野呂芳男「ポール・ヴァン・ビューレンの思想的移行」」1972

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ポール・ヴァン・ビューレンの思想的移行

野呂芳男

野呂芳男

       

初出:『キリスト教学』第14号、立教大学キリスト教学会、1972年、219−234頁。


 かつてわれわれは、神の死の神学の陣営に属する一神学者としてのポール・ヴァン・ビューレン(Paul van Buren)を知っていたのであるが(1)、彼の今日の神学的立場は最早その陣営に属するものであるとは言えない。われわれはこの小論において、ヴァン・ビューレンの思想の移り変りに焦点を合わせ、それとの対話を展開することにしよう。





 神学が教会に連なるキリスト者による、自己の信仰の学問的理解と反省である以上、きわめて実践的問題たる公同の祈り、また、単独での祈りをどのように理解しているかの中に、その神学の性格が浮彫にされることがしばしばである。ヴァン・ビューレンの場合もそうである。神の死の神学に属していた時代のヴァン・ビューレンも、祈りの言語が元来は 誰か (someone)に向って話しかけた言語であることを認めていたが、その当時の彼によれば、福音の世俗的理解はこの誰かを仮定することを許さないとした(2)。この当時の彼にとっては、われわれの世俗的思惟のもつ経験的態度が、そのような仮定を許容しないと思えたのである。そこで、ご自分の生存のための配慮から解放されていたイエスのもつ自由に伝染され、隣人のために解放されている自由なキリスト者は、別の方向に祈りを解釈しなければならない。ヴァン・ビューレンは、その解釈を次のように展開する。隣人の田畑の稔り豊かな収穫のためには、どうしても雨の降る必要性があった場合に、古代人は隣人への愛の実践として自分ができる最善の事柄をなした。すなわち、彼は神という 誰か に雨を降らせて下さるようにと祈ったのであるが、それは、古代人の知識においては、そういう祈りこそ隣人に対する援助の実行であったからである。同様の状況が生起した場合に、今日のキリスト者がなさねばならないことは、それとは当然異なる。古代人と同様にその隣人の苦境を真剣に救おうと意図していても、今日のキリスト者は神の助けを求めて断食したり祈ったりはしない。むしろ、彼は隣人を訪ね、隣人と共にその状況を調査し、田畑に水を獲得するために可能ならば灌漑その他の手段を用いる。それでも苦境を有効に処理できない時には、キリスト者は少くとも、作物の不首尾から来る困難な時期な乗り越えさせるために、隣人に対するあらゆる援助を惜しまない。

 苦境を有効に処理できないという事情は、ヴァン・ビューレンによれば、祈りがしばしば答えられないものであったという古代人の体験に対応するものなのであるが、ある場合には、苦境を処理しようと努力すること自体が事情を悪化させることもあり得る。そういう状況においては、古代人が全てをただ神にゆだねた如く、身を状況の推移に委ねる以外に仕方がない。

 以上の例から明らかなように、この当時のヴァン・ビューレンにとっては、神という 誰か は神学の対象にならず、神に向っての祈りは隣人への愛の行動に解釈し直されなければならない。併し、ニーチェやハミルトン(William Hamilton)やアルタイザー(Thomas J.J. Altizer)のようには、ヴァン・ビューレンは 神殺し を行った訳ではない。彼らの場合には、西欧二千年の思想史上、人間の主体性な脅かし続けてきたキリスト教の神に対する強烈な憎しみが、彼らを駆って殺神の行為を実践させたのであるけれども、ヴァン・ビューレンの思想的雰囲気はもっと謙遜で、ニーチェ的な神への憎悪が皆無であるとは言えないにしても、もっと平静な言語分析のそれであった。すなわち、人間の経験の中にあらわれ来る事柄のみに限って思索しようとする謙遜さが土台になって思索が展開されているのである。従って、この当時の彼が神の死の神学の陣営に属していたとしても、それは彼にとって、神が人間経験の内容として現われないものと考えられたからにすぎず、その意味で、経験的態度をもつ現代人にとっては神という言葉が無意味である、と彼は主張したのである。現代人にとって 最早や神という言語が死んだ のであった(3)。それ故に、後述するように宗教的な経験内容に神の働らきが現われ得ると考えられるようになる時には、ヴァン・ビューレンにとって神という言語は無意味なものではなくなる。
 
 われわれはここでもう少し、神の死の神学の陣営に属していた時期のヴァン・ビューレンの思想を、その著「福音の世俗的意味」(1963年刊)によって追ってみたい。ヴァン・ビューレンは聖公会に属している神学者であり、英語文化圏が経験主義の伝統をもち続けてきたことを意識的に誇りとしている(4)。現代神学において実存論的神学が大きな貢献をなしてきた事実を認めるにやぶさかではないが、彼によれば、工業と科学から由来している実用的な、また、経験的な思惟に滲透されつくしている現代人にとっては、実存論的神学者の使う言語はよそよそしい(strange)ものである。現代人にとってそれらの言語は、例外的な個人生活上の危機的状況においてのみ意味をもつにすぎない。

