ユダヤ・キリスト教史 1998.3.31


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第40回 ――ルターの宗教改革    (1998.3.31)


野呂芳男







 マルティン・ルターがアウグスティヌスの著作に夢中になるとともに、スコラ神学に批判的になったことを前に述べたが、スコラ(schola)とは英語のschoolの語源で中世の教会学校のことである。スコラ神学は、そこで講じられた神学のことである。だが、実際には、アンセルムス(イギリスのカンタベリーの大司教、1033−1109)が始めて、トマス・アクイナス(イタリヤ生まれのドミニコ会士、1225−1274)によって組織された神学を指す。アンセルムスはキリストの購罪に関して(前に述べた)満足説を展開したことでも有名だが、彼の『知を追い求める信仰』は神の存在の証明を試みたものであった。神は、それ以上の存在を考えることができない最高存在であるが、存在しない最高存在よりも、存在する最高存在の方が最高存在という概念には相応しいとし、従って神は当然のこと存在するというのが、彼の証明であった。ここには、教会の思想の歴史の中の(後で述べる)プラトン的な流れとは違って、神はその存在を証明できるものだという思想の流れの始まりがあると言える。

 トマス・アクイナスは、アウグスティヌスの神学と、(大変に奇妙なことのように思われるが、12世紀に西欧のキリスト教徒にアラビヤ語の翻訳で知られるようになった)アリストテレス哲学とを総合した。つまり、それ迄は圧倒的にプラトン的な流れであった西欧のキリスト教思想史にアリストテレス的な流れが加わったのであるが、両者の大きな相違は、次のところにあった。プラトンの想起説によると、元来人間の魂はイデアの世界に存在していたのに、今は物質(肉体)の中に虜にされているのである。しかし、魂には消し得ないイデアの世界の思い出が宿り、そこに帰ろうとする憧れが生まれながらに備わっている。これをキリスト教的に言い直せば、人間には消しえない神への憧れが生まれながらに備わっているのだから、わざわざ神の存在を証明する必要はない、ということになって、すべての人は魂の奥底において、神との結合点を持つということとなる。ところが、アリストテレス哲学によると、現実の中に存在するものは全て、質量と形相との総合であって、これら両者は切り離し得ない。例えば、机を見ると、ものを書くのに都合のよい形(形相)と木材などの材料(質量)で成り立っているのだが、形さえ決まっていれば幾らでも机は量産できる。つまり、形相の方が質量よりも重要なのである。このように重要な形相が(人間の頭脳に先ず存在するようになって、次に)質量に働きかけて机が作られるように、世界を動かす(それ自体は質量に制約されない、質量に邪魔されない、質量を持たない、形相だけの)純粋形相が初めにあって、それによって世界が動かされているのだとアリストテレスは考えた。純粋形相はそれ自体は動かずに、他を全て動かす存在なのであった。アリストテレス哲学を採用するキリスト教徒にとっては、このようにして神の存在は理性的に証明することができるものとなる。トマス・アクイナスの書いた『神学大全』を見ると、幾つかの神の存在の証明がアリストテレスにならって書かれている。そして、人間の理性は神についてその存在は証明できるけれども、神がどのような方であるかは、例えば神の三位一体を知ることは理性の力を越えているので、聖書の啓示に依存するのである。ここにはプラトン的な流れとは違って、哲学と神学、理性と啓示との総合が見られる。

 トマス以降、ローマ・カトリック教会は公にはアリストテレス的な流れの神学に立ってきたと言えるだろう。しかし、プラトン的な流れが消えた訳ではない。二つの流れを大雑把に区別してキリスト教の思想史を振り返ってみると、プラトン的な流れはイレナイウスやアタナシウスなどの初代のギリシャ教父たちから、アウグスティヌス、聖フランチェスコ、ルターやドイツ神秘主義者たちを経て、現代のパウル・ティリヒへと続いている。アリストテレス的な流れは、トマス・アクイナス、ローマ・カトリック教会の神学、イギリスの理神論者たち、(17世紀の)プロテスタント・スコラ神学を貫いて来ている。

 ルターに関する話が大分脇道に逸れてしまったが、神の存在の証明などは全く必要がないと考えている私にとっては、この二つの流れの区別は重要である。皆さんにお勧めしたいのもプラトン的な道である。







