野呂芳男「神の死と人間」1968

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神の死と人間

野呂芳男

     

初出: 理想』 418 号、理想社、 1968 20-28 頁。



神の腐る臭いがまだ何もしてこないか? ――神だって腐るのだ! 神は死んだ! 神は死んだままだ! それもおれたちが神を殺したのだ! 殺害者中の殺害者であるおれたちは、どうやって自分を慰めたらいいのだ?……それをやれるだけの資格があるとされるには、おれたち自身が神々とならねばならないのではないか? これよりも偉大な所業はいまだかつてなかった――そしておれたちのあとに生れてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込むのだ!   (ニーチェ 「悦ばしき知識」 No.125 「狂気の人間」信太正三訳、理想社刊)

 後世の人々に対するこの高らかなニーチェの予言は、一応成就したように思われる。ニーチェの「殺神」からは、朗らかな人間の解放の謳歌がきこえてくる。ニーチェの殺した神は、どういう神であったのか。神はその目で 全て を、人間の深みやきたないもの、人間の隠れた恥辱や醜悪を見る存在であった。神はその憐憫において少しも慎しみを知らないのであり、ニーチェのもっとも汚れた隅まで入り込んできた。神はあまりにも出しゃばりであり、なさけ深かすぎるが故に、また、そのような仕方で人間の生の証人となる神を人間はがまんできないが故に、ニーチェは神を殺したのである。(ニーチェ「ツァラトゥストラはこう語った」 67 「もっとも醜き男」参照)

 人間の悪や悲惨に対して「人間は地球の皮膚病」(同上、 40 「偉大なる出来事」参照)とまで言う程に敏感であったニーチェは、それにも拘わらず、「もし神々が存在するなら、どうして私は神でないことに耐えられるだろうか」(同上、 24 「幸福の島にて」参照)と言う程に、人間としての誇りに満ちていた。

 そこには、自分の宿命を自分で背負わなければ気のすまない近代人の姿が見られる。圧制的に神の定めた人生行路ではなく、主体的に自由に自分の宿命を形成し、それを歩み行くところに、もっとも強靭な人間としての喜びが存在するのではないか。同じ部屋の中に神を感じ、その絶えざる凝視を受けるのではなく、人間は孤独に、何の凝視を恐れることもなく物思いに耽り度いのではないのか。悪魔の行為の可能性さえも自分のものとしながら、それを拒ける喜びや、そういう主体的で自由な決断から生れた行為が失敗した時、その悲しみをどん底まで味わう、人間らしい体験をもつ権利を、一体どういう存在が、それがたとえ神であっても、人間から奪うことができるのか。

 鋭敏なニーチェの感受性を通して我々に典型的に伝えられた、近代人の主体性の無上の尊重は、当然神学者たちの間にも、共感を呼び起こさざるを得ない。ニーチェのみならず、ヘーゲルやブレイク( William Blake )や現代の実存主義者たち、専門の分野である神学においては、ブルトマン( Rudolf Bultmann )の「非神話化論」やボンヘファー( Dietrich Bonhoeffer )の「世界の非宗教化」、なかんずくティリック( Paul Tillich )の神学の影響を受けた「神の死の神学」の陣営に属する人々は、確かにそういう共感の徴候である。

 どういう人々をこの神学の陣営に属するものと見做すかが、既に彼らの間で、また、その外で議論の対象になり得ることであるが、我々はその代表的人物としてハミルトン( William Hamilton )とアルタイザー( Thomas J.J. Altizer )とを挙げてみることができよう。彼らの神学それ自体が未だ形成途上にある今日、あまり明確な事柄は言えないけれども、既に両者の神学の思索方向は定まっており、それらはある程度の相違を見せている。

 彼らの主張は、いわゆる無神論ではない。キリスト教的西欧の過去の宗教体験から、旧約聖書に見られるところの人格的な他者としての神を抹殺することは不可能である。それ故に、そういう神はかつて存在していたのであり、神の死は、ある時に起った 1 つの出来事なのである。( Altizer & Hamilton Radical Theology and the Death of God,   Preface, P .??)ハミルトンもアルタイザーも、イエス・キリストにおいて表現された神の愛は、自己を犠牲にして人間を生かすものであり、従って、イエスの十字架上の死は、人間に主体性を与えるために、自分の存在を死なしめて行く神の行為の象徴である。即ち、 イエス・キリストの出現と共に、神の死の出来事が開始された のである。人間の主体性は、神が自己を死なしめて人間に獲得せしめた程に、価値あるものなのである。

