野呂芳男「死をめぐって説教で何を語るか」1986

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死をめぐって説教で何を語るか

野呂芳男

     

初出:『聖書と神学』(第4号)日本聖書神学校キリスト教研究会、1986年 、1−29頁。 『キリスト教と民衆仏教』に第1章「死と復活」として修正の上、所収。



 それでは話をするようにと要請された主題につき,暫く先生方と一緒に考えてみたいと思いますが,今日の話の主題は「死をめぐって説教で何を語るか」であります。この主題に対しての,答案を書く様な気持で今日は話しを致したいと思います。

 聞いて下さっている先生方は既に牧会に立っておられますので,現実に死にぶつかっている人々に出会われたことと思います。勿論いつか死ぬという意味では誰でもいつでも死にぶつかっているわけですが,特に間近に肉体の死にぶつかっている人々にも出会われたことでしょう。従って死については色々とお考えのことと思います。

 この死の問題については私も神学者としまして,当然のこと考えざるを得ません。御多分に洩れず私なども死については色々な書物を読んで参りました。

 例えば,有名なクリスチャンの医師,日野原先生のお書きになった文章が最近単行本になって出版されております。私も買い求めて勉強させていただきました。ところが読み進むにつれて,私にとり,この立派な書物が読んでいて苦しいものとなってきたのです。

 それは,日野原先生の御文章の中に出てくる,死にぶつかっていった方々の態度が私にとってはあまりにも立派に見えてきたからでした。こういう人々には当然学ばなければならないのですけれども,果して私が死ぬ時に,こんな立派な態度で死ねるのだろうかと考え始めてしまったわけです。日常生活を振り返って見て,普段からチャランポランな人間である私が,死の間際になってからいきなり,聖人のようになるとは到底考えられません。

 このように立派に死ぬこと自体,信仰の証しだろうと思いますから,このように死ねる人は実に羨ましい。併し,私のように,どう考えてもそのようには死ねそうもない人間は一体どうなるのでしょうか。こういうふうに申上げると悪人の居直りみたいですが,言わば日野原先生の御文章が,私につきつけられた律法になって私を苦しめるのです。

 更に考えますと,プロテスタントの私たちの信仰から考えて,果して立派に死ななければ救われないものなのか,という所まで行きついてしまいます。これは日野原先生のご本の意図から全くそれた所に私の考えが行ってしまったことなのですが,併し,死の問題を考える場合には,こういう幾分皮肉めいたものを考えるところから出発してもよいでしょう。

 殉教者のように死んで行く人々,またそうでなくても,その堂々たる生涯の終りを立派な死で飾ることのできる方は羨ましい限りであります。そこまで自分が潔められて――私はウェスレイアンですので,この用語を使いますかが――神に召されていけるほどに生活が立派なら本当に良いと思います。併し,そうでない場合に,立派に死ぬということが1つの律法になってしまうと,これまた困ったことだと,私などは考えます。立派に死ねない人間は,例えば,死にたくない,どうしても死にたくない,死ぬのはいやだ,どうして神は私を殺すのだろう,まだまだ私は生きたいのだ,とでも言って神を詛うかもしれません。悟りきれない人間の業のような叫びをあけて死んでいくかもしれません。こういう人間を神はどうされるのでしょう。プロテスタントの信仰から言えば,こういう人間もやはり救われなければならないと私は考えるわけです。

 とにかく私にとっては,人間の悟りや信念の深さなどはあまり大して興味がないのです。自分がそういう点の深みに全く欠けているので,どうもそういうふうに考えてしまうのでしょうが,やはり神の恵みがプロテスタンティズムの根本であると信じておりますので,私たちが立派に死ぬか悪魔のような形相を呈して死ぬかは,私にとってはそれ程――神の恵みの偉大さと比べるなら――問題にはなりません。立派に死ぬことが1つの律法になって,立派に死ななければ救われないということになったら,むしろその方が福音にとっては恐ろしい危険だろうと思います。プロテスタンティズムは,やはりこの信仰のみ,神の恵みによってだけ救われるのだということが前提になっているのではないか,と私は思うわけで,これから申し上げる神学的問題も,すべてそういう立場から考えて行きたいのです。

 さて,そのような事柄を土台にいたしまして先生方と一緒に考えさせていただきたい幾つかの問題の1つは,死の問題が何故にあまりこれ迄神学でも教会でも,正面きって取上げられてこなかったか,ということです。

 本当は死の問題は,これ1つだけで取り上げるわけにはいかないような問題の筈なのです。キリスト教に関する主題は何でもそういうものだと思うのですけれども,教義のどの部分かを問題にしましても,全部がつながって問題にされざるを得なくなるわけですから,当然死の問題もキリスト教が存続する限り情熱的に語られねばならない筈なのです。ところが,そうではなかった。

 話が大分遠くの方から始まるようで,恐縮ですけれども,宗教とか,哲学とかいうものは,弾圧されて時には亡んでしまいますし,時には人々がそれに興味を失って忘れられてしまうものなのです。こういうことは今迄の歴史の中で何回もありました。

 迫害によって姿を消した宗教の1つの例をあげますと,12世紀に,ミディといわれた地方――つまり,フランスの南部ですが――に,キリスト教の異端といわれたカタリ派がありましたが,このカタリ派は,ローマの教皇によって遣わされた十字軍によって弾圧され,殆んどの司祭達は殺され,信徒の主な人々も殺されてしまい,残った信者も四散して,遂に歴史から消滅してしまいました。ですから,迫害や弾圧によって宗教は確かに消滅します。また哲学でも哲学者が殺されて,その思想が殆んど知られなくなってしまう,ということもあり得るでしょう。併し,迫害や指導者が殺されたりしても,結構宗教や哲学は生き延びる場合が多いものです。イエスやソクラテスやキリスト教,プラトン哲学などが,そのことを示しています。ところが宗教が消えてなくなる一番大きな原因は,弾圧などではなくて,いつの間にか人々が,その宗教の言っていることに無関心となる,その宗教のメッセージが人々の関心からずれてくるところにあるようです。誰もその宗教が問題としていることを気に留めなくなる,無関心になるのです。

 説教をする場合でもこの問題はなかなかに重要です。私共は説教の中でいろいろな主題を会衆と共に考えようとします。その場合,注意しなくてはならないことは,私たちの信仰の論理からいってこの主題は当然このように考えられる,というふうに説教をしていても,信者さんが全くそういう問題に興味を示さないという場合があることなのです。私たちの責任という角度から見れば,人々が無関心となってしまうような説教ばかりしていれば,私たちが,キリスト教が歴史から消えて行く原因を作った,と言われかねない訳です。

 死の問題は,最近随分と教会のみならずマスコミでも取り上げられるようになりましたけれども,今から20年位前には,そうでもありませんでした。死の問題がなおざりにされていた時期は,私にもどうもよく分らないのですが,どうした訳か実存主義が盛んでした。教会でも実存論的神学がありました。私もその流れに属する1人です。その頃,死の問題は,マスコミの関心から,また神学者の関心からさえも遠退いていました。このことは,私の友人たちを振り返ってみてはっきり言えます。死の問題について書くに当り,死を越えた希望をはっきりと表明した神学論文を書いている私の友人は殆んどいません。そういうことですから,私が今日皆さんの前にひっぱり出されたということなのかも知れません。

 そして,教会の中でさえ,死んでから後のことを真剣に考えるという雰囲気は,あまりなかったのではないでしょうか。世間一般がそうでした。死んでから後のことについては,殆んど考えていない。むしろ,この世に生きている間,自分達の生活をどうしようかということの方が主な,否唯一の関心の対象になっているのです。

 併し,時は流れ,事情は変って行きます。そして,死の問題に対する世間一般の考え方も徐々にではありますが,変ってきているのではないかと私は思っています。

 どうして私たちの説教の中で,或いは信者の心の中で死後の命の問題についての考え方がはっきりしていなかったのでしょうか。それに対して無関心であったというか,あまり興味をもたなかったというか,……どうしてそういう状態だったのでしょうか。これを理解するには時代の大きな流れを問題にしなければならないでしょう。

