ユダヤ・キリスト教史 1997.6.24


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第8回 ――ゲーテの信仰理解  ( 1997.6.24)




野呂芳男








18世紀のキリスト教を説明するためにゲ‐テを取り上げたのだが、『ファウスト』の「魔女の厨(くりや)」あたりから錬金術の説明、またそれが今日から見て持っていると思われる重要点などを説明しているうちに、『ファウスト』物語からは大分逸れてしまった。第一部はメフィストに誘惑されたファウストが、グレートヘンと出会い、恋愛し、やがて(ファウストの子を宿した)グレートヘンを捨てて、彼女の兄を殺してしまう愛欲の悲劇で終わる。ファウストに捨てられたグレートヘンは発狂してしまい、遂には死んでしまう。しかし、メフィストがグレートヘンの死を罰せられた死であるとしたのに対して、天上からは、彼女は救われたという声が聞こえてくる。これは、最後まで誠実に生きる努力をするグレートヘンのような人物は救われる、というゲーテの思想を表したものであろうが、ゲーテはファウストのように、最初は利己的な愛欲の体験を経ながらも、徐々に浄化されて行く一人の人物を『ファウスト』の中で描いたのだ。

 まだグレートヘンとの出会いの初めの頃、ファウストは自分の幸福を、また、自分の神を表現するが、勿論これはゲーテ自身の信仰告白であった。一切の万物を抱くもの、一切の万物を支えるものへ向かう、人間の感情のみが全てであるとファウストは言うのだが、これはゲーテの自然哲学の表現である。ここで私たちは二つのことに注意しなければならないだろう。

 一つは、ゲーテがファウストに言わせている「感情」であるが、この感情は今日の用法とは違って、人間の意志や理性を基礎づけている人間存在の最深の部分、実存の深みを表現している。全てが感情であると言うのは、全ては人間の根源的な決断にかかっている、と言うのと同じである。信仰は人間の全存在的な、神の愛に包まれていることの承認なのだ。19世紀の、近代神学の父と言われたシュライュルマッハーが言った、「信仰は絶対依存の感情である」という発言の、まさに先駆であった。

 絶対依存の感情は、相対的な依存関係に対して言われているのだが、自分の家族や自分の職業や環境に依存することは相対的依存である。これらは時の変遷につれて変わって行くものだが、私たちの生きていることの全休に渡って、神に対しては依存せざるを得ないので、この関係を絶対依存の関係と言ったのである。ゲーテはこのような神学に既に立っていたので、彼を尊敬したシュライエルマッハーが同じような発言をしても少しも不思議ではない。







 もう一つは、ゲーテの自然哲学がこのような感情的な信仰理解を助けていたことである。ゲーテの言う感情は言わば「我―汝」の次元に属するものだと思うけれども、彼は自分の感情(神信仰への決断)を、自分の自然に対する哲学でもって基礎づけようとはしなかった。自然哲学は、既に得た信仰による自然の説明に遇ぎなかった。神の存在の証拠を自然の中で捜そうとはしなかったのである。神ヘの信仰はひたすらに感情から出てくるものであった。だが、自然ヘの愛が彼を迷信から救っていた。信仰はしばしば迷信に陥ってしまうものだが、自然哲学はそれが迷信であることを私たちに告げて、信仰を健康なものとしてくれているのだ。昔はよく、神水とか言って、それで信者が目を洗ったものだが、トラホームの息者が洗った水で次の人が洗って結構な筈がない。このような仕方で、「我‐それ」の次元は「我‐汝」の次元を健康にしてくれる。







「ファウスト』第二部は、グレートヘンに対する自分の罪に苦しむファウストが疲れ果てて、花の咲く草原に寝ているところから始まる。妖精が歌う歌の中には、レーテの川(忘却の川)でファウストを湯浴みさせようとの言葉があるが、ゲーテはこの場面で、人間が力強く生きて行くためには、遇去(そこにおける自分の罪をも含めて)を忘却する必要があることを告げているのだ。

 ゲーテが輪廻転生を信じていたかどうかは、どうもはっきりとしないけれども、輪廻転生では、一つの生が終わって別の生が始まる時には、過去の生の内で今これから始まる生のために必要であるものを除いて、忘れ去ることが重要である。過去にとらわれていたのでは、新しい生を積極的に生きるエネルギーが出てこないからであろう。過去の生で学んでこれからの人生にも重要なことは、大切に(深層心理にでも)保存されているではあろうが。

 これと同じことが、私たちの罪の赦しの体験でも言われなければならないが。神が私たちの罪を赦されるのは、新しい生を私たちに与えるためであって、いつ迄も私たちが過去の罪にしがみ付くことを望んではおられない、と私は思う。イエスの十字架を指し示しながら、神が私たちの罪の過去を、どんなに私たちが神のお陰を被っているかを、常に思い出させて、私たちが神から離れないようにさせるというのでは、神が私たちを脅迫してい
るのと余り違わない。過去の誤りを知られた人間が、自分の未来を、知った人間に支配されるという構図は、テレビの物語によくある。プロテスタント教会による十字架の悪い解釈は、どうもこの物語に似てしまう。過去にしがみ付いて、将来を新しく切り開こうとの意欲を失った、(従って、ただ運命に流されて行こうとする)劣等感に満ちた(他人をうらやみ、他人のあら捜しをする)人物を生んでしまう恐れがないだろうか。神からの罪の赦しは、この一つの人生の中での、(何回にも渡る、小さな)死と再生の経験なのだ。



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入力:岩田成就
2002.10.16