 神を神学の対象としなかったこの当時のヴァン・ビューレンが、実存論的神学の言語に対して上述の如き消極的評価しか下し得なかったことは、われわれにとっても理解できないことではない。併し、信仰という応答の向う側に立つ神を想定するならば、われわれはその神への応答的決断を思索せざるを得なくなる。その場合には、実存論的神学の使う言語がわれわれにとってよそよそしいものではなくなってくる。われわれはこの点が、神を神学的に意味あるものとして発言するようになる後述のヴァン・ビューレンの思想の段階においても、明瞭になっていないことを残念に思う。

 他のところで(5)すでに問題にした事柄であるが『福音の世俗的意味』を出版した時期のヴァン・ビューレンは、自覚的に後期のウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)の言語分析哲学の強い影響下に立つとしたのであるが、併し、実際のところは、彼は前期のウィトゲンシュタインの狭い実証主義的態度に濃く彩られていた、と言える。その事実は、彼の認知的命題(cognitive propositions)と非認知的命題(non-cognitive propositions)の区別に見られる。認知的命題とは、その命題を語る者の態度や感情からは独立して、現実についてある事柄を言うような命題であり、それは公開された仕方での調査にたえられるような経験的な事柄について語るものである。非認知的命題とは、現実についての客観的な描写と言うよりは、現実を見る主体の角度や態度の叙述なのである(6)。すなわち、ヴァン・ビューレンは認知的命題と非認知的命題という2つの言語ゲームしか許容しない訳であるから、当然のこと前述した如くに神という言語は死ぬことになる。と言うのは、神は客観的に公開された形での経験的調査の対象には勿論ならないが故に、神に関する命題は認知的なものではなく、非認知的命題、生に対するある特定の態度を意味するものとならざるを得ないからである。神学に対するこういう基本的な態度決定から由来したものが、ヴァン・ビューレンの福音の世俗的理解なのであり、祈りの相手たる神という 誰か は消滅したのである。

 ヴァン・ビューレンは、人間がもつ生に対するある特定の態度を表現するに当り、言語分析に立つ哲学者ヘアー(R.M. Hare)の作りあげた翻訳不可能な言葉ブリック(blik)を使用したり、ヘアーのブリックと交換し得る表現として歴史的見通し(historical perspective)を使ったりしているが、勿論これらの表現は信仰者によってだけ使用されるものではなく、すべての人間がもつ生への基本的態度の表現なのである。併し、ラムゼー(Ian T. Ramsey)に同意しつつヴァン・ビューレンが言うところによると、信仰者のもつブリック、その表現としての言語の意味内容には、人間の歴史的生を全体的にそこから理解する洞察(discerrnment)のみならず、その洞察から生れてくる人生と世界との全体に対する掛り合い(commitment)が存在する。今は無意味になってしまっている神というような余分な言語(odd words)も、元来はまさにこの歴史への洞察と掛り合いから生れてきたものなのであるが、神という言語が無意味になってしまった今でも、信仰者のもつ歴史への洞察と掛り合いは、歴史がそれ自体を打ち明けるような状況(situations of disclosure)と人間との関係から出現するものである(7)。

 信仰者のもつ特定のブリックから神学的言語のすべてが解釈されなければならないと言うのがヴァン・ビューレンの主張であり、実際彼はそれをキリスト論・啓示・予定・創造・罪・義認・聖化・教会というような伝統的教義の全般にわたって展開している。その解釈の当否は別として、われわれの興味をそそることは、ヴァン・ビューレンが自己の神学とキリスト教の古典的伝統との断絶を少しも意識していない事実である。否むしろ、彼の神学的立場の中に、古典的なキリスト教信仰のもっていた豊かさが十分に摂取されていると見做していることである。

 こういう事情は、カール・バルトの指導の下で博士論文を提出してきたヴァン・ビューレンが、尚もバルトの影響下にあって、カルケドン信条のキリスト論に忠実であろうとし、また、救済論ではなくキリスト論こそ神学の中心課題題であると主張するところに端的に示されている(8)。この点でヴァン・ビューレンは、救済論を神学の中心としたブルトマンと異なっているが、それはバルトに同調してヴァン・ビューレンが、ブルトマンのように救済論を中心にしたケリュグマの実存論的解釈を行う時には、風呂の水と一緒に赤子を放り出すことになると考えているからである(8)。われわれは、この当時のヴァン・ビューレンによる福音の世俗的解釈、神なきキリスト論中心の神学こそ、信者の対話の相手である神を汚れた水とともに放り出しているのであり、最早やそこには福音は存在しないと思うのであるが、ヴァン.ビューレンの意識においては勿論そうではなかった。救済論こそ、われわれを救って下さる 誰か を語ることによって、神学を真に神学たらしめるとわれわれは思うのであり、救済論とキリスト論とは福音にとって車の両輪の如きものなのである。
 