 話をルターに戻そう。私たちは、ルターがヴィッテンベルク大学の神学教授として熱心に聖書講義をしているところで彼を置き去りにしてきたのであるが、当時聖ペテロ教会の修理のために、免償状(符)をローマ教皇の名において発行するという出来事が起こった。免償状を買い求めることは、神の前に良き行為を積み上げることとなり、自分の罪をそれだけ赦して貰えるのだから、人々は我先にそれを買い求めた。当時のローマ・カトリック教会の考えによると、私たちは通常、死ぬまでに神から要求された量の善行をなし得ないで終わってしまう。ところが、聖人たちはそうではない。彼らは、神から要求された量を越えた善行を積み上げて行く。そこで、教会は聖人たちの善行で、彼ら個人の救いに必要な量を上回ったものを集めて「功績の倉」を作り、善行の量の足らない人々にはそこから足らない分を回すことができる。これをカトリック教会は「聖徒の交通」(プロテスタントの言う「聖徒の交わり」のこと)と称し、天国の鍵を持つ教会の特権としたのであった。

 ルターは司祭として人々の懺悔を聞く立場にあったのだが、中には免償状を買ったのでこれから罪を犯しに行くというような人物まで現れる始末であった。免償状を売りさばいていたドミニコ会士テッツエルが、ザクセンの地の境近くに来る頃を見計らって――当時ザクセンの選帝侯は、自分の領土内で免償状を売ることを許さなかった――ルターはヴィッテンベルクの城教会の扉、――ここは、今日の掲示板のように使われていた――に「95箇条の提題」を貼り出した。これは1517年10月31日のことであったが、後のルターの徹底した福音主義はまだこの提題には見ることができない。例えば、ルターは免償を与える教皇の権利を否定せずに、煉獄にいる魂までもが免償の対象になっていることに抗議しているに過ぎない。そして、この提題は、その最初に、悔い改めとは元来が一生涯にわたる魂の内面的な悔い改めのことで、教会に外面的に懺悔をするために出掛けることではない筈だという疑問で始まっていて、学問的な討論をルターが呼びかけたものであったに過ぎなかった。宗教改革の狼煙(のろし)を上げるための特別な文章を、特別の場所に貼り出したというような劇的な事がらでは全くなかったのである。

 ところが、この文書に対する反応は予想外に大きかった。そのため、ルターは審問のためにローマに召喚されそうになったので、ザクセンの選帝侯フリードリッヒは政治工作を行い、この審問をローマの法廷からアウグスブルク帝国議会での、教皇特使カエタヌスによるものに変えさせた。これは1518年のことであったが、ここで審問を受けたルターは身の危険を感じて、アウグスブルクから逃亡するかのごとくに帰ってきている。

 1520年はルターにとって生産的な年であった。この年に、彼は後に宗教改革三大文書と呼ばれるようになった著作を出版している。カトリック教会の司祭を仲介して初めて信者は神の前に出ることができるのではなく、すべての信者一人一人が直接神の前に出ることができるし、信者は皆一人一人が神の前に司祭である、と主張した『ドイツのキリスト者貴族に与える書』。サクラメント(秘跡)の問題を論じて、聖書で認められているサクラメントはバプテスマと聖餐の二つだけで、告解の実施も幾分は価値があるけれども、堅信礼、婚姻式、聖職者任命式、終油式はサクラメントとしては聖書に全く根拠がない、と言い切った『教会のバビロニヤ捕囚』。真のキリスト者はイエス・キリストとの霊的で神秘的な交わりを通して、罪をキリストの力で清めて頂き、キリストの義を頂戴して、隣人に対しては自分自身が一人のキリストになって行かねばならないことを説いた『キリスト者の自由』がそれらである。

 三大文書もそうだが、ルターの「ローマ人への手紙」や「ガラチャ人への手紙」に関す
る『講解』を読むと、キリストが私たちのためになさって下さった贖罪についで、カルヴァンとは大分違う考えを持っていたことが分かる。よく知られているように、カルヴァンの贖罪論は刑罰代償説であった。これは、私たちの罪の悉くに対する刑罰を、私たちが受ける代わりにキリストが受けて下さったお陰で、私たちは自分に対する神の刑罰を受けずに−−受けたら、地獄行きは確実なのだが−−神に受け入れられて御許に行けるというものであった。だが、確かにルターにも刑罰代償説を思わせる言葉がないとは言えないが、しかし、ルターは神と悪魔との闘争説が主であった。十字架は悪魔がキリストを死の中にしっかりと捕まえた事実を示し、復活はキリストがその悪魔の束縛を打ち破って、死に勝利した事実を示すものであるとルターは信じていた。ルターはこの点で驚くべき程に二元論的で、律法も神の怒りも、元来は神に属する聖なるものであることを一方では認めながら、他方ではそれらが悪魔に属するものとして私たちを誘惑し、神に敵対させるきっかけを作るものであることを知っていた。神が先ず(人間を救うために先手を打って)悪魔に勝利して下さったお陰で、私たちは罪と死から救われるのである。救いの業は初めから終わりまで神の行為であって、キリストは神の道具であった。このような――原始キリスト教の時代からアンセルムスが満足説を打ち立てた11世紀までの教会が持っていた――贖罪論がルターの贖罪論であったことは、ギュスタフ・アウレン著『勝利者なるキリスト』(Christus Victor)が見事に証明してくれている。







