野呂芳男「ニヒリズムとキリスト教倫理」1967
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<書評>
野呂芳男著『キリスト教と民衆仏教 十字架と蓮華』

日比野英次

初出:『キリスト教学』第33号、立教大学キリスト教学会、1991年12月、104−109頁
テクストの掲載を快く承諾下さった日比野英次氏に感謝申し上げます。
なお、この書評については、 野呂芳男からの反論 、および 日比野氏からの再反論 、さらに 野呂芳男からの再々反論 が、当サイト内に掲載されています。



「キリスト教と民衆仏教」という題名ではあるが、この書は所謂比較宗教学的なものではない。客観的な記述による二つの宗教の共通点と相違点の把握など著者の関心外であろう。著者の関心はあくまでもキリスト教を核としている。すなわち著者の理想とするキリスト教にとって民衆仏教は如何なる貢献をなし得るのか、ということが本書の基本的な問題点なのであり、その意味において、この書は、「キリスト教のための民衆仏教」として読まれるべきであろう。本書の関心があくまでも組織神学的なものであり、その核となっているのは著者のキリスト教信仰であることを先ず確認しておきたい。

さて、著者は冒頭で「この書物を一貫して、底のほうに潜みつつ流れている幾つかの思想的確信」として次の三つを挙げている。

一. 神学は人間の解放に関わる。
二. 信仰は絶対の探求ではなく、究極的な愛の追求である。
三. 民衆宗教こそ愛を至上のものとして憧れ求めている宗教性である。

 こうした著者の思想的確信について指摘したいことは、宗教性というものには二種類あるということだ。それは著者の第二の確信に即して言えば、「絶対の探求」としての宗教と「究極的な愛の追求」としての宗教であり、前者を単独者の宗教性、後者を民衆の宗教性と見做すことができよう。言うまでもなく本書は民衆の宗教性で貫かれているが、果たしてそれは著者がいうほど理想的なものだろうか。私は甚だ疑問に思う。というのは民衆の宗教性は自由の重荷に耐えきれず、イエスよりも大審問官を選ぶと思われるからである。そして、もし民衆が大審問官を否定してイエスの精神に生きようと決断するならば、その時民衆は別の宗教性、すなわち単独者の宗教性を帯びることになるだろう。正にその点にこそキリスト教の精神があるのではないか。

 しかし著者は、敢えてそうした従来の(おそらく、かつての著者自身の)キリスト教理解を十字架にかけ、民衆宗教としてのキリスト教の復活を試みる。具体的に言えば、キリスト教が民衆仏教との対話によって日本文化に土着(受肉)する可能性が追求されるのである。その際著者が試みる対話は極めて独自なものであり、それは近年流行の「諸宗教の中に普遍的にある諸要素、共通的なもの、最大公約数的なもの」の解明を目指す試みとは一線を画している。著者が重視するのは「普遍的な宗教性」ではなく、個々の宗教における「独自の宗教性」である。宗教を木に喩えれば、著者は木々の根差している大地ではなく、それぞれの木々が咲かせる花を見ている。こうした著者の或る意味における「反時代的考察」は、近代精神を次のように批判する三島由紀夫に共通するものがあると思われる。

 奥底にあるものをつかみ出す。そういう思考の方法に、われわれ二十世紀の人間は馴れすぎている。その奥底にあるものとは、唯物弁証法の教えるものでもよい、精神分析や民俗学の示唆するものでもよい、何か形のあるものの、形の表面を剥ぎ取ってみなければ納まらぬ。
 目に見えるままのものは信じないがよい。そこで視覚を本質とする古典主義は人気を失った。しかるに、形の表面を介してしか魅惑されないというわれわれの官能的傾向は頑固に生きのびており、それが依然として「美」を決定するから厄介なのだ。 (三島由紀夫「日本文学小史」)

 確かに大地を掘り下げれば人は人類共有の或る根源的な宗教性を見出すことができる。そしてその発見は人を「全てがわかった」ような気にさせる。例えば「絶対矛盾の自己同一」とか「統合の原理」とか言われれば、人は何となく宗教の秘密が全てわかったような気になるものだ。著者はこれを「多から一への道であり、普遍を求める哲学的思索の辿り勝ちな方向」だとしているが、こうした試みは長く現代人を魅了してきたと言える。しかし一つの宗教にとって真に重要なことは、それが或る普遍的なものに根差して咲かせる個性的な花ではないか。少なくとも存在論や解釈学を援用して諸宗教の奥底から根源的なものをつかみだそうとする哲学的な神学に食傷気味の人々は、著者の「大地よりも華麗な色彩の乱舞に、一よりも多に、それぞれの花のもつ個性に、それしかないものに、愛惜する心の思索」に無限の共感を覚えるであろう。

 しかし乍ら、大地の地味より花の美しさを愛(め)でる著者のような方向には本来宗教の比較などということは問題にならないのではないか。キリスト教の花、仏教の花、神道の花・・・様々な花が咲き乱れる宗教の花園で、それぞれの花に固有の美を認めるならば、およそ花の美しさの比較など無意味なことであろう。勿論、個々の花の美しさを比較して楽しむことはできる。しかしそうした観賞のための比較はただそれだけのものであり、そこには何の意味もない。意味がないからこそ花の観賞を楽しむことができる。意味ある比較はむしろ花の観賞を台無しにしてしまうだろう。というのは、意味ある比較を求めれば、それは否応なく弁証法的なものにならざるを得ないからである。例えばAという花の美しさとBという花の美しさの比較に意味を求めれば、その二つの花が共有する或る普遍的な美しさCを探求せざるを得なくなる。そうなれば個々の花の美しさはそれらを超える普遍的な美の追求の陰にかくれてしまうだろう。言うまでもなく著者はそうした探求を拒絶する。しかし、そうした探求を目指す以外に一体如何なる比較の意味があり得るだろうか。何もない、と私は思う。

 そもそも何故諸宗教の比較・対話ということが問題になるのか。近代において比較宗教学が成立する過程を振り返ってみると、先ず自らの信ずる宗教以外の宗教、つまり異教に対する寛容な態度、更には自らの宗教をも含めた全ての宗教の相対化ということが前提になっていることがわかる。少なくとも自らの信ずる宗教のみが絶対的なものだとする意識の下では、他宗教との真の意味での対話など問題にならないであろう。しかし純粋に客観的な学としての比較宗教学による価値中立的な諸宗教の記述は、確かに学問的な意味はあるけれども、実存的な意味は余りないと言わざるを得ない。すなわちAという宗教とBという宗教の対話が実存的に意味あるものになるとすれば、それは未だないCという宗教を生み出すものでなくてはならないだろう。対話 (dialog) に実存的な意味を求めれば、それは否応なく弁証法 (dialectic) にならざるを得ない。その意味において、著者が紹介しているW・C・スミスの世界神学を目指す試みは諸宗教を対話させることの実存的な意味を典型的に表現していると思われる。

 しかし、著者は「絶対的な一つの世界宗教」を目指すスミスの試みに基本的に賛成し乍らも、実際には実現不可能だとする立場をとる。この点が私などには非常に曖昧な点であり、著者の試みる対話の意味を理解し難いものにしている。もし著者がスミスのような試みを全否定するならば、大地より個々の花の美しさを愛でる著者の態度は一貫するものとして、すなわち徹底した相対主義として理解できるだろう。しかしその場合には著者の試みる対話から実存的な意味は蒸発してしまうことになる。それ故、著者はスミスを全否定しない。とすれば、著者の試みる対話にも或る種の弁証法的なものが侵入していることになる。これは著者にとって心外かもしれないが、対話に実存的な意味を求める以上、弁証法的なものは避けられないと思われる。しかし著者はスミスを全肯定もしていないのである。

 この一見曖昧な著者の立場は二つの次元に分けて理解しなければならない。すなわち著者は信仰という主観的な次元においては「あらゆる宗教は同一の究極的なものに近付こうとする試み」であることに賛成するが、諸宗教の教理という客観的な次元において一つになることは不可能だとするのである。言い換えれば著者は「信仰という主観的な宗教体験」の普遍性は認めるが、この一要素だけで諸宗教を統一することに悲観的であり、それぞれの宗教の教理面での個別性が重んじられねばならないと主張するのである。

 このように著者は宗教の普遍性と個別性を共に必要とする。勿論著者はそれらが互いに矛盾する方向性を持つことを承知している。宗教の普遍性は多から一への「集中の方向」に進み、その個別性は「拡散の方向」を持つ。正にこうした矛盾する方向に引き裂かれ乍ら次のように叫ぶところに、著者の試みる対話の独自性があると思われる。

 普遍的なものが、ますます深まり行く強烈な個性の中でしか体験できないものこそ、宗教ではないのか。従って、この世界宗教を現実の歴史の中でスミスのように実現可能なものとすることは、理論的には可能であるし、またその実現は目指されるべき目標であるとは思うが、しかし、それが個性的なものへますます沈潜して行くことを通してのみ追求されるべきものであることを考えると、一つの世界宗教が歴史の中で実現することは、実際的には困難であると私には思われる。(108頁)

 トレルチが「宗教的アプリオリ」と呼ぶような普遍的宗教性、それを究極的に表現する絶対的な宗教とは思弁的には宗教の普遍性と個別性を止揚したものだと言えよう。勿論こうしたヘーゲル的な弁証法は著者には無縁なものであり、著者はむしろ個的なものに普遍を見ることにおいて、キルケゴールの逆説的な弁証法に近い。しかし著者は絶対宗教を実現する夢を完全に断念してはいない。それはスミスの試みを全否定しない点、またヒックの悲観主義的な相対主義を批判する点において明らかであろう。すなわち著者は各宗教を比較検討することによって絶対宗教に少しでも近い宗教の実現に努めているのである。