 論理の運びのこの辺りから、両者の相違が明瞭になる。ハミルトンにとって、宗教改革の伝統に立ちながら、今日プロテスタント教徒であるということは、ルターの修道院廃止に表現されているような、 聖なるものから俗なるもの 、この世への運動を、更に押し進めることを意味する。即ち、宗教改革の理解が、その中心を自由なる人格の形成に重点をおいた近代主義キリスト教のそれでもなく、また、信仰義認論に重点を置いた伝統的プロテスタント主義や弁証法的神学のそれでもなく、第三の立場、倫理的なもののそれなのである。( ibid., pp.36ff .)それはボンヘファーの「世界の非宗教化」の立場から、もう一度宗教改革を見直すことである。ハミルトンによれば、今日のプロテスタント教徒は、弁証法的神学のあるものが主張するように、下にある人生の虚無の中へ断崖から落ちないために、神というその ふち に指先でぶらさがっている人間であってはならないし、また、罪人であり同時に義人( sinul justus et peccator )であるあの赦されたる罪人でもない。そういう事柄には無関心なのであって、信仰はむしろ 1 つの場所、即ち、自分を必要とする隣人――それが敵である隣人であっても――の 側に 立つということなのであり、イエスに固着するということと、隣人に固着するということとは、同じことである。このように、信仰は愛の中に解消する。

 こういうような主体的な愛の人間を創作するために、神はイエスにおいて自己を死なしめる行動を開始されたのであるが、ハミルトンによれば、その死は 19 世紀において完結した。その事情の反映は、ブレイク、トルストイ、ニーチェ等の、神の死を告げるか、あるいは、世界への神の徹底的な内在を告げる思想家たちに見られるとする。( ibid., Preface p. ?? , p.37 )最後の審判についてのイエスの喩えに出てくる義しい人々が、それまでイエスに奉仕していたことを知らなかったように、(マタイによる福音書、 25 34 節以下)、イエスはこの世に隠されている。隣人の中に、この世の仮面を被って。キリスト者はその仮面をはいでイエスを発見し、彼とともにとどまらなければならない。( ibid., p.49 )また、良きサマリヤ人の喩が暗示するように、我々自身がこの世で、 1 人のイエスにならなければならないのである。

 こういうハミルトンの立場が、史的イエスについてある程度知り得ることを前提にしているのは当然であろう。ところでハミルトンは、弁証法的神学や実存論的神学への反動として、新らしい楽天主義( the   new optimism, ibid., pp.157ff. )を提唱する。併し、我々は、「神の前での人間の無能力や罪性を強調するのあまりキリスト教的ニヒリズムとも言うべき、現実を変えようともしない非行動主義に転落したある種のキリスト教的敬虔に対して、ハミルトンが反逆するその意図は了解し得るにしても、逆に我々が心配せざるを得ないのは、彼の立場が結局のところ、弁証法的神学や実存論的神学が抵抗しつづけているあの楽天主義、一例をあげればアドルフ・ハルナックの「キリスト教の本質」に展開された神の国を地上につくるに当っての人間の愛の行動への信頼と、基本的にはあまり相違がないのではないかと言うことなのである。

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 アルタイザーにおいては、ハミルトンよりも思弁的な面が目立つ。その主著「キリスト教的無神論の福音」( The Gospel of Christian Atheism, Philadelphia, Westminster Press, 1966 )の序文の中でアルタイザーは、自分の思索への最大の影響としてポール・ティリックの思想をあげ、それへの感謝を表明しているが、これは彼の神学を理解するための重要な手懸りである。それと共に我々は、アルタイザーに対する、ごく初期のバルトの神学の影響を見遁してはならないであろう。あまりの単純化であるとの誹を免れないかも知れないが、彼の神学は、初期のバルトの「絶対他者なる神」の主張と、ティリックの「存在の根底としての神」との、イエスを媒介としての巧みな結合と言えるであろう。我々のこういう判断は、アルタイザーのティリックより自分の立場を区別しようとする努力にも拘わらず( Altizer & Hamilton Radical Theology and the Death of God, pp.106-107 )、正しいものであるように思う。

