夢・ノンセンス・宗教

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野呂芳雄
            


初出: 『ユリイカ』1981年, 5月号, 青土社。






 イギリスのノンセンス文学はクラウス・ライヒェルト(Klaus Reichert)の言うように、1846年に出版されたエドワード・リアの『ノンセンスの本』で始まって、1898年1月14日のルイス・キャロルの死で終った、とする必要はないであろう(1)。確かにライヒェルトの指摘するように、リアやキャロルのノンセンスはヴィクトリア女王時代の文学的な、また、社会的な状況をその背景としてもってもつものであり、その点で独特なものではあるが、高橘康也氏著『ノンセンス大全』の読者がすぐ気付くように、イギリスにおいてもリアやキャロルのノンセンス文学と質を同じくするものがスウィフトや『マザー・グース』の世界、シェクスピアの演劇の中にさえ、またT・S.エリオットについても認められる。そして勿論、ノンセンスはイギリスの専売特許ではなく、上掲の高橋氏の著書の「極東の不思議の国にて」という章が示すように(2)、わが国の詩人や文学者の中にさえその系譜の今日的現象を確認できるのである。併し、ノンセンス文学の典型がリアの詩やキャロルの『不思議の国のアリス』と『鎖の国のアリス』であることには誰も異存はないであろう。従って私のこのささやかたエッセーもノンセンスの解き明かしをするために、おもにこれらニ人の作品を材料とすることとなろう。だが、彼らの作品そのものに興味が中する訳ではなく、いついかなる処に現われようとも、ノンセンスはどのようた構造をもつものであるかを――通時的にというよりかは共時的に――調ぺてみたいのである。それ故に、キャロルのアリスものの背後には抑圧されて歪められた性に由来する少女愛があったというような伝記的事実も、それ自体としては興味深い主題であるし、また確かにアリスものの理解に有益であるけれども、誰のものでもあり得るノンセンスの構造理解にとっては一応かけはなれた主題である。

 主題に近づくのに遠回りをして夢の間題から始めたい。『不思議の国のアリス』は、土手の上で姉と一繕に坐っていたアリスのそばを1匹の赤い目をした白兎が走って行き、丁度アリスの目の前で「チョッキのポケットから時計を時計を取りだし、時間をたしかめて、また先を急ぐ」(3)という、ほほえましくも忘れ難い周知の場面で始まり、兎を追いかけて兎穴に落ちこんで行って「不思議の国」に到連したアリスの物語であるが、それが土手の上で眠り込んだアリスの夢であったことが最後で明らかとなる。『鏡の国のアリス』は戸だなの上にあがりこんだアリスが、そこの壁に嵌(は)め込まれている鏡に映っている世界、鍍の向う側の世界に魅せられて、鏡をすり抜けて別世界に移る場面から始まるのであるが、これも夢であったことが終りには明示されている。

 このようにキャロルは、私たちが生きている日常の世界とノンセンスの世界との間に、それらの境界線として夢を置く。こちらからその境界線を越えると夢の国なのであるが、併しこの夢は、日常性とノンセンスの世界との境界線、両者を区別するための標識であるにすぎない。実際に乱たちが睡眠中に見る夢は、長くて面白い物語たるアリスの世界のようなものではなく、目覚めたら忘れてしまっているものや、記憶していても断片的なものや、比較的長い悪夢であったりする。

 死に直面していたある神学者が語った悪夢を検討してみよう。何回も意議が睡臆となったバウル・ティリッヒ(Paul Tillich)は、そのような折に見た一つの夢を夫人に語ったが、夫人は夫妻の親しい友人であった心理学者のロイ・メイ(Rollo May)にその夢を語った。メイによると、その夢の中でティリッヒは既に死んだ昔の友人たちと一緒であった。ところがティリッヒが言うには、「自分には、他の人たちから自分を区別できないのだ。どこで自分が終わって、どこから他の人たちが始まるのか、分からない」のであった(4)。この夢では、死んだ個人は個人以上のものとなって他人との区別を失い、すべてが一つなってしまっている。神学者であったティリッッヒにおいては、このような一切のものの合体、融合は、単に死んでから後に諸存在は区別を失って一つとなるということだけではすま
ず、神とも一つとなることでもあった筈である。そこに見られるものは濃淡の区別こそあれ、一つの神の流れれである。そして、死後の状態に関するティリッヒのこの夢は、彼の宗教観をも乱たちに告げている。彼にとっては、存在するあらゆるものを存在させている力こそ神であったし、その力は存在の根底(Ground of Being)としてあらゆる存在に浸透していた。

 万物一体の世界とノンセンスの世界との区別を喩えで語っているような場面が、『鏡の国』の中に出てくる。ある森の中に入ったアリスは、木に手を触れてもそれが木という名称をもつことを思い出せない。それどころか自分の名前も思い出せない。子じかに会う
と、驚いた子じかが話しかける。


