日比野英次「『ナンバー・ワン』と『オンリー・ワン』」2006
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「ナンバー・ワン」と「オンリー・ワン」

日比野英次

 
     

この文章は、 野呂芳男『キリスト教と民衆宗教』への日比野英次氏による書評 に対する返答として書かれた 野呂芳男「日比野英次君の書評に触発されて」(当サイトに掲載) に対して、日比野氏がよせられた再反論 です。野呂芳男はさらなる反論を準備中です。(2006年4月15日) ――野呂芳男からの再々反論、 「人生の諸段階(キルケゴール)について」 (2006年5月20日)。

はじめに

野呂先生は、イヴァン・カラマーゾフを自認する私にとってゾシマのような存在で、どんなに生意気な反抗を試みても、それは所詮「釈迦掌上の悪あがき」にすぎないような気がする。これは皮肉で言うのではなく、僭越乍ら、先生と私との間にある実存の質的な断絶によるものだと思う。キルケゴールの実存弁証法に即して言えば、私は未だ宗教性Aと宗教性Bの間でのたうちまわっている人間であるのに対し、先生はすでに宗教性Bへの飛躍を果たされているという違いだ。私はこの実存的飛躍こそ信仰の有無を決定する究極的要因であると思っている。従って、信仰者の先生と無神論者の私の間には原理的に「論争」などあり得ないだろう。また、たとい「論争」が成立したとしても、それによって私が宗教性Bへと導かれるわけではない。もとより宗教性Aから宗教性Bへの道は論理的に辿ることなどできないものだからだ。と言うより、その間に道などはない。ただ飛躍あるのみ! 私の批判が先生にとって「痛くもかゆくもない」のは当然だろう。
 
しかし、それにも拘わらず、私は十五年前の批判を撤回することができない。先生は私の書評が「当時(先生が)何を考えていたかを思い出させる役割を果たしてくれた」と書かれているが、私も自分の文章を久し振りに読み返し、それに対する先生の「反応」を拝読して、今に至る私の試行錯誤の原点を見る思いがした。それは宗教性Aの立場からする宗教性Bの批判に他ならない。

勿論、批判と言っても、それは宗教性Bの否定を目的とするものではない。むしろ私はあくまでも宗教性Bへの実存的飛躍を熾烈に願う者だ。ただし私はその願いを「完全な無神論」を極めるという逆説に賭けることで果たしたいと思っている。それはチーホン僧正の次のような言葉に基くものだ。「完全な無神論者は完全な信仰に達する最後の一つ手前の段に立っておる(それを踏み越す越さないは別として)。」(ドストエフスキイ『悪霊』)

キルケゴールの『死に至る病』の絶望分析に基いて言えば、「完全な無神論」を極めるという道は最も深い絶望である「デモーニッシュな反抗」だと言えよう。チーホン僧正が「それを踏み越す越さないは別として」とわざわざ注記しているように、それは言わば「ミイラとりがミイラになる」危険を常に孕んでいる。もしかしたら私はすでにデーモン(悪霊)の虜になっているのかもしれない。しかし、十五年前の私にとっても今の私にとっても、相変わらず「完全な無神論」を極めることが「完全な信仰」に至る唯一の道なのだ。その成長の欠如には我ながら愕然たる思いがする。おそらく「完全な信仰」という言葉自体が宗教性Bの立場からすれば陳腐なものでしかないだろう。「まあ肩の力を抜いて…」と言われそうな気がする。実際、宗教性Bへの飛躍を果たされている(と私が理解している)先生の立場にはユーモアが感じられる。それを曖昧だと批判する私は野暮に違いない。しかし、この野暮には神学的に極めて重要な問題があると私は信じている。それ故、野暮を承知の上で、再び先生に対する批判を試みたいと思う。

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1. 宗教の普遍性と個別性

先ず、私自身の立場を明確にしておきたい。先生は私が「合理性による批判」を試みていると理解され、次のように書かれている。

書評の中で日比野君は、いろいろの宗教の合理的・普遍的本質、つまりあらゆる宗教がそこから出てきたと思われる統一的本質を獲得しようとの試みを私が棄てて、むしろあらゆる宗教が私たちに見せている、百花繚乱の個々の花の美しさを尊ぶという態度を、無意味だと批判する。