 私は,それはやはり,18世紀以後の近代科学の発展ということと深く関わりがあると思っています。つまり,近代科学とキリスト教の関係,一見平凡で実は根の深いこの関係にかかわりがあるのです。これこそ18世紀以後の教会が,本当に苦しみぬいてきた問題であって,今になってもまだ本当の意味での解決が出現していないのです。そこに,死後の命の問題が,我々の関心からずれてしまっている原因がある,と私は思っております。復活について力強く語った説教は――先生方はなさっておられると思いますけれど――私はあまり聞いたことがありません。それもその筈だと思います。キリスト教と科学の問題を,何とか自分たちなりに解決しない限り,死後の命の問題について神学の立場から力強い発言はできにくいのです。

 最近,朝日新聞の夕刊版に,村上陽一郎さんの文章が載っていました。この方は,東大の哲学科の助教授で,カトリックの信者であり,科学哲学の専攻の方のようです。朝日新聞の夕刊に書いておられたのは,パラダイム論についてでした。私は哲学について不勉強ですけれども,村上さんの発言は神学と深いかかわりがありますので,読まない訳には行きませんでした。村上さんには多数の論文がありますが,例えば,第三文明社から出ている『科学,哲学,信仰』(レグルス文庫73)という書物は,先生方にとっても一読の価値があるのではないでしょうか。この書物でも,カトリックの村上さんはご自分の信仰を大切になさっていて,その上で哲学上の発言をなさっています。

 ところで,村上さんの発言の1つ支えとなっているものに,アメリカのトーマス・クーンという哲学者の業績があります。クーンには日本語の翻訳も出ている『科学革命の構造』という面白い著書がありますが,村上さんなどがよくお使いになるパラダイムという言葉は,クーンが言い出したものであります。では,パラダイムとはどういう意味の言葉なのかといいますと,ある時代に,全ての人々が疑うことなしに前提にしてしまっているような,ものを考える枠組なのです。

 さて,村上さんがクーンに依存しながら前にあげた書物の中で述べている事柄は,私共のように神学を専門にしている人間からみると,随分と神学の世界から立後れているように思えます。私共にとっては,こういった議論は福音と世俗化の問題として3,40年前によく論じたものでした。フリードリッヒ・ゴーガルテンが展開した実存論的神学は,ディートリッヒ・ボンへファーの主張した成人した世界,大人になった世界という発想を土台にしたものでしたが,そのゴーガルテンの労作の中に,クーンや村上さんの発想の先取りがあります。

 日本ではいまこのパラダイム論が流行していますが,でも,私共からみると随分遅れた議論だという感じがします。神学の世界も馬鹿にはできません。それでは,このパラダイム論は,具体的にどういうことを言っているのかと申しますと,1つには何故に17世紀以降,近代科学がヨーロッパでだけ生まれたのかという問題に関して,キリスト教と近代科学との積極的なかかわり合いを追求しております。

 村上さんや,クーンの言っていることをもう少し詳細に言うと次のようになります。18世紀以後のヨーロッパの中で1つのパラダイムが成立した訳ですが,これが近代科学を成立させ,継続させてきたものなのです。それは一般的な雰囲気となり,人々に考える枠組を提供しましたし,誰もがあまりそれに対して疑問を持たないで,自然にそれを受け入れてきたのです。つまり,このパラダイムは近代人の思想的環境となってしまったのです。では,そのパラダイムを成立させたものには,どのような歴史の要素,流れがあったのでしょうか。村上さんは前にあげた書物の中で,2つの流れを引き合いに出しておられます。その1つは,ギリシア思想であります。村上さんが,ギリシア思想をどのように取りあげているかと言いますと,ギリシア思想の根源にあるものは,自然に対する無限の興味である,とするのです。自然そのものが神に当たる訳で,人間もその完全な自然の調和の中に場を与えられた1つの存在である。従いまして,人間が哲学をするという事はどういう事であるかというと,この調和の世界の中で,人間がどういう位置を占め,どういう調和の法則に乗取って生きるべきなのかを探求することなのです。つまり,私共の周囲の世界の中にある法則的なものへの興味を,哲学は深めるものなのです。私たちの存在は,そういう法則的なものによって支配されている訳です。それに関連して村上さんは,この書物の中で面白い例を1つあげておられます。このギリシア思想の調和信仰,自然がすべて調和のとれている素晴しいものだという考えが,自然科学の発展をある時にはおくらせたことがあるというのです。惑星の運動は,ギリシアの人々の考えでは,円周軌道を描かねばならなかったのです。完全な調和をギリシア人はいつも円周と考えていましたので。今の望遠鏡から較べれは随分幼稚なものだったのでしょうが,近代の初めの天文学者たちも天体望遠鏡を使い天体を観察しました。目にうつる天体の本当の動きは大体が楕円形なのです。ところがギリシア思想で養われてきた彼等には,どうしてもそれが円周でなければならない。ですから,目に見えるのは楕円なのだけれども,それを円周としてどうしても証明していかなければならない。そういう事がある程度天文学の発展をしばらく足踏みさせた,というわけです。これ程までにギリシア思想の近代科学への影響は大きかったのです。積極的には自然の法則性への興味でした。

 近代科学を成立させたパラダイムを作り上げるに当たって,大きな影響を与えた2番目の要素は,クーンや村上さんによりますと,キリスト教であります。この場合におもに議論に取り上げられているのは,神が天地をお造りになったというキリスト教の創造信仰であります。これがどのようにして近代科学の成立に大きな役割を果したかと申しますと,神と世界が1つではない,ということに由来するのです。

 神が世界をお造りになり,神がこの世界を支配している。そして更に,その創造論の中に合まれているものには,神が御自分に像って人間をお造りになった,ということがあります。つまりこれは先生方がよくご存知のように神学上,人間の中にある,イマゴ・デイと言われてきたものです。これは,バルトとブルンナーの自然神学論争以来,私共には非常に親しい主題となってきました。クーンや,村上さんはこのイマゴ・デイ(神の像)を人間の理性を現わすものとして,ここでは議論しております。少くとも西欧の歴史を見る限りは,その解釈の通りだと思います。確かにイマゴ・デイを,ヨーロッパの人々は理性と一致させて考えてきました。つまり13世紀のトマス・アクイナスの神学に結晶しているように,神は元来理性的な存在であります。

 従って,その神の像にかたどって人間が造られた時に,その神の像は,人間の理性的な働き,理性作用というものにおいて表現されるということになります。ところで,旧約聖書創世記のこの箇所を,このように解釈してよいかどうかは大変問題のあるところですが,併し,ヨーロッパの歴史では確かにイマゴ・デイは思想史の主流では理性的なものとされてきました。さて,理性作用といえば,それは自然の中に法則を発見し,その法則をこんどは逆に利用することによって,自然を支配するものです。ここで重要な点は,徐々にヨーロッパの歴史の中で自然を人間が支配してもかまわないという生活感情が一般化してきた点なのです。キリスト教の考えからいうと,こういう生活感情の一般化は不思議ではなかった。何故かというと自然は神ではないのですから。

 更にこの議論の展開のために回り道をしたいのですが,それは前にあげたゴーガルテンのこの点での議論を紹介して,村上さんの議論を少しばかり補足したいからです。創世記をみますと,神が人間をお造りになった後,動物だとか,烏だとか,神がお造りになった他の被造物を,神は人間にお見せになって,名前をつけさせます。名前をつけるという行為は,人間が,名前をつけたそれらの披造物を支配するということを意味しました。ここでゴーガルテンが強調しますのは,人間という存在は丁度神と世界の間に立たされているということなのです。

 近代科学の成立に果したキリスト教の役割については,ゴーガルテンの言っていることと村上さんやクーンの言っていることとは殆んど同じでありますが,併し,ゴーガルテンによれば,人間は神と世界との中間に立たされており,神から委託されてこの世界を支配しなければならないものなのです。この委託支配であるというところが,実は私は,近代科学のもたらす色々の弊害を除去する鍵となると思っております。こういう議論は,村上さんからはきけません。つまり,委託された支配ですから,人間の世界に対する支配は,勝手なものではないわけです。