「君はなんというものなの?」と、ついに子じかがいいました。…「それがわかりさえしたらねえ!」とアリスは思い、いくらか悲しそうに、「ちょうど今は、なんでもないものなの」…「あんたこそ、なんというものなのか教えてくれない?」とアリスはおずおずといいました。「そうしたら、いくらか、わたしの思いだす足しになるかも知れないわ」
「もう少し先ヘ行ったら教えてあげるよ」と子じかがいいました。「ここでは思い出せないんだ」
(岡田忠軒氏訳)
(5)


そこで・この「名なしの森」の中の万物一体を象徽するかのように、「アリスは子じわのやわらかい首に腕を回し、愛情をこめて抱きしめ」(岡田忠軒氏訳)ながら一緒に行き、森を抜け出て野原にくる。そうすると子じかは自分が子じかであることを思い出し、アリスを人間の子供と認めて走り去り、アリスは自分の名前を思い出して喜ぶのである。

 ノンセンスに関する名著といえる『ノンセンスの領域』を書いたエリザべス・シューエル(Ellizabeth Sewell)によると、生は元来が複雑混沌たるものであるが(6)、特に夢の中では、私たちの時間や空間の流動性が強調されて、生の混沌をいやが上にも浮彫りにする。シューエルの言葉を借りれぱ「一つのものが同時に二つの場所にあったり、一つのものが同時に二つのものたりえたりしても一向にかまわず、ものの前後関係よりは同時共存性がそのいのちなのである。」(7)。ティリッヒの夢の中で、自分の身体がどこで終って他人の身体がどこから始まっているのか分らないのは、まさに夢の特徴たる封緘の流動性、前後関係よりも同時共存性を示している。夢の中では、ものを分析し区分し、合理的秩序の中に組み入れるというような知性は働かず、すぺてを一体化して押し流す情緒が支配的なのであって、シューエルの指摘するように夢の世界は詩に近い(8)。詩の場合には、どれ程細部にわたる正確な描写があっても、それは有機的全体を指示する一点として凝視されているのであり、決して分析的興味から描写されてはいない。

 『鏡の国』の「名なしの森」は詩情に満ちた夢の国であり、野原に来たところで子じかとアリスは個としての自己を回復して安心するのだが、自己発見をした時の子じかの喜びとアリスの安心とは、ノンセンス文学の中では当然の事柄なのである。と言うのは、シューエルの言うように、夢や詩の世界の中では人間は現実を一貢して流れる生の流動性に身をまかせ、受動的になって流されて行くのであるけれども、ノンセンス文学の中では人間は手許にある現実の断片を積極的にまた知性的に支配し、コントロールするからである。


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 後にシューエルに対しても幾分批判めいた事を言わなけれぱならないであろうが、今のところはもう少し、彼女のすぐれたノンセンス理解を他の人々の助けも借りながら追ってみよう。

 ノンセンスは何よりも「言棄のゲームで」あり、遊ぴである(9)。遊びである以上は、こちらを支配するようないかなる情緒も認めないし、避けなければならない。私たちから情緒的反応を引き起こして、私たちを情緒の波に乗せて運んで行ってしまうような、美、性、愛などはノンセンスにとってタプーである。ノンセンスはそういう存在の奥探くに横たわっている諸問題を逃げて、むしろ(高橋康也氏の言葉を借りれぱ)「表層」に踏みとどまろうとする(10)。誰でもが気付いていることだが、私たちが日常使っている言語には、表示する言葉と、表示されている現実の事物なり事柄なりとの間に、幾分の差異がある。ノンセンスはこのずれをできる限り拡大して、言葉と現実を可能な限り引き離すことにより、言葉と言葉とを現実の秩序(あるいは混沌)とは違ったところの、人間の知性の作り出す抽象的秩序の中に嵌め込む遊ぴなのである。勿論、言葉と現実とは完全には切断できないが故に、そこにこの言葉遊ぴの面白さが、体験する現実とノンセンスの作る世界との何とも言えない対照の面白さが生まれてくるのである。

 つまりずれてはいても言語は、私たちの体験する現実をその中に盛る器物の役割を果してくれるものであり、「体験を小さな単位に分節しラべルを貼ってくれる」(シューエル)(11)ものであるが故に、知性の遊ぴたるノンセンスの小さな単位となってくれるのであるが、この点では数も同じ道具となってくれる。そこで、ノンセンス遊びのおもな材科が言語と数となる訳である。原文が手許にないし、それに添えられた挿絵を見ないと味わいは十分に分らないでもあろうが、恐らくは訳者新倉俊一氏の創作ノンセソス詩となってしまっている程に美事な訳で、リアが言語遊ぴで作ったノンセンス詩を紹介してみよう。ここではノンセンスの一つの常套手段たる地口(語呂合せ)が使われている。


ひとりの男がおりまして
「きみらがわたしの鼻をみて
長すぎるとでも思ったら
それはハナハダ大ちがい!」
そういうりっぱな鼻(び)男子くん
 (12)