これは大きな誤解だと言わざるを得ない。「宗教の合理的・普遍的本質を極める試み」と「諸宗教における百花繚乱の個々の花の美しさを尊ぶという態度」を比べれば、私は後者にこそ「宗教の真理」(本当の宗教の姿)があると思っている。それは、ハイデガーもどこか(おそらく、『同一性と差異性』)で書いていたように、哲学の神よりもその前で民衆が舞い踊ることのできる宗教の神の方が「神らしい神」だという認識に基いている。そもそも私は「ヘーゲル的な合理性を主張する、合理主義者」ではないし、少なくともその立場から「各宗教の独自の美しさ」を無意味だと書いたつもりはない。私が無意味だと書いたのは、あくまでも先生の立場における「様々な花の美しさの比較」なのだ。

「美しい花がある。花の美しさというものはない」と喝破したのは小林秀雄だが、これこそ宗教性Bの首尾一貫した態度ではないか。すなわち、「花の美しさ」という普遍性ではなく、あくまでも「美しい花」の個別性を受け取り直す(wiederholen)立場だ。私はここでイデア論や普遍論争の深みに分け入る用意はないが、「宗教の普遍性と個別性」に関して先生が曖昧な点の指摘は十五年前の書評に尽きていると思う。果たして私は先生の立場を誤解しているのだろうか。

率直に言って、私の目には、諸宗教の個別性を尊ぶ相対主義を主張しながらも、それに徹することなく、むしろ最終的には宗教の普遍性を求めてやまない――それが先生の立場であるように見える。それは先生が結果的に諸宗教の「接木」を肯定されている点に明らかだろう。何故、「接木」が必要になるのか。個々の美しい花を愛でることに心から満足していれば、「接木」など余計なことではないか。「接木」とは本来、言わば「あれも−これも」というヘーゲル的欲望に基くものに他ならない。

しかし乍ら、先生の「反応」を精しく読むと、そこで積極的に支持されている「メリクリウス信仰」や「菩薩信仰」などの場合は本来の「接木」とは違うものだと思われる。つまり、先生が主張されている「同一の神の愛を、いろいろな衣装のもとに見出すこと」は「接木」ではない、ということだ。更に、先生の立場は「同一の神の愛」という「宗教の普遍性」が「いろいろな衣装」という「宗教の個別性」において現われる、一種の仮現論だと言えるのではないだろうか。

何れにせよ、私が考えている「接木」の本質はAという木とBという木を接いで全く新しいCという花を咲かせることにある。それは言わば「真理創造の方法」に他ならない。これに対して、パウロの宗教体験を軸に先生が展開されている「接ぎ木の理論」はあくまでも「真理認識の方法」であって、そこには私のような弁証法的発想はないだろう。正にこの点に、先生の立場(宗教性B)と私の立場(宗教性A)との根源的な溝がある。言うまでもなく、これはもはや「どちらが正しいか」という問題ではない。もとより(冒頭に述べたように)私には「個々の宗教が咲かせている花の美しさに惹かれている」先生の立場を批判する資格はないだろう。私が批判しているのは唯一点、先生の立場に未だ垣間見える宗教性Aの残滓だけだ。その点について少し述べたいと思う。

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2. 宗教性Aと宗教性B

十五年前の「書評」でも述べたが、宗教性には二種類あると私は考えている。先生の「思想的確信」に即して言えば、「絶対の探求」という単独者の宗教性と「究極的な愛の追求」という民衆の宗教性だ。私はキルケゴールの実存弁証法に基いて、前者を宗教性A、後者を宗教性Bと理解している。また、これらの具体的な相としては、それぞれ「宗教の普遍性(諸宗教の根源にある統一的本質)を極める試み」と「宗教の個別性(個々の宗教が咲かせている花の美しさ)を尊ぶ態度」と見做すことができるだろう。言わば、「根への関心」と「花への関心」だ。

さて、個人的な事ながら、法学部から文学部に転じて先生に出会った頃の私の究極的関心は、間違いなく宗教性Aに基くものだった。それは「絶対の探求」であり、「人間として真に生きること」の意味を渇望していた私は、先生に教えて戴いたティリッヒに代表されるような「存在−神−論」(onto-theo-logy)に最も魅力を感じていたように思う。そして、「本当のティリッヒはラディカルなティリッヒだ」(Real Tillich is radical Tillich.)と主張するアルタイザーの「神の死の神学」こそ「存在−神−論」の極北に位置するものだと確信するに至った。

