ユダヤ・キリスト教史 1998.3.17


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第38回 ――アウグスティヌスの生涯と思想   (1998.3.17)


野呂芳男








今年の初めからは、話の中心を現代のキリスト教思想に移してきたが、最初にブルトマンの解釈学的神学、あるいは実存論的神学と呼ばれるものを私たちは勉強し、次にはパウル・ティリヒやシモーヌ・ヴェーユなどの(私にはグノーシス二元論の現代版と思われる)存在論的神学を勉強した。また、それとの関係で(マニ教の二元論に強く影響されて、それを自由と愛との現代的解釈に適用した)私の実存論的神学にも触れた。今期の終わりまで、第三の現代神学である宗教改革的系列について、私は話をさせて頂きたいと考えている。

 宗教改革を理解するためには、先ず中世のローマ・カトリック教会の神学が本質的にどのようなものであったかを知る必要がある。そのためには、アウレリウス・アウグスティヌス(354−430)まで遡って行くのが良いだろう。彼は北アフリカのヒッポに近いタガステの生まれであり、父は異教徒(但し、死の直前、371年にパプテスマを受けた)であったが、母モニカは熱心なキリスト教徒であった。青年時代のアウグスティヌスは若い女性と同棲していたが、彼女との間には息子が一人いた。カルタゴで法律家になるために勉強したが、その後、内縁の妻と息子とを連れて、教師の職を求めてローマに出てきた。ローマでは、彼はあらゆる種類の宗教と哲学とを知ったが、そのどれにも満足を見いだし得なかった。ローマでは結局織を得ることができなかったので、彼は相変わらず教師の職を求めてミラノにやってきた。そこで思いがけず司教アンブロシウスの影響を受けることとなった。やがて母モニカもミラノに出てきて、一緒に住むこととなった。

 モニカはアウグスティヌスに内縁の妻を追い出させ、結婚するには若すぎる少女と婚約させたが、飽きたらないアウグスティヌスは別の女性と同棲し始めてしまった。このような状況を察するに、アウグスティヌスの精神的な最大問題は純潔に関するものであったことが理解できる。ある時に、政府の官吏で友人である人物が訪ねてきて、アウグスティヌスに二人の将校の話をした。二人はアタナシウスが書いた『アントニウス伝』を読んで感激し、軍人生活をやめて修道の生活に入ってしまったのだった。アウグスティヌスはこの話にいたく感動し、官吏が去った後、庭に出て、自らの罪からの救いについて考え込んでいた。突然、何処からともなく、「取りて読め、取りて読め」という声が聞こえてきた。大急ぎで聖書を開いて読んだが、それは「ローマ人への手紙」(13:11−14)であった。この出来事は386年の夏のことであったが、アウグスティヌスはこれを母に話し、同棲していた女性を去らせて、386年のうちにミラノの会堂で息子と一緒にバプテスマを受けた。ところが、この年のうちに母が死に、息子も翌年には死んでしまった。

 アフリカに帰って、そこの教会に奉仕しようと決心したアウグスティヌスは、それを実行して、389 年には長老、395 年にはヒッポの教会の執事、396年には司祭となった。彼は自分の建てた修道院で質素に暮らし、その後の35年間に多くの著作を著し、西欧の教会の代表的神学者となった。430年8月28日、ヒッポの町がヴァンダル族に囲まれている時に、彼は死んだ。数か月後には、陥落した町は徹底的に破壊されてしまったが、幸いにも教会堂とアウグスティヌスの図書館とは破壊を免れた。

 アウグスティヌスには数多くの著書があり、西欧の神学に深い影響を与えてきた。その幾つかを紹介すれば、彼の思想を知ることもできるだろう。『告白録』は自分の罪を赤裸々に書いて、そのような自分を救って下さった神を賛美したもので、ここに見られる彼の真筆な態度は、今もって読む者の胸を打つ。『神の国』は410年に書かれたが、この年には、ローマがアラリクスの率いるゴート人によって包囲された。多くの人々がこの災いをキリスト教徒の存在に対する神々の怒りと信じ、キリスト教徒への非難が高まったので、アウグスティヌスはキリスト教弁護のためにこの書物を書いた。どのように立派な都市も国もいつかは滅びる。従って私たちは目を、滅びない、天から降りてくるエルサレムに、神の都、神の国に向けねばならない。この神の国こそがキリスト教会であるが、しかし、この教会の全員が神の国の市民になる訳ではない。『三位一体論』では、父・子・聖霊は完全に同等であることが言われ、父は愛する者、み子は愛される者、聖霊は両者をつなぐ愛であるとされている。更に、アウグスティヌスは聖霊が父とみ子より発出していることを主張した(が、これは今日に至るまで、東方教会によって受け入れられていない。東方教会では、今もって聖霊は父なる神からだけ発出するのである)。