 ここでハナは、顔の鼻との繋がりを完全には断ってしまわないで、しかもできる限りそのずれを大きくされたまま、リアの知性の遊びのルールに従って動かされる道具となってしまっている。

 選続した数――但し、無限に続くものではなく、限られた数でなけれぱならないが――は、私たちに次が予側できるために安心感を与え、自分たちが状祝をコントロールしているという満足感を与えてくれる。シューエルの引用する次の『マザー・グース』の詩は厳密には数ではないが、隈られた一週間のうちにすぺてが起ったように見せかけて、私たちのコントロールのうちにあるかのように私たちをくすぐる。


ソロモン・グランディ、
月曜に誕生、
火曜に洗礼、
水曜に結婚、
木曜に病気、
金曙に重態、
土曜に死亡、
ソロモン・グランディ
(高山宏氏訳) 
(13)


元来死は私たちのコントロールを逸脱しているし、種々の情緒的反応を私たちから引き出すものであるが故に、ノンセンス詩には禁物である筈なのだが、ノンセンスは現実の死に対する私たちの実存的な、詩的な反応の傍まで出掛けて行き、それと境界でたわむれるというだいそれた遊びをやってのけ、自己のコントロールの示威をする。一週間というコントロールできるかのような期間と、死という私たちにとってどうにもならない現実との対照が、私たちの知性に甘酸っばい楽しみを与える(14)。ノンセンスが崩壌する寸前の楽しみである。

 それに、ノンセンス詩の中で人間、特にその肉体が残酷に取扱われていることに驚く必要はないであろう。ソロモン・ダランディが土曜に死亡するなどはまだ親切なほうで、「不思議の国」の女王はすぐと人の首を切らせる。次のリアの詩はどうであろう。


ペルーにさる老人ありて
かみさんがシチュー煮るのを見とったと。
何かのまちがい、ストープでかみさんに焼かれた
あの不運なべルーの老人。
(高山宏氏訳)
 (15)


このような残酷さは、ノンセンスの中で人間さえも知性の遊ぴの道具として非人間化されている以上は、シューエルの言う通り、当然のこととなる訳である(16)。

 また、夢では私たちが既に見てきたように全体の一たることが強く印象づけられるけれども、ノンセンスでは部分が強調され、しかも部分は小さいものでなけれぱならず、できる限り人工的なもののほうが喜ばれるのであるが、それも私たちがコントロールしやすいという理由からである。シューエルが挙げている例を見てみよてみよう。ジェイン・テイラーの『子供の歌』に


キラキラ光れ、ちいさなお星
一体おまえは何なのか!
あんな高いお空の上で、
まるでお空のダイアモンド!
(高山宏氏訳)



というのがあるが、「不思議の国」の気違い帽子屋は、これを変えて次のようにしてしまう。


キラキラ光れ、ちいさなこうもり!
一体おまえは何してる!
あんな高くお空とぴ、
まるでお空の盆のよう。
(高山宏氏訳)
 (17)


星はあまりにも詩的で遠く夢を誘い、とても私たちのコントロールの届きそうなものではないが故に、ノンセンスはそれを身近なこうもりに変え、空のダイヤモンドを盆という人工的なものに変えてしまわなければならないのである。併し、何と言ってもノンセンスが知住のコントロールによる遊ぴであるというシューエルの主張を証明するのに役立つもので、ノンセンス文学における時間と空間のコントロールの如きものはない。現実においては時間と空間はすっぽりと私たちを包み込んでおり、馴れ知ったその支配の外に私たちは出ることができない。ところが「銃の国」では、目的地に着こうと思うならば、それとは反対の方向へ歩いて行かねぱならないのであり、また、片手を振り回して指から血が出た、と叫ぶ女王は、これから指の傷を受けるのである。その後で、ショールからはずれブローチが、それを取ろうとしたアリスの手からすぺって、女王の指をさすのである(18)。時間は過去から現在を通って末来へ流れずに、未来から現在を通って過去へと流れている(19)。


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以上において私は大分詳しくシューエルのノンセンス理解を説明してきた。彼女によれば「ノンセンスの領域」は、そこで合理的な人間の知性が遊ぶ場であった。誠に美事な、明晰なノンセンスに関する分析であると言わざるを得ず、私もノンセンスそのものに関する理解では彼女の主張の説得力に承服しない訳には行かない。ところでシューエルは、私たちが社会の中で人間らしく生きるに当って、ノンセンスの領域がどのような役割を果しているかに関しては、きわめて低い評価しかそれに与えないのである。彼女はそれが独自の領域をもっていることを認めない訳ではないのだが、私たちの生きる姿勢にそれが与える影響を懸念していると言い換えてもよいであろう。いっの間にか生の一つの領域であるべきノンセンスが、私たちの生全体を支配し始めるのである。シューエルは、ノンセンスとキャロルの関係について次のように述べている。


生の全体を1個のゲームとして扱おうとすると、陰に陽にさまざまの結果をもたらす。たとえばキャロルの場合では結婚を拒否し、少女たちと情緒的きわまる交友関係を数限りなく結んだことなどがそれである。これら少女たちが成長し始める、つまり彼に対して何かを要求できるような年になるや否や、彼は彼女たちを棄てたのである。……プレイヤーはコントロールする力を保たねぱならない。……いつも働きかけるでなくてはならず、働きかけられてはならない。……しかるにいつも働きかける側にあること、あらゆるパッションと受動性を締めだしてしまうこと、これは人間ごときよくするところではない。それは聖トマスによれば、神のみのよくなすところなのである。……もしキャロルが彼の生のすべてを遊ぴにし、それを不断にコントロールしよう……と望むなら、彼はまず彼自身の神でなければならない (20)。


ここに聖トマスへの言及がなされているが、これはこの著書に一度ならずなされているものであって、中世ヘのあこがれに満ちたネオ・トミズムが彼女の人生観である事実を物語っている。そのような彼女にとっては、プロテスタント宗教改革や、十七世紀のピューリタニズム、十八世紀の理性主義を経てきた近代精神は錯誤の歩みを続けてきたものなのであろう。『シルヴィーとブルーノ』の中の会話から察するに、成程キャロル(実名はチャールズ・ラトウィジ・ドジソン)は英国教会の聖職者――執事(deacon)――であったが、ローマン・カトリシズムに近い「高教会派」を嫌っていたし、十八世紀以降の合理主義に強く影響されたためか、伝統的なキリスト教理たる原罪説――人聞は生れながらにして罪人であるという説――を信じておらず、生れながらの人間性は善であるとしていた(21)。恐らくシューエルにとっては、キャロルのこのような近代主義がノンセンス文学と重なり、「解説」の中で高山宏氏が言っているように「現代文明そのものが巨大なノンセンスと見えてきた」のであろう(22)。現代人はノンセンス文学に典型的に見られるように、一切を分析的知性の対象に変えてしまうことによって、世界との有機的一体感を失い、科学技術(合理的知住の代表的産物)によって世界を荒廃させてきた。私たちの存在の深みを流れる神秘密とも意議的に絶縁してきた。そして、ノンセンス文学の手法が、言葉を支配可能なものとするために現実からできる限り遊離させたり、単語相互のつながりもできる限り切断して孤立させたりするように、孤独にされた人間が、あるイデオロギーによって合理的に物の如くに支配される社会体制、全体主義が形成される(23)。
 
 シューエルがこのような現代の病気をいやすために提唱する解決は、高山宏氏によると「楽観的に過ぎるのではないかと……と、どうしても思ってしまう」(24)ものである。それは、私たちがもう一度詩や夢の世界の特徴であるところの、世界や現実との融和・一致、現実の深みの流れに身をまわせる生き方を回復することである。そのためには私たちが現代のノンセンス的病気に気付き、目覚め、違った生き方を自覚的に求めなければならない。高山宏氏の「楽観的に過ぎる」という嘆声は、シューエルが政治や社会の変革と一応切り離して個人のの自覚に解決を求めたところに向って、恐らくは発せられたものであろうが、それと関連して、私にはシューエルの考え方の基本にある欠落が気になって仕方がなにのである。彼女のノンセンスの取り扱いには人間のもつ主体性、自由の問題が欠落している。ノンセンスの領域の中で合理的知性を働かせるのも人間の自由であり、ノンセンスの領域を他の生の諸領域とどのような仕方で結ぴ付けて行くかも自由が決定する筈である。ノンセンスの中で合理的知性が楽しく遊ぶのも、残酷に遊ぶのも自由の責任であるし、ノンセンスの領域を生の全体に及ぱしてナチズムを生むのも、その領域を健康な仕方で生の一局面に留めておくのも自由のなす業である。

 シューエルが彼女の美事なノンセンス理解から人間の自由の問題を欠落させてしまったことと、彼女が近・現代に対して低い評価をもっていることは探く結び付いているのであろう。何故なら、近・現代こそ人間の主体性発見の歴史であったのだからである。そして、現代の病いを自覚すれば現代を変え得るとする彼女の楽天主義も、自由の神秘に目覚めていないところから来ているのである。それが善いことだと分っていても、しばしば実行できないのが自由の秘密であり、これこそがピューリタンたちが強調した人間の原罪なのである。従ってキャロルも自由の神秘を認識していたとは言えない。つまり、近・現代の主体性に対してはイエスを、近・現代の人聞に関する楽天主嚢に対してはノーを私たちは言わねばならたいのである。

 ここのエッセイが自由に関する議論を更に展開する前に、シューエルの主張たる夢や詩の示すものへの復帰が、ノンセンス詩や文学に対して積極的評価をなすような生きる姿勢なしになされた場合に、どのような結果になるかを見ておくぺきであろう。結果は、前に私たちが知らされたティリッヒの夢のように、現実は濃淡をもつ一つの流れとなり、そこでは究極的には彼我の区別も、善悪の区別もなくなる。そういう宗教性は私にバガヴァドギータにおいて物語られている有名な場面を想起させる。(25)激戦を前にして、敵方にも多くの親族がいるために、戦うことをためらっているアルグナの前にクリシュナ神が現われ、森羅万象も、生も死も、一切のの動きや静止がことごとく一つの絶対的なもののあらわれ、かつ遊びであることを教え、アルグナに勇ましく戦い、敵を多く殺すことを勧めるのである。一切が絶対的なものの遊ぴであれぱ、私たちの行動も絶対的なものの遊ぴであり、私たちは残酷な行為をなしたところで、その責任を絶対的なものに押し付けることができるし、いつでも事柄の成り行き上そうするより仕方がなかったという言い訳をすることがで
きる。これもナチズムへ至る道ではないだろうか。こういう宗教性には、西欧のキリスト教、特にカルヴァン主義やビューリタニズムに目立つところの、人格的な神の前に立つ自由な人間の責任性が見られない。『鏡の国のアリス』は、アリスが、自分が夢を見たのか、それともアリスは赤の王様の夢の一部分であったのかを問うところで終るが、シューエルが、私たちの全存在を赤の王様(神)の夢の一部分であるとしてこそ、私たちの生の諸問題の解決があるかの如く言う時に、これも人間の非人間化をもたらす論理であることに私たちは冷たく目覚めていたければならないであろう。


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ノンセンス文学を積極的に擁護した人物として、私たちはギルバート・K・チェスタトンをあげねばならないであろう。エッセイスト、小説家として著名な彼は、またよく知られている如く探偵小説の作家でもあったし、詩人でもあった。そして、「逆説の王」(prince of paradox)と称されたように、彼の著作にはしばしば煩く感じる程に逆説的言辞が登場する。


あるタ
その夜、全世界が参加した。
人々は遊ぴたわむれる赤ちゃんだった、
天使は悪魔と踊り、
神は「祭りにしよう」と叫んだ。

海は山の頂上によじのぼり、
遊ぴにおりてこいよと星に叫んだ。
星がみんな水しぶきをあげながら、
降りてきて嬉しそうに戦争ごっごを始めた。

松が気まぐれにりんごを生じた、
荷馬車馬が巣を作った。
雄牛が空中を飛び、花が歌い、
太陽が西から登った。

沢山の重たい世界の下で、
神が作った最低の存在が、
巨大で重い手足を持ち上げ、
まいごになって天に入りこんだ。

天では神の作った至高のイェスが、
神の前に立っておられる。
併し、神ご自身が「祭りにしよう」と叫ばれた、
彼女が私の愛を受けてくれたから
(26)。


ここでは一切が通常の道理(センス)を破っている。天使が悪鷹と踊ったり、海が山によじ登ったり、星が降りてきたり、松がりんごを生じ、雄牛が空中に舞い、太陽が西から登る。まるで次のリアの世界の再現である。


ヘイ ディドル ディドル、猫とヴァイオリン、
モーちゃんお月さまとびこえた。

みんなみんなしけちゃった
ダイアモソドが切り札だ、
猫ちゃんセント・ポールへ行っちゃった、
赤ちゃんかまれる、
月は発作、‘
壁なしお家がたっちゃった。

国境にさる老人ありて、
いやしっちゃかめっちゃかの暮らしぶり。

猫と踊るわ、帽子で茶わかすわ、
国墳の人の鼻つまみ。


(高山宏氏訳)(27)


確かにチェスタトンはノンセンス文学にすれすれのところまで近よっている。アンネマリー・シェーネ(Annemarie Schöne)も認めているように(28)、チェスタトンの中の詩人が前面に出てくると、現実を夢の世界に変えて遊ぴ出し、素晴らしいノンセンス世界が出現してくるのだが、併し、彼の中の弁証論家が前面に出てきて詩人としての面を圧倒することになると、彼の詩はつまらなくなる。前に引用した詩は私たちを楽しませてくれる素晴らしいものではあるが、その中にも、天において神の前におられるイエスへの言及がなされ、チェスタトンの形而上学的頓向を覗かせて、私たちの気をそらせるし、最後の一行、作者の喜ぴの理由が分るとともに、折角のノンセンス世界に情緒が参入してその世界がしめっぼいものとなる。前に引用したリアの感情をつき離したノンセンス世界のほうがその点では美事である。従ってシェーネが、チェスタトンの書いたものは、所与の現実にあまりにも密着している――例えぱ、引用した詩では一切のノンセンス描写が、恋人に愛を受け入れて貰ったという所与の出来事と密着している――し、チェスタトン自身の世界観や形而上学であまりにも浸透されているが故に、遊ぴがそれけによって邪魔されるとして、チェスタトンを純粋なノンセンス作家と看做さないという時に、私は賛成せざるを得ないのである。(29)但し、このことはチェスタトンの世界がキャロルやリアとは別の、きわめて魅惑的なものであることを否定するものでは全くない。

 キャロルの作った鞄語はニつの言葉を一つにつめこむもので、例えぱ「かんがやしき」(beamish)がbeam + reddishによる造語であるようなものであり、言語をコントロールするノンセンスのよい例証であるが(30)チェスタトンは逆説語法と撞着語法(Oxymoron)でキャロルの独創性の跡を追う。ぎょろ目(goggle eyes)の魚を歌った詩の中には、それが


悪魔の天使(diabolic cherub)のように
この落ちた天(fallen skies)の中を飛ぶ(fly)



ことが言われ、


私は見た、
一人の男が叫ぴながら、
あらゆる星を孤児にしよう(orphan)とするのを。

(傍点《強調》は野呂)(31)


ともある。更にひれのある悪魔(finny goblin)ともあるが、シュエーネの言うように「悪魔の天使」は「年老いた子供」とか、「甘い悲しみ」とかいうような語法と同じく撞着語法であるし、魚が「落ちた天の中を飛ぶ」とか、星の創造主を狙ってあらゆる星を孤児にしようとする男とか、の概念構成は逆説と言えるものであろ。チェスタトンは撞着語法や逆説を頻繁に用いることによって、スムーズに流れる日常語と結合しているセンスの世界、日常感覚の現実をゆさぶり、破る。その破壌行為の結果、普通それこそが理性的であるといわれている生活に、即ち日常性に亀裂が入り、そこからすぐ裏側に付着しているもう一つ別の世界が見えてくるのである。
 それはすぐ裏側の世界なのである。キャロルの鞄語にはこのような別世界を垣間見させようとするような切迫感はなく、そういう存在の深みからもっと離れた遊ぴの雰囲気に包まれている。ところがチェスタトンにとっては、無昧乾燥な日常性を一皮むくと、そこには奇蹟がいつも起っているメルへンの世界がある。シェーネが、このようななチェスタトソの生の姿勢と、妓のべシミズム嫌いを結ぴ付けているのは全く正しい(32)。ペシミストは、日常住に密着している驚異に満ちた世界を覗くことさえできないあわれな人間なのである。ガリレオの地動説やニュートンの万有引力説などは無神論者を作るどころか、チェスタトンにとっては私たちを奇蹟の世界に導くものとなる。静かな山の風景や、神との神秘的交わりの中で恍惚の状態にいる予言者が、実は大変な速度で宇宙空間をきりもみ状態で
落下して行く物体の上にいることを告げてくれるのはこれらの科学である。科学はまた、神の如くに威張っている人間たちも、振りおとされないように靴の底でこの物体にへばりついているにすぎないことを教える(33)。

 リーデ(Alfred Liebe)のみならず多くの評論家が言うように、チェスタトンは生涯子供であったし、子供らしさを失った世界に抗して、それを守るために生涯を捧げたと言える(34)。


私が書くはずでまだ書いていない本のたいへんな目録……の第九九九号は自分の生活に何か暗い秘密を持っているらしい大実業家の話である。そして最後に探偵たちはその男が今でも人形とか錫の兵隊とか、何か威厳を損なう子供じみたことをして遊んでいるということを発見するのである。私は極めて控え目な気持でその実業家の確固たる名声と輝かしい実績を除いたあらゆる点で私がその男なのだと言うことができる。……私自身遊ぶことを止めたことは一度もないし、遊ぶ時問がもっとあったらといつも思っている。たとえば講演とか文学とかいうような下らないことのためにボール紙を切り抜いて色紙を貼るというような真面目で確実で建設的な仕事にあてるべき時間を無駄にしないですめばどんなにいいだろうと思うのだ。
(吉田健一氏訳)(35)


子供のメルヘンの世界とノンセンス文学とはきわめて近い関係にあるのだから、こういうチェスタトンが「ノンセンス文学弁護」(36)を書いて、キャロルやリアへの共感を表明しても少しも不思議ではない。チェスタトンはこのエッセイーの中で、ノンセンスは「ただ無償の空想を遊ばせるだけ」(37)のものと言い、純粋なノンセンスの姿を提示しながらも、在るベきノンセンスの姿は何か、ということを説明し出すと、彼自身のメルへンの世界にノンセンスを近付けてまう。


もしノンセンスが新しい文学として洋々たる未来を持つとすれば、それは独自の宇宙像を提供しなければならぬ……。……ところでこ、……ノンセンスは、まことに意想外なことながら、世界を精神的、宗教的に見る見方の助けとなるのである。宗教が過去何十世紀にわたって人ぴとに救えてきたところは、創造の業に驚喜せよということだった。けれども宗教が忘れてきたことが一つある。何事にせよ、いかにも理屈にかなったものであるかぎり、驚嘆、驚喜すべきことではなくなるという一事である。……樹木は実は生ける大地がなんの理由もなく空に向かって立ちあがり、大きく手を振っているその驚異の姿であると考えた時こそはじめて、われわれは樹木に向かって脱帽する気になるのである……。あらゆるものには、われわれの目に見えているのとは別の面がある。……そしてひとたぴこの別の面か見るならば、小鳥はすなわち花が枝の鎖から解放されて空に舞う姿であり、人間とは実は後脚ニ本だけで立ちあがり、チンチンしている奇妙な四足の動釣にほかなら〔ない〕……と合点がゆくのだ。……現存する最高の宗教詩たる『ヨブ記』が……確信を得させる所以は、……そこに描かれているのが慈愛と秩序に満ちた宇宙の姿であるからではなくて、……世界が茫漠として解読不能な非。理性の塊とイメージされているからこそなのだ。
(別宮貞徳。安西徹雄両氏訳)。(38)