しかし乍ら、私はアルタイザーの心酔者ではない。「神の死の神学」には確かに大きな影響を受けてはいるが、むしろ私は「アルタイザーは未だ真にラディカルではない」と批判する者であり、彼の神学は「存在−神−論」を突破し得ていない、と考えている。何故、突破が必要なのか。端的に言えば、「存在−神−論」は我々の理性を大いに魅了するが、結局「人間として真に生きる力」にはなり得ないからだ。その点、アルタイザーは「存在−神−論」をラディカルに発展させてはいるものの、その超克にまでは至っていない、と言わざるを得ない。すなわち、ティリッヒのダイナミックな「存在の根柢」を更にラディカルに理解したアルタイザーの「神の死」もロゴス中心主義の呪縛からは自由になっていない、ということだ。「完全な無神論」(「存在−神−論」=宗教性Aの極北としての「神の死の神学」)は「完全な信仰」(宗教性B)に達する最後の一つ手前の段に依然として立ち尽くしたままだ。

では、「完全な無神論」は如何にして「完全な信仰」への最後の一歩を踏み出すことができるのか。それは偏にロゴス中心主義のディコンストラクションにかかっている。言い換えれば、「他律(heteronomy)−自律(autonomy)−神律(theonomy)」という弁証法における「律」の克服だ。先生もその「反応」で、アルタイザーの「神の死の神学」には律法主義が入り込む危険性があると書かれているが、正にその通りだと思う。そこに「神の死の神学」が未だ「存在−神−論」に囚われている所以がある。おそらく、ロゴス中心主義のディコンストラクションを通じて、「神の死の神学」が「神創造の神学」に転化する時、その宗教性Aは真の限界に達するだろう。しかし当面の問題は、他律的な神の死後、我々は人間理性の自律で満足できるのか、それとも更に神律を要請するのか、ということに他ならない。すなわち、自律の極北に宗教性Aがあるとすれば、その地点から神律という宗教性Bへの実存的飛躍こそが問題になる、ということだ。

言うまでもなく、問題の核心は「神律のリアリティ」にある。果たして神律は他律とどう違うのか。これは実に微妙な問題で、おそらく論理的に扱うことはできないだろう。実際、宗教性Aの立場からすれば、神律も「新たな他律」(反復された他律)以上のものではない。つまり、極めて曖昧なのだ。そして、この「曖昧さ」は先生の神学にも通底している。ただし、誤解のないように断っておくが、これは先生の神学が思想的に不充分だという意味ではない。あくまでも宗教性Aに立脚する私から見ると、宗教性Bの逆説的信仰の境地は「曖昧さ」としてしか理解し得ない、ということだ。例えば、先生の万人救済説がそうだ。私はそれを次のような「マルメラードフの信仰」として理解している。

「…やがて最後の審判の時がやってきて、神様は全ての人間を一人一人吟味される。正しい人、立派な人は当然神様に愛されて天国へと送られる。そして最後に俺達の番がきて、神様は言われるのだ。出て来い、豚ども! お前達は全く救いに値しないクズだ。しかし私はお前達も天国へと送ってやる。というのは、お前達は自分がどう仕様もないクズだということを知っており、そのことで死ぬほどの苦しみを味わってきたからだ。――俺達は神様のそうした言葉を聞いて、涙を流しながらついていく…」   (ドストエフスキイ『罪と罰』)

周知のように、酔っ払いマルメラードフは全くダメな男で、せっかく職にありついても酒で失敗して辞めさせられるということばかり繰り返している。当然、家族は生活に困るわけで、挙句の果てに愛する娘ソーニャが身を売ることにまでなる。こうした悲惨な現状を目の当たりにしてもマルメラードフは何もすることができず、それどころかソーニャが稼いできた「なけなしのお金」をくすねて、毎晩酒場で呑んだくれている始末だ。こんな虫けらの如き人間がどうして救いに値しようか! しかし、マルメラードフの信じる神様はこんな「全く救いに値しないクズ」さえ救って下さるというのだ。そうしたマルメラードフの言葉を周囲で聞いていた酒場の連中は「自分に都合のいいことばかり言うな!」と嗤う。当然のことだ。確かに論理だけで言えば、マルメラードフの言葉は自己正当化でしかない。しかし、ダメな人間も究極的には救われるという「有り難い信仰」(万人救済説)には理性では割り切れない大きな感動がある。少なくとも、「マルメラードフの信仰」には理性的な「哲学的信仰」にはない「人間として真に生きていく力」が感じられるだろう。この事実を否定することはできない。そこには確かに宗教性Aに対する宗教性Bの圧倒的な力がある。