 1521年4月17日に、ルターはヴォルムスで開かれた帝国議会に出頭するように命じられた。審問された彼の前には、自分が書いた書物が置かれていた。それらがルターの書いたものであるかどうかの確認を求められたルターは、一日の猶予を願い出た。これでルターも屈服するのだろう、と多くの人々は思ったであろうが、翌日また法廷に立った彼は、それらが自分の書いたものであることを認め、これらが表現している真理を否認するつもりは全くない旨を告げ、「私にはこれ以外のことはできません。私はここに立っています。神よ、助けて下さい、アーメン」と言い切った。

 ヴォルムスから殺されることを覚悟で家路を急いでいたルターは、一団の騎士たちに何処ともなく連れ去られてしまったが、実はこれは選帝侯フリードリッヒがルターを保護したものであった。アイゼナッハの近郊にあるヴァルトブルク城に保護されたルターは、1521年11月より翌年の9月にかけて、エラスムスが世に送り出した、当時一番立派なギリシャ語原典から新約聖書をドイツ語に訳した。これが今でも使われているルター訳であるが、パウロの言葉「信仰によって義とされる」(「ローマ人への手紙」 3:28)を「信仰によってのみ義とされる」と翻訳したり、序文で「ヤコブの手紙」を藁(わら)の書簡と呼ぶなど、聖書に含まれている書物にも価値的に低いものがあるとして、価値判断を独自に福音という基準から行ったりしている。(ルターは「ヘブライ人への手紙、「ヤコブプの手紙」、「ユダの手紙」、「ヨハネの黙示録」などを重んじなかった。)

 ルターの改革に共鳴して修道院から逃げてきて、ルターの家に何人かの尼僧が匿まわれていたことがあったが、そのうちの一人カタリーナ・フォン・ポーラとルターは1525年に結婚した。家庭は至極円満であり、しばしば旅に出たルターが子供たちに送った手紙は子供と妻への愛情あふるるものであった。1537年頃からルターは健康が衰え始め、1546年2月18日に没した。1524年から1525年にわたった農民一揆の際に農民を弾圧するように為政者たちに訴えたりして汚点を残したが、プロテスタント・キリスト教の生みの親としてルターはいつまでも人々の尊敬するところであろう。







 ルターの福音の理解の仕方や、二元論的な贖罪論を現代の状況に移して理解しようとした神学者がいるので、その人物の思想を少し紹介しておこう。フリードリッヒ・ゴーガルテンがその人物であるが、彼の著者『神と世界の間に立つ人間』(1952年)はルターの思想を現代に生かそうとした試みと言ってよい。

 彼によると、私たちは世界と人間との関係、神と人間との関係を別の次元に属する問題として考えねばならないのである。ルターが人間は信仰によって神の前に義とされると言った時には、これは神と人間との関係の中では、世界と人間との関係の中で人間がすることは全く功績にならないことを言ったのである。神はひたすらに人間を赦し愛されるのであって、人間がこの世との関係で(つまり、隣人との関係や社会との関係で)何をしようと、善をしようと悪をしようと、神が人間を愛することには変わりがない。従って、人間もこの世で行う事がらについては、神との関係がそれによって変わるものではないことを信じて、大胆に、しかも細心の注意を払って自分が正しいと思うことを実行して差し支えがないのである。つまり、この世と人間の関係は、この世をどのような仕方で管理するかの関係であり、元来律法はこの世の一部である社会生活をどのように送るべきかの方法であった。だが、人間は自分の理性的な力でこれを行う時代に今はなっているのであって、「成人した世界」の中に私たちは生きているのである。どのように社会や自然を治めるべきかは、人間が神から委託された社会や自然なのだから、自分なりに、自分の理性に頼って考え、それを実行すればよいのである。このことは、神が持つ私に対する愛には最終的に変化をもたらすものではないことを信じて、理性的になすべき事がらなのである。



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入力:平岡広志
2003.4.30