野呂芳男「サリンジャーの宗教的世界」

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サリンジャーの宗教的世界

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野呂芳雄


初出:『ユリイカ』3月号、1979年、146-157頁。






 サリンジャーの宗教的世界を探るに当たって、禅や道家などの外部的要素との関係に焦点を合わせないで、彼の作品の内部になるべく沈潜してみたい。

 アメリカ版の『九つの物語』の扉には白隠禅師の公案が、サリンジャーによって載せられていることはあまりにも有名である。「両手のたたく音をわれわれは知っている。しかし、片手でたたく音はなにか?」(繁尾久氏訳)(1)がそれであるが、一体これはサリンジャーの作品にとってどれ程の意義のあるものなのであろうか。彼の作品群の中に自分を浸らせてみて私が発見したのは、彼の描く物語が多くこの公案の指示するような体験を中核としていることである。

 この公案が本来どのような意図で禅師によって問われ、どのような答を期待するものであるかは、サリンジャーの作品理解にとってそれ程重要ではない。重要なのは、サリンジャーがこの公案の問いの意図を、またそれへの答を、どのように自分の体験の中で理解し形成したかであろう。作品の中でサリンジャーのあこがれる生き方や思想を表現していると思われるシーモアは、「バナナフィッシュに最良の日」によるとヨーロッパでの戦争体験によって心に深い傷を受け、陸軍病院で精神病治療を受け退院したことになっている。

 サリンジャー自身にこれと同じ事情があったのかどうか、私は知らないが、何かこれと似たような体験がサリンジャー自身にあったと考えても不思議ではない。この想定を更に追い続けるならば、人間同士が殺し合わねばならないような戦争体験が、何故に人が人を殺さねばならない戦争のような悪がこの地上に存在するのか、という問いをサリンジャーに突き付け、彼の繊細な精神に重く押しかかってきたのであろう。第二次世界大戦においては、サリンジャーはノルマンディ作戦にも加わったし、約5回も戦闘に参加したとのことである(2)。

 前に引用した禅の公案のサリンジャーにとっての重要性は、例えば「ズーイー」の中でズーイーが妹のフラニーに向って、イエスが聖書の中の他の人物たちと違い、人間には神からの分離など元来あり得ないものだということを知っていた、と告げる箇所からも明らかである。このイエスの確信こそズーイーの宗教的信念の中心をなすものであったが、それを語っているズーイーは「ここでズーイーは両手をたたいた――たった一度だけ、大きな音を立てないで、そしてきっと思わずそうしたのだろう。彼の手は、その音が聞こえるほとんど直前に、また胸で組み合わされてしまった」(原田敬一氏訳)(3)のである。胸で組み合わされた手は、勿論片手と同じ事態を指している。音が聞こえる直前に手が組み合わされたのは、両手の出す音と片手の作る音とが同じであることを言う。聖書に出てくる他の人物たちは、イエスとは異り、個々の存在するものは神とのつながりを努めて持たねばならないもので、元来は神から分離しているものであると信じていた。個々のものを一つのものとして結び付けている神が、それら個々のものから分離しているのであるから、個々のものは別々であり、両手の如くばらばらである。そういう状況では、一人の人間は他の人間やものを、自分とは全く別のものとして、冷たく眺める対象に変えてしまう。眺め、眺められる関係の中に巻き込まれてしまえば、人は人たちの中で、また、ものたちの中で淋しく孤独であり、淋しく孤独である人間にとってできることと言えば、人たちやものたちを自分の(頼るもの無き孤独の)不安を解消する道具として利用することである。

 こういう主観−客観図式(眺め、眺められる関係)は、今日の私たちの日常生活をがんじがらめに縛りつけている科学技術の根底をなしている理性的態度でもある。私たちは自然と自分とが一つであると考えてしまい、自分と自然との間に距離を感じていない場合には、自然を眺め、自然を自分の生活の便利さを増すために道具として利用しようなどという態度には出ない。科学技術による生活の便利さの追求は、それなりに正当化され得るものだが、この追求は今日、私たちの生活のすべてを覆いつくしてしまっており、元来主観−客観図式で処理すべきではない筈の人間と人間との関係や、自分の生存の意味までもその図式の中に無理矢理に嵌め込まれてしまっている。そこに今日の私たちが、自分を他人から眺められ利用される物体の如きものとして感じ、また、自分さえ自分を眺める対象に変えているという事態の根源がある。自分を自分のなかから豊かに生かすというよりも、自分の外から自分に押し付けられている何かの目的を実現するために、自分を道具として感じているのである。自分が本当の自分として生きてはいないという疎外感は、そこから由来しているのである。井上謙治氏の言われるように(4)確かにサリンジャーの作品の主題は「孤独」と「愛の欠落」であるが、その背後には両手によって象徴される主観−客観図式が存在しているのである。

 サリンジャーの宗教体験は、アメリカのキリスト教の主流をなしてきたピューリタニズムやカルヴァン主義への反動、あるいは抵抗として理解した方がよい。サリンジャーの祖父がユダヤ教のラビであったこと、彼の血の中にユダヤ人の血が流れていることは、この抵抗を容易なものとはしないであろう。と言うのは、ユダヤ教の神は、カルヴァン主義の説く神ときわめてよく似ているからである。周知の如くマックス・ウェーバー(Max Weber) やエルンスト・トレルチ(Ernst Troeltsch)等の研究以来、カルヴァン主義、特にピューリタニズムは事実上資本主義の形成の精神的基盤を提供したことは広く認められている事柄だが、カルヴァン主義的キリスト教は神と世界、神と人間とを峻別した。ユダヤ教もそうであった。神は創造者であり世界はその被造物であって、人間はその被造物のおもな一員として、世界に対する神の意志を実現するために自分を神の道具として感じることが奨励された。この宗教体験は、神と世界、神と人間との間に設定されている両手をたたく音であり、主観−客観図式であるが、これがアメリカの科学技術文化と結合し、それを推進もしてきたのである。従って、アメリカにおける人間の孤独と疎外感は、特にその文化の中心地の一つであるサリンジャーのニューヨークの人間たちのそれらは、色濃く深いと言わざるを得ない。

 人間と異質の創造者なる神にいつも見詰められているという宗教意識は、人間をのびのびとした、遊んでいる子供――サリンジャーの作品に羨むべき生き方の象徴としてしばしば描かれている――のような素直さを失わせ、いつも外部の目を意識し、鎧を纏ったような精神の姿勢をとらせる。たまにのびのびとしていても、心のすみずみまで見通す神の目を感じた途端に、人間は慌てふためいて心の身繕いをする。


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 『九つの物語』の一つ、「ド・ドミエ・スミスの青の時代」の中で、主人公は夜、整形器具店の前を通るが、そのショーウィンドーのなかで一人の女性が飾り人形の脱腸帯を替えている。その女性は三十歳でがっしりした体格の持ち主であるにも拘らず、見られていることに気付くと持っていた脱腸帯をとり落とし、足をすべらせて尻もちをついてしまう。すぐと彼女は立ち直るが、その時突如主人公に「太陽が現れて、・・・鼻先に秒速9300万マイルで向かって」(繁尾久氏訳)(5)きたのである。これはサリンジャーの宗教体験が反映している箇所だと思われるが、太陽の急速な接近は迷いが吹っ切れたことの象徴であろうし、ショーウィンドーの中の女性の描写は、自分の迷いの投影、神の凝視に堪えられない自分の姿を確認し、そういう主観−客観図式と訣別しなければならないという意識の象徴なのであろう。

 主観−客観図式を神との関係で捨て切れないでいて、しかもおとなしい、良心の繊細な人間は、自分の人生の途上で神に見詰められているので、一歩でも歩みを進めるのがとても恐くてできなくなる。身が固くなって自由に動けなくなってしまうのである。私には真の宗教体験を求める少年の苦闘を描いたとしか思われない『ライ麦畑でつかまえて』の中で、(真の宗教体験を獲得した場面の叙述と考えられる)回転木馬のところへ妹のフィービーとこれから行くことになる主人公が、妹の学校へ行く途中をサリンジャーは次のように描いている。「とにかく、僕は、ネクタイも何もせずに、五番街を北に向かってどこまでも歩いて行ったんだ。すると、突然、とても気味の悪いことが始まり出したんだよ。街角へ来て、そこの縁石から車道へ足を踏み出すたんびに、通りの向こう側までとても行き着けないような感じがしたんだな。自分が下へ下へと沈んで行って、二度と誰の目にもつかなくなりそうな気がするんだ」(野崎孝氏訳)(6)。通りの向うまで足が自分を運んでくれないのではないかと心配する主人公は、もはや神に見詰められることに堪えられない極限状況まで来ているのであり、サリンジャーの考えるもっと深い宗教性、キリスト教の神が上の方の天にいることとは反対に、下へ下へ下へ降りて行く宗教性に自分が入り込みそうな予感をもっている。併し、そこに入り込むのは恐い。世間の人々の生き方と全く違った生き方を自分がしなければならなくなって、「二度と誰の目にもつかなくな」るから、世間から抹殺されるだろうからである。そこで主人公はこういう問題の一切から逃げ出して、「どこか遠くへ行ってしまおう」、幻想の中に隠れようとする(7)。下の方へ降りて行くということが真の宗教性の象徴であることは、『九つの物語』の中の「小舟にて」で、お手伝いさんに自分の父親がユダヤ人だと言われたのを、自分の父親は凧だと言われたものと勘違いして、湖の上に小舟で逃れたライオネルが、真理の直観を象徴すると思われる水中眼鏡と、ペテロの天国の鍵を象徴するらしい鍵の束を海の中へ投げ捨てることからも分る。ここでは下に広がる海こそが私たちを救う神であることを語っているのだろう。凧と言われた父親は、天にある父なる神の象徴であり、ライオネルは父なる神を逃れて湖なる母へ、深みへ逃れたのであろう。事実ライオネルは湖上で母のブーブーと出会う。

 現実の底に広がる神に気付かずに、相変らず人々は日常生活を眺め−眺められる関係の中で送っているのだが、そういう人々はおとなしく真面目であればある程、生活途上において一歩前進するに当って狐疑逡巡し神経質になる。『ライ麦畑でつかまえて』のセルマ・サーマーは「爪をみんな深く噛んじまってさ、血がにじむみたいなんだ」(8)し、「マヨネーズぬきのサンドイッチ」の軍曹は、弟のホールデンが多分「ベランダに腰をおろして、指の爪を噛んでいるだ」(刈田元司氏訳)(9)と想像する。詩は(既に神が備えてくれているものを)発見するものであるのに、あなたは自分で創造しようとしていると言って詩人に批難される「倒錯の森」の中のバニー・クロフトの「指の爪は生身のところまで噛んであった」(刈田元司氏訳)(10)し、『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンのかつての女友達ジェーン・ギャラガーはチェッカー遊びの時でさえ、自分の大切なものは一歩も前に踏み出させることができないかの如く、いつもキングを最後まで一番うしろの列に残して置く。

 普通サリンジャーの作品、特に『ライ麦畑でつかまえて』は、純真な少年の、汚れた大人の世界に入るに当っての恐れを描いたものと言われているが、私には問題はそれ程簡単でないように思われる。少年期の終りがたまたま宗教的事柄に悩むことの多い頃に当っているが故に、そういう評価がなされてきたのでもあろうが、実はサリンジャーの描いた問題は、主観−客観の図式から同一性の図式への移行ではなかろうか。主観−客観図式の生き方から来る神経症的困難に悩まされている作中人物には大人もいる。「エズメために――愛と汚れ」の中のアメリカ兵Xがタバコに火をつけようとしているのを見ていたもう一人が、Xの手のふるえを指摘する。Xの手のふるえは、勿論作中に言われているように神経衰弱治療のための入院をしたXの、後遺症の一つであり、彼の顔の片側がひどく痙攣しているのもそうである。これは「誰も戦争やなんかだけで神経衰弱なんかにかからない」(武田勝彦氏訳)(11)と言われているところからも分るように、戦争という人間の残虐さを浮彫にする状況を契機として起った神経症であるが、これは後述するところの、神の支配するこの世界に何故にこれ程の悪が存在するのか、という主観−客観図式から起る一つの難問に悩み抜いたところから起ったものであろう。要するに大人も、サリンジャーが『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン・コールフィールドの悩みとして描いたものによって悩まされるのである。

 サリンジャーの同一性図式について、私が何を言いたいかは中篇「倒錯の森」の表題を説明する作中の詩がよく表現してくれている。

   荒地ではなく
  木の葉がすべて地下にある
  大きな倒錯の森なのだ

                   (刈田元司氏訳)(12)

 気付かない人にはこの世は荒地(T・S・エリオットを想起すべきか)だけれども、気付く人にはこの世の下には大きな繁茂せる倒錯の森が存在しているのであり、この世に存在する者が大地に深く根を下すならば、その倒錯の森から生きるための栄養分を豊富に供給して貰えるのである。我々を凝視している父なる神のいる天に依存するのでなく、母なる大地こそ神とすべきものである。母なる大地は私たちの中に栄養分(この栄養分は、善なるものとは限らない)を供給してくれるが、その栄養分は母なる大地そのものであり、神と人間とは究極的には一つである。こういう宗教体験の持主であるが故に、サリンジャーは「バナナフィッシュに最良の日」の中でシーモアを樹に執着させているのである。樹への興味のためにシーモアは、運転を間違えて自動車をぶつけてしまった(13)。利沢行夫氏の言う如く、サリンジャーの樹への執着は確かにサリンジャーの尊敬する詩人ライナー・マリア・リルケ(例えば『ドゥイノの悲歌』第六の悲歌の無花果)からの影響ではあろうが(14)、リルケもサリンジャーも共に、存在するもろもろのものの深みこそ神であり、人間もそこから生きる力を貰ってこなければならないことの象徴として樹に執着したのである。

 サリンジャーが正しいと考える生き方をしたシーモアは、『シーモア――序章――』によると、母親ベッシーがシーモアはのっぽだと感じているにも拘らず、実際は五フィート十インチ半で「背が高い方とは言い難い」。そして「シーモアは真の俳優は重心が低くなければならないと堅く信じていた」(井上謙治氏訳)のである(15)。重心の低い人間は、勿論大地に根を深く下ろしている樹と同じ象徴であろう。

 樹と大地の象徴は既に述べた如く同一性を表わしてしるが、同時に同一性の中の区別をも表わしていると言える。樹と大地とは区別できるものであり、大地から栄養分を吸収しない樹は枯れて行く。私は『ライ麦畑でつかまえて』はバンヤンの『恩寵あふるるの記』のようなもので、汚れたこの世から逃れて、神のもとに行こうとする人間の行程を、高校を放校処分にされた十六歳の少年の家に帰るまでの数日間の放浪に託して、描いたものだと思っているが、併し、サリンジャーの場合神は大地の如きもので、この世の汚れは大地から栄養分を吸収しない、枯れていく貧相な人間たち、科学技術文明の中で自分も一商品と化してしまった人間たちのなすわざである。ホールデンは女友達に自分がどうしても学校生活に適応できない理由を説明して言う。「いつか、君、男の学校へ行ってみるといい。そのうち、ためしにやってごらんよ。インチキ野郎でいっぱいだから。やることといったら、将来キャディラックが買えるような身分になるために物をおぼえようというんで勉強するだけなんだ」(野崎孝氏訳)。ここで言うインチキ野郎とは、外見はそうでないにしてもまさに本当の意味で貧相な連中のことであり、ホールデンの周囲の殆どすべての人々がその連中の中に入ってしまうのである。ホールデン自身もそういう世の中の虚偽(貧相な現実)に目覚め批判はしていても、世間と自分との違和感に苦しみ、自分自身の根を下すべき母なる大地をまだ発見していない。この作品の終りの部分に出てくる回転木馬の場面で、私はサリンジャーがホールデンに解決を与えていると考えるが、この作品の大部分は解決を求めて苦しんでいるホールデンの叙述であるから、当然のことこの作品の中にはこの世への赦しや愛とか、解決を得た者のもつ心の安らぎとかは描かれていない。ホールデンもまだ大地に深く根を下した樹の如く生きていない。即ち、リアリティーの同一性に基づいて生きていないのである。併し、それを追求しているホールデンが描かれていることは、妹フィービーが、ホールデンの放校されたことを知った時に「パパに殺されるわよ」と言っていることから(17)、及び、フィービーが妹でありつつ何か兄に対して母親のようにも――ケネス・ハミルトン(Kenneth Hamilton)は、後であげる『J・D・サリンジャー論』(25 頁)の中で、言語的にフィービーとは即ち女神ダイアナのことだと指摘している――接していることや、この作品がサリンジャーの母に捧げられていることからも分る。私たちを精神的に殺してしまう父なる神と、救ってくれる母なる神との対照をそこに見るべきであろうし、この作品は父なる神から母なる神への遍歴の実現であるとも言える。利沢行夫氏の言う通りに(18)、寮で友人アクリーの前で赤いハンティングの庇で目を隠して――私にはこれは外界の遮断、内面性、深みへの下降を意味するように思えるのだが――おどけて「ねえ、おかあさん、手をかして。ごしょうだから、あなたの手につかまらせてよ」と言う時、それは寮の中ではタブーである母を求めて見せたことなのだが、私にはこれは母なる神へのあこがれの動作と見える。

 これとの関連で意味深いのは、幾つかの作品の中に出てくる尼僧である。『ライ麦畑でつかまえて』では駅の近くの小さなスナックバーでホールデンは二人の尼僧に会い、話しをし、とても気持の良い印象を受ける(19)。ホールデンが恐れていたようには、この尼さんたちはホールデンがカトリック教徒であるかどうかを尋ねない。そして、妹のフィービーに本当に好きなものは何かと聞かれた時に、ホールデンに「思い浮かんだのは、あのくたびれた古い麦わらの籠に金を集めて歩いていた二人の尼さんだけだった」(野崎孝氏訳)(20)。ろくでもない友人を溺愛しているその母親を一寸ばかり思い出させる尼僧は、劣等感に悩まされているホールデンによって表されている汚れた人間たちさえも、いつくしみ愛し、そういう人間たちのために苦労する――尼僧の金集めに注意――宗派を越えた母なる神の象徴でもあろうか。「ド・ドミエ・スミスの青の時代」の主人公、絵画の通信学校の教師は、絵を送ってきた生徒のアーマ修道女に好意を寄せるようになる。アーマ修道女が送ってきた絵のうちの一つは、アリマテヤのヨセフの庭の墓所に運ばれているキリストが画かれていたが、主人公ド・ドミエ・スミスはその絵の中にマグダラのマリアを認める(21)。そして、このマグダラのマリアはその「悲しみを、いわばあられもなく面に表わしていなかった」(繁尾久氏訳)のである(22)。この作品の表題は、作中にも出てくる画家ピカソ(23)の「青の時代」の諸名画を思い出させる、貧困と悲しみの時期の中にいるド・ドミエ・スミスを現しているが、その貧困と悲しみは主人公の心の象徴でもあり、その心の状態は既に見て来た如くに、整形器具店のショーウィンドーの中の女性に象徴されていた主観−客観図式に由来していた。そうであるならば、主人公のあこがれ慕う女性は、神は、むしろ歎きの聖母マリアによって象徴される方がよさそうである。併し、私たちがそこから生きる力を汲み出す神が悲しみや歎きでは、私たちはどこにもこの世の悲しみや歎きから逃れて憩う場を持たなくなる。神は歎きや悲しみを越えていなければならないのであるから、その象徴は世の苦しみを嘗めつくして、それに動じなくなったその絵の中のマグダラのマリアでなければならない。そして、絵の中のマグダラのマリアのイメージと重なっているアーマ修道女との交際を望む主人公の欲求を挫折させるのは、アーマ修道女の上司ジマーマン神父(Father――父なる神)であるのも興味深い。利沢行夫氏は、ド・ドミエ・スミスがこの物語の終りのところで、「ショーツをはいたアメリカ娘、という動物を研究調査した」とあるところから、この物語の主人公が宗教的体験を獲得したとする解釈に反対されているが(24)、この終りの部分はむしろ宗教的体験者が日常性の中に回帰すること。往相は還相に展開しなければならないこと、非宗教人と一見変わらざる生き方の中で宗教的体験を持ち続け、人々にもその体験を広め行くことの小説的戯画化と見るべきではなかろうか。


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 ド・ドミエ・スミスがアーマ修道女に書き送った手紙の中に彼女の絵に言及して「あなたは明らかに、走行中の人物を画くことに大変興味をおもち」(繁尾久氏訳)だとあるが(25)、私たちはここでフレデリック・グインとジョセフ・ブロトナーの言う「サリンジャーによる超越的神秘主義(transcendental mysticism)の利用」に出会う(26)。但し、この二人の研究者はサリンジャーの神秘主義が作品に表現されるのは1952年以後だとするが、リアリティーのすべてが神と一つであり、神そのものの展開であるとするものを神秘主義とする限り、これはあたっていよう。併し、樹が大地から樹液を作るような意味での同一性をも神秘主義と見做すならば、サリンジャーによるその使用は1952年以前である。さて、走行中の人物を画くということは、動を静の中に、時間を永遠の中に捉えることであり、時間内の事柄は永遠の静の中に起るもの、起るべくして起るもの、つまり、時間的にしか言えない私たちの言語表現では決定論として表現する以外に道のないものなのである。だから「テディ」の主人公は自分がいつ、どういう死に方で死ぬかを知っていたのである(27)。『ハプワース16 1924』の中のシーモアは、未来に行われるパーティーの状況を話した後で、「こういう光景を思い浮かべるとぼくは深い安心感を抱いて、すぐに目まいから立ち直るんだ」(原田敬一氏訳)(28)と言っているが、冷たい神の凝視の中で、未知な将来に向って、惨めな結果に終らないような決断をしなければならないとあせり、不安におののく魂を、その不安の目まいから解放するのはサリンジャーにとって決定論なのである。

 しかもこの決定論は、すべてのリアリティーは同一である、という同一性図式に支えられている。「テディ」の主人公はニコルソンに語って六歳の時に「すべてが神である」ことが分ったと言い、「妹はその頃ほんの乳飲み児でした。それで彼女はミルクを飲んでいるところでした。すると突然ぼくは妹が、そしてそのミルクが、神であるのを見たのです。つまり、妹のやっていることのすべては、神を神の中に注ぎ込んでいたというわけです」(繁尾久氏訳)と語る(29)。またズーイーはフラニーに、俳優はテレビだろうとラジオだろうと、それを見たり聞いたりしてくれている「太った婦人」のために一生懸命自分の役をしなければならないと言った後で、その「太った婦人」は本当は「キリスト自身」であるというし(30)、ド・ドミエ・スミスの好意をもった尼僧が神の象徴であることを見てきた私たちには、「万人はこれ尼僧である」(繁尾久氏訳)というド・ドミエ・スミスの言表(31)も「太った婦人」と同じように一切が神であることを言っている。こういう意味での同一性図式に支えられて、シーモアの言うような、からだに出来る吹出物まで神のなす業だ、という決定論が成立しているのである(32)。恐らくある時期に、既に見てきたように1952年頃、サリンジャーは樹木と大地との関係に象徴されるような同一性図式を更に拡大して、一切が神であるという同一性図式に到達したのだろう。併し、これは移行ではなく拡大であって、前者は後者に含まれている。一切が神の働きそのものなのであるから、後者の同一性図式では人間の罪意識も消滅する。ケネス・ハミルトンは前にあげた書物の中で、フラニーの言う「イエスの祈り」が「主イエス・キリストよ、われを憐み給え」であるのに対して、本来のそれは「主イエス・キリストよ、悲惨な罪人たるわれを憐み給え」なのだが、ズーイーが誰も「悲惨なる罪人」という言語に注意を払わなかった事実を喜んだ、と書いていることに私たちの注意を向けている(33)。「ド・ドミエ・スミスの青の時代」の終りのところで、主人公が「わたしはアーマ修道女に彼女なりの運命に従う自由を与え」(繁尾久氏訳)たとあるのは、同一性の神の動きに身をまかせる決心をしたことであろう。

 ところで、二つの同一性の考え方には共通のところが多いので、区別する必要がない場合には一緒に取り扱って行きたいと思う。『ライ麦畑でつかまえて』の終りの部分でフィービーを回転木馬に乗せて見守るホールデンが描かれているが、これはカルヴァン主義、特にピューリタン的な、歴史をある目標(神の国、ユートピア、進化論と結合した上での文化的・科学技術的理想社会等々)に向って動いて行く直線的なものとする考え方の否定である。直線的な歴史観では、終りに来た時に神の国の中で初めて人間と神との一致が成就されるのであり、事実上今のところでは、神と人間は別々で主観−客観図式を形成している。円環は完全・完結を表現し、回転する時間(回転木馬)は完結している円の中に閉じ込められている。こういう神と人間との関係には、いつでも変化がない。つまり、一致や融合は未来においてではなく、今の現実の中にある。ホールデンがリアリティーのこの同一性に到達した時に、雨(恵みの雨、洗礼の象徴でもあるが)が降る。

 面白いのは、木馬に乗っているフィービーがもう一度無料で乗れる特権を得ようとして金色の輪を他の子供たちと同じように掴もうとするのだが、見守っているホールデンは彼女が木馬から落ちないかと心配しつつも、「何も言わず、何もしないで、黙ってやらせてお」(野崎孝氏訳)(34)くことである。この態度は、ホールデンがフィービーに語ったライ麦畑の番人の態度とは随分と違う。ホールデンが将来なりたいライ麦畑の番人は、あぶない崖のふちに立っていて、遊んでいる子供が崖から転がり落ちそうになったら掴まえるのであった(35)。既に述べたように、この書物は宗教体験の途上にある少年の物語なのだから、ライ麦畑の番人のイメージはまだ途上にあるもののイメージである。子供が落ちそうになると出現する番人によって象徴される愛は、deus ex machina(危急を救う神)の愛で、人間を外側から助ける。つまり、ここには神と人間との同一性などいかなる意味においても存在しないのであり、こういう神が人間を愛する時には、リルケの『マルテの手記』の中にある放蕩息子を甘やかす神と同じことになる。神は内側から子供たちに自覚させ崖に近よらないようにさせるべきで、同一性の神はそのように子供を自立させる。だからホールデンは回転木馬のフィービーを放っておく。タクシーの運転手とホールデンとの間にかわされるセントラル・パークの池のあひるは冬どうするのだろうかという会話でも、表面の氷で水の中に閉じこめられてもすべてをまかせてゆうゆうとしている魚が、同一性の神の中で生きる人間の象徴だろうし、凍結した池を見捨てて南の地へ行く程の羽をもっているとは思えないあひるが、神にまかせきらなければ生き残れないのに、じたばた自力で頑張ろうとする人間の象徴であろう(36)。自力とは、神と分離して眺め、眺められる関係の中にある人間の発想である。同一性の発想では、人間の自由と神の必然とが一つになる。


