁以下その他を参照のこと。
(21)Cox : The Secular City, p.63.
(22)ibid., pp.68f., pp.118−123.
(23)ibid., p.35.
(24)この点については、次の箇所で詳細に述べた。拙著『実存論的神学』105頁以下。
(25)Cox : The Secular City, pp.79ff.
(26)Vahanian, Gabriel : Wait Without Idols, New York, George Braziller, 1964, p.162.よりの再引用。
(27)西谷啓治著『宗教とは何か』東京、創文社、1964年。
(28)上掲書、36頁以下。
(29) Cox : The Secular City, p.34.
(30) Vahanian, Gabriel : The Death of God, New York, George Braziller, 1961, esp. pp.163ff.;―Wait Without Idols, p.231ff.
(31) Vahanian : Wait Without Idols, p.223.
(32)ibid., p.6.
(33)Bennett, John : “In Defence of God”, in Look magazine, April 19, 1966.
(34) Vahanian : Wait Without Idols, p.186.を参照。
(35)神の人格性については既に書いたことがあるので参照していただければ幸いである。拙著『実存論的神学』176頁以下。
(36)Bonhoeffer, Dietrich : Ethics, edit. by E.Bethge, & trans. by N.H.Smith, London,SCM Press, 1955, p.74.
(37)ibid., p.91ff.
(38)ibid., p.87.
(39)ibid., p.88.
(40)ibid., p.91.
(41)ibid., p.73ff.
(42)ibid., p.194ff.
(43)Fromm, Erich : Man for Himself, London, Routledge & Kegan Paul, 1949, p.23.
(44)この点をもう少し詳細に検討したものとして次を参照されたい。拙論「神学における歴史と自然の問題−特にその倫理との関連について」青山学院大学文学部『紀要』第九号(一九六五年)所載。
(45)上掲の書物の中でフロムは、人間が先ず自分自身を愛して、その幸福を求め、幸福の満ちあふれたところから他者への愛に出るべきであると述べているが、それに対してラインホルド・ニーバーは、人間の自己愛、幸福追求は無限であり、満ち溢れるというような地点に到達することはないと批判している。すなわち、ニーバーによれば、自己愛(それが良いものであろうと悪いものであろうと)と隣人愛(アガペー)とは次元的に峻別されなければならないものであり、人間は神の愛(アガペー)への応答として、神のみ旨であるならば自己愛、否、自己の存在そのものすら犠牲にしなければならないのである。そこにこそキリスト教倫理の基礎がある、としているが同感である。Niebuhr, Reinhold : The Self and the Dramas of History, New York, Charles Scribner's Sons, 1955, pp.138−139.
(46)拙著『実存論的神学』105頁以下及び特に拙論「愛の実存」(関東学院大学神学部発行「聖書と神学」第10号,1965年12月,所載) の277頁以下を参照されたい。


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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/

2003.5.14