 話をもう一度村上さんの議論に戻しますと,こういうような2つの要素,――つまり,ギリシア的な調和思想と,キリスト教的な,自然を人間が理性によって支配してもよいという考え――が結びつくことによって,いつの間にかヨーロッパに,自然は元来が理性的に作られているものであり,その上に神も理性存在なのだから,人間は自分の理性をもって,この世界の中にある理性的な法則を発見し,それを利用することによって,世界を支配してもよろしいというような思想と行動の枠組が作られたのです。これが近代精神のもつパラダイムなのです。

 誰もがこういう前提のあることを不思議に思わない。そういうものをパラダイムという訳ですが,これは確かに村上さんの言う通りだと私も思うのです。ところで村上さんたちが言っていることは,今やその近代のパラダイムが崩れつつあるのではないかということなのですが,その点になると,私はこの方たちの議論は弱いのではないかと思っております。併しその点に深入りしますと,講演の主題からそれてしまいます。

 村上さんたちのパラダイム論によると,今はこれ迄の科学的パラダイムが変りつつあるという訳ですが,変ったあとどうなるかの見通しについては,あまりはっきりしておりませんし,それに私はそうやたらにパラダイムは変るものではないと思っております。変ったとしても,これ迄のものが,新しい,より高次のパラダイムに取り入れられて行くだけであって,全く関係のない異質のものに変るということではない,と私は考えております。

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 近代科学のパラダイムの成立にキリスト教が大きな役割を果してきたこと,近代科学はキリスト教と全く異質とは言えない,ということは,これ迄でお分りいただけたと思うのですが,それでは実際の歴史上の問題として,近代において,キリスト教と科学とはどういう出会いの仕方をしてきたのでしょうか。

 両者は18世紀以降も,ずっと深い関わりをもってきたと言えると思いますが,その関りで中心となるものは,私の見方からしますと,聖書批評にあったと思うのです。私の恩師の1人であったパウル・ティリッヒが,よく教室で学生に語っていたのですが,プロテスタンティズムの素晴らしさは,自分の教会の土台となっている聖書を,冷たい科学のメスで百年間以上にもわたって刻んできたところにある。とことんまで科学的に,冷たく自分の信仰の命の土台になっている聖書を研究してきた宗教であり,こういうことはプロテスタンティズムを除いてどこにも見られなかった現象である。従ってティリッヒの言うには,そういうことをなし得るほどにプロテスタンティズムの信仰はしっかりしているのだ,という訳です。私は,この点,即ち現実にプロテスタントの信仰がそれ程しっかりしているかどうかには実は少々疑いをもちますが,とにかく,そういう科学的なメスを聖書に対してふるっても,別に信仰が動揺する筈のものではない,とティリッヒは言いたかったのだ,と思います。しかし,動揺する筈のものではないとは私も思いますし,聖書批評を受け入れたことは確かにプロテスタントの栄光だと私も思いますが,実際にはプロテスタントはこの点で動揺をずい分と経験したのではないかと思います。とに角,科学と神学との一番大きな出会いは,何といってもこの聖書批評だと思います。

 個人的な話になって恐縮ですが,聖書批評学は私も神学校で初めて出会い,何回も自分の当時の幼稚な信仰を失いかけたことがあります。自分がせっかく命索のように頼みにしている聖書が切り刻まれて,例えば,マタイ福音書やルカ福音書が切り刻まれて,Q資料だのMやL資料に分割されてしまう。しまいには――最近のマルクセン(Willi Marxsen)などが言っているように,イエス・ケリュグマ(Jesus-Kerygma)が科学的に可能な信仰の基礎だということになってしまいます。つまり,科学的な批評の立場から言えば,イエスご自身はご自分を,ご自分に関するケリュグマが主張しているようには,考えたり主張したりしなかった可能性がある訳で,科学的な批評が我々をつれて行く最後のところは,イエスご自身の考えや主張ではなく,イエスに関するもっとも早いケリュグマ,弟子たちのイエスに関する証言だ,という訳です。要するに,昔の敬虔な聖書学者たちが好んで書いたようなイエスの伝記などは,今では学問的に全く不可能になってしまい,私共が確実に歴史的な批評学を土台として言えるのは,ユダヤ人であったイエスが存在したということ,その男は十字架にかかって死んだということ,何かそのような2,3の事柄だけになってしまったような感じに襲われるのは,私だけではないだろうと思います。そこまで科学的な冷たいメスで聖書を分解したのが近代の聖書批評なのです。

 これが何といっても科学とキリスト教神学の出会いの最尖端であったといわざるを得ないと思いますが,ブルトマンの非神話化論も,実はこの出会いに由来しているわけです。周知の非神話化論ではありますが,その重要点は,いったいどういう所にあったかと申しますと,聖書の世界像と現代科学に裏づけられた世界像との相剋をどうしたらよいか,に関するものでした。聖書の世界像は3階建の建物に比較できます。一番下の階は黄泉の世界であって,そこには悪霊が住みついているのであります。一番下の階を地下室とするならその上には地面の世界,更にその上には地上二階つまり天上の世界とも言うべきものがあって,この天上の世界には神や天使たちがおられる。人間は地面の上に住んでいるわけですが,ここには天上の世界から神の力,聖霊の影響,天使の助けがあります。黄泉の世界からは悪霊が地上にとびだしてきたりして,人間の心の中に住みついたり致します。

 もちろんこの世界のイメージは18世紀以後の近代科学の世界のイメージからはまるきり違うために,問題になったわけです。この問題の1つの解決の方法は,両者の違いから目をそむけて,聖書の世界像が,実は近代科学の世界像と本質的に変りがない,聖書のもろもろの記述――近代科学に反するように思われる記述――も,よくよく考えてみれば少しも近代科学と反するものではない,ということを証明する方法です。こういった問題の解決の仕方を,私共は18世紀の神学者たちの若干の人々に見ることができます。例えばイエスが湖上を歩かれたという記事は,カール・フリードリヒ・バル卜(K.Friedrich Bahrdt)によりますと,イエスが流木に乗って近付いたのに,弟子たちはその材木に気付かなかったのだ,ということになりますし,ハインリッヒ・パウルス(Heinrich Eberhard Gottlieb Paulus)によりますと,それは幻覚でした。イエスは岸辺に沿って歩いていたのですが,舟にのっていた人に霧のため幽霊と間違えられた。イエスの呼び声にペテロは水にとびこんだが,沈みそうになってイエスに波打際へ引き上げられたという訳です。更にイエス・キリストが十字架にかかって死んだというのは,仮死状態にあったことを言う,と主張したのもこのパウルスでした。当時,人が十字架にかけられて死んで行ったのは,皆,内面の絶望が昂じて身体が硬直して死んで行った,と言うのです。人間を十字架にかけても別に絞殺したり刺殺したりするわけではありません。ただほったらかしておくのです。ですから,十字架刑というのは,元来が緩慢な殺し方です。ところが聖書の記事をそのまま採用しますと,イエスは異常な程に早く死んでしまった。イエスが死の前に大声をあげたと記されているのも,実はまだイエスには力が残っていた,死ぬ筈ではなかった証拠である,とパウルスは言います。本当の死は硬直状態のあとの腐敗から始まるのですから,イエスは仮死の硬直状態で墓に入れられたのだ,というわけです。墓に入れられる前,槍で傷つけられたことは,むしろ硬直状態を破る1つの刺戟となっただろうし,イエスが涼しい墓に横たえられたこと,香料を塗られたことも蘇生をうながしたに違いない。最後に雷鳴と地震が完全にイエスに意識を取戻させた,とパウルスは言います。

 こういうような試みは聖書の世界像を,一生懸命に合理的な近代科学のパラダイムに合わせようとしたものです。ところが両者はうまく合わないわけです。ですから,ブルトマンたちが言っているように,両者が合わないものであることをはっきり自覚しなければいけないのです。こういう聖書の合理主義的説明こそ,一見合理的に見えて実はそうでないのです。例えば,仮死状態をやっと逃れた,まだフラフラしているイエスが墓の外に出てきて弟子たちに会ったところで,いったいそれが,死に対する勝利のイメージを弟子たちに与えることができた,と言えるのでしょうか。科学的な説明などというものは聖書に関する限りあまり役に立たないのです。ですから,聖書の物語は,そのように解釈するものではないとブルトマンが言い出したわけです。つまり,聖書の物語は当時の人々の世界像を土台にして語られたものであって,そういう今日の私共から見ると非科学的な事柄を語りながら,何か実に人間にとって大切なことを当時の人々は言おうとしている,宗教的真理を言おうとしているに違いないのです。その宗教的真理をその物語りの中から掴み出す事が本当の聖書解釈なのであって,その主張がブルトマンの非神話化論なのであります。