 アルタイザーは旧約聖書の神を「絶対他者」なる存在と考え、そういう神に対しては人間は、神から他律的に支えられた律法への服従を通して関わるのであり、そこからは人間性に誠実であるために殺神をしようというニーチェやカミュの如き叫びが起ってくるのは当然である。併しこの神は、前述したようにイエスの出来事において自己を死なしめたのであり、それこそ新約聖書の告げる福音であり、パウロが語るところの神の謙虚(ピリピ人への手紙 2 6 8 )に外ならない。( Altizer The Gospel of Christian Atheism, pp. 62ff. )ところでハミルトンと異なりアルタイザーの場合には、 死んだ神 が尚も働き続けるのである。これこそイエスの復活や昇天という聖書の幻の意味するものであり、また今も尚活けるキリストについての、あるいは、聖霊についての伝統的な教理が意味したことなのである。( ibid., pp.120ff, pp. 132ff., p.25

 即ちアルタイザーにとっては、神の死は神の存在の在り方の変貌である。死んだ神とは、キリストの出来事以来、自己を人間性の中に溶解した神なのである。この点で、アルタイザーも認めているように、彼の思索へのヘーゲル哲学の影響は明白である。神の死とは、相対立する神と世界とが、弁証法的統一を形成する出来事である。神がイエスにおける死を通して自己をその中に溶解した人間性は、相反するものの一致( coincidentia oppositorum, ibid., p 47 )なのである。

 神と世界との二元論、聖なるものと俗なるものとの対立は神の死を通して、アルタイザーにとっては、解消される。併しハミルトンにおいては聖なるものがイエスにより消滅したのであったが、それとは違い、聖なるものは俗なるものの中に自己を溶解させて行くのであり、その溶解の度合いは、徐々なる進展の過程を形成する。両者の完全なる一致が実現し、個々の自我が相互の愛の故に、他の個からの距離をもたなくなって消滅し、聖なるものと俗なるものとの距離も全く消滅し、全人類が 1 つの「偉大なる神的な人間性」(ブレイク)( The Great Humanity Divine )となる時こそ、アルタイザーにとって歴史の終末であり、神の国の実現である。( ibid., pp.127-131

 従って、その終末の神の国の実現までは、聖なるもの(死んだ神)は俗なるものの中にありつつも、尚完全に溶解してはいず、そこには幾分の距離がある。このような仕方での聖なるものと俗なるものとの把握は、神を人間にとっての存在の根底、( the Ground of Being )人間存在の探みの次元( the dimension of depth )として把えたティリックと少しも変らない。ティリックにとっても、神は人間の他律ではなく、人間性と切断し得ない密着したもの、人間の存在の根底でありつつ、しかも水平面において生きている人間の日常性が、通常は忘却している深みの次元なのである。そこには幾分の距離が見られる。

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 ルネッサンス以来の人間性の解放、ニーチェなどに見られる人間の主体性の尊厳と神の死が、キリスト教の分野で今日どういう形態の神学を生み出しているかを、我々はこれまでに検討してきた。我々はそこで、人間とは何かということの理解が、神をどう考えるべきかを規定しているのに気付いたであろう。この逆も真なりである。神をどう考えているかを知れば、その人が人間をどう考えているかが理解される。両者の間には相互影響、また、循環が存在すると言って差支えない。こういう角度から見た場合、我々の判断によれば、神の死の神学はきわめて不十分な人間理解、キリスト教的とは考えられない人間理解を土台にしていると言わざるを得ない。