併し、チェスタトンはノンセンスを高く評価し、また自身ノンセンスに近いメルへンの世界を開花させてくれたことににおいて、同じローマン・カトリック教徒でありながらもシューエルと違い、人間の自由、遊ぴの自由を擁護してくれた。


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 結論を出さなけれぱならない。ノンセンスを積極的に評価しようとするならば、ノンセンスが日常生活からの「『脱出』ないし『逃避』(チェスタトン)(39)であることを確認し、その意義を認めなければならないだろう。私はその意嚢が人間の主体性、自由の行使とその遊びにあると思う。日常性の道理(センス)にノンを言うことによって、私たちがどうにもならないと考えてきた運命や、必然と思いこんでいる秩序や社会の体制が、実はそうでなく変革可能なものにすぎないと言うことを、自由の行使によって少なからず人間は近・現代の中で学んできた。これは簡単に棄ててはならない西欧キリスト教文明の遺産であり、ノンセンス文学は、世界に対してできる限り冷たい距離を置いて、人間が世界の事象を理性的にコントロールし、管理しようとするところの、この遺産から生まれた自由の遊びである。この遊びから存在の権利を奪うことは、自由がどこまでそれ自体を拡大できるかという、限界に挑戦する場を人間から奪うことになる。キャロルやリアのほうがチェスタトンよりもノンセンス文学として純粋なのは、前ニ者の遊ぴのほうが後者のそれよりも隈界に挑む情熱に満ちた冷静さをもっているからである。

 シューエルのように夢や詩の中へとノンセンスの領域さえも巻き込んでしまおうとするのは、ティリッヒの万物一体的なものの感じ方に事故を譲り渡す恐れがある。それはシューエルの意図に反して、善悪の区別もつかない、気持の悪いぬらぬらした混沌、あるいは、何かのイデオロギーの全体主義的支配を請来することととなりかねない。

 一見動きのとれない、必然の運命の如くに重く私たちに伸し掛かってくる現実が、実は私たちの創意工夫によって幾つかに分解され、それらの新たな配列や結合、また組み合せによって全く新鮮な相貌を呈するこことを体験するためには、既に見てきたょうに、素材となる現実から私たちがある程度の距離をもつことが必要となる。これが自由を行使する場を設定することにもなるのだが、このような意識を常時所有するためには、ティリッヒやシューエルの言う――「包括の神話」では駄目である。私たちはもう一度旧約聖書創世記やプラトンに見られるところの、神が無(混沌)から天地万物を造ったという創造神話に立ち返って、理性的存在者たる神と、混沌から造られた現実との間に距離を設けることを学び、人間はイマゴー・デイ(imago Dei)をもつように神に像って造られた存在であることを受け入れなければならない。つまり神が理性的に混沌からものを造る自由な人格的主体であるように、人聞もそういう存在であることを知り、かつ人生は神の夢ではなく、神と人聞との間にも自由の距離があることを、この神話は私たちに物語ってくれる。そして、それと同時にこの神話は、混沌から造られたが故に、私たちの自由の奥底に、また私たちを取りかこむ現実の中には混沌の破壊的な力、つまり無に返ろうとする力が働いており、それが自由の底では罪となり、世界の中ではアルべール・カミューの見抜いた不条理となっていることを告げてくれる。

 更にこの神話は、私たちが神ではなく、私たちの自由は罪の神秘に根を下ろしているぱかりか、神の自由に似せて作られているところの多分に制限されたものであること、しかもそれにも拘らず、私たちがこの自由によって創造の楽しみを体験し得るものであることに気付かせてくれる。ノンセンスを楽しむことは、この創造の楽しみにあずかることである。但し、ヒトラーを暗殺しようとして処刑された牧師ディートリヒ・ボンヘファー(Dietrich Bohöffer)が言ったように、創世記の中でアダムがエデンの楽園を耕やし、あらゆる被造物に名をつけるように――命名は支配を表わす――委託された如く、私たちは自由に、理性的に世界を管理するようにと神に委託されたのであって(41)、すべての人が真に人間らしく生きられるように世界を管理しなければならない。この神話の中から、シューエルが恐れているような、世界を非人間化するノンセンスの理性支配に対する真の解毒剤が、人間の責任の自覚とともにもたらされるのである。世界菅理を委託されたにすぎない人間の自由は、制隈された相対的たものではあるが、併し人間はその行使について神に対し責任をもたねばならないのである。

