野呂芳男「人間論」3

3 律法

 人間における神の像が、キリストによって啓示されたような愛を我々が神に向かいもつことである――したがってそれを土台としてその愛を隣人に対してもつことでもあるが――と理解してきた我々にとっては、律法とはこのような愛以外の何ものでもないであろう。何故ならば、律法とは人間がそれを土台として生きなければならない神の意志の表現なのであり、キリスト教はそういう人間の生の土台が、キリストによって啓示された神の愛であると告げるからである。

「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)とイエスが言われる時に、その完全は、罪人であり神の敵であった我々を神がキリストを通して愛して下さっているように、我々もそういう愛で我々の敵さえも愛さなければならないというものなのである(5:38-48)。人間が神の像にかたどって造られているということは、人間が神に向かっての愛の完全ヘの道をひたすらに歩みつづけなければ、深く人間らしく生きられないという宿命を背負っていることである、と言っても良いであろう。

 キリストは、旧約聖書のモーセの十戒と言われているものを、神を愛することと隣人を愛することとの二つの戒めにまとめられた。「イエスは言われた、心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。これら二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ22:37-40)。ここで我々は、イエスが権威をもって旧約聖書の律法を、愛というその深みからもう一度表現し直しているのを見る。

 イエスの律法に対する態度をもっと明確にするために、我々はルターが律法について示している二重の理解を参考にすることができう。(14) ルターによれば、神の律法は元来隠されているものであり、人間の心の奥底に存在する。ところが、人間の心の奥底に存在するその律法か、いろいろな時代や民族的・国家的事情に応じて、違った形をもって歴史の中に表現されたのである。モーセの律法も、モーセの時代のイスラエル民族の社会を維持保存するのに役立ったものではあるが、それはいつの時代、どこにおいても役立ち、守られねばならないものであるとすることはできない。そして、人間の心の奥底にあるもの、人問がそれを土台として生きた時にのみ十分に人間らしく生きられるもの、すなわち、愛をあきらかにしてくれたものこそ福音なのであるから、そういう意昧では福音は律法なのである。

 そうすると我々はここで、律法と律法主義とを区別しておいた方がよいであろう。律法主義とは、ある時に・あるところで役立ち守られねばならなかった具体的な律法を、絶対的なもの、永遠不変のものとして、いつの時代でもどこにでも通用し、守られわばならないものとすることである。ところで、イエスとパリサイ人との抗争は、後者の律法主義に対するイエスの抵抗が原因であった。抗争の論点は、例えば安息日に関するイエスの態度に明白である。パリサイ人にとっては、昔からの伝承に従って、安息日にしてはならないことが規定されてあったのであるが、イエスにとってはそういう規定を遵守することよりも、その時の人間らしい具体的な欲求を満たすこと、例えば飢えを満たすことの方が優先したのである。イエスにとっては、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)。人問を人間らしく生かすことよりも重要な律法など、存在しないのである。

 律法とはこのように、人間が深く人間らしくあるために、人間を心の奥底から制約しているものなのであるから、それは愛を実践しない罪深い人間の現実とは衝突し、それを審くものであるが、本来そうあるベき人間の姿、人間の宿命とは矛盾するものではない。否、それを成就するものである。パウル・ティリヒの用語を使うならぱ、律法は人間にとって神律的である。

 テリッヒは他律・自律・神律を区別する。(15) 他律とは、人間が自由――べルジャエフの言う第一の自由――に、自分の本性にかなうものを選んで行こうとする主体性に衝突するような仕方で、ある一定の生き方を押し付けられるような事情を言う。自律とは、人間が自由に自分の生き方を選ぶような事情であり、神律とは、この自律が深められたもの、人問存在の奥底に横たわる神の愛の律法によって支えられているような自律である。へルジャエフの表現を借用するならぱ、神律とは、第一の自由によって第二の自由を獲得する生き方に到達し、少なくともその生き方の指向する道を歩み始めている人間のあり方である。