 ハミルトンやアルタイザーが正しく認識したように、我々もまた、ニーチェの神の死の告知の中に宿る、人間の主体性の尊厳という真理契機を喜びをもって受け取るのである。

 併し、旧約聖書と新約聖書を貫いている人間の主体性についての考えは、ユダヤ教の神学者マルチン・ブーバーの周知の用語を借用して表現すれば、「我−汝」という形態でのそれ、宇宙の根源である人格的なるものに対する、応答としてのそれなのである。それは対話の中での主体性であり、モノローグの主体性ではない。神の死の現実の中でもてる対話の相手は、自分と同じ人間、あるいは、その集団としての人類であろう。併し、それが人間性のモノローグであることに変りはない。そこでは人間(あるいは人類)は、自分以上の崇高なもの、それに向って礼拝や愛や犠牲を捧げることの出来る相手を喪失したのである。もしもそういう状況の中で、我々が尚も完全なるニヒリズムに転落したくないならば、いろいろの変態においてではあろうが、隣人の中に隠されたイエスを発見したハミルトンや、「偉大な・神的な人間性」に献身を表明したアルタイザーの取った態度に倣うことになるであろう。ニーチェとともに現世を肯定した神の死の神学者たちに、神による天地の創造という聖書の神話の中に表現されている真理、この世が神の愛の配慮の中にある喜ばしい場所であるという真理を信ずる以上は、現世肯定という点で我々も同調するのであるが、併し、我々にとって現世は神が存在するから肯定できるものである。人間以上のものが存在しなくなったり、人間が神的になったりした宇宙は、何というみすぼらしいものであろう。こんなに無力な、汚れた、罪深い人間以上のものの存在しない世界、しかも人間性をさいなみ、歪曲し、苦しめる不条理な出来事に一杯である宇宙を、誰が一体肯定できるのか、実際のところ我々には理解できないのであり、そこでは絶望こそ唯一の正直な態度であるように思える。

 こういう人間についての謙遜な見解が、人間の主体性の理解の根底になければならないと思われるが、我々はここで、神の死を告知する人々の、神の観念の曖昧さを指摘しなければならないであろう。

 我々の大学院の学生がティリックの神の観念について言ったことであるが、「存在の根底」として神がいつも、切つても切れない人間の深みの次元である時には、人間はプライヴァシーを喪失し主体的な自由を享受していない。神には、もう少し人間から離れて住んで貰い、審きや干渉がましい愛の目から離れて、人間が善いことも悪いことも、あらゆる可能性を考え抜いて、その上で決断するような余地を与えて欲しい。こういう字生の幾分ユーモラスな疑問の中に、人間の自由を神学はどのような仕方で真剣に取り扱わなければならないかの、指示を我々は読みとらなければならないであろう。人間に限られた範囲であらゆる可能性を考慮しながら、その中の最善と思われるものを選ぶ人間の主体性を、人間の人格性にとって本質的なものと考えるか、それとも、それは単に善をえらぶための方便であり、どちらをえらぶかの自由よりも、えらんだ善の方が重要であり、従って、善さえ明瞭に了解されているならば、どちらをえらぶかの自由は否定されてもよい、と考え、人間の人格性を宗教的には究極的に重要なものと考えないのか、のいずれかなのである。我々は前者の立場こそ正しいものと考え、神を否定する自由を否定してまで、神を信じて貰おうとは思わない。少なくともアルタイザーの場合、人間の主体性を強調するために神の死を告知しているにも拘わらず、実際のところ、その死んだ神と人間、聖なるものと俗なるものとの綜合的結合において、人間の主体性は真に重んじられているとは言えない。その証拠は、神の国においては、人間は個であることを止めるという幻が語られていることである。

 人間の主体性の理解は、これほどまでに神学に影響する。ティリックやアルタイザーの形態の存在論的神観は不十分であり、主体と主体との自由なる交わりを中心とする、聖書に表現されている神と人間との関係からは、相当のずれを見せている。ティリックの場合には、人間は「存在の根底」を自己を通して表現させる手段に過ぎず、アルタイザーの場合も、死んだ神を表現する手段なのであり、そこでは、人間は人間のために重んじられていない。ところが、聖書の神の愛は、自分にとっての他者を、 他者なり に生かすために自己を犠牲にするものなのである。存在論的概念では、どうしてもキリスト教の神観や人間論は、十分に表現され得ない。

 ティリック自身が、その「組織神学」第 3 巻において「存在の根底」という表現を「霊」に変更することにより、その道を歩み出したと言うのであるが、フェレー( Nels F S Ferr é)がティリックを批判しながら言うように、キリスト教の神は、「愛なる人格としての霊」( Personal Spirit as Love )という表現が最もよいものであろう。( "Tillich and the Nature of Transcendence", Religion in Life , 1966, pp.662ff.  及び  Ferr é : The Living God of Nowhere and Nothing, London, Edworth Press, 1966. )聖書において神が霊であるということは、神の存在が、月や太陽のように他の存在するものと同様の仕方で、どこかに存在するということの否定である。また何かの ではないということなのである。神の死の神学者たちは、初期のバルト神学の影響でもあろうか、神を何かもののように、また、どこかに存在するかのように考えているのであり、そういう神の死を語るところに、彼らの決定的な誤りがある。また、霊なる神は、人間がプライヴァシーの欲しい時には、人間の遠くに立つことのできる存在であり、近くにいて欲しい時には、人間が自分に近いよりも、もっと自分に近く立ってくれる存在なのである。超越の神が死んだり、あるいは、死んで内在化したりするような神の幼稚な観念、旧約聖書でさえも本質的には所有していないような観念を、我々は棄てなければならない。