 「反ドナティスト文書」と呼ばれるものは、ドナティスト派が教会から分離していった時に書かれたものであった。カルタゴの教会にカエキリアヌスが司祭として任職されたが、その任職にアプトゥンガのフェリクスが関与した。フェリクスは迫害の折り、聖書を官憲に手渡したことから、司教としては不適切であるとされた人物であった。ドナトゥスや、彼の意見に従った人々は、迫害で棄教した司教の行った聖礼典は――任職式も含めて――無効であると主張した。これに対してアウグスティヌスは聖礼典の有効性は、執行者の資質ではなく教会の資質によるとした。カトリック教会は使徒より連綿として続く任職を行ってきている(これを使徒伝承と言う)ので、この権威によって行われた聖礼典は、執行者の善悪に拘らず有効である、と彼は主張した。これによって、カトリック教会の外には救いがないことになってしまった。

 「反ペラギウス文書」は、ローマ在住のアイルランド人修道士ペラギウスの主張に対する反論である。ペラギウスの主張によると、人間には罪なき生を送る可能性があるし、それを行う意志があり、力があるのであった。人間は元来が善であるのに、他人の悪を模倣するから罪に陥るのである。生まれながらの罪性などはなく、個々の罪の固まりが存在するに過ぎない。善に向かおうとする人間を助けるものとして、律法が存在し、また、キリストの模範がある。バプテスマは再出発の可能性を与えるものであるに過ぎない。

 このような主張に対してアウグスティヌスは、教会教父イレナイウスやテルトゥリアヌスに倣って原罪説を主張した。人間はアダムから受け継いだ悪しき性質を持って生まれてくるし、それを癒して、(神が造って下さった)「神の像」をもう一度回復することができるのは、ひたすらに神の恩恵によるのだ、と彼は主張した。そして、救われる人間たちは僅かで、前もって予定された者たちだけであるとも主張した。







 アウグスティヌスの思想を更に追う前に、少しく本論からは逸れてしまうけれども、ここで現代神学との関係で三位一体論について述べておくことが便利だろう。これと関係の深い現代のキリスト論については、私たちは既に幾分の知識を持っている。古典的なキリスト諭は451年のカルケドン公会議で決定されたものであるが、これはイエスの人間性を強調するアンテオケ学派と、イエスの神性を強調するアレキサンドリア学派との妥協の産物であり、決定された後も二学派の解釈が行われ続けた。いわゆるカルケドン信条と言われているものによると、イエス・キリストは神性(Godhead) においては父なる神と本質を同じくし(one substanceであり)、人性(manhood) においては――罪を除いて――私たちと本質を同じくしており(one substanceであり)、真に神であり、真に人間なのである。私はカルケドン信条の(当時の状況の中での)正しい解釈はアンテオケ学派によるものであったと考え、既に詳しく拙著『実存論的神学』の中でそれを述べた(第六章「キリストとしてのイエスの出来事」参照)。それはとにかく、現代神学ではこのカルケドン信条のキリスト論は非常に評判が悪い。ブルトマンなどは、原始教会のイエス理解は、このような神・人二性の一人格の存在では全くないとしている。私もそうだと思っているので、聖書がイエスを一人の天使的存在が人間として顕現したと考えていても、あるいは、一人の預言者と考えていても、イエスが神から送られた救い主と考えられている点では共通しているのだから、それを信じれば良いと考えている。「ヨハネによる福音書」(10:30)にある「私と私の父とは一つである」というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。従って、私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト、聖霊の三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。ティリヒも主張していたように、イエスが神を透けて見させてくれるガラスのような存在であるというのが、キリスト論であるならば、私にとっては、聖書のイエスを通して透けて見えるものは、神ご自身というよりは――人間に神ご自身が全部分かるなどとは私には信じられないので――神の人間に対する意志であろうと思える。

 古典的な三位一体論は、父、子、聖霊が三つの位格(ペルソナの複数)でありながら、しかも一つの本質(substance)である(tres personae in una substantia)としているが、この場合のペルソナは今日のパーソナリティの意味ではない。(後で述べる神学者カール・バルトが言うように)神の存在のあり方を言っているものである。だが、この古典的な理解では、父や子や聖霊の個々の(今日の言葉で言う)主体性が失われてしまい、ペルソナがまさに(言葉の元来の意味である、役者が舞台で被る役割の)仮面のようになってしまっていて、聖書の中の生き生きとしたイエスや聖霊の個としての存在感が失われてしまっている。

 『実存論的神学』の中では、私はレオナード・ホジソンなどの唱えた社会的三位一体論(social trinity) を非難して書いたが(295 頁)、実のところ今の私はそのような三位一体論であれば受け入れられるのではないか、と考えるようになっている。彼によると、父・子・聖霊という三人格は、それぞれが心理的な人格の中心を持った三者であり、この三者が互いに自由意志をもって協力的に作り出した友情的な(あるいは、愛の)一致が、古典的な一体の意味なのである。このような三位一体論であるならば、私がここで言ってきた、「三者は聖書に言われているが、しかし、(古典的な三位一体論で言われている)一体は聖書では言われていない」ということとも矛盾しないで、私も三位一体論を信じることができるのではないか。聖書の中の三者が人間を救うために、一致協力していることは疑い得ないからである。




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入力:平岡広志
2003.4.30