 律法を神律として理解しなかったところに、近代精神の一つの悲劇があったように思われる。ニーチェが神の死を、人間に対する喜びのおとずれとして告げたこと、また、文学者アルベル・カミュが我々に神殺しをすすめていることなどを見れば、この悲劇が理解されよう。(10) 彼らが唱えているのは、思弁的に神が存在するかどうかを考察したところからきた過去の哲学的無神論ではない。神に死んでもらわなければ、あるいは、神殺しという大罪を犯さなければ、人間が人間らしく生きられないという、実存的な殺神論なのである。すなわち、神に服従しようとすれば人間性を殺さなければならず、人間性を生かそうとすれば、神殺しを行なわねばならない。そして、神殺しを行なっても人間は自分の生をいかし抜くことに誠実であろうとする。そこに我々はルネサンス以来の自律の人間像の確立とともに生起した近代人の悲劇を見る。

 人聞による神の意志への服従が人間性の充実と相反するものと考えられているのは、そこでは神の意志たる律法が他律として把握されているからにすぎない。我々はニーチェやカミュなどに、印象として他律としての神しか与えることのできなかったキリスト教の貢任を問わない訳にはいかないが、同時に、彼らのキリスト教理解の浅薄さにも驚かざるを得ない。神律として神の律法を理解するならば、こういう悲劇の大半は避けられたのではないであろうか。特にボンヘッファーやゴーガルテンによって展開された成人した世界の思想を検討してきた我々にとっては、神の律法は現代人にとって、愛を土台とした主体性の確立、神によって委託されたところの世界管理を十分に果たすところにあることは明瞭であり、それは人間性の充実以外の何ものでもない。

 我々はここで、律法の理解と切関連で、アンダース・ニグレンがその有名な書物によって提出した愛の区別を問題にしなけれぱならないであろう。周知のようにニダレソはこの区別を二つの愛を意昧するギリシァ語、アガペーとエロースを使用することによってなした。新約聖書においては、「神は愛(アガペー)である」(第一ヨハネ3:16)という言葉に明らかであるように、アガペーは人間の愛の体験から理解されるものではない。それは神の側から啓示されてはじめて、人間が理解し得るものであり、具体的にその独り子キリストを与えることを通して、神が我々に示されたものなのである(ヨハネ3:16)。パウロの表現によれば、「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示された」(ローマ5:8)のであり、アガペーは十字架の愛を意昧した。それは人間の罪を赦す神の愛であり、キリストにおいて至高の神が人間の罪の泥濘の深みまで下ったことを意昧する。それは上から下ヘの愛であり、価値なきもの・失われたるものを探し求める愛である(ルカ15章)。

これと正反対の事態を意味したものが、ニグレンによればエロースというギリシア語によって表現された愛であった。それはギリシアやへレニズムの文化の中で、愛が何を意味したかを表現する言葉であったが、ニグレンはその典型的な表現がプラトンの哲学の中に見られるとなした。普通プラトン哲学は、二元論的世界観をその背景にもつと言われている。それらは我々の感覚にうったえてくる現実のこの世界と、その上に存在する観念の世界である。人間の魂はかつてこの観念の世界の住民であったが、今はこの感覚の世界、身体の牢獄の中につながれている。しかし人間の魂は、かって住んでいた観念の世界を完全には忘れ去ることができず、それを記億の中に保存しているがゆえに、みにくいこの世界の中に住みつつ不幸であり、かって観念の世界で知った真.善.美ヘとあこがれる。このあこがれ、価値あるものへの欲求、より高いものヘの愛こそ、プラトン的なエロースの特質である。それは下から上ヘの上昇を目指す愛、貧しい自己を豊かにしようとする欲求である。

 以上のようにニグレンは、アガペーとエロースとを相互に正反対のものとして対立させる。アガペーは、新約聖書の神の愛に見られるように、自己放葉的であり無私である。それに反してエロースは、プラトン的エートスのようにそれが必ずしも官能的なものを意昧しない時であっても、価値あるものを追求することによって自己を豊かにしようとするものであり、自己中心的である。そして、ニグレンはキリスト教が、自己中心的生活よりも自己放棄の生活を説くことによって、グレコ・ローマンの世界に生き方の大転換をもたらしたとする。

 アガペーとエロースとの区別を通して、ニグレンが愛のもつ二つの性格を明らかにしてくれたことは、彼の大きな貢献であった。しかし我々は、アガペーとエロースが全く相反するものであるとニグレンが主張する時、それに同調できない。イエスによって、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22:37)――と言われており、その神ヘの愛こそ我々の生の土台であって、この基礎の上でだけ我々の生が十分に開花することを知っている我々は、神の愛のような自己放棄の愛、無私の愛の実践が、実は逆説的であるけれども、自分を豊かにし、自分の宿命を成就するエロース的出来事であることを知っている。

 イエスの放蕩息子の譬話を読んでも(ルカ15五章)分けてもらった身代を放蕩に身を持ちくすして使い果たした男が、父のところに帰り温かく迎えられるということ、人生という旅が結局のところ行きつく場所は故郷であり父の家であるということ、本来の自分に戻るということであると告げられている。それは自分を豊かにしてとり戻すエロース的出来事なのである。

 新約聖書においては、通常兄弟愛を意味するフィリアも使われているが、エロースという言葉は使われていな
い。それは多分、グレコ・ローマンの世界において、感覚的な生き方や頻廃を意昧していたからであろう。したがって、イエスが使われていないからと言って、新約聖書においては高貴なエロースさえも棄てられているとするのは早計であろう。

 旧約聖書の律法を二つの戒めにイエスがまとめられたその第二のものは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22:39)であったが、ここでの愛はもちろんアガぺーである。ところで、「自分を愛するように」というのがしばしぱ問題にされてきた。表面的に考察された場合、このイエスの言棄は自己中心的な愛を許容するかのように見えるからである。それでは困るので、このイエスの言葉を、我々自己中心的な罪人が、罪深くも自分を愛するその強さと同じような強さで、また、執拗さで神を愛さねばならないという意昧に説明することがなされてきた。しかし、我々が考えてきたように、アガべーとエロースの逆説的統一を理解するならば、
別にそういう解釈をとる必要もない。隣人を愛すること(アガペー)を通して、神から与えられたものとしての自分の宿命を成就して行く(エロース)ように、隣人ヘの愛もその人の宿命を成就して行く――もちろんその人の神律においてであるが――ようなものでなければならないのである。

 我々はここで、人間の宿命成就(エロース)が、他者のためにある場合には命さえ棄てて行くアガペーと、ぎりぎり一杯逆説的なものであることを忘れてはならないであろう。心理学者のエーリッヒ・フロムがあるところろで(18) 書いているが、自愛と利己主義とは区別されるべきであり、自愛を土台としない他者への愛はほんとうの愛ではなく、自分が不幸であることの代償を他から求めるにすぎない。自愛と他者への愛は矛盾しないのであり、そういう他者ヘの愛こそ心理的に健康なものであり得る。こういうフロムの考え方では自愛が実存的な宿命成就というような深みで把握されず、それよりも浅いところで心理的にとらえられてしまい、うっかりすると人間がある程度の自分の欲望を満たしたら幸福になり、それ以上の幸福は自然に他者ヘ向かって流れ出るであろうというようなことになりかねず、人間の自由のもつ問題性が無視されている。人聞の欲望は自由に無限に拡大し得るものであり、これで十分に満足したというような限界はない。自分の幸福が他者に向かって益れ出るのを持っていたら、永遠にわたって待っことになるであろう。アガペーを実践するところでなければ、宿命成就の喜びはあり得ない。そういうところに、人間の罪の現実の深刻さがある。

 


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