 ところで、ヴァン・ビューレンによる神なきキリスト論、カルケドン信条のキリスト論の世俗的解釈は、具体的にどのような容相を呈するのであろうか。神・人二性の一人格というカルケドン的な表現における神性が、ブルトマンたちのように歴史(Geschichte) における神の行為としてこの当時のヴァン・ビューレンにより理解されなかったことは容易に推察される(10)。言語表現の意味はその表現のもつ生への機能にあるとするヴァン・ビューレンの言語分析的な検証原理(verification principle)から言って当然のことであるが、神性はブリックに置き換ええれているのである(11)従って、ヴァン・ビューレンのキリスト論は、われわれにこのブリックを与えるものとしての(カルケドン信条の表現を採用すれば、キリストの人性に当る)史的イエスに焦点を合わせることになる。史的イエスの 影響下に入ることにより 、――これがカルケドン的表現の1人格に当るのだが――信者は自己の生存のためのブリックを与えられるのである。

 そこで、当然ヴァン・ビューレンの立場は史的イエスに対する ブルトマン後の神学者たち の立場と親近性をもつに至る(12)。今日の聖書批評学の成果から見た新約聖書資料の性質上、われわれは近代主義神学の提供した如きイエス伝を所有し得ることは諦めなければならない。併し、ケリュグマがナザレのイエスに関係している事実、イエスの弟子たちにとってあれ程に重要であった口伝がイエスについて多くの事柄を語っているという事実、また、しばしば復活信仰によって作られたり彩られたりしているとしたところで、イエスに関する記事はことごとく、イエスの全人格と使命に対する反応であったと言わざるを得ないという事実――これらの事実を踏まえるならば、われわれはイエスの伝記は最早や書けないけれども、ナザレのイエスの人間性の大体の輪郭を知ることはできる。このように史的イエスにわれわれの信仰を依存させることは、信仰が究極的に歴史研究に左右されることを意味するのであるが、それはキリスト教信仰の性質上止むを得ない。とにかく、200年以上にもわたる福音書の真剣な、しばしば極端な歴史的研究にも拘らずキリスト教が生き延びてきた事実を、われわれは覚えなければならない(13)。

 ヴァン・ビューレンは、イエスの特性を自由(freedom)という1つの概念により要約するが、それはこの概念が容易にはわれわれを経験できない事柄に導くことがないからである(14)。イエスは死に限界づけられた自己の生存の不安定・恐怖・自己義認・罪責から自由にされていた存在であり、自分の味方であろうが敵であろうが、隣人に対して開かれた心をもっていた。自由な人間は、彼と接触する者たちに異なった反応を起こさせる。彼は人々のもつ不安・恐怖・罪責・自己義認を暴露することにより、ある人々を魅惑し、ある人々を反揆させる。イエスの十字架の死は、彼の自由に対するある人々の反揆から起こったものと言わざるを得ない。十字架はイエスの隣人のために開かれた生涯の要約的象徴であり、イエスに影響されるすべての人間、イエスにおいて隣人と一体になろうとするすべての人間が、どこまで一体となれたかを計る尺度である(15)。これがヴァン・ビューレンにとって、イエスがわれらの罪のために死なれたという聖書的表現の意味なのである。また、復活の出来事は、弟子たちがイエスの生涯を新しい見通しで見るようになった経験を表現しており、その時からイエスの自由が 伝染するものとなった (contagious) のである(16)。そして、イエスの伝染性の自由に捉えられたという信者の経験、自分の享有している自由は賜物であるという経験こそ聖霊の体験なのである(17)。


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 上述のヴァン・ビューレンの立場を神学の諸潮流の中に位置づけるために、われわれはクリーヴァー(Lonnie D. Kliever)の象徴(symbol)に関する研究に言及してみたい(18)。クリーヴァーはランジャー(Susanne K. Langer)の洞察に賛成して、われわれの時代の思惟における象徴の中心性を主張し、宗教に関する現代の研究においても象徴が中枢的役割を果している事実にわれわれの目を向ける。ところで、象徴的に思索している神学者たちの間で、象徴そのものに関する理解が異なっているが故に、クリーヴァーがそれを明確化するに当って、象徴的思索と異なるものを挙げるという方法をとっていても不思議ではない。

 象徴的思索をなす神学者たちは、宗教的文字通り主義(religious literatism)を排斥する点において一致している。最早や、宗教的言語と体験とは、彼らにとって空間と時間や実体や因果性というような客観的概念によって表現され難いものである。自然の世界に働きかける超自然的な一個の実在に、宗教は関係していない。クリーヴァーによれば、トミスト的な比喩の論理も、制限されたものではあっても一種の文字通り主義にすぎない。あらゆる宗教的文字通り主義が終っているのである。