 多くの人々にそうであったように,私の実存論的神学との出会いも止むを得ないものでした。科学的な聖書批評に追い立てられ,過去の聖書霊感説的な聖書解釈という安住の地を失い,止むを得ずに実存論的神学に行かざるを得なかったのです。何も好きこのんでそこまで行ったわけではありませんでした。

 ある方々は,止むを得なかったなどと言い訳せずに,近代科学のパラダイムにさからっても,聖書の古代的宇宙像をそのまま信じて,そこに留るべきであった,と言われるかもしれませんが,私は,ゴーガルテンが言ったように,それは出来ない相談であったと思います。つまり,それをすると,福音が律法に変ってしまうのです。日常生活でラジオを聞きテレビを見,自動車を運転する私たちが,教会に入った途端に,別の世界像に,日常と隔絶した世界に入り込み,日常と教会という分裂の中に生を送ることになるのです。そういうキリスト教は日常の真なるものを抑圧する律法主義なのであり,人はそこでは,この世からの逃避に生きるようになります。ですから,非神話論は,キリスト教と科学との出会いの場で,福音それ自体が作り出さざるを得ない方法論なのです。

 ところで,これ迄は非神話化論との関連で,キリスト教と近代科学とのかかわりあいに焦点を合わせてきたのですが,もう1つの重要点があります。それは聖書の終末思想であります。つまり,ヨハネス・ヴァイス(Johannes Weiss)や,アルバート・シュワイツァー(Albert Schweitzer)などが主張するように,やはり聖書の終末論は徹底的な終末論(Konsequente Eschatologie)なのです。まもなく世が終わるという終末への待望が前提になって,イエスの使信も語られたわけです。ですから,世の終りがなかなかに来ないという事が聖書では大問題になった形跡があります。そこで聖書の中では主の来臨が遅いと不平を言う人々に対して,「主にあっては,1日は千年のようであり,千年は1日のようである」(第2ペテロ3・8)との弁明がなされて,神の1日は人間の時間のはかり方と違い大変ながいこともあり得る,という訳なのです。要するに,世の終りが間近かであるというのが,当時の世界観であったと思います。

そこで,ブルトマンの主張した非神話化論は,極く当りまえに,近代の神学的なパラダイムと聖書の世界像との折衝の中から当然出てこなければならなかったものでした。神と出会った実存の生き方が,聖書の中では,あの当時の世界像によって語られているが故に,その生き方を引き出してきて,今の世界像で表現しようとしたのでした。既にブルトマンの非神話化論,及び,実存論的解釈につきましては,先生方が十分ご承知のことと思いますので,私は今日の主題にかかわるところだけに限定して言及することにします。とにかく,科学的な聖書批評と,福音的な信仰との間に立って,両者をどのように連結させるか,この問題に追いつめられていた人々は多数でしたが,私も追いつめられた人間の1人として,実存論的解釈に依る以外に命索はなかったのです。それを掴んだわけです。

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 さて,ブルトマンたちはどのように死の問題を考えたでしょうか。この場合に,先ず言われねばならないことは,死の問題が,そのまま聖書の終末の問題であったということです。世の間近かな終りというのは,聖書の人々の――今日の私共には共有できない――世界像ですが,併し,世の終りを待望することで,聖書の人々は,この世では体験できない神との出会いを,つまり,今日で言えば死を媒介とする神との出会いを待ち望んだ訳ですから,終末を迎える人間の姿勢は今日の私共が死を迎える姿勢と相通じる,という訳です。そして,周知のようにブルトマンは,人間が死を迎える姿勢については,ハイデッガーの哲学,特に初期のそれに依存して理解しました。ハイデッガーにおいては,前期と後期とにその思想が分けられて考えられねばならない,と主張する人々と,ハインリヒ・オット(Heinrich Ott)のように後期の思想は,前期の思想が必然的に展開したものだから,両者を分けることなく,一貫したものとして,換言すれば後者から前者も理解すべきだと主張する人々とがおり,2通りの解釈があるようですが,私はリチャード・クローナー(Richard Kroner)や,かつて東北大学で教えていたハイデッガーの弟子カール・レヴィト(Karl Löwith)に従って,前期と後期の思想を鋭く分ける方に味方します。つまり,ブルトマンは,「存在と時」の中で語られているような哲学思想を利用したわけです。それとともに忘れてはならないのは,ブルトマンに対するキェルケゴールの影響だろうと思いますが,要するにキェルケゴールやハイデッガーの,いわゆる実存哲学の人間理解を十分に利用して,ブルトマンは自分の実存論的解釈学を打立てたのです。そこでブルトマンにとっては,世の終りは,既にお話ししましたように私共の存在の終り,つまり死である,ということになったのです。

 では,ブルトマンにとって救われるということはどういうことなのでしょうか。救われるということは,私共の日常性から脱却することとなります。人間は,普段は自分が死ぬべき存在であることを忘れて生きています。従って,人生は流れにまかせて,ただよい行くものにすぎず,死によって区切られた時間を,決断をもって自分のきめた通りに生きて行くものではなくなります。こういう流されて行くままの頽廃した日々をハイデッガーは日常性(Alltäglichkeit)と言いましたが,この日常性から,自分は死ぬべき存在であると自覚することによって抜け出すことが,ブルトマンの言う救だったのです。

 例えば葬儀屋さんは死体を取扱うのに馴れ切ってしまいます。死体を扱うことが彼の日常性となり,いつのまにか死体と自分の死が結び付かなくなります。人間は何にでも馴れるものなのです。それでは彼にとって,自分の死はも早や恐るべきものではなくなっているのかというと,やはりそれは恐ろしい。彼は日常性の中で,死体を扱うことを1つの商売だと自分にいいきかせ,絶対に自分が死ぬということとそれを結びつけないようにしているだけなのです。つまり誰もが,程度の差こそあれ,これと同じようにして日常性の中に埋没して生きているのです。その方が楽な生き方だからです。併し,こういう生き方をしていたのでは,いつまでたっても本当の生き方ができない。いつか人は,「自分は死ぬのだ」という事実に目覚めねばならないのです。そうすると,1日が実に有難く勿体ないという感じをもつようになります。1日,否,1時間でも,1分でも,非常に大切になってくる。そして,そこから本当に一度限りの短いこの生涯を自分らしく生きよう,という決断がうまれてくるとハイデッガーもブルトマンも言う訳です。

 以上がブルトマンなどが教える救いなのですが,正直のところ,私はこれについて行けません。実存論的神学も一様でなく,色々の形態のものがあってよい訳です。私などは,どうせ自分はいつか死ぬと考えると,無常の風に吹きさらされ,むしろ死ぬことを忘れて日常性の中にわざと留り続けたいということになりがちなのです。どうもハイデッガーや,ブルトマンなどのようには,真面目に死に対処できそうもなく,却って,死ぬことにきまっているのだから立派に生きねばならない,という彼らの勧めが,私には1つの律法になってしまい,彼らの教えが律法主義のように私を敗北感にかりたて,反逆を私からさそい出してしまうのです。とに角,もうすぐ私の人生の終りだと言われたら,そうか,それならいっそのこともっとゆっくり生きよう,まじめに生きてもどうせ無になるのなら仕様がないではないか,というように私のように弱い人間は感じてしまうわけです。

 それでは,ブルトマンは十字架と復活をどのように考えたのでしょうか。キリストが十字架にかかって私たちの為に死んで下さったということは,私たちが日々古き自己を十字架にかけ,古き自己に死ぬ,ということなのです。そして甦るということも,古き自己から新しき自己へと日々変革されて行くということです。つまりブルトマンにおいては,十字架も復活も日常生活の実存的な決断ということに解釈し直されております。そして,古き自己に死ぬということは,具体的に申しますと,十字架によって表現されているように神は私たちを愛して下さっているわけですから,神だけに信頼して,他の一切のものに信頼するのを止めることなのです。

