自分と出会う1999  

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自分と出会う

イエスと出会い、不条理と闘う 



野呂芳男
            


初出: 朝日新聞1999年3月23日



 シャガールの絵には、明るい青や茜色の画面に花嫁や花婿が空中に舞い、牛馬や鶏などが描かれているものがある。幸福な画面に楽しくなる。だが、これとは違った動物たちの原風景が、子供の時に私の心に住み着き、今も去らない。幼い私は、家の前の通りを行き来する人や、牛馬に引かれた荷車をよくぼんやりと見ていた。舗装されていなかった道は、雨になれば所々で浅いぬかるみとなる。川の水面と住んでいる土地の高さが殆ど変わらない深川では、橋のたもとの土手をかなり高く築いたために、橋までは上り坂である。重い荷車を引く牛馬は、寒い冬の日などは白い息を多量に吐きながら、滑りやすい地面を必死にこらえ、鞭打たれつつこの坂を上っていく。役立つからというだけで、人間にこのように扱き使われる牛馬が、私には可哀想でならなかった。

SOUTINE; CARCASS OF BEEF もう一つの心の風景がある。忙しい私の家に働きに来ていた女性が、幼い私を隅田川にかかる新大橋までよく連れて行き、カモメの群れを見せてくれた。この方の結婚した相手が、戦争の負傷で片足を膝の上から切断した。同じ戦争の末期に下町の大空襲で地獄を経験した私は、戦後に一度、この夫婦を訪ねた。義足ではうまく動けないと言い、その夫が片足でびょんびょんと跳びながら、鍬で畑を耕しているのを見て涙が出て仕方がなかった。シャガールの絵は希望をかき立ててはくれるが、同じ時代にパリで生きた画家スーティンの絵に見られる、肉屋の店頭にはらわたをとられて真っ赤な肉と骨だけになってぶら下げられている牛や、まるで大地震に揺さぶられているようにひん曲がった家々や崩れそうな道のほうが、私の心の風景にぴったりする。

 動物に対する人間の残酷、弱肉強食の動物たち、人間同士の戦争に悲哀を覚え、トルストイの無抵抗主義に魅せられて私は新約聖書を知った。戦争に駆り出される最後の世代に属していた私は、戦場で死ぬ運命を覚悟していた。死は怖く無意味に思え、キリスト教に救いを求めた。戦争中の教会にふさわしく紀元節の日に洗礼を受けた。

 このような私には、戦後知ったカミュの「不条理」という言葉が、一番心の風景に適合した。ハイデガーの「存在」という言葉や、西田哲学の「絶対無」という言葉などは、人間の心の奥底をどこまで下がっていっても悲惨しか見つけることのできない私には、結局無縁であった。ユングが言う、すべての人の心理の深層にあるという「集合無意識」も、私には神と悪魔との混在でしかなく、真の神との出会いはそこを通過した向こう側でなされ得るものでしかない。人間の深い底には、悪と罪、不条理しかない。善があるとしても、それは本質的には憧れでしかないと思っている私が、悟れる筈はない。

SOUTINE; L'HOMME BLEU SUR LA ROUTE 自分との出会いは、私にとっては同時に不条理との出会いであった。不条理には、生まれたのに死ななければならない無常ばかりではなく、個人の犯す罪、また社会悪や天災地変の自然悪までも含まれる。小さい我が、すべてを根底づける大我たる神や仏に浸透されて生きるという発想では、阪神大震災や東京大空襲の責任が神や仏にかぶせられてしまうことになる。このような現実の悲惨を含め、それでも全て良し、とするのが信仰だろうか。むしろ、隔絶した天国や浄土から来てくださるキリストや観世音菩薩と共に、神や仏に対して「我と汝」の関係を保ちつつ、不条理と戦うことが信仰であろう。動物などを含む生きとし生けるものの救いは、私には現実の奥底からではなく、現実と隔絶した彼方から来る。厭離穢土欣求(おんりえどごんぐ)パラダイス。





入力:山田香里
2002.4.22




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