 クリーヴァーはこのように宗教を象徴組織(symbol systems)と見るのであるが、彼によれば現代神学において3つの形態の象徴理解が存在する。第1は象徴還元説(symbolic reductionism)であり、これは宗教的象徴が結局のところ人間の社会的な、または、心理的な要因に還元されるべきであるとなすもので、コムト(Auguste Comte)が宗教の神話や儀式を古代人の科学や道徳に還元したこと、あるいは、フォイエルバッハ(Ludwig Feuerbach)が宗教的概念を人間の理想の投影としたことなどは、象数的還元説の良い例である。第2は象徴実在説(symbolic realism)であり、クリーヴァーはこの類型の中にわれわれにとって親しみ深い神学者たち、ブルトマン、マコーリー(John Macquarrie)、オグデン(Schubert Ogden)、リチャード・ニーバー、ティリッヒ等を分類している。彼らによれば、象徴還元説は、人間的起源という象徴の一部分のみに限定した上で宗教的象徴を取扱った点で誤っていたのであり、宗教的象徴には人間を越えたところのものとの係り合いから来る権能が存在するのである。クリーヴァーが賛成するのは、第3の類型たる象徴形成説(symbolic formism)である。前2者は、宗教的象徴がそれ自対を越えた現実に基礎をおき確実にされており、象徴はその現実に呼応する(correspond)ものであることを主張する点で共通性をもっているのであるが、こういう 客観への偏執 (objectivistic bias)を疑問視するものこそ象徴形成説なのである。クリーヴァーはフロム(Eric Fromm)、ヴァハニアン(Gabriel Vahanian)、ヴァン・ビューレン等をこの類型に属する人物として挙げている。象徴形成説においては、象徴は、目に見えていようが隠されていようが、物体的にであろうが形而上学的にであろうが、何の存在論的現実を表現するものではない。これらの 象徴は想像力の生み出した言語 (imaginative language)であり、それにも拘らず、その象徴組織は人間生活において決定的な役割を果すものである。すなわち、それは人間生活を形成する象徴的現実を表現している。人間はこの象徴組織によって、人間経験のことごとくをつなげたり編成したり、総合したり普遍化したりする。

 象徴形成説に立ってクリーヴァーが具体的にどのような神学あるいは宗教哲学を作りあげて行くかについては、われわれは今後にそれを待たなければならないが、既にわれわれが検討してきたヴァン・ビューレンの福音の世俗的意味に表現された思想が象徴形成説の類型に入ることは疑いの余地がないように思われる。ヴァン・ビューレンの福音たる象徴組織は、人間のブリックというモチーフによって隅々まで浸透されつくしている。そこには、客観への偏執は全く見られない。ところで、われわれがここに紹介したクリーヴァーの象徴の類型理解は、彼が1970年にアメリカ宗教学会(American Academy of Religion)において行った発表を基礎にした論文で1972年に印刷されたもの(19)によったのであるが、この論文でクリヴァーは、1965年頃からはヴァン・ビューレンの思想が最早や象徴形成説の類型の外に出てしまっていることを見逃している。その頃からヴァン・ビューレンは象徴実在説の類型に入れなければならないような神学に移行してしまっている。 

 ヴァン・ビューレンのこの移行の跡は、1968年に出版された「神学的探究」という論文集において見られる(20)。ここには1965年より1968年にわたる8論文が集められているが、そこでも彼の特徴である経験論的な神学へのアプローチや言語分析への愛着は依然として顕著である。ところで、経験論的なアプローチと言っても、彼にはかつてアメリカ哲学の黄金時代を築いた実用主義(pragmatism)、特にウイリアム・ジェイムズ(William James)の哲学との結合が目立つ。アメリカの神学者であるヴァン・ビューレンにアメリカの土の香りが立ちこめてきたことに対し、われわれは神学の土着化の一例として好感を覚えるのであるが、さらに、ジェイムズ哲学の経験理解に依存しながらヴァン・ビューレンが展開する神学は、まだ十分に考えつくされていないものではあっても、教会の伝統に根を下している信仰者にとって一層役立つものとなってきたことを喜ばない訳には行かない、併し、移行と言っても、ヴァン・ビューレンは自己の神学的節操を売り渡した訳ではない。既に述べたように、彼は経験論的アプローチを神学に対して取りつづけているのであり、実存論的な神学へのアプローチも広い意味では経験論的なものなのであるから、この点でわれわれは彼の立場に多くの共感するものを見出すのである。

