レビュー 野呂芳男『ジョン・ウェスレー』2005

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今、封印は解かれた!

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野呂芳男『ジョン・ウェスレー』(松鶴亭) まもなく発刊

林 昌子

 野呂芳男『ジョン・ウェスレー』は、2005年10月14日に出版が予定されています。ここには、編集に携わった林昌子氏による熱のこもった案内文を掲載します。なお、販売方法などについては、追って当サイトでお知らせいたします。 目次などの詳細 はこちら。



 本書は野呂芳男氏による、第4冊目のウェスレー研究書である。野呂氏による初めての研究書は1963年の発刊であるが、実は氏とウェスレーとの関わりは、すでに半世紀を越えている。「継続は力なり」と言うが、しかし本書に表されているウェスレー解釈は、積年の継続の成果などというレベルを、はるかに超えている。

 ウェスレー研究を私なりに3つの分野に整理すると、次のようになるだろう。

1.ウェスレーに関する第一資料の研究。つまり、ウェスレー自身による著作や手紙を編纂したり、その言動や行動を、できるだけ誠実に追究する分野。聖書研究にたとえると、低等批評(あるいは本文批評)に当たる。

2.ウェスレーの生き様や、その神学・伝道のあり方に対する解釈を主体とする分野。これは、1.の業績や、さまざまな立場のウェスレー研究者たちによる研究成果との対話によって、研究家自身によるウェスレー解釈が展開されるものである。聖書研究にたとえるならば、高等批評に当たる。

3.できるだけ多くの人々にウェスレーを知ってもらうことを第一の目的とする、いわゆる啓蒙書・入門書的な分野。このタイプが一番多く世に出回ることは必然といえるが、その内容は玉石混合であって、しかも「玉」と「石」の差が最も激しい分野と言える。

 今回の、野呂氏による新著は2の分野に属する。『ウェスレー』(清水書院、1991年)は3の分野の著書であるが、『ウェスレー』(日本基督教団出版局、1963年)、『ウェスレーの生涯と神学』(同、1975年。以下、『生涯と神学』と略す。)もまた、2の分野の研究書であった。あるテーマについての研究書を、ひとりの人物が単独で、4冊(新著を含めて)も世に出すこと自体が驚異的であると言えるが、それでは、今回の新著の特徴は何か。いくつか挙げてみよう。

 まず指摘されねばならない点は、『生涯と神学』の発行から、30年もの年月が経ってしまった背景である。

 青山学院大学の公式上の記録では、野呂氏は1972年3月31日に依願退職したことになっているはずだが、実際は理事会との衝突( ※註 )により、すでに前年初夏頃に解雇を宣告された。72年4月から立教大学に勤務することとなったものの、メソジスト系の大学から聖公会系の大学へ移った氏には、ウェスレー研究を前面に押し出して講義を行うことには、どうしても遠慮があったという。何しろジョン・ウェスレーは、聖公会にとっては反乱者と受け止められても仕方がないのであるから。そのようなわけで、氏による公の場でのウェスレー研究は、氏自らにより封印されてしまったのだ。実際、19年間の立教大学勤務のうち、ウェスレーに関するゼミは、退官の前年度に1回きり、行われたのみであった。この、氏による立教大学への「遠慮」が本当に当を得ていたかどうかは私には分からないが、清水書院刊『ウェスレー』が退官の年に出版されているのも、このような配慮によるかもしれない。

 しかしその間、ウェスレー研究が世界でさまざまになされていたことは言うまでもない。ウェスレー研究で信頼のおける研究者のひとりとして、野呂氏には、それらの研究に対する応答が求められていたのは当然である。実際のところ、1997年頃からすでに、これらの世界の動きに対する、自身の評価・反論・主張を、氏は世に問いたいと望んできた。そして新著では、それが存分に発揮されていると言ってよい。具体的には、今日注目に値するウェスレー研究家といえる、アルバート・C・アウトラー氏、ジョン・カブ氏、セオドア・ランヨン氏などが紹介され、彼らの立場への批判が展開されている。

 第二に注目すべき点は、「キリスト者の完全」の教理に対する、氏の新解釈である。キリスト者の完全については、これまでもさまざまな解釈がなされてきた。この教理を説いたジョン・ウェスレー自身が、果たして完全体験を持っていたかどうかもウェスレー研究史上、評価が分かれているし、そもそもキリスト者の完全とはどのような状態を指すのか、完全はこの世で獲得できるものなのか、獲得するにはどのような条件が必要なのか、獲得した後はどうなるのか……等について、さまざまな議論が展開されてきた。

 野呂氏による解釈の内容は、ぜひ本書をお読みいただきたい。ここでは、その解釈に触れた、私自身の率直な感想を述べておく。ウェスレーのキリスト者の完全の教理は、クリスチャンであるか否かにかかわらず、容易には理解しