野呂芳男「虚無の克服」

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虚無の克服 

日本基督教団水海道教会礼拝説教 1984年6月10日


野呂芳男


     


初出: 説教集『イエスは主なり』水海道教会編、創文社、1989年。
※テクストの転載にあたっては、元水海道教会牧師丹羽清治先生から快くお許しをいただいたことを、深く感謝申し上げます。





聖書:マタイ 8:1−17 讃美歌:74

 マタイによる福音書 8章1節から17節までをテキストとして今日は話をさせていただきます。







 ここにはいくつかの物語が集められていますが、その物語のすべてが、イエス・キリストによって人々がその病気を癒されるという出来事に関しています。最初の物語は、らい病人が癒された物語であります。この場合、私どもが注意して読まなければいけないのは、この当時らい病と表現されているものが、今日「らい」という言葉で表現しているものとはいくぶん違っていることです。今日私どもが「らい」という言葉で表現している病気も入りますけれども、この当時はもっと幅広くこの言葉は使われていたのです。例えば、よくできるいろいろな皮膚病、簡単に治ってしまうような湿疹なども、この当時の人々は「らい」と考えていたのであります。さらに次の物語では百卒長が登場します。これは異邦人、つまりユダヤ人ではない人です。この当時は、ユダヤ人は兵役に服さなかったのですから。そうすると、百卒長の僕が病気になったのでその家までイエスが出かけようとされたのは、これは当時としてはたいへんなことであります。異邦人の家にイエス・キリストがお出かけになろうとしたということを意味します。そして、ユダヤ人の考えでは、異邦人の家に入っただけで、ユダヤ人は汚(けが)れてしまうと考えていたのでありますから、イエスがその異邦人の家に出かけようとされたのは、当時のユダヤ人の風俗、慣習を無視して、病人を癒そうとされた、ということなのであります。

 さらにもう一つの物語は、ペテロのしゅうとめが熱病で病んでいたのを、イエスが癒されたという物語でありますが、その時に、イエスは病人に直接ご自分の手を触れて癒されています。ところで、私が今日みなさんがたと一緒に考えてみたいと思いますのは、17節の預言者イザヤの言葉「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」という言葉なのですが、これが以上の病人の癒しとの関連で引用されているのであります。そして、引用されているイザヤの言葉にも、わずらいとか病とかいう言葉が出てきます。このイザヤの言葉は、みなさんがたがよくご存知のように、イエスの十字架のあがないを指すものとして新約聖書で使われております。そして、新約聖書の中では、わずらいとか病とかが、悪霊にとりつかれていることと同じと見なされています。そのように考えてきますと、イエスは十字架上において私たちの罪をあがなうお仕事をされたのですから、病とかわずらいとか悪霊にとりつかれるとかが、罪を犯すということと、同じ事柄として書かれていることになります。

 つまり新約聖書の時代には、今日私たちが考えているように道徳的な罪が片一方にあり、もう片一方には病気があるというように、病気と道徳的な罪というものが二つに明瞭に分かれたものとして考えられてはいなかったのです。つまり、病気とか罪を犯すということとが、はっきり区別されておらず、病気にかかるのも、罪を犯すのも悪霊の仕業と考えられていたのでして、後代の神学者たちや聖書学者、牧師さんたちがお考えになったようには、両者がきれいに分かれてはいなかったのです。

 しかし罪、病気など、こういった悪霊にとりつかれるようなことは全部神が非常に嫌われたことです。これらはいわば神の敵である。これが聖書の考え方なのですから、みなさんが病気の時には、まずその病気を治すということが神の御心なのです。病気は神の敵なのですから、神が病気を好んで人々に与えるということは絶対になく、病人が一日も早くその病気から解放されることを神は望んでいらっしゃるのです。何か病気を神から自分に刑罰あるいは訓練のために与えられた神聖なもののように考えて、後生大事に毎日毎日その病気とお付き合いをしているのは、そして病気を非常に神々しいもののように大切にして、自分をそれでいじめるようなのは、決して信仰的ではありません。病気になっていることが何か信仰的にりっぱなことのように思うのは、新約聖書の考えからすると、信仰の道からずれているのです。新約聖書では、神の御心は早く病気が治ること、一日も早く病気から解放されることにあります。

 私たちは道徳的に罪を犯すということだけが神の御心に反することのように考えがちなのですが、新約聖書では自分が病気にかかっているということも神の喜ぶところではない。病気など少しも神聖なものではない。早く病気と戦って、病気から解放されることこそが、神の御心なのです。神の嫌われること、神が非常に嫌がられること、早くそこから人間が出てしまって欲しい状態、こういうものは、広範囲にわたります。病気だとか道徳的に罪を犯すような状態だとかをこれまでは考えてきたのですが、悪霊にとりつかれている状態はまだあります。元気がなくて意気消沈している状態などは、これを神に対する冒涜だとか、あるいは、罪だとかと考える人は少ないかも知れませんが、新約聖書的に考えれば、これも神の嫌われる状態なのです。私たちが何となく元気がなく、しょげかえって、すっかり落ち込んでしまい、暗い考え方の中にいつもいるようなことも、神が非常にお嫌いになる状態なのです。悪霊に付かれた状態は、そういう状態のことでもあります。また、自分は惨めな人間なのだと思い込んでしまった人が、他の人にいじわるをすることによって、自分のみじめさの復讐をするというのも、悪霊に取り付かれた人々のやることなのです。こういうものが罪なのです。

 私たちはいつの間にか、聖書の時代と違って罪を小さい範囲に限って考える習慣がついてしまったのです。ところが聖書の中では、罪は単に神の道徳的な律法を破るというような簡単なことではなくて、非常に広範囲なものです。何か人間らしく幸福に、生き生きしていない、何か落ち込んでしまって自分の惨めさをかわいがっている、こういうのも罪です。ちょうど皮膚病でかゆくてしょうがない時に人が自分の身体をかきむしると、一時的には気持ちがよいかもしれないけれども、やがては更に皮膚病が広がってもっとかゆくなる。それと同じように、自分の惨めさを大切に大切にして治そうとしない、自分をいじめて喜んでいるような、そういう人間の状態、これも聖書的には罪となります。つまり、神の喜ばないことはすべて罪である。

 このように考えますと、シモーヌ・ヴェイユというフランスの哲学者のことを思い浮かべます。彼女はカトリックの信仰に近い信仰をもつようになったのですが、決心して教会の洗礼はとうとう一生涯受けないでしまったのです。ヴェイユには実にすばらしい著書が何冊かありますが、その著書にはしばしば、非常な感動で心をしめつけられるような感じがする箇所があります。彼女は医者の娘だったのですけれども、生まれた時から身体が弱かった。そして、十何歳のある日、突然こめかみのところの神経が非常に痛み、――いわゆる偏頭痛の激しいものだと思いますけれども――どうしても治らない。一生涯その痛みに耐えた。時にはじっと頭を抱えて苦しまなければならない、何もできないのです。偏頭痛を一生涯背負い続け、それと戦いながら過ごした彼女は、またとても不器用だったのです。ご存知のようにスペインでフランコが内乱を起こし、時の左翼政権が非常な危機に陥ったことがありました。その時に、多くのアメリカ人やフランス人や、社会的な正義を追い求める人々が、フランコと戦うために、スペインの政府軍を助けて戦争に参加しました。ヴェイユもフランス人として、隣の国スペインに起こっている出来事に目をつぶっているわけにもいかず、フランコと戦うために志願しました。彼女は最前線に送られるのですが、女だというので、兵隊たちの食事を作る役目をおおせつかったのです。ところが煮立っている油の鍋に彼女はうっかり自分の足を入れてしまう。そして大火傷をして二週間たらずで帰されてしまう。何をやっても駄目なのです。気持ちの上では一生懸命世の中に奉仕をしたい、社会的正義のために戦いたいと思うのですけれども、実際にはやることなすことのすべてが、何か人々に喜ばれない結果で終わってしまう。重傷を負った彼女は、兵隊たちに迷惑をかけて、後方の病院に送り込まれたのです。このようにして、やがてフランスに帰って来ます。

 彼女は繊細な、デリケートな気持ちの持ち主なので、自分の偏頭痛に悩み、不器用さに悩み、もうどうしようもない気持ちに襲われます。ところが、彼女の心の中には、それにもかかわらず、何とかして美しいもの、正しいもの、良いものを一生懸命に追い求める気持ちが相変わらず熾烈に燃え立っていたのです。そこで彼女は、中学校や高校の教師をしながら、労働者の味方となっていく。彼女には「赤い乙女」というあだ名がつけられたのですが、それは彼女が労働者の争議に参加して赤い旗を持って労働者の行進の先頭に立ったりしたからです。彼女はマルキストではなかったのですが、資本家と対決したのです。彼女が死んだのは34歳の時ですが、それは飢え死と言ってもよいものだったのです。ドイツ軍に占領されているフランスの人たちと同じカロリーの食事しか食べずに、ロンドンで彼女は栄養失調でもって死んだのです。

 この女性哲学者が書いたある書物の中に、神とは、人間の魂の中にある美しいものを追い求める気持ち、正しいものを追い求める気持ち、善なるものを追求する気持ちに呼応するところの、はるか彼方にある存在だ、という言葉があります。そして、人間はその神を求めて、自分の魂を清め、行いを清めて、そのあこがれの神に一歩でも近づいて行こうと努力する。ところが上のほうの神に昇って行こうとする人間を、一生懸命に下のほうから引っ張るものがある。彼女はそれを「重力」という言葉で表現しました。物が重力の作用で下に落ちるように、人間を下のほうに引きずり降ろそうとする力が世界の中には働いている。例えば、彼女の偏頭痛も重力の一つともなり得るし、彼女の不器用さもそうです。心は燃えて、美しいものを追い求めたいのに何か彼女のそういう燃えて地上の汚濁から離れて上昇しようとする魂を妨げるものがある。ちょうど鉛の箱の中に彼女の魂が閉じ込められてしまったように、彼女が叩いても、叩いてもその箱はのいてくれない。つまり、彼女の弱い身体が上昇しようとする彼女を引きずり降ろしてしまう。真・善・美にあこがれて神のところに昇ろうとするのに、どうしても下のほうに、下のほうにと落ちてしまうのです。

 さて、既に申し述べましたように罪とは神の嫌われる事柄であります。それは単に道徳的に悪を犯すというような単純なものではなく、人間存在全体が神への上昇から落ちて行く状態です。この下降はいろいろな形をとります。例えば、自分が非常に惨めな存在だと感じている人は、よく他の人にいじわるをして、自分のみじめさに復讐する。自分が弱々しい、何の取柄のない人間だと考えている人々は、他にもっと自分より程度の低い魂や弱々しい身体の持ち主を見つけると、その人々をいじめる、そして、自分がいくぶんなりともその人よりかはりっぱで強い人間だということを、自分に証明してみせる。自分は他の人よりも、いくぶんなりとも良いところがあるのだというふうに優越感に浸る。このように、重力がいつも私たちを引きずり降して卑しくする。いつも他の人々を押さえつけ、他の人々をいじめ抜き、自分だけがかわいい存在となっていないと気がすまないようにする。そして、自分が生きていることの意味を、他の人より自分はこんなにもりっぱだ、私には他の人にできないこういうことができると、自分に説得して行くことの中にしか見付けられない。重力におびやかされている人間はこういう形でしか、自分の惨めな気持ちを慰めることができない、非常に哀しい魂たちです。

 こういう状態の中に落ち込んだ人間の姿こそ、ニヒリズムに蝕まれた人間の姿そのものです。虚無がその人の中に染み透って、その人全体を犯してしまった状態です。このニヒリズムこそが、イエスが敵とされたもの、神が敵とされたものなのです。虚無こそ罪の元凶なのです。


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 これまでに神の敵が何であるかをお話したのですが、次に「待つ」ということについて語りたいと思います。テキストに書かれている病人たちは、たぶんもっと早く治りたかったでしょう。イエスが治してくださるまでに、多分いろいろと治療してみたけれども効果がなかった。それで病気はこんなに長引いたものになってしまった。やむを得ず、イエスに癒されるまで待ったのです。

 待つことは、たいへん難しいことです。どうやって待つのか。いつまで待ったらよいのか。小説家の椎名麟三さんが、あるエッセイの中でこんなことを書いています。この話はおそらく戦争中の椎名さんの周囲にいた人の体験に基づいているのかも知れませんが、ある男の人が、工場で働いていた。彼は戦争は悪だと信じ、世界から戦争を追放しなくてはならないと信じている人であった。ところが彼は工場でもって何を作っていたかというと、鉄砲の弾や弾丸であった。彼はもちろん悩み、何とかして他の仕事に就きたいと願った。しかし、当時はもちろんのこと、仕事がそうやたらにあったわけではないから、その仕事から移ることができない。しかも彼には妻があり、子どもがあった。家族を養っていかなければならない。そういう時にいったい人間はどうすべきなのでしょう。

 いちばんきれいに見えるのは、シモーヌ・ヴェイユのようにみずから命を絶つことかもしれません。しかし、この人が自殺することによって、いったい世の中が少しでも良くなったでしょうか。さらに奥さんや子どもたちは、その翌日から路頭に迷うのです。つまり私たちの身体の弱さ、あるいは私たちの性格的な弱さなどによって私たちが落ち込んでしまっている状態、そういうことだけに私たちは悩まされているわけではないのです。私たちのまわりの環境が私たちを義務づけ、私たちを孤独にしてはくれないのです。そこから逃げようと思っても、逃げられるものではない。逃げれば多くの人々に迷惑をかけてしまう。つまり待つということ以外、何もできないのです。たいへん悲しいことであるし、残念なことでもありますが、ある場合には罪を犯し続け、虚無の中にじっととどまり続けるという悲しみに耐えなければならない。信仰にはこういうことも含まれているのです。

 私はしばしば思うのですが、信仰を持ったらすべて解決しますよ、信仰を持ったら病気も治るし、幸福にもなりますよ、と言って、信仰を売って歩くようなキリスト教の説教者は、人生をほんとうに知ってはいない。他の宗教の説教者もこういう人がいますが、私はそういう人々は、偽り者だと思っています。人間の生活は、そんな簡単なものではない。自分が悩み苦しみ、それから解放されたいと思っても、どうしても解放されないものがたくさんあります。自分の弱い性格だとか、どうしても正しいと思えない自分の職業だとか、自分に合わない、あるいは、自分がどうしても納得できない環境だとかの中に、がんじがらめにされて、抜け出ることのできない人々は実に多い。抜け出ようと動けば動くほど事態は悪くなるかもしれない。

 自分の身体の弱さとか性格の弱さとかいう一つの箱ばかりか、その周りにさらに厚い環境という箱があって、二重にも三重にも私たちを閉じ込めているような絶望感に、私たちはしばしば襲われます。したがって、待つということは、ものすごい悲しみに耐えることでもあります。神が新しい状況まで私たちを導いて行ってくださるのを、じっと待たなくてはならない。神の導きのないときに、勝手に動くことは、かえって自分を苦境に落とし、周囲の人々を悲しみに落とし込むことにもなります。ゆえに待つということは、美しいものや良いものや善なるものへのあこがれを持っていながら、それを満足させることができないことでもあります。しかも自分は堕落するのも嫌だというような状況なのです。つまり自分の魂は上のほうに、神のところにあこがれて行きたい、ところが下のほうからは、その魂が上のほうに昇って行こうとするのを引き止める環境的な力とか、その他いろいろなものが手を延ばしてくる。上か下かのどちらかに行けたら、どんなにか簡単でしょう。待つ人間は宙ぶらりんで、中途半端な状態にいなくてはならない。一歩でも神のところに近づければどんなに幸福かと思っても、下のほうからはそんなことをしたらだめだと叫ぶ声がある。あなたはそれで良いかもしれないが、他の人々がまいってしまうと言う。つまり人間は上からも下からも引っ張られているのです。この上下の真中で苦しみ抜かねばならない。

 その時に人間の心はいちばん荒みやすい状態にあります。その荒んでくる自分の心にじっと耐えるのは、これまたたいへんなことです。下のほうに、底に落ちてしまって、もう美しいものや良いもののことなど考えずに、この世の生活に泥まみれになって、それを喜んで遊んで暮らせば、あるいは自分の心は、空虚ではなくなるかもしれない。ある程度の満足が下のほうにもあります。または、シモーヌ・ヴェイユのようにきれいになりすぎて、すぐさま神のところに行くというのもまだしもたやすい道なのです。とんでもない、それはたやすいってものではない、と言われる方々もあるでしょうが、しかし、シモーヌ・ヴェイユの自殺は、やはり間違いだったと私は思います。自殺よりもつらい道は、泥によごされながらも美しいもの、善なるもの、真なるものへのあこがれを殺さないことです。つまり自分の魂が荒みそうな状態になりながら、しかも荒ませないで、じっと耐え忍んでいくという道なのです。これが待つということなのです。イエスの癒しの御手が私たちに触れてくるのを待つ姿勢とはこれだと私は思います。


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 それでは私たちに希望はないのか。私はあると思いますが、その希望は、ちょっとやそっとで成就される希望とは違うのです。神が私たちの希望を満たしてくれる時に、どういうような満たし方をされるのだろうか。このことを考えていくのに便利な方法は、神ご自身がどうやってご自分の希望を満たされたかを考えていけばいいわけです。神が自分の希望を満たすなどとはおかしな話だとお考えかもしれませんが、聖書の中にはそのことが重要なテーマとして書かれております。神が人間を造られた時には、人間と親しい愛の関係を結び、神の国を造ることが神の目標であり、希望でした。ところが人間のほうがその神の希望を満たさず反逆したわけです。この反逆はずっと続いていきます。アダムの子孫が増えると罪もますますこの地上にはびこっていく。そこで神はイスラエル民族を中心にして全人類をお救いになろうとお考えになる。イスラエル民族を特別にかわいがって義の民として育て、他の模範となるような民族にしようと思われた。ところがそのイスラエルも神に反逆する。そこで神が次に取られた手段は、イスラエルを教育するために預言者を送るということでした。その預言者たちをイスラエルはどうしたかというと、ある者は追い出し、ある者は石で打って半殺しにし、預言者たちの言うことなどいっこうに聞こうとしない。神はいよいよ取るべき手段に窮された。神も手段に窮するのです。手段に窮した神はそのひとり子を世に送られる、自分のひとり子を送ったならば、その言うことぐらいは聞いてくれるだろうと思われたわけです。ところが人間は、そのイエス・キリストという神のひとり子を十字架に掛けて殺してしまった。

 神の打つ手はもはやないようにしか思えません。神はあらゆる手を打たれたと思う。人間と愛の関係を結ぼうというご自分の希望を実現するために、神はあらゆる手立てを講じられた。ところがそれらすべてが失敗に帰したわけです。十字架の上でイエス・キリストは、神の失敗をなじるかのように、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。このイエスの言葉は前もって神と打ち合わせしたお芝居のせりふではありません。イエス・キリストにとって、これ以上自分のために神の打つ手はないとわかってしまったこと、そういう叫び、絶望の叫びがあの叫びなのです。そしてその絶望の叫びと共にイエスは死んでいきました。それを知った弟子たちはみな逃げました。もはやイエスを中心にした宗教運動は壊滅したわけです。

 神もここで絶望して、人間を捨ててしまっても人間の側からは文句も言えない状況であったと言えます。神をないがしろにする人間の反抗に耐えに耐えて、神は人間を救うためにいろいろな手段を打ってこられたけれども、すべて失敗に終わった。ところが、イエスが死んで三日目に、マグダラのマリヤが復活のイエスに出会った。つまり、こんな状況の中でも、どのような状況の中でも、どのような苦しみや悲しみや絶望の中でも、神は絶望なさらなかった。自分のひとり子が人々によって十字架に掛けられ、死の中に追いやられた時に、神は、いわばせんかた尽きたはずである。もう手段はないはずであった。絶望のはずです。パウロの言葉を借用すれば、神の最大の敵である死の中に、ご自分のひとり子が捉えられてしまっているからです。

 ところが、その絶望の状況を、神はみごとに人間の思いを超えた仕方で、非常に独創的な仕方で、まるで天地を造ったときと同じほどの、あるいは、それ以上のすばらしい創作力で、神は解決されたのです。死んで死の勢力圏の中に閉じ込められてしまった、そのひとり子イエス・キリストを、神はよみがえらせたのです。

 私たちが、望みを抱く時には、神のこの、せんかた尽きても望みを失わない希望のもち方にならわなくてはいけません。せんかた尽きても望みを失わないと言ったのはパウロですが、袋小路というものはキリスト教徒にはないわけです。ここからどこにも行けないような所に自分が閉じ込められてしまった、と考えて、もう自分はだめだと思い込んだ時に、実はその人は最大の罪を犯しているのです。どんな状況の中においてでも希望を失うことが、人間の罪の最大のものなのです。みんさんがよくご存知のゼーレン・キルケゴールには有名な言葉で「絶望は罪である」というのがあります。罪には、何か神の律法を破るということも入ります。これは悪いことに決まっています。しかし、そういう罪よりも絶望のほうが重い罪なのです。私たちが死刑に値するような罪を犯しても、それよりも死刑囚になった私たちが希望を失うことのほうが大きな罪を犯したことになるのです。これがキリスト教なのです。

 つまり、私たちの身体の弱さ、性格的な弱さだけではなく、その上に私たちの環境が私たちを閉じ込めてしまってどうしようもない状態にあるような時に、私たちはまったく虚無的になってしまいますが、このどうしようもない悲しみと惨めさの時でさえも絶望しないということが、キリスト教の希望の持ち方なのです。十字架の絶望も必ず復活の希望に変わるということを信ずること、死も神の愛には打ち勝てない、復活せざるを得ないと信ずること、これがキリスト教信仰なのです。


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 みなさんは、アリス物語をたぶんご存じでしょう。ルイス・キャロルという聖公会の牧師が『不思議の国のアリス』とか『鏡の国のアリス』とかを書きました。私も子どものときに読みましたが、今でも時々書棚からひっぱり出してきて読みます。『不思議の国のアリス』の最初の場面を思い出しますと、アリスが土手の上で、お姉さんと二人でのんびりと寝そべりながら話をしていますと、向こうから兎が一匹走ってきます。そしてその兎が二人がいるそばまでくると止まって、チョッキのポケットから時計を出し時間を見て、「さあ、たいへんだ。遅れてしまう」と言い、どんどん駆けて行きます。アリスはおもしろがって兎の後を追っ駆けて行きますが、ある所で兎は兎穴に飛び込みます。その後をアリスも追って飛び込み、不思議の国まで行ってしまうというわけです。文学批評の領域ではこれをノンセンス文学と言うそうですが、私が非常におもしろいと思いますのは、兎がチョッキを着て登場したり、ポケットから時計を出して見たりして、「あっ、約束に遅れてしまった」と言い駆け出して行くことなどです。その物語の発想のおもしろさにひどく感心してしまうのです。

 もちろん、実際には兎はチョッキなど着ていない。ところが人間に目を移すと、人間はチョッキを着ます。そうしますと、キャロルのやったことは、人間の着ている洋服の一部分であるチョッキを取りあげて、それを兎に着せたわけす。それが読んでいてなんともユーモラスでおもしろいのです。そして、ルイス・キャロルが聖公会の牧師だったことと、そういう物語を彼が書けたということとは、深いところで繋がっているのだろうと私は思っているのです。

 まるでなぞなぞみたいな話になってしまいましたけれども、こういうことです。

 キリスト者は、神から自分の人生や責任をもたねばならない人々の人生を、愛をもって管理するように委託されているのです。そういうキリスト者にも、絶望したくなるような、どう考えてもそこからの抜け道が見つからないような、袋小路に陥った状態の時がしばしばあります。そのような時に、神が私たちに語られるのは、君の人生、君の家族の人生、友だちの人生、そういったものは動きのとれないものではないのだよ、というケリュグマ(言葉)なのです。つまり兎だったらチョッキを着ているはずがないというように、私たちは考えてしまうが、それと同じような決まりきった人生に対する考え方で生きていてはいけない、と神はおっしゃる。袋小路に入ったら抜ける道はない、「出口なし」だと絶望してしまうのが、決まりきった私たちの反応であり、それが絶望というものです。ところがフッと考えを変えて、キャロルがやったように兎にチョッキを着せてみたらどうでしょう。天地万物を支配し、私たちの人生を支配しておられる神は、創意工夫に富んでおられて、イエス・キリストが絶望的な状態に陥った時にも、みごとにその敗北をひっくり返して勝利に変えてしまわれました。十字架が復活に転換したのです。神に見習うべく召されている私たちも創意工夫をして、この出口なしの袋小路の状態からなんとか出口を見つけなくてはならないのです。そうしますと、こちらの人生のこの部分と、あちらの人生のあの部分、今は二つは別々で全く互いに関係のないもののようだけれども、前者と後者とを取り替えてみることも、あるいは良いことかもしれない。この人の着ているチョッキをこの人から奪って、兎のほうに着せてみるのです。そうしたら、いつの間にか袋小路から抜ける道ができたということになるかもしれません。アリス物語のおもしろさは、そういうことなのです。鋼鉄でできていて私たちを取り囲んでいる箱のような状況が、よくよく見たら箱根細工のように分解可能なものかもしれない。細かく分解してみる必要があり、そこからまた新しい組み合わせを行ってみる必要があるのです。

 神は私たちの人生の支配者でありますが、そのことは神がなんでもかんでも私たちの人生の構成要素を一つ一つ動かしてくださることであり、私たちはボンヤリしていて何もしないでよいのだ、ということではない。神の像にかたどってつくられた私たちは、神と同じように創意工夫し、努力しなければならない。自分の人生を理性的に分析し、バラバラに分解してみて、そこから可能な別の新しい組み合わせをつくることによって、袋小路を抜けていく道を自分で見つけなくてはならない。こういう仕事が毎日毎日私たちには与えられているのです。