 併し、どういう信仰の苦闘が、どういう内面の葛藤がヴァン・ビューレンをジェイムズの哲学に接近させたのかは、われわれには明らかでない。とは言え、それを臆測することはそれ程困難ではない。われわれの見るところでは、象徴形成説の立場は一種の主観主義であり、神との対話を不可能にしてしまうからである。と言うのは、信仰者は神の死の神学を批判した次のようなベネット(John C. Bennett)の言葉に共感する如き生活態度を採用してしまった存在だからである。「私にとって無神論が信を置くに足るかどうかの試金石は、…われわれの経験するこの世界が何者によっても記憶されないで、永遠に失われるであろうところの1つの島であるという事実を信じ得るかどうかである。こういう仕方で失われてしまうということは本当であるのかも知れない。併し、これを信ずることは、神を信ずること以上に私の信仰能力に酷な要求をする」(22)。信仰とは、結局のところ、他人には、否、自分自身によってさえ理解され得ないわれわれの一切を、温かく理解してくれるような存在をもつことなく、そういう存在によって記憶もされず赦されもしないモノローグの淋しさ、そのような生の無意味さには堪えられないという、従って、神は避けられないという、被造物たる人間の深い素朴さから由来する決断なのである(22)。

 また、ヴァン・ビューレンが伝統的キリスト教の内実と切断されない福音の世俗的理解を指向した時、どうしても公開され得る経験の枠外のものが枠内に侵入してきている事実を蔽い隠しきれるものではなかった。すなわち、神の問題から逃れ切れるものではなかったのである。われわれはこの点に関しては他のところでも述べたのであるが(23)、イエスのように隣人に対して開かれた心、死をも隣人のために受容する開かれた自由を人間がもった時に、何故に人間は真に人間らしく生きられるように造られているのか、ということが問題になるのである。信仰をブリックとしてのみ設定しようとするキリスト者であっても、われわれがここで問題としている体験がもてるように人間を造り生かしているある力が、われわれの生の奥底に流れ働いていることを存在論的に仮定せざるを得ないであろうが、これは不十分な形態においてではあるが、神とその創造の真理を指向するものではないか。更に、ヴァン・ビューレンがイエスの伝染性の自由について語り、それが人間を捕らえるものであると語る時、ここでも不十分な形態においてではあるが、神が人間を救うためにイニシアチブをとって下さるという神のアガペー、神の恵みの現実が指示されているのである。

 特にヴァン・ビューレンのように史的イエスに固着し、イエスの開かれた自由に与ろうとするところに信仰の意味を見出そうとするならば、どうしても考慮されなければならないのは、 イエスは祈りの対象となり得る神を信じておられたからあのように自由であった 、という平凡な事情である。隣人への愛という言わば水平の次元でのイエスの自由は、言わば垂直の次元たる神への従順から由来していたのである。

 ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)やゴーガルテン(Friedrich Gogarten)が展開した 成人した世界 (die mündige Welt)の思想に慣れてきたわれわれにとっては(24)、隣人の田畑に雨を降らせて下さるようにとただ神に祈った古代人とは違った行動を、現代人がとることこそ正しいと感ずるのである。われわれも首肯せざるを得ないゴーガルテンのパウロ理解によれば、パウロの表現であるところの、信者はキリストと共に神の相続人であるという表現は、信者はキリストと共に相続財産たるこの世界を神から委託されて管理しなければならないということを意味する(25)。勿論、パウロのこの表現は、創世記の天地創造物語の1つの記事、神が創造行為の最後に、この世界の支配を人間に委託されたというあの記事に呼応する。ゴーガルテンによれば、世界の委託管理というこの真理は、キリスト教の初代にも中世にも生かされてこなかったものであり、宗教改革、特にルタ1の神学によって強固に基礎を据え直され、近代に至って開花したものなのである。成人した世界の住人たちは、理性人としての自分たちが理性的能力を用いて、自分たちの責任において解決すべき管理上の事柄に関し、神からの奇蹟的解決を期待しない。彼は苦境にある隣人の田畑を、可能であるならば灌漑その他の手段を用いて再生させるし、それが出来ない場合には、あらゆる援助を惜しまずに隣人を助けて、共に神から委託された世界管理を実行するのである。成人した世界の住人の神への祈りは、彼が世界管理への費任と実践とをつつがなく果し得るための力を、神から与えられることを求めるものである。まさにどういう事柄をどういう時に、また、どういう仕方で祈るかによって、その祈る人物のキリスト教理解が明らかにされるのである。

 祈りという垂直の次元で人間が神と強靭な結合を所有していればこそ、隣人愛を中心とした世界管理という水平の次元での人間の働らきが謙虚なものであり得る。それは神から 委託された管理 であり、傲慢な人間能力の過信からのそれであってはならない。それはいつでも、この世の中での神の創造的な働きへの余地を残しておく。また、神の罪の赦しと、神の世界支配を確信しているものであるが故に、その管理は、自分や他者の罪、世の毀誉褒貶や変遷に動ずるものではない。

 また、ゴーガルテンがあるところで言っているように、神からの委託に従順であろうとする成人した世界の住人は、彼において、世界史(Historie)の研究者たちがその研究の標準とするものとは違った標準が、歴史の中に働らいていることを自覚しなければならない(26)。世界史の研究者にとっての標準は、世界史の展開に意義あるものを価値があるとするのであるが、成人した世界の住人の標準は、神に受け入れられるものを価値があるとする。それが世界史研究者の標準から見て偉大なものであろうが微小なものであろうが、そのことは関係がない。神へ向う垂直の次元に目を開かれた者には、この世界は 彼個人にとっては 全く新らしいものとなるのであり、こういう個人的事情こそ彼にとって最大の重要事なのである。そして、彼個人の内面の出来事たる信仰による標準設定が、実は水平の次元たる世界史をも変革するのである。世界史の標準より見た事柄の偉大さや卑しさとは別の尺度ですべてが計られるという事情を「2羽のすずめは1アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その1羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている」(マタイによる福音書10・29−30)というイエスの言葉は表現している。水平の次元で考えられた場合、すずめは当時、イエスの考えることができたもっとも価値のないものであったが、垂直の次元に生きることを知った者にとっては、個人の世界の中にあるそのようなものまでも、従ってすべてが、神の力に満ちた現臨を証ししているのである。

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われわれは「福音の世俗的意味」において表現されたヴァン・ビューレンの立場が、キリスト教信仰のもつ豊かさを到底表現できているものとは言えなかった事情をこれ迄に検討してきたのであるが、彼がそこから抜け出して実用主義の哲学に接近した時に、どのようた福音理解が展開されているかを見てみよう。勿論ヴァン・ビューレンはこの方向に歩み出してから、未だ組織立った福音理解をわれわれに提供していないが故に、われわれが彼の思想を紹介し批評すると言っても、それは限られた範囲のものにならざるを得ない。

 アングロ・サクソン的な経験主義の伝統を尊重するヴァン・ビューレンは「福音の世俗的意味」のブリックに見られる如き実証主義に近い態度を抜け出たと言っても、バルトに代表される聖書神学やトミズムやハイデッガーの哲学の形而上学に移行したのではなく、その立場は彼の表現によると常識的形而上学(a commonsense metaphysics)、締まりのない形而上学(a loose metaphysics)、あるいは、記述的形而上学(a descriptive metaphysics)なのである(27)。この形而上学の性格は故意にあいまいに叙述されているのであって、幾分経験主義的、幾分実用主義的、幾分相対主義的、幾分自然主義的であるのみならず、幾分美的で幾分人格主義的なものである。このあいまいさは、われわれの時代の信仰体験そのものに宿っているものであり、ヴァン・ビューレンによれば、その信仰体験の記述こそ神学なのである。勿論、この形而上学は見るべき何か新らしい事実を提供するものではなく、すでにわれわれが知っているものをある新らしい仕方でわれわれに見せるものである。こういう彼の主張の中に、われわれは先のブリックこそ信仰であるとした彼の見解と連続したものを見るのであるが「神学的探究」の随所に見られる 神という言語の復活 とジェイムズの哲学への接近は、彼の記述の対象である人間の信仰体験の中に、神という 誰か を想定せざるを得ない要素が這入り込んできたことを示している。ただわれわれにとって不満なのは、体験の中で神を想定せざるを得ない要素が、ヴァン・ビューレンによって明確にされていないことである。神なしには死によって限定された人間の生が究極的に無意味であるとの実感から来る絶望、自分の罪の重荷を、自分さえも知らない自己内面に深くひそむ罪への動機を顧慮しつつさばき、また、赦して下さる超越者への期待、いつも十分に成就されないこの世界での正義への欲求を、挫折にも拘らず支えて下さる存在者への要求に焦点を合わせる如き、人生への実存論的なアプローチがヴァン・ビューレンには欠けている。体験という水平の次元にあって、しかも超越者を示唆する要素、人格の中心である垂直の次元を無視しては、神学は十分になされ得ない。体験はこのように水平の次元を指向するものと垂直の次元を指向するものとに次元的に区別せざるを得ないものなのであり、まさに垂直の次元を指向する要素こそ、神の啓示との接合点なのである(28)。

 神学が排他的に教会に奉仕した時代は去り、今日の神学は文化に対して責任を負わねばならないというヴァン・ビューレンの主張は、 教会がこの世界のためのものである ことを主張し度いわれわれにとっても首肯できるものであるが、そうであるとすれば、宗教的思惟が「われわれの文化において、生活と思索により歌われている主旋律に対し、伴奏の役割を」なすにざないという彼の発言でさえ、われわれはそれを神学への侮辱としていきなり拒否する必要はないであろう(29)。われわれは勿論、神学を文化の他要素への 伴奏 とは考えず、むしろそれを文化の中心と考えているのであるが、併し、神学が文化において女王の座を占め、他の文化的諸要素や他の諸科学を支配していた中世紀が去ってしまったことは喜んで承認したいのである。

 ヴァン・ビューレンによれは、われわれの住む世界は文化的に「絶対的なものの消滅」(the dissolution of the absolute)により彼が表示し得るとなすところの社会的心理的変化を体験したのである(30)。ニーチェのツアラトゥストラによってなされた如くに絶対者が正面きって殺害された訳ではなく、むしろ絶対的なものは無視され徐々に朽ち行き、遂に死んでしまったのであるが、ヴァン・ビューレンは、西欧文化が絶対的なものからの脱出をなし始めた時期を大体においてフランス革命と同時代、すなわち、啓蒙主義の時代と見做している。彼によれば、宗教改革はその性格においてルソーやヴォルテールやジェファーソンよりもむしろスコラ哲学に近い。近代の初めを宗教改革の時期に見ず啓蒙主義の時代に見ることにおいて、ヴァン・ビューレンは周知のトレルチ(Ernst Troeltsch)の主張とも一致するのであるが、われわれも啓蒙主義がヴァン・ビューレンの言う絶対的なものの消滅への第一歩であったと見ることには異論がない(31)。

 ところで、ヴァン・ビューレンによれば、絶対的なものの消減は多元的社会、また、価値と理解との多元性に導く。このような生の相対主義的理解は、彼がジェイムズの哲学に接近したことを明らかに告げているが、こういう理解によれば、われわれはこの世界に唯1つの仕方で生きている訳ではなく、多くの仕方で生きているのであって、すべての事柄を1つの生き方に収斂させることは意味をなさないのである(32)。

 われわれの自由な主体性を脅かし、われわれの生の自由な展開をわれわれに対するその律法主義的な干渉によって妨げるが故に、絶対者を殺害しようとしたニーチェの如き実存主義的な意図というよりは、ヴァン・ビューレンの「絶対的なものの消滅」は現代社会の多元的な情況、また、その中で生きる人間にも多元的な生き方が要求されているという、むしろ実用主義的な社会的洞察から来ている。併し、実存主義的な神の殺害も実用主義的な絶対なものの消滅も、共に中世的な意味での、この世の絶対的主権者としての形而上学的絶対者を否定するという点では根本的に一致している。中世の形而上学的絶対者は、封建社会の絶対君主の比論に基礎ずけられた思惟的創作であって、聖書においてれわれに啓示されている義と真実の、また、愛の絶対者とは異なる。それ故に、実存主義や実用主義のこういう絶対者に対する否定は、神学的に言って当然であると言わねばならない。 われわれの一元論的遺物 (our monistic hangover)を、ヴァン・ビューレンの言う如くにわれわれは棄て去らねばならないのである(33)。

 キリスト教の愛は、自分を棄てて相手を生かす、しかも、 相手を相手なりに生かす ものなのであるから、聖書の愛の神は、人間の主体性を脅かすどころか人間を真に自由にする存在なのである。こういう事情は同時に、ジェイムズの多元主義(pluralism)にわれわれの神学の理解を近づけるものであって、ヴァン・ビューレンのジェイムズへの接近は当を得たものである。現代社会での1人の人間の生き方は、その中に多元の生き方、それに応じた多元の学問的理解を含む。それ故に、中世の絶対者になぞらえて自己を絶対化し、諸学の女王として諸学に君臨したような神学ほ最早や存在してはならない(34)。学問にはそれぞれ、それ自体の固有の領域と方法とが存在するのであり、互いに他を侵してはならない。

 愛としての絶対者は多元性を生かす。1つ1つの相手の固有性を認め、肯定し、それ自体たらしめる。こういう絶対者は多元に君臨する女王ではなく、それらへの奴隷である。この事情こそ、イエスが自ら弟子たちのよごれた足を洗われたあの物語の意味である。(ヨハによる福音書13・1−15)そこでは、 神の怒り は、人間が真の自己の宿命成就の道を踏み外したことに対して、生の1つの経験的領域が他の領域を侵犯したことに対して、発せられるであろう。このようにして、愛なる絶対者への関係という垂直の次元における深化は、社会経験という水平の次元での徹底を導き出すのであり、われわれの神学においては、実存論的なアプローチとヴァン・ビューレンに見られる実用主義的なそれとが接合されなければならない。