 そして、人間同志の愛においてもそうであるが、愛は、相手の主体性を少しも脅かすことなく、その相手を とりこ にする。愛しているものは、全く自由に愛しているのであるが、併し、愛の対象の魅力にとりこにされていることを実感する。イエスの十字架に象徴されるような人格的な愛の神は、人間性を殺す他律ではない。人間にとってそこには、神への服従と自己成就との 逆説的統一 がある。

 従って、罪とは真の自己自身への反逆でもあるが、「存在の根底」からの疎外というよりも、神の愛への人間の自由な裏切りである。

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 神の死の神学は、ナチスに抵抗して殉教したボンヘファーが、主にその獄中考えていたところの「成人した世界」( die m ü ndige   Welt )の系譜に立つものであることを主張する。ボンヘファーの主張したことは、政治・経済等の世界の管理に当る事柄は、元来神が人間に委託されたことであり、現代の人間はその点で神を必要とせず、大人になったのであり、この事実は神の元来の意図にそったものである、ということであった。

   神が我々に教えておられるのは、神なしでも結構生活し得るような生き方を、我々がしなければならないということである。我々と共におられる神は、我々を棄てられる神である。(マルコによる福音書 15 34 )我々がその前にいつも立っている神は、神を役立つ仮説として使わないでも、我々がこの世に生きられるようにして下さる神である。神の前に、また、神とともに、我々は神なしで生きる。神は世界から押し出されて、自分が十字架にかけられることをお許しになる。この世において神は弱く、力なき者であるが、併し、これが、これだけが神が我々とともにおられ、我々を助けることのできる道なのである。 (ボンヘファーの獄中よりの手紙、 1944 年、 7 16 日のものより。)

 ハミルトンはこういうようなボンヘファーの言葉を引用しながら、ボンヘファーの思想から当然、神の死の神学が出現することを主張するのであるが、( Radical Theology and the Death of God, pp.113ff. )我々は以上のようなボンヘファーの言葉の中に「神の死」について一言も語られていないことに、気付かざるを得ない。

 明らかにボンヘファーを念頭に置きながらと思われるが、マカリー( John Macquarrie )の言っていることもまた、我々の注意を引く。( Principles of Christian Theology, New York, Charles Scribner's Sons 1966, p 73 )現代人は成人になったという神学的主張に触れながら、彼は言う。

   人間の自律への固執は、成熟のそれよりも青年期の典型的なしるしである。「絶対依存」について語った時に、シュライエルマッハーは未成熟であったのか。それとも、彼がそれを語った当の相手である「教養ある宗教の侮べつ者」たちよりも、多分もっと洗練されていたのではなかったか。ティリック、ブルトマン、ニーバー、バルトは、未成熟と言われなければならないのか。彼らも皆、違った仕方ではあるが、人間が自律的存在であるという見解に反対し、恵みという角度から人間の生を解釈しようとしたからである。

 人間は神に依存しなければならない存在であり、そのことの自覚こそ成人のしるしであるというマカリーの主張は、勿論正しいのであるが、それと反したことをボンヘファーが主張したとするならば、彼のボンヘファーの理解は誤りであろう。

 矢張ゴーガルテン( Friedrich Gogarten )がボンヘファーを理解した方向が正しいと思うが(拙著「実存論的神学」、東京、創文社、昭和 39 年、 68 頁以下参照)、人間は 委託された世界管理 を実行するのであり、そういう人間の行為の基底には、世界を支配する神の摂理への依存が前提されている。人間はその理性を使用しつつ、自分たちの力で政治や経済等の世界管理な実行するが、それは、そういう実践に失敗した時に、いつも再び世界を罪の赦しとともに、管理すべき対象として神から受け取り得るという事情が、また、そういう実行の能力の限界の向側にはそれを支えてくれるもの、そういう実行に失敗したとしても、究極的にはそれらの失敗さえ、良いものに変え得るものとしての神の摂理への信頼が、我々に世界管理への勇気を与えてくれるからではないであろうか。