しかし乍ら、こうした「マルメラードフの信仰」について考える時、いつも私が思い浮かべるのはイヴァン・カラマーゾフだ。彼はマルメラードフとは正反対の考えを持っている。すなわち、最終的に全ての人が救われる神の「調和の国」に対する反逆に他ならない。彼は言う――「終末において全てが和解するとしても、今虐待されている罪なき子どもたちの苦しみはどうなるのか。また、親の目の前でその子どもを犬に噛み殺させた暴君をどうして許すことができるのか。こうした全ての人間の苦しみが終末において神の国に入るために必要不可欠なものだとしても、その入場料は余りにも高すぎる。たとい神の国への入場券が与えられるとしても、僕はそれを神に謹んでお返しする…」

勿論、マルメラードフとイヴァンとでは文脈が異なり、両者を単純に比較することはできないだろう。しかし「万人救済」を夢見るマルメラードフと「調和の国」に反逆するイヴァンとの関係は極めて重要であり、私はそこに宗教性AとBの究極的な相剋を見出す。そして私自身は、宗教性Bの「有り難い信仰」に無限の憧憬を抱きながらも、敢えて宗教性Aの反逆に止まり、この世界を一新させる運動に全てを賭けたいと思っている。それが宗教性Bへの実存的飛躍を孕んだ「逆説の賭け」でもあることは言うまでもない。

何れにせよ、私にとって宗教性AとBは絶対的に異なる質において断絶するものであり、所謂「絶対矛盾の自己同一」ということで統合されるようなものではない。この意味において、先生が宗教性Aに基く「諸宗教の根源的一致を追求する試み」とは一線を画し、宗教性Bに基く「大地よりも華麗な色彩の乱舞に、一よりも多に、それぞれの花のもつ個性に、それしかないものに、愛惜する心の思索」を展開されている点には全く異論の余地がないことを改めて確認しておきたいと思う。ただ、そのような思索に立脚される先生が、W・C・スミスに代表されるような「絶対的な一つの世界宗教」を目指す試みに対して極めて曖昧な(もしくは両面価値的な)態度をとられている点が、私などにはどうしても理解できないのだ。端的に言えば、大地より個々の花の美しさを愛でる先生が諸宗教の多元性を認める次元に止まる徹底した相対主義者であるのなら問題はない。しかし先生は、宗教の根源的普遍性を極める宗教性Aとは全く異なる次元においてではあるが、「同一の神の愛」という普遍性に基く諸宗教の「接ぎ木」によって「絶対宗教に少しでも近い宗教」を目指されているような気がしてならない。もしそうなら、先生の神学は未だ宗教性Aの影を引き摺っていると言えるのではないだろうか。

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おわりに

長々と述べてきたが、先生に対する私の疑問はその「宗教性Aの残滓」に他ならない。その論理は基本的に十五年前の「書評」に尽きているので、ここでは卑近な例を以て、この「再批判」を締め括りたいと思う。それは人気グループSMAPのヒット曲「世界に一つだけの花」だ。先生はご存知ないと思うので、先ずその歌詞を紹介する。


世界に一つだけの花   作詞・作曲 槇原敬之/ 唄 SMAP

NO.1 にならなくてもいい もともと特別な Only one

花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて 争う事もしないで
バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている

それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で 一番になりたがる?

そうさ 僕らは 世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

困ったように笑いながら ずっと迷ってる人がいる
頑張って咲いた花はどれも きれいだから仕方ないね
やっと店から出てきた その人が抱えていた
色とりどりの花束と うれしそうな横顔

名前も知らなかったけれど あの日僕に笑顔をくれた
誰も気づかないような場所で 咲いてた花のように

そうさ 僕らも 世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

小さい花や大きな花 一つとして同じものはないから
NO.1 にならなくてもいい もともと特別な Only one



先日、久し振りに先生にお会いした際にも、私はこの歌に言及し、「NO.1 にならなくてもいい、もともと特別な Only one」という部分について先生の意見を求めた。もとより気楽な雑談の中でのことなので、正確なことは言えないが、先生は「NO.1 にならなくてもいい」ということに対しては批判的であったように記憶している。もしそうなら、先生は諸宗教が「もともと特別な Only one」である次元を超え、それらを比べることで「NO.1の宗教」を目指されていることになるのではないだろうか。その点について、改めて先生の意見を伺いたいと思う。

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2006.04.15