 アングリカニズムやメソジズムの中に伝統的に生かされてきたアルミニアニズムと、上述の多元的な経験理解は見事に結合し得るものであると思うが、アングリカニズムの伝統に立つヴァン・ビューレンがこの世での(すなわち、経験的世界での)神の働きについて語る時に、その言語がアルミニアン的になるのは不思議ではない。そこでは、歴史が神の働きから一元論的に理解されない。ヴァン・ビューレンは、ボンヘッファーとジェイムズに共通した思考の存在を指摘する。「両者において、神に関する真剣な言語が存在する。両者において、この現実の世界で働く人間の汗とほこりが、神に関して語る言薬を提供している。両者において、神は弱き存在であり、従って、人間も事柄のなり行きを左右する存在として、全き責任にまで呼び出されている」(35)。神が弱き存在であるというのは中世紀の形而上学的絶対者に対する反動として用いられた言語と思われるが、それは歴史が神の独占場ではなく、神と人間との協力的創作こそ歴史であるとの多元論的なアルミニアン的理解の表現である。すなわち、ジェイムズの言う如く、歴史創作は神にとっても真の危険を含む冒険的行為なのである(36)。ヴァン・ビューレンがそこまでは思索を徹底させていないのであるが、このような神の思索は当然のこと、われわれの信仰の確かさを歴史における神の絶対権力に求めさせるものではない。むしろ、神がどのような歴史的状況に出合っても、ご白分の歴史創作の意図に沿って、破壊できるものは破壊し、破壊できないものはそれを逆に利用したり、あるいは、それを迂回したりされて、とにかく人間を救うという目的を実現される愛の創造的適応性をもっておられるという信仰的現実の中に、われわれの確かさは根を下すべきなのである(37)。

 今日、実存論的なアプローチを含有し得ると思われるヴァン・ビューレンのような経験の神学に立って神学するか、あるいは、神学の存在そのものの否定である無神論的実存主義に走るか、いずれがわれわれを真に人間性の豊かな存在として現実に生かすか、これはわれわれのなさねばならない1つの賭である。この賭をなさずにすまし得る逃げ道として、ティリッヒの如くに存在論的神学を提唱する神学者たちもあるが、存在そのものとしての神は、結局のところヴァン・ビューレンの言う消滅すべき絶対的なもの、一元論的造物にすぎないであろう(38)。

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(1)神の死の神学の陣営に属していた頃のヴァン・ビューレンの思想については、次を参照のこと。拙著『実存論的神学と倫理』、東京創文社、昭和45年、85頁−90頁。
(2)van Buren, Paul M.: The Secular Meaning of the Gospel, London, SCM Press, 1963, pp. 188 f.
(3)ibid., p.103.
(4)ibid., p.17.
(5)拙著『実存論的神学と倫理』、87頁以下。
(6)van Buren : The Secular Meaning of the Gospel, pp.96 f.
(7)ibid., p.87.
(8)ibid., p.7.
(9)ibid.
(10)ibid., p.100.
(11)ibid., p.104.
(12)ibid., p.119 f.
(13)ibid., p.126.
(14)ibid., p.123 ff.
(15)ibid., p.150−151
(16)ibid., pp.132−134.
(17)ibid., p.136.
(18)Kliever, Lonnie D.: "Alternative Conceptions of Religion as a Symbol System", in Union Seminary Quartely Review(Winter, 1972).
(19)註(18)を参照のこと。
(20)van Buren, Paul M.: Theological Explorations, New York, The Macmillann Co., 1968.
(21)Bennett, John C.: "In Defence of God", in Look magazine, April 19, 1966.
(22)拙著『実存論的神学と倫理』116頁−117頁参照のこと。
(23)同著、90頁。
(24)拙著『実存論的神学』東京、創文社、昭和39年、70頁以下参照のこと。
(25)Gogarten, Friedrich : Der Mennsch zwischen Gott und Welt, Stuttgart, Friedrich Vorwerk Verlag, 1956, s. 342 f.
(26)Gogarten, Friedrich : Christ the Crisis. the translation of Jesus Christus Wende der Welt <1967>by R.A. Wilson, Richmond, John Knox Press, 1970, p. 178 f.
(27)van Buren : Theological Explorations, pp.64f.
(28)拙著『実存論的神学と倫理』、58−59頁、及び、拙著『実存論的神学』、233頁以下を参照のこと。
(29)van Buren : Theological Explorations, pp.21−24.
(30)ibid., p. 30.
(31)トレルチ著、内田芳明訳『ルネサンスと宗教改革』、東京、岩波文庫、昭和34年、89頁以下。
(32)van Buren : Theological Explorations, pp. 38f.
(33)ibid., p. 39.
(34)われわれはこの点を大学の在り方との関連でかつて取り上げた。拙著『実存論的神学と倫理』、58頁以下。
(35)van Buren : Theological Explorations, pp. 124.
(36)ibid., p. 125.
(37)拙著『実存論的神学』、39頁以下参照のこと。
(38)存在論的神学については、他のところで論じてあるので参照されたい。拙著『実存論的神学と倫理』.、123頁以下。

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入力:黒田良孝
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2004.9.6

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