 我々はここで、伝統的な神の摂理と人間の主体性の問題に逢着する。既に述べたところの、神の愛は人間の自由と逆説的統一を形成するものであるという主張からも明らかなように、我々は人間の生が決定された道を歩むとは考えていない。歴史は神が主導権をもちつつも、神の自由と人間の自由との交錯によって織り成される。神の摂理は、自由なる人間の決断によって作られる善なるものや罪の間を縫いながら、どうにもならないものを避けつつ、利用できるものを利用しながら展開される。神の全能とは愛の全能であり、いかなる状況の中からも、この世を越えたところでの完成に向ってのよりよき一歩を創作し得る 適応性 である(前掲書、 339 頁以下参照)。人間の罪の責任とは到底言えないこの世の悲惨事、人間性の成就を脅かす不条理を、我々は神によって人間に与えられた運命とは考えていず、神も我々とともにそれらに反抗しているものと考えているのであり、それらがいずこから出現したものであるかというような思弁には、少しも興味を覚えていない。(前掲書、 36 頁以下参照)この世の不条理や人間の罪の現実を考える時に、全くの絶望という正直な態度を取らざるを得ない人間にとって、救いは、人生の意味の発見は、神からの罪の赦しと神の摂理への信仰、象徴的に言うならば、十字架という詮方無い状況さえも復活という喜びに変え得る力への信頼以外の何ものでもないのではないか。

 我々は、テルトリアヌスやアウグスチヌスが説いたような、原罪説を信ずるものではない。遺伝した罪はその人間の責任ではないから、究極的には罪とはならない。それ故、思弁的にどこから人間性に罪が入り込んで来たかということには、我々は興味をもてないけれども、原罪説の指示する現実、人間が全て、隣人への配慮以上に自分への配慮を中心として考え行動するという事情には目を蔽い得ない。こういう罪は外から人間に入って来たものではなく、人間の主体性、その自由の根底に巣食い、その自由に滲透しているところの、自由の神秘である。その起源を説明すれば、それは原因−結果という次元の事柄に変えられてしまい、自由の次元の事柄ではなくなるが故に、説明不可能である。(前掲書、 185 頁以下参照)

 罪の起源の説明は不可能であるが、我々はキェルケゴールやニーバー( Reinhold Niebuhr )に倣って、(同前)自由の現実の理解から罪の分析的理解は所有し得る。人間は将来へ向って自由であるから 不安 である。キリスト者であろうがなかろうが、人間は神の愛の摂理をなかなか信頼することができず、そこで不安から自分を解放し、 安全 であるとの実感をもたせてくれるもの、あるいは、その不安を忘却させてくれるものに飛び込む。それは権威への盲目的服従であったり、他者の征服であったり、名声や金銭への飽くことを知らない追求であったり、官能の喜びへの耽溺であったりするが、これらの根底には、依存する超越存在をもたない人間の不安がある。神への信頼をもてない人間はここで、本当は自分の生を支えてくれない相対的なもの、権威とか征服し得る他者とか名声・金践・官能の喜びとかを、絶対的なものに変えており、偶像崇拝を実践しているのである。そして、いつのまにかこれらの相対的なものの奴隷となり、自己の主体性を喪失する。

 神の死の神学、特にハミルトンの形態のそれは、こういう人間の現実をどう考えているのであろうか。神の摂理の信仰のないところに、我々は勇気ある・強靭な人間の主体性など期待し得ない。神学は哲学とは違い、イエス・キリストの出来事という所与から出発するが、それ故にこそかえって、人間があらゆる理性的弁解の手段を使って、それに目を蔽っている人間の暗い・病める実体を別出し得るのである。この逆も真なのであり、深い人間理解は深い神学にとって必須条件である。そこには前述したように循環があるのであり、神の死の神学はこの循環の両極において失敗している。我々はニーチェの現世肯定の真理契機を取り入れながらも、彼の指向する神の死の近代性を克服しなければならない。  

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入力:黒田良孝
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2005.05.17