 そんなことを言ってもなかなかうまく自分の人生は処理できない、と私たちは心の中でみなつぶやきます。確かに解決はそう簡単に出てきません。しかし、あきらめることはキリスト者には許されていないわけです。最後には、どうせ私たちはみなあきらめざるを得ない状況に追いこまれると思うかもしれません。だれもかれも死ぬのですから。どんなに創意工夫してりっぱに人生を意義あるものにしたところで、最後には死という虚無が私たちすべてを飲み込んでしまいます。ところが、その虚無の中からさえも私たちは死を征服できる神の力を信じて抜け出せるのです。死んでも絶望しない。これが信仰だろうと思います。もうだいぶ古い記事になりましたが、朝日新聞にこういう話が出ていました。ある若い男の人が帰宅の途中に、駅で酔っ払った男の人がプラットホームから下に落ちたのをみて、声をかけ、電車が来るから向こう側へ行けと叫んだのですが、その酔っ払っていた人は電車の入ってくる線路に倒れてしまった。そしてそこにゆうゆうと寝そべってしまったのです。そこでその青年は見るに見かねて、飛び降りて酔っ払った男の人を引きずり、入って来る電車を避けるために向こう側に連れていこうとした。ところが間に合わずに二人とも即死したのです。後でその青年のお母さんが、こう語っています。「真っ正直な子でした。せめてどちらかが助かっていれば救いもあったのですが」。お母さんは自分の息子が助かってくれればもちろんうれしいし、そうでない場合でも、息子が飛び込んで救おうとした人が助かってくれていれば、息子の死は犬死ではなかった。ところが二人とも死んでしまった。

 私はこの記事を読んで、ひどく心を打たれました。この青年のやったことはほんとうに良かったのでしょうか。疑問をもつ人も多いでしょう。計算の上で言えば、一人の人間が死ねば済むところを、助けに入ったがためにかえって二人死んでしまったわけですから。しかし、二人死んだという事柄の裏には、もしかしたら両方とも助かったかもしれないという可能性があった。

 私は、こういう出来事というのは、事件の大小の差はあれ、私たちの生活の中にしょっちゅうあることだと思います。そういう時に、イエス・キリストの父なる神は、青年の助けようとした気持ち、計算上ではむだ死をしたその青年の気持ちを深い愛情と是認とをもって感じとってくださるかただと私は思います。神を信じるか否かが、こういう微妙な人生の局面で、相違をもたらしてきます。

 キリスト教信仰は絶望しない、どのような状況の中にあっても希望を持つ、死をも乗り超えて復活できる希望を持つものですが、しかし、それは何か教科書に書いてある方程式とか、定理や公理を合理的に納得するというようなものではありません。死んでも必ず復活できる、まるで数学の方程式でも頭の中に叩き込むかのように、神がおられるから、だから死んでも復活できる、と信じ込むことではないのです。そんな血も涙もないものは神ではないわけです。私は、新聞記事に出ていたこの青年の死は犬死だとは思いません。彼が飛び込み、そして二人が死んでいったことを振り返ってみると、青年の行為はあるいは無謀だと言えるかもしれない。しかし、この青年の心の中には、酔った男の人を助けたいという純粋な気持ちがあった。この青年の気持ちを共に感じ、彼が死んだときには共にその死を悲しむ、そういう――人間的に表現し過ぎるかもしれませんが――血も涙もあり、同情深い、私たちの心の隅々まですべてわかってくれている、私たちの涙の一滴一滴のもつ深い意味をことごとくご存知の存在こそ、私は聖書の告げている神だと思うし、そういう神が私たちの側にいてくださるから、私たちは死をものりこえる希望を持てるのです。 神学にも流行があるらしく、このごろは、神は無だとか空だとか言う人々がいますが、それは聖書が神を告げる時の音色とだいぶ違うようです。私たちが困っているときには一緒に困ってくださる、考え込んでいるときにはほんとうに一緒に考えてくださる、袋小路にぶつかって悩み抜いているときには一緒にどうしようかと相談にのってくれる、そういう聖書の神を哲学に変えてしまうことは、私はやめるべきだと思います。聖書の告げる人格的な神には、私たちは応答する責任があるので、自分の人生をいつも改めて分析し、そのうちのその部分をこちらに移し、あちらの部分をあちらに移しというように、あるいは、この人の助けを得てこういうように生活を展開しようとか、あの人をこの場合には助けてあげなければ、というように考えて、神から委託された人生を責任をもって管理しなければならないのです。そういう私たちと神もとことん付き合ってくださるのです。死の中でさえも。