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 ところで、この決定論的なリアリティーの同一性は時間を内包しているが故に回転木馬の如くに動くのであるが、その動きの中には「テディ」やシーモアを中心としたグラス家の物語において明らかなように、魂の生死流転やカルマが含まれているばかりではない。その動きはいつも新しい創造性に満ちている。この点で「ド・ドミエ・スミスの青の時代」の中で主人公がアーマ修道女に、自分が十七歳の時に起った意味深長な出来事として、パリのヴィクトル・ユーゴー街で、鼻の欠けた一人の男に突き当たったことを書き送っているのは、私には面白い(37)。ロダンにヴィクトル・ユーゴーの彫刻があり、また、鼻の欠けた男の彫刻があることを私たちは思い出すだろう。そして、後者はリルケがロダンに関する講演『ロダン』(『リルケ全集』?、弥生書房、昭和41年、22頁)の中でロダンの芸術の特徴を説くに当たって引き合いに出したものである。リルケによると「それは動きに充ち、たえまなく波打って」おり、「線の移り行きの中に」も「面の傾斜の中にも」(高安国世氏訳)動きがあったのである。このようにして静的な美でなく動的な美をロダンは作りあげた、とリルケは言う。そう言えばサリンジャーは欠けを作品の主人公たちに押しつけている。シーモアの鼻梁は目立って右側に傾いて曲がっているし(38)、テディの目はやや斜視であったし(39)、ズーイーもハンサム過ぎることから、一つの耳が他より大きいことでまぬがれている(40)。シーモアは結婚式をするのはあまりにも幸福すぎるという理由から、式には出ずに花嫁のミュリエルと駆け落ちする(41)。このようにして創造的に「万物を貫流するとうとうたる時の流れ」(滝沢寿三氏訳)(42)たる神の同一性がリアリティーとして展開するのであるから、生きるに当たって一番大切なことはその展開をいつも見守り、それに応じて行動することなのである。シーモアが聖書の「見守れ」という言葉を好んでいた理由もここにある(43)。グインとブロトナーが、サリンジャーの作品とリルケ及びピカソとの密な関係を指摘し、グラス家とピカソの「サルタンバンク」――それをリルケは『ドゥイノの悲歌』第五悲歌で取上げた――との職業上の類似性を注目しているのは、この点で面白い(44)。グラス家の人々の生はピカソの旅芸人一家の生活と同じように、同一性の神の創造的な遊戯であり、聖なるたわむれなのである。「意志は彼らを絞り、撓め、絡ませ、そして振った挙句、投げだしてはまた受けとめている。」(富士川英郎氏訳、上掲『リルケ全集』?、26頁)

 そうすると、日常生活の中で私たちが苦闘する善・悪の別も、根源的な神の同一性の中では失われる。善・悪の区別は時間の中の事柄であって、永遠の中の問題ではない。「エズメのために――愛と汚れ」の中のエズメは、愛と汚れのうちの愛(善)の象徴であるが、醜悪な話(汚れ・悪)が好きである(45)。善はリアリティーの相対的な一部分の極であるので、他の部分の極たる悪に惹かれる。善と悪とに分裂した生を生きていて、神を味方としか感じ得ない人間は、いつも神の凝視の中で自分の汚れを気にする。エズメには「生肉の出るほど爪を噛んだ跡があった」(武田勝彦氏訳)(46)。エズメの父親(既に死んでいる――父なる神の死)の大きな腕時計(時間の中の善・悪二元の象徴か)をエズメが主人公に郵送してくるが、それが途中でこわれてしまったことにより、主人公は久し振りに眠れるようになる。善・悪に分裂している時間の世界の絶対性が破れ、時間を越えた永遠を知って初めて主人公は心安らかに生きられるのである。喫茶店の中でエズメの弟チャールズが提出した謎、片方の壁が他の壁に何と言ったかの答、「すみのところで会おうよ」は(47)、まさに愛と汚れの統一としての根源的リアリティーを指す。

 この物語の主人公は戦争の中に見られる悪や汚れに出会って神経症をわずらっているが、これは恐らく既に述べたサリンジャー自身の宗教体験と深くかかわっていたのであろう。伝統的なカルヴァン主義が言うように、全能なる愛と義の神が現実の外にあって支配しているなら、何故にこれ程の悲惨と悪がこの世に存在するのかが私たちの悩みの種になる。ところが、神を善・悪両方の根源としてリアリティーの中に含めてしまえば、神の方をリアリティーから考えるようになる。リアリティーの方を神から考える姿勢は消滅し、ありのままのリアリティーの根源として神を考えるようになる。つまり、神の愛や義を人間が勝手に考えて、抽象的に善のみと結合するような愚をやめ(48)、それを現実の側から考え直さねばならないのである。シーモアが「神よ、あなたには謎が多いということは有難いことだ!」(原田敬一氏訳)(49)と言うのは、この意味でもある。

 どれ程他宗教との思想的な対話を内面に繰り広げても、サリンジャーはイエスへの固着を止めてはいないのであって、「バナナフィッシュに最良の日」のシーモアが三十代の初めに死んでいったことをケネス・ハミルトンがイエスの死と並列させ、シーモアの死を宗教的自殺と解釈しているのは当っているように思う(50)。この点でのハミルトンの素晴らしい解釈を詳細に紹介できないのは残念だが、バナナフィッシュがバナナを食べすぎて入り込んでいた穴から出られなくなったというのは、ハミルトンの言う如くに結婚生活に入り込んで魂の救いよりも世間的な喜び――その基準は、私流に言えば、同一性の根を失った主観−客観図式――にひたっている妻ミュリエル、及びそのような人々の状態の象徴であり、シーモアは自殺によって妻をその穴(結婚生活)から解放しようとしたのであろう。もしハミルトンのこういう解釈が当っているとすれば、自殺の直前海浜からホテルに帰ってきたシーモアが、エレベーターの中で一人の婦人がシーモアの足 (feet――脚と訳するのはどうか?)(51)を見詰めたのに文句を言う場面はなかなか深刻な意味をもってくるように私には思える。(樹ならば大地から栄養分を吸収する根に当る)足のように身体の中で同一性を象徴する部分を眺められたことは、今まさに同一性の真理のために世間の生きる基準たる主観−客観図式に抗して死のうとしているシーモアにとっては、主観−客観図式の水を浴びせられた如くに感じたのであろう。イエスのゲッセマネの園における祈りにも似た苦闘である。

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(1) 『サリンジャー選集』?、東京、荒地出版社、昭和44年、10頁
(2) 同上?、昭和43年、169頁
(3) 同上?、129頁
(4) 同上?、158頁
(5) 同上?、153頁
(6) 野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』東京、白水社、昭和39年、276頁
(7) 同上、277-278頁
(8) 同上、9頁
(9) 『サリンジャー選集』?、昭和43年、152頁
(10)同上?、昭和43年、118頁
(11)同上?、105頁
(12)同上?、93頁
(13)同上?、12-13頁
(14)利沢行夫著『サリンジャー』東京、冬樹社、昭和53年、117-118頁
(15)野崎孝・井上謙治訳『大工よ、屋根の梁を高く上げよ・シーモア――序章――』東京、河出書房新社、昭和53年、215-216頁
(16)野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』184頁
(17)同上、231頁
(18)利沢行夫著『サリンジャー』、64-67頁
(19)野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』152-160頁
(20)同上、238頁
(21)『サリンジャー選集』?、140頁
(22)同上?、同頁
(23)同上?、131-132頁
(24)利沢行夫著『サリンジャー』、175頁
(25)『サリンジャー選集』?、143頁
(26)Gwynn,Frederick L.& Blotner,Joseph L.:The Fiction of J.D.Salinger,The Univercity of Pittsburgh Press 1958,p.33,p,37
(27)『サリンジャー選集』?、177-178頁
(28)原田敬一訳『ハプワース16 1924』東京、荒地出版社、昭和52年、61頁
(29)『サリンジャー選集』?、173頁
(30)同上?、151-152頁
(31)同上?、153頁
(32)原田敬一訳『ハプワース16 1924』、35-36頁
(33)Hamilton,Kenneth:J.D.Salinger――A Critical Essay,William .Eerdmans,1967,pp.42-43
(34)野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』295頁
(35)同上、242-243頁
(36)利沢行夫氏は、私のように主観−客観図式や同一性図式を語っている訳ではないが、魚やあひるに関し同じような解釈をされている。同氏著『サリンジャー』、92頁以下
(37)『サリンジャー選集』?、150頁
(38)野崎孝・井上謙治訳『大工よ、屋根の梁を高く上げよ・シーモア――序章――』、223頁
(39)『サリンジャー選集』?、155頁
(40)同上?、44頁
(41)同上?、240-241頁
(42)同上?、232頁
(43)野崎孝・井上謙治訳『大工よ、屋根の梁を高く上げよ・シーモア――序章――』、187頁
(44)Gwynn & Blotner,The Fiction of J.D.Salinger,p.55
(45)『サリンジャー選集』?、97頁
(46)同上?、91頁
(47)同上?、96頁。『シーモア――序章――』の中で、シーモアが非常に上手だったストゥープボールのことが描かれているが、これは、道路のこちら側の建物の玄関にぶつけたボールが向う側の建物の壁とぶつかって返ってくればホームランになる遊びであるということだが、シーモアがホームランの名手であったというのは、エズメの弟チャールズの謎の答と同じ意味をもつと思われる。野崎孝・井上謙治訳『大工よ、屋根の梁を高く上げよ・シーモア――序章――』、248頁以下
(48)『サリンジャー選集』?、126-127頁
(49)原田敬一訳『ハプワース16 1924』、117頁
(50)Hamilton,Kenneth: J.D.Salinger――A Critical Essay,pp.28 ff.,p.43
(51)『サリンジャー選集』?、24頁


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入力:平岡広志
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2002.9.21