 いつの時でも自由に貢任をもって生きることは苦労が多い。私たちは誤りを犯しては自己嫌悪に陥る。その時に、すべてが神の夢なのだ、というような神話に逃げこんで、自己のみじめさを正当化するのは容易な道であるけれども、これは、繰り返し責任をもって現実に私たちを立ち戻らせようとはしない、逃げの姿勢である。むしろ、神の愛のゆるしを信じてもう一度現実に立ち戻るために、自分をノンセンスに化して温かく笑いとばすことのほうが生きる男気を表わしている。


リアさんっておあいしてたのしいかた!
 あんなにたくさんばかばかしいことをお書きになって!
気むずかしいとか 変人とか いわれることもあるけれど
 ゆかいなやつだとおもってくれる人も、いないじゃない
その精神たるや ぐたいてきできちょうめん
 その鼻たるやおそろしく巨大
そのわおだちは かなり醜悪
 そのひげはかつらにそっくり
 ………………
 その胴体はかんぺきな球形
 ………………

(高橋底也氏訳)(42)



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(1) Reichert, Klaus: Lewis Carroll-Studien zum literarischen Unsinn, München, Carl Hanser Verlag, 1974, S.71.
(2) 高橋康也著『ノンセンス大全』晶文社、1977年、349頁以下。
(3) ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(福島正実訳)、角川文庫、1975年、6頁。
(4) May, Rollo: Paulus――Reminiscences of a Friendship, New York, Harper & Row, 1973, p.105.
(5) ルイース・キャロル『鏡の国のアリス』(岡田忠軒訳)角川文庫、1959年、42-44頁。
(6) エリサベス・シューエル『ノンセンスの領域』(高山宏訳)、河出書房新社、1980年、108頁。
(7) 同上、146頁。
(8) 同上、218頁、166頁。
(9) 同上、210-211頁。
(10) 高橋康也著『ノンセンス大全』、96頁。
(11) シューエル『ノンセンスの領域』60頁。
(12) エドワード・リア『ノンセンスの贈物』(新倉俊一訳)思潮社、1977年、6頁。
(13) シューエル『ノンセンスの領域』1118頁。
(14) 同上、184-185頁を参照されたい。
(15) 同上、232頁。
(16) 同上、225頁。
(17) 同上、162頁。
(18) キャロル『鏡の国のアリス』70-71頁。
(19) シューエル『ノンセンスの領域』、145頁。
(20) 同上、287-288頁。
(21) ルイス・キャロル『シルヴィーとブルーノ』(柳瀬尚紀訳)、れんが書房新社、1976年、220-222頁。
(22) シューエル『ノンセンスの領域』342頁。
(23) 同上、343-345頁。
(24) 同上、348頁。
(25) The Bhagavadgita, trans. by Telang, Delhi, Motial Banarsidass, 1975 (Reprinted), p.48.
(26) Schöne, Annemarie: Englishe Nonsense und Grusel-Balladen Goettingen, Vandenhoech & Ruprecht, 1970, S.89-87 に引用されている原文詩の拙訳。
(27) シューエル『ノンセンスの領域』70頁より引用。
(28) Shöne: op, cit., S.86.
(29) ibid., S.82
(30) キャロル「ジャバーウォックの歌」の高橋康也氏の訳及び註を参照されたい。『別冊現代詩手帖』第2号「ルイス・キャロル」思潮社、1972年、254頁。 
(31) Shöne: op, cit., S.84. に引用されている原文 The Fish よりの再引用。
(32) ibid., S.83.
(33) Liede, Alfred: Dichtung als Spiel――Studien zur Unsinnspoesie an den Grenzen der Sprach, Walten de Gruyner & Co., 1963, S,93-94. に独訳され、引用されているチェスタトンの文章による。
(34) ibid., S.93, 次に引用るチェスタトンの言葉も、この書物の94-95頁に引用されているものだが、日本訳を見つけてきて、そこからの引用とした。
(35) チェスタトン『自叙伝』(吉田健一訳)春秋社、G・K・チェスタトン著作集?、1973年、46頁。
(36) チェスタトン『棒大なる針小』(別宮貞徳・安西徹雄訳)、春秋社、G・K・チェスタトン著作集?、1975年、17頁以下に所載。
(37) 同上、19頁。
(38) 同上、23-24頁。
(39) 同上、20頁。
(40) シューエル『ノンセンスの領域』355頁。
(41) この点については拙著『実存論的神学』創文社、1964年、68頁以下を参照して下されば有り難い。
(42) エドワード・リア『ノンセンスの絵本?』(高橋康也訳)河出書房新社、1976年、94頁以下。


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関連リンク (2002.9.21 作成:岩田)

The Rabbit Hole   ルイス・キャロルに関するサイト
UNDERGROUND REGIDENTS   ルイス・キャロルに関するサイト
プロジェクト杉田玄白   アリス・シリーズの翻訳
プロジェクト・ノンセンス   エドワード・リアの翻訳


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入力:岩田成就
2002.5.7
※原文では、(40)の註に該当する番号が、文章の中に見あたりませんでした。