 イエス・キリストが神によって2000年前にユダヤに送られたということも、何か彼の存在を通して私たちが、いつでもどこでも通用する一般的・普遍的真理を学ばなければならないということではないのです。その時のパレスチナとかグレコ・ローマンの世界とかいう具体的な状況、普遍的にいつでもどこでもあるような状況とは違って、その場その時だけに限って繰りひろげられている具体的な状況の中で苦しみ悩んでいるユダヤ人や異邦人のために、神がイエス・キリストを送られたのです。そのイエスは女性でなく男性であり、ローマ人ではなくユダヤ人でした。神の言葉はだれでもがどこでもいつでも合理的に知り得る真理ではなく、その時のユダヤや世界にだけ間に合うようなみすぼらしいナザレのイエスでした。つまり、その時にいちばん良いやり方で神はご自身のメッセンジャーを当時の人たちに送ったわけです。このように具体的に間に合う仕方で神は私たちに言葉を送られるのですから、今の私たち、否、一人一人の具体的な状況に間に合うような仕方で、今も神は語ってくださるはずです。これが前に申し上げたところの、自分の生の構造を分解してみて、それをもう一度新しく組み立て直せ、という神の言葉にあたるわけです。神の言葉は、一人一人に別々の指示をいつも新しく、繰り返し与えてくださるものです。

 こういう具体性と一見矛盾するようですが、神の言葉には一回限りという面があります。神の約束のことです。人間同士の間から例をとるとわかりやすいでしょうが、仮に私がとてもセンチメンタルな状況の中にいたとたとえてみましょう。だれかが私に約束をした。その約束は、どこかの喫茶店で私が泣きぬれて苦しみ抜いているときに、その相手があなたを裏切りはしませんよ最後まで協力しますよ、と慰めながら約束してくれたとします。そうすると私はその喫茶店を忘れることができない。店の名前まで覚えている。またその時が私の人生のいつであったかも忘れられない。私の過去の中にその出来事は大きな場所を占めるようになる。その慰めと約束とはいつでもどこでも知ることのできるような真理ではない。私があの時にあの場所で彼から約束されたのだ。いつもは隠されている彼の心が、その時その場で示されたのであって、人の心が示されるのは普遍的・合理的にではなく、示された時と場所とに限られるものです。これがイエス・キリストの真理です。神はナザレのイエスをとおしてその心を示され、みなさんに約束をしているのです。ユダヤにおいて、十字架に掛かって死に、復活したイエスは、いつでもどこでも出会えるような真理ではない。人格的な存在が行動を起こすときには、場所と時間がどうしても決まってくるものなのです。2000年前にユダヤでナザレのイエスが愛の人として生き、ゴルゴタの丘で十字架に掛けられて死に、三日目によみがえったという一回限りの出来事が、私たちをとことん愛して捨てないという神の約束なのであって、この事実が起こったことは歴史上の出来事なので消えませんし、一度限りのものです。約束は二度するものではありません。一度限りでない約束はすればするほど信用性を下落させます。こういう神と出会うためには、あのゴルゴタの丘まで私たちは行かなければならない。心の中で。この一回限りの神の約束の上に、一人一人別々に、具体的にさまざまな状況に対して、神の個別の創意工夫の言葉が繰り返し語られるのです。これが神の与える希望だと、私は思います。

 祈ります。

 天の父なる御神。この教会が建てられて既に85年を経ました。その間には、人間的にいろいろな困難な事柄もあったと思いますが、この教会の業に仕える人々の努力に答えてくださってここまでお導きくださいましたことを感謝します。この教会は85年の間、この地に灯台として光を投げてまいりました。また、祈りの家として人々の心を神に向けてまいりました。顧みますと、信者のかたがたの一人ひとりの祈りが牧師の祈りに合わせられて、これまで教会は役割を果たしてまいりましたが、あなたは、さらにこれからこの教会に、どういう仕事をお与えになるのでしょうか。私たち一人ひとり大きな希望に胸をふくらませながら、自分の持てる才能を、持てるものすべてをあなたのご用に役立てようと思っております。そしてまず、あなたのお与えになろうとする仕事が具体的に何であるかを捜し求めようと思います。私たちの力は小さいものでありますけれども、あなたは私たちに信頼して、なすべきことを与えようとしていらっしゃいますし、その仕事が見事にできあがるまで私たちと共にいてくださることと信じます。そのことをあなたは聖書をとおして約束してくださっていますので、この約束を信じて、この地にますますあなたの光を私たちが輝かすことのできるようにお導きください。

 これまでの恵みを感謝し、さらに未来にもお与えくださる恵みを感謝して、この祈りを、私どもの救い主、イエス・キリストの御名をとおして御前にささげます。 アーメン。


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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/

2002.11.29