 正にその比較検討に弁証法的なものが入り込む。ただしそれはヘーゲル的なものではないし、哲学的な神学のように「宗教的エスペラント」を目指すものでもない。著者は人間の体験全体に基づかれた直感的なものによって諸宗教を比較検討していく。そしてその際の検証原理となるものは、現在の著者の場合、冒頭に記した三つの思想的確信であろう。すなわち著者は自らの理想とする宗教性に基づいてキリスト教と民衆仏教を対話させ、そこから「絶対宗教に少しでも近い宗教」を実現せんとしているのである。

 しかし乍ら私は敢えて、著者はキリスト教と民衆仏教を対話させているのではない、と言いたい。著者は自らの立場を「他宗教を助産婦の役割に喩え、キリスト教の中に潜み隠れていたものを引き出して貰おうとする対話的方法」(74頁)としているが、これは自らの理想とするキリスト教の実現のために他宗教を利用するということとどう異なるのか。少なくとも著者の試みる対話は対等なものの間での対話ではない。勿論著者はこの点に自覚的であり次のように弁明している。

 こういう私のキリスト教受肉論は、他宗教の信者から見れば、尚もキリスト教を絶対化しており、他宗教に接点を求めてキリスト教を受肉させ、他宗教を内部から崩壊させてキリスト教化するものであると非難されるだろう。だが、私は・・・キリスト教も含めてあらゆる宗教を相対的なものと考えており、一つ雖(いえど)も絶対的な宗教はこの地上に存在しないと思っているのである。勿論・・・客観的にはキリスト教は相対的な一宗教にすぎなくとも、今の私にとってキリスト教は、他のものがそれに代わり得ないところの、真理への道を歩ませてくれる実存的に絶対的な宗教なのである。他宗教の信者にとっても、事情は同じではないのか。従って、他宗教の信者の方々も、キリスト教に接点を求めて、ご自分の宗教をキリスト教に受肉して下さればよいのである。そのあとは歴史の審判に、神の(あるいは、仏や神々の)摂理にまかせよう、と言っているのである。(379−380頁)

 ここで明らかなように(また168頁の図(1)に端的に示されているように)著者の試みる対話は著者にとって「実存的に絶対的な宗教」であるキリスト教を核としている。私はこうした立場では真の対話は成立しないと思う。むしろキリスト教と仏教を同じ比重で重視するA氏のような立場から真の対話は生まれてくるものと思われる。著者のような立場から生まれるものは対話ではなく接木である。そしてその立場は折口信夫が次のように言う平田篤胤の姿勢を私に連想させる。

 篤胤先生という人は、何でもいい、とにかく古代の書物を読んで、日本の古代だけで足らなければ、支那の古代の書物、印度の古代の書物を読んで、それから新しいものが出てくればそれが、日本の国の為になる書物だ、日本の国の著しい古代をば引き出すことになるのだ。こういう風に考えていられたようです。(折口信夫「平田国学の伝統」)

 しかし私はこうした接木の立場を批判するものではない。むしろそれは実存的な情熱の点で対話の立場より優れているとさえ思われる。私はただ接木の立場と対話の立場を明確に区別し、著者の立場が前者であることを確認したいだけである。おそらく絶対宗教というものが実現するとすれば、それは或る実存的に絶対的な宗教を接木によって高めていく以外にはないだろう。対話の立場から生まれてくるものは習合による「宗教的エスペラント」か、さもなくば相対主義の絶対化でしかない。著者はその何れにも抗し、キリスト教を核として相対的な諸宗教の程度の差を真剣に吟味する。

 勿論、核はキリスト教だけとは限らない。例えば篤胤なら神道を核とした接木を試みるだろう。その際、果して著者の核と篤胤の核は絶対宗教に向かって共存共栄できるだろうか。著者は「他宗教がキリスト教を接木して下さってもよい」(354頁)と常に寛容だが、篤胤は著者の「日本の社会の中でもっとキリスト教徒がふえ、やがては日本がキリスト教国になってほしいという、ドン・キホーテ的な希望」を断じて許容しないに違いない。これは篤胤の不寛容を責めるよりも、著者の希望に無理がある。それはアメリカが仏教国になって欲しいという希望に無理があるのと同様である。キリスト教を日本文化に土着させたいという著者の夢は理解できる。キリスト教が著者の実存にとって絶対的なものであれば、そう夢見ることは当然であろう。しかしその夢において、著者は自らの実存にとって絶対的なキリスト教を客観的にも絶対的にしようとしているのではないか。もし著者が他宗教を核とした接木を真に認めるのなら、キリスト教の日本への土着は著者自らの実存に限定すべきであろう。

 薔薇を蓮に接木するか、それとも蓮を薔薇に接木するか――それは全て個人の自由にゆだねられている。しかし究極的な問題はやはり、その接木によって薔薇の花の美しさ、あるいは蓮の花の美しさを超える美を生み出すことができるか否かということにある。生み出せなければ接木などせず、その土地に適した花の美しさを楽しむべきであろう。中途半端な接木は薔薇も蓮も共に台無しにする。

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入力:平岡広志
http://www.geocities.jp/hirapyan/
2006.03.20