 例えば,私たちはお金がほしい。それは金が自分を守ってくれると思うからです。或は,社会的地位が自分を守ってくれると思っている。そういうふうに私たちは自分の周囲にあるものを自分の人生の土台とし勝ちであります。金だとか,社会的地位だとか,自分の肉体的健康だとか,そういうものに依存して生きている生き方が古き自己なのです。ところが,これは嘘の土台なのです。本当の土台は見えざる神の愛の言葉なのです。見えないもの,一見頼りがいのないような神の愛こそが,私共の本当に頼れる土台なのだ,とブルトマンは言うのです。未来がどうなるかは誰にも分らない,一寸先はやみなのですから,皆不安な訳ですが,そこも神が支配しておられるところだと信じて,つまり本当に頼れるものを信じて未来に入って行けば,新しい生が開かれてくる,復活できる,という訳です。

 さて,ブルトマンの近代科学的なパラダイムをいかし,実存哲学を利用した,十字架のケリュグマは,これで神学として十分なものなのでしょうか。神学には実験してみると言うのでしょうか,その神学にのっとって実際に生きてみないと良しあしが判らないところがあると私は思うのです。論理的にはどの神学でもことごとく筋が通っているところがあります。バルトの神の言葉の神学でもブルトマンの実存論的神学でも,彼らの前堤さえ受け入れてしまえば,あとはすべて論理が通っています。これは天才的な神学者たちが考えて作りあげたものなのですから当り前です。だから,論理が通っているから,その神学は正しいということにはならないのです。神学は,やはり教会でその神学に土台を置いて先生方が説教してみて,それによって信者が回心するとか,日々の生活に生甲斐を感じ始めたとか,そういうことがその神学の正しさを保証してくれるものなのです。

 とにかく私も,ブルトマンのこういう考え方で生きてみようと思って,随分長い間実験してみました。何年にもわたって,これ以外に私の行くべき場所はないと思ってブルトマンの神学とつきあってみました。やはり,満足できませんでした。

 併し,今でも私はブルトマンの実存論的解釈は正しいと思っております。現代世界に生きている限り近代科学の成果を捨てるわけにはいかないのですから,どうしてもブルトマンのしたように非神話化せざるを得ない,と考えています。ただ非神話化の操作を行った結果としてブルトマンが私共に与えてくれるケリュグマが物足らない,そう,物足らないという言葉が一番私の感じている気特を表現してくれています。どこが物足らないのかといいますと,私はプロテスタントですから,人生はこういう仕方で生きるべきだ,というメッセイジは困るのです。つまり,古き自己を十字架にかけ,日々死んで,そして新しき自己に日々甦らねばならない,とブルトマンのケリュグマは私に要求してきます。ところが,私の古き自己は一向に死なないのです。つまり,ブルトマンの実存論的神学は,向う側の神について,こちらの私共がどのようにだらしなく,信仰的にもゆらぎ続けていても,それにも拘らず,私共を変らずに愛して下さる客観的な神について,十分に語ってくれているとは思えない。確かにブルトマンの考えの中にも,ケリュグマとして私共の実存の向う側から迫ってくるものがありますが,どうもそれが十分ではない,客観性の点で物足らないのです。客観性が十分でないところで主体性(実存)が強く語られますと,そういうケリュグマは律法に変えられてしまいます。

 神について客観的に語らない以上は,恵みについての一番深いところは語れないと私は思うのです。ブルトマンの実存論神学の中では,ケリュグマという直線が私共に向って投げ出される原点,1つの点のようなものとしてのみ,神について語られています。点は,位置だけを示すものであって空間的に巾がない。ブルトマンのケリュグマの神は私には,数学の点のように感じられて仕方がないのです。神の言葉,ケリュグマと言いましても,神についてのそれ以上の発言は何もないわけです。神は愛だというけれども,どういう具体的な仕方で愛なのか,神は愛する人間の運命をどのように取計おうとしているのか,私共の死後はどうなるのか,ブルトマンは語ろうとしません。

 つまり,聖書の古い科学思想とも言うべき神話を,ブルトマンの行ったように非神話化したあと,今度は現代の科学思想に反しない形での神話をのべ伝えなければいけない訳です。神と人間との物語がほしいのです。聖書の大地中心の神話ではなくて,壮大な宇宙を舞台にしたドラマ,神と宇宙の物語,神と人間の神話です。神について人間が語る場合には,どうしても象徴的にしか語れません。私共の言語の文字通りの意味で神について語り考えても,超越者たる神を語り得る筈はないのです。神について私共は,不十分で,互いにある時には矛盾するような言語を使ってしか語り得ません。これが象徴なのですが,そうすると,神に関する発言はすべて象徴です。そして象徴を用いて神と人間との関係を語ると,神話になります。ですから,20世紀に住む私たちにとっては,18世紀以後の科学的な世界像と矛盾しない形での神話の再創造ということが必要となっている訳です。

 こういう立場から私は,もう一度死んでから後の問題も神話の中に含まれてこなければならないと思っております。死んでからあとは何もないのだ,といわれてはどうしようもなく人生をニヒリスティックに考えてしまう人間もいる訳です。神が愛であるならば,そしてその愛が死をも征服する程に強いものだと信じるならば,死をものりこえて神と私との関係が続くものだということを,私は物語って貰いたいのです。そうすれば,私は信仰的に納得できます。勿論,納得といっても,科学的な意味での納得ではないでしょうが。

 では,どういう風に具体的にそれについて語るのか,という問題が最後に残されました。これからは積極的に死後の命について述べるところに話が来たのですが,その前に神学と他の諸科学との関係が次元的な違いをもつものだということを考えていただきたいと思います。つまり,どういうことかと申しますと,近代科学とキリスト教神学は,18世紀以後のヨーロッパやアメリカで,同じ平面にあるものと考えられていたものですから,両者が衝突してきたと考えますので,両者を次元の違うものとして考えようということなのです。神学は上の高速道路を走るし,科学は下の通常道路を走る。そうすれば,両者の走るところの平面が違うために,同じ平面上であれば交叉する時にはどちらかをとめなければならないけれども,平面が互いに次元を異にしているから,交叉しても衝突の心配がないのです。このようにして両道路の自動車は円滑に流れて行くのです。つまり2つに次元を分けることによって,両方にとって都合がよくなる。併し,これは両者が無関係になるわけではないのです。関係は大いにあるわけです。2つの次元に区分することによって,両者が互いの次元の中で相手に邪魔されずに生きていける。しかも両者は互いに影響し合っている。科学と神学とは区別されながら同時に互いに深い関りの中にあるのです。互いに影響し合いながら,各自の次元の中では独自の論理,独自の法則に従って学的労働を続ける訳です。

 このような仕方で村上陽一郎さんが言っているような,前に述べた問題を改めて取り上げてみると,すっきりしてくるわけです。つまり,何故ヨーロッパに自然科学が生まれたのか。それはギリシア思想とキリスト教の影響だと村上さんは言いますが,ここで私共が注意しなければならないのは,自然科学は決してキリスト教そのものではない,ということです。キリスト教的自然科学などはあり得ない訳です。要するに,キリスト教信仰にはそれ独自の体験にもとづいた論理がありますし,自然科学にはそれ自体の方法と論理とがあるように,それはやはり2つの事柄であって互いに区別されなければならないのです。併し互いに区別されながらではあるけれども,キリスト教は確かに今日の自然科学のパラダイムを作り上げるのに大きな役割を果してきました。これはキリスト教という信仰の次元と,自然科学という――人間が世界に向う姿勢の――次元とが,相互に区別されながらも互いに影響し合っている証拠です。こういうように区別と影響とを同時に考える次元的な思考が,非常に大切なのではないかと私は考えております。そうしますと,今後私たちの神学の動き行く方向はどうなるのでしょうか。それに関して1つの私なりの判断をここで示させていただきたい。

 大空の遥か彼方にいる神,今後ますます進歩する天体望遠鏡によって,いつの日にかあの宇宙の彼方に見出すことができるかもしれない,無限に年老いた髭のはえた神は,勿論のこと科学思想によって教育された今日の私たちには信じ得られません。そういう神は古代的な宇宙像の一部分であったのです。聖書の書かれた当時の宇宙像も信じる必要は私たちにはありません。パウロの手紙の中にも,ある時にパウロは第3の天にまであげられたと書いてありますが,これもそういう古代宇宙像に由来した体験です。こういうように古代宇宙像の一部分であるような神であれば,神が死んだと言われても仕方がないことだと思うのです。

 神の死の神学はこういう所に由来しているように思いますが,併し,神の死の神学のように派手に神の死を告知しない神学でも,多かれ少かれ自然科学による古代宇宙像破壊の影響を受けています。最近の神学の1つの大きな傾向をみますと,そのことがよく分ります。私の恩師だった,ホッパー先生(Stanley R. Hopper)が盛んに言っていたのですけれども,かつて天空には神だとかキリストだとか,天使だとかいう星が沢山美しくきらめいていたのだが,近代科学の進展とともにそれらはことごとく地上に墜落してきて大地に埋没した。従って,ホッパーさんによると,神は大空に求めるべきものではなく,大地に,自分の深層心理の奥底に求めるべきものとなります。ホッパーさんには,具体的に神は,カール・ユングの無意識に等しいものでした。更にティリッヒの神学があります。

 ティリッヒが日本にきたのは1960年でした。今でもよく思い出すのですが,ティリッヒが東京に来た時に,私共ユニオン神学校の卒業生が何かと歓迎しようとしたのにティリッヒはさっさと京都に行き,京都大学を中心に,仏教の哲学者たちや,西田幾多郎氏の弟子たちと頻りに会っていました。ティリッヒがアメリカへ掃ってから,かつての学生たちに日本印象記のようなものを送ってくれました。その中に,仏教とキリスト教との関係を,自分は深く考えざるを得なくなってきているという事を盛んに書いております。また,その中に,石の庭で有名な京都の竜安寺を訪れた時のことが書いてありました。多分,久松真一氏たちがご一緒だったのはこの時ではないかと思うのですが,そこでティリッヒと久松氏との間に討論があった。石庭の石は現実と1つ,リアリティーそのものであるという久松氏に対して,ティリッヒは石庭はリアリティーのシンボル(象徴)だと思うという訳です。つまり,象徴と言うからには,石庭はリアリティそのものではないのです。リアリティから幾分ずれている。それは,むしろリアリティを指さし示すものなのです。これに対して久松氏は,それはリアリティそのものであり,象徴などではないと言う。そこにはリアリティがすべて入っている。

 ティリッヒはアメリカに帰って,このような刺戟にも励まされたのでしょうが,キリスト教を参与の宗教,仏教を同一性の宗教というように類型的に区別していますが,今は,私はこの問題に入り込まないようにします。併し,参与というのは,キリスト教の神とリアリティが同一であるとは言わないまでも,リアリティは神の中に根をおろしているというか,リアリティの中に神が滲透しつつ,リアリティの土台となっている,ということです。ティリッヒが死んだのは1965年ですが,彼は死ぬ前に人に語って,もう一度自分が神学者として出発出来るならば,カール・ユングの深層心理学を土台とした神学を構築したい,と言ったとのことですが,私にはこのことは,ティリッヒの仏教に対する興味と相通じているものと思えてなりません。

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 どういうところが通じているかといいますと,天空に浮かんでいた神とかキリストとか,天使とかが,ホッパー先生の言い方を使うと,ことごとく地に落ち,地中に埋没しました。超越神が死んだわけです。天空にある超越の神ではなく,大地がこんどは私たちを支えてくれる。ティリッヒのいう存在の根底としての神とは大地のようなものです。それは母なる神でもあります。女性解放神学の陣営のある人々が,ティリッヒに影響されたと言っているのも頷けます。

 つまりこのような大地なる神,存在の根底としての神を主張するのがティリッヒの存在論的神学であると私は思っていますが,この神学は仏教というよりもヒンズー教のあるものに近いのではないか,と考えております。そして,この大地を人間の深層心理と考えることは,特別の飛躍がある訳ではありませんので,カール・ユングの心理学と結び付いても一向に不思議ではありません。深層心理の奥深くにあるもの,存在の根底たる神と結びつく事が,実存の疎外状況を解消してくれる。これが罪からの解放であり,真の自分自身の確立である,ということになります。

 ところで今後の見通しにもかかわる事柄ですが,私は矢張こういう存在論的神学では,キリスト教信仰が十分な形で生きて行けないと考えています。

 死後出版のユングの自伝的な文章がありますが,ユングは生前その文章を刊行するのが怖かったのです。ユングは牧師の息子ですが,何故にその文章を出版するのが怖かったかと言いますと,キリスト教と自分の科学上の成果がどうしても衝突すると考え,なかなか出版する決心がつかなかったようです。神はキリスト教にとって,聖なる,善なる,愛なる方な訳ですが,ユングにとっては無意識の一番奥深いもの,心理という大地の奥深い所が神に当たります。神は単に善とか愛とかいうようなものではなく,もっとどす黒いものなのです。つまり,深層心理という大地の一番奥には神と悪魔との両方が一緒に住みついております。否,神とサタンは最終的なところで1つであるというのがユングの思想なのです。ティリッヒも最後の所ではユングと同じで,神は存在の根底でありつつ,その中に非存在を,悪の原理を含みもっているのです。存在の根底の中に深淵という形で非存在,悪魔が住んでいる訳です。つまり,神の中に悪魔が住んでいる。

 こういう思想には,私はとてもついて行けません。これでいいのだという人も多いのですけれども,私は駄目です。私の友人の多くはティリッヒと同じように考えていて,私がどうしてもこれでは生きられないと言いますと,何を言ってるのだ,と不思議な顔をされてしまいます。併し,私には第二次世界大戦のアウシュビッツだとか,広島だとか,長崎だとか,ああいう悲惨を体験してきた人間が,そういう悲惨は神の与えたものだと信じていられることが,実に不思議なのです。全能の神が最後の所で悪魔と1つであって,何百万ものユダヤ人がガス室に送りこまれるのをとめようともしなかったなどとは,私には堪えられません。それが神の御心であったとは私には信じられないのです。

 つまり,存在の根底は決してきれいなものではないのです。無意識はきれいなものではない。従って,ユングの言っているように,無意識の奥底に善も悪も共存していることは私も認めますが,それが神だとは私は思いません。存在の根底とか無意識とかは,神と悪魔との戦いの場であって,それが神であるとは,私には到底考えられません。神が善悪の両方を含み,現実はこの神の遊びであるような神学を信じるくらいなら,私はヒンズー教にでも回心します。だから私はさきほど,ティリッヒの思想は仏教よりもヒンズー教のあるものに近いと申したのです。

 それでは,神をどのように考えたらよいのでしょうか。もう一度神には天空に返って貰いますか。近代科学のこれ程の発展のあと,それは全く不可能です。大地も駄目,天空も駄目。どうしたらよいのでしょうか。大地を突き抜けて向う側へ出る以外に方法はありません。突き抜けると申上げているのは,ユングを避けるのではなく,彼の言うことをすべて利用することを提唱したいからです。ただ深層心理を神とせず,神とサタンの戦いの場とすることによって彼を突き抜けるのです。

 神はやはり超越者です。ただしこの超越は無意識の向う側への超越です。こういう超越者としての神を信じる神学は,啓示の最後のところを神話として把えざるを得ません。御存知のように,ユングの心理学の中では,神話とか象徴とかが大きな役割を果しております。つまり,人間の無意識にある奥深いものが意識の表面に出てくる時には,どうしてもこういう形態をとってくるのです。大賢者,太母とか,動物までもが出てきて,私たちの深層にうごめいているものを意識に教えてくれる訳です。

 繰り返しになりますが私の申上げているのは,無意識を突き抜けた向う側に神が存在するということです。無意識そのものが神だと言ったホッパー先生とは違います。従って無意識の領域,個人の無意識や集団的無意識がすべてなくなったとしても神は相変らずに存在します。無意識と神とを同じにすると,天地万物がなくなった時に神も消えてなくなります。だから,どう考えても神と無意識が1つだとは,創造信仰をもつ限りは言えません。併し,私のように考えれば,相変らず天空の超越神と同じように,外から人間を抑圧する神を説くことにならないか。神を存在の根底としたり,無意識としたりして,人間と神とを切断しない人々は,神と人間とが互いに外側になり,向いあい,神が人間を抑圧するような,他律的な神学を恐れているのだ。無意識を突き抜けてしまえば,それは天空の神と変らないではないか。こんな疑問をもっておられる方々も,いらっしゃるのではないでしょうか。それに関して先ず申上げたいことは,互いに向いあうことは,いきなり抑圧することとは違うということです。人格と人格とは互いに向いあっていても,愛の関係にあれば,それは向い合ったままで抑圧でも他律でもありません。むしろ世界の宗教史を見れば,汎神論的な宗教性こそが,多く封建主義的体制や独裁政治と結び付いてきたのです。人格主義は独裁制に抗する自由な反抗的人間を育てることにも通じます。

 それに,私の言っているのは,天空の超越神ではありません。深層心理を超えた向う側の超越神を信じるという形で,神と人間との愛の物語,ドラマを私は展開しようとしているのです。のびのびと希望に満ちて,聖書の神話をもう一度このような形で語ろうとしております。これはブルトマンのいう非神話化論,実存論的解釈を通過し,更にユングの深層心理学をも通過して行こうとするものなのです。ユングの深層心理学は何と言っても科学的なものですから,科学的なものを通過して神学を語ろうとしている訳です。

 さて,こういう神学的立場で私は死後の命について語ろうと思います。併し,死んでから後,私たちがどうなるかについては聖書にもあまり書かれておりません。その理由は,聖書が世界が間もなく終るという前提で書かれているからだと思います。神の国のこの地上への到来を目前に期待していたので,死んでから人間は何処へ行くのかというようなことに,あまり関心がもてなかった訳です。これは仏教の経典と比較してみますと,大変な違いです。仏典には詳細な地獄の描写があったり,そこでの人間の苦しみが具体的に書かれたりしておりますから。

 勿論,仏典の真似をする必要はありませんが,キリスト教神学ももう少しこの点について発言すべきではないか,と私は考えております。中世紀には煉獄思想が案出されたりしましたが,キリスト教の歴史の中でも色々と聖書の言ってくれていない点を補う試みはあったわけです。聖書の言ってくれている事柄に対して何物も新しいものをつけ加えてはいけないという意味での聖書至上主義の方は,そういう試みを非難してきたわけですが,実はそういう人々でさえも聖書プラス何かで生きているのです。そういう人々でも,デパートに行けばエレベーターやエスカレーターにのりますし,テレビも見ますし,飛行機にも乗りますから。ですから,何かをプラスする事自体が悪いのではなく,聖書のケリュグマに反するような事柄を私共の思索や生活にもち込むことが悪いのです。そのような意味で私は,死後の命の物語を神学は展開すべきではないかと考えております。そこで最初に申上げたい点は,個というものはなくならないであろう,ということです。先生方も私も,死によってもなくならない。勿論,個の消滅の方がキリスト教的だと考える思想家もおります。例えば,シモーヌ・ヴェイユという女性の哲学者もその1人でした。彼女によると,私が生きていることが,神と他の存在との会話を邪魔しているのです。静かに私たちが消えていくことによって,もう一度神と創造物との間の対話を回復しなければならない,と彼女は言います。こういう思想は,彼女の自殺とでも言うべき死と,あるいは関係があるのかも知れませんが,これでは人間はとても生きられはしません。死んだら消滅することを予期してこの地上に生きることは,心理的に無理で,淋しくて十分に創造的に生きていかれるものではありません。大体それでは,神も淋しくてしようがない筈でしょう。もしそうであるなら,神は何の為に人間を作ったのか,分らなくなります。神の愛は個を目指しているものです。茫漠たる全体などというものは,愛の対象に値しないし,最後にすべてが神の中に消滅するというような考え方は,愛ではなく,神のナルシシズムです。神の愛の永遠の対象は個です。

 個が神に愛されていることを確信した以上は,次には,これは永遠に亡びないものだ,と言わねばなりません。神が人間を愛して下さるというのは,60年なり70年なりの命を人間に与えて,その中で一生懸命生き,人のために愛をなし,自己を豊かになさい,併し,それで終りだ,ということではない筈です。これでは実際のところ神だってかないません。ほんとうに愛しているのであったら,やはり相手を永遠に愛しているのです。従って,個は死によってもなくならないのです。

 但し,私共が利己主義的な永遠の人になっては困るわけです。外の人を蹴落しても自分だけは天国に入って永遠に生きのびたい。そういう人はやはり困ります。また,あの人が地獄に行ってしまったから良かったとか,あの人とは共に天国へ行くことになってもつきあわないとか感じるような信仰のもち方をしている人があるかも知れませんが,こういう人にとって,信仰は他人への妬みと憤りの捌け口以外の何ものでもありません。私が二重予定論を否定するのも,こういう所からきています。神が愛をもって愛のために私共を作られ,イエスを私共の救のために送って下さった程に1人の魂は尊いわけですから,そういう尊い魂が1人でも亡びに至るということは,神にとっても,いてもたってもいられない筈のものです。1人の魂は神にとって無限に尊いのです。

 ですから,救われた人間は神と最後的には1つになるのだ,という神秘主義の要素を生かしてもよいのですが,その場合でも,神と1つになったとしても,個は消えないと主張しないと,キリスト教でなくなります。確かに神と1つになるという,この神秘主義者の考えには,捨てきれないものがあると私も思います。人間同士でも愛し合った夫婦などは長い間のうちには,お互いに2人であることに,我慢できなくなるかも知れません。神話には,アダムとイブは最初は1つだったという話もあります。それがあとで2つに割れた,と言います。だから,片方がもう一方を追い求める。つまり,愛は最後的には,空間の距離を我慢出きないものです。ですから,神との距離にも,愛すれば愛する程,我慢ができなくなるでしょう。距離があると,こちらが神を裏切ったりする可能性がまだあるような気がして,早く神と1つになって,どうしても裏切ることができなくなってしまっているという安心感が,愛には必要なのかもしれません。それがキリスト教神秘主義のもっている素晴しいところでしょう。ですから,それを生かしてもよいとは思いますが,それでも尚,個というものは消えないのだ,という注釈をつけなくてはいけないと私は思います。

 ところで,この講演のためのテキストとして「ローマ人への手紙」8章18節から25節までを私はえらばせていただきましたが,この箇所に見られるのは,何と言っても万有救済の思想だろうと考えます。ニコラス・べルジャーエフ(Nicolas Berdyaev)というロシアの宗教哲学者には,とても好きな猫がいましたので,天国にこの猫も行けるだろうと,その自伝の中で書いております。そんな話は一寸聞いたところでは冗談みたいですが,よく考えてみますと,それ程おかしくなくなってきます。

 人間の生存は環境の問題と非常に強く結びついております。実存は自然と非常に深く係わっております。つまり,山だとか川だとか動物,植物,人間は相互に,きっても切れない関係にあり,人間だけを特別にそれから引き出して,独立存在として考えるのは,間違っているのです。個と全体との関係と言ってもよいのでしょうが,私にとって個の大切さは既に申上げてきたことからお分りいただけたと思いますが,併し,個は他との関連の中でしか個でない,というのも真実なのです。そうしますと,人間が救われるということも,他との関連,自然との関係を無視しては言えなくなる。この辺に,万有救済説の根拠がどうもあるようです。私にもこの説には,数多くのまだ分らないところがあるのですが。

 いずれにしましても神と人間が1つになる時には,自然も何等かの形で,つまり,自然も存在したということの意義が失われない形で,生かされるに違いない。それがどういう形なのか,私にも勿論分りませんが。まして,人間全てが救われるという万人救済説は,私には自明の事です。併し,多くの人は,信仰を持たない人々は神から捨てられるのではないか,とお考えですが,この場合,信仰をもつということがどういうことなのかが問題となります。それは何かをポケットに入れている状態ではないわけです。それはポケットに入れているお守りではないのです。信仰とは神が私を愛して下さっているということの中にいる,という自覚です。十字架上のイエスのように,神よ,どうしてあなたは私を捨てたのか,と恨みつらみを言っても,それも信仰の中なのです。うらみの言葉も,人間が神とつながっている証拠です。つまり,誰でもが救われる訳です。そう言いますと,ある方々は,もしそうであるなら信仰などもたなければよかった,とおっしゃるかも知れません。信仰をもたなければ,こんなに苦労しなくてすんだのに,と。しかし,その時の信仰は問題です。信じることそれ自体が素晴しいものなのだということにならなければ,こんな詰らない信仰生活はありません。死んでから楽しむために,今苦労する。死んだら天国に行けることを当にしている信仰生活などは惨めなものです。実にみすぼらしい。信仰とはそういうものではない筈です。信じていても,あまりの苦しさに神をのろったりするかもしれませんが,併し,その奥の方で、信じることそれ自体が恵みでなければなりません。信仰それ自体が喜びであれば,外の人々がいくら愉快そうな生活をしていても,自分も信仰さえもっていなければあのような生活ができたのに,と羨ましがる必要もない訳です。信じていることが,それ自体で素情しい事だ,ということにならなければ駄目だと私は思うのです。

 ですから,永遠の命がこの世の生活の否定と考えられ,しかもこの世の生活の目標と化すると,どうしようもなくなります。そうではなくて,今生きている素晴しい命がすでに永遠の命なのです。そして,その命がしばしば途切れたりなどするかもしれませんが,神の恵みによって拡大されていくと死後の永遠の命となる訳です。こういうふうに考えないと,永遠の命はキリスト教的なものではなくなると思います。

 もう1つ,申上げてみたいことがあります。私は,人間の一生は非常に短いものだと思うのです。人の一生などあっという間のものです。とにかく,人生とは物足りないもの,生きたりないもので,恐らく死んで行く人はみなそう思って死んで行くのではないか。キリスト教は,先程も申しましたように,その原始において,この世はすぐに終るのだ.という終末論があったものですから,人の死んだ後の状態については殆ど興味を示しておりませんでした。従って,その点に関する教理は発展しませんでした。ヒンズー教や他の宗教,仏教なども,これとは事情が違います。否,振り返ってみますと,地球を覆ってきた宗教全体の歴史を考えてみると,サムサーラが人類の普遍的な信仰であった,という気がしてきます。つまり生きては死に,生きては死に,人の生はくりかえし再生するという,輪廻転生です。勿論,この信仰は聖書の中に明白には現われていません。併し,そういうものが全く無かったとも言えないようです。例えば,イエスがバプテスマのヨハネの再来と考えられたり,「ヨハネによる福音書」9章にあるイエスが盲目の人をいやされた話です。その人か盲目であるのは,親の罪によるのか,本人の罪によるのか,と弟子たちがイエスに尋ねています。つまり,この人が生まれる前に親が罪をおかしたか,或いは,その人自身が生まれる前に,その前生において罪をおかしたのか,とイエスに聞いているのです。それに対するイエスの答も,はっきりと輪廻転生思想を否定したものではありません。弟子たちの質問の中には,あきらかに前生の概念があったのですが。恐らくパレスチナのユダヤ教の周辺にはサムサーラの思想に近いものが,根付いていたのでしょう。

 そうしますと,別に聖書と矛盾する訳ではありませんから,サムサーラの思想をキリスト教の中に受け入れても差支えないのではないかと私は思います。聖書の中にそういう教えはないから考えることはやめた方がよい,というのでは,納得できません。それでは前にも申上げましたが,私たちはテレビもラジオも,自動車も飛行機も使うべきではなくなります。勿論,私もサムサーラの信仰が,インドではカースト制度を守るために使われていることはよく承知しております。従って,サムサーラにバプテスマを授けて,キリスト教化しなければなりません。サムサーラを神のアガペーによる訓練の期間と見るのです。中世には練獄思想がありましたけれども,これは勿論聖書にはない思想でしたが,教会はこの思想に見られるように,死後における人間の聖化について考えざるを得なかったのです。サムサーラの思想の方が,同じ目的のために私にはより良いものだと思えるのです。生れ死に,生れ死にながら,宇宙空間のどこかで,あるいは,宇宙空間を越えた所で,神の良しとする所で,私たちはもっと愛の訓練を受ける必要があります。この汚れた私たちが,死後いきなり神と1つとなるとは私には思えない。愛は実に忍耐強いものですから,神はおいそぎになりません。私たちも自分の聖化をいそいではいけないのです。無理やりに自分を聖化するなどは,神の愛の何であるかを知らない者のする自己いじめであり,自己義認です。

 アメリカで或る白人が,黒人がどういう風にアメリカでは虐待されるのかを知りたくて,自分の身体を着色し,黒人の肌を作って暫らく過したことがあったようです。併し,これでは黒人の苦しみや悲しみを本当に知ったことにはなりません。彼は暫らくすれば白人に戻れると知っていたし,事実そうしました。黒人は一生涯黒い皮膚から抜けられないのです。黒人の苦しみは黒人しか知らないわけです。ネルス・フェレー(Nels F.S.Ferré)がどこかで書いていましたが,黒人を蔑視する白人を,神はあるいは次の命で黒人に生まれ代らせ,そして黒人としての悲しみを思う存分に味わうようにさせて下さるかもしれないのです。私たちの中に愛が増し加わり,互いの心が分るようになるためです。神の愛はそれ程に深いのです。または,無神論者の生涯を私たちに,ある命でお与えになるかもしれません。その命は始めは虚無を楽しめるものかもしれませんが,段々と虚無に浸透されて憂うつになるものかもしれません。

 さて,以上のような事柄をお話ししますと,よく言われるのですが,私の思想は,ギリシア思想に近いのではないか。そう言われてみれば,例えば輪廻転生のような考え方もピタゴラスたちにはありました。霊魂不滅の考えもギリシアにありました。要するに,肉体から霊魂が離れても霊魂だけで生きられる思想は,ギリシア思想に近いことは確かです。こういう批評をして下さる方は,私を非難して言って下さるのかもしれませんが,私はこれでいいのだと思っております。考えてみますと,大体自由主義神学を批判し始めた頃から近代の神学の傾向は,ギリシア的なものとヘブライ的なものとを分けることに一生懸命だったように思います。例えば先生方がよくご存知のアンダース・ニグレンによるアガペーとエロスの峻別がありました。併し,私はこれには限界があると思っています。キリスト教の中からギリシア的なものをどんどん削って行くのは,玉葱の皮むきと同じで,目にひどくしみます。後に何も残らないということはないでしょうが。こういうようなやり方を,私たちはもう一度考え直すべき時期にきております。ギリシア思想とヘブライ的なものとを,キリスト教思想はその長い歴史の中で融合してきたのです。ヘブライ的なものだけに帰ろうというような方法論は,純粋を重んじるあまりにキリスト教を瘠せ細らせるものでしかありません。丁度私たちが,色々なものを食べ,これを消化してきたように,しかも自分自身を変えてこなかったように,キリスト教もその本質は失わないでギリシア的なもの,その他のものを受け入れなければなりません。そうでなかったら,キリスト教の教会はキリストの生ける体でなくなり,死体です。

 私は霊魂不滅論で一向差支えないと,実は思っております。最近は生命科学と神学との関係というような,難かしい問題が色々と論じられたりしていますが,これは余談ですが,霊魂不滅論の方が生命科学の問題を考えるのにも都合がよいと私には思えるのです。亡くなった方の記念会をします時に,私たちはあたかもその方がまだどこかにいるような感じで話しているのに,神学では,霊魂と肉体は1つであって,絶対分離はできないと言っています。よく考えると,これは矛盾しています。もしその通りなら,人が死んだ時にはどうなるのでしょうか。復活の時を待っており,その時になって初めて神のところへ行く訳でしょうか。その時の身体は地上の身体とどういう関係にあるのでしょうか。ギリシアの霊魂不滅論は捨てがたいものだと私は思っています。大分先生方を戸惑わせるような事柄を申上げたかもしれませんが,以上が現代神学の立場から死に関して発言し得ることではないかと,私が考えているところであります。色々とご批判いただければ幸いです。

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入力:黒田良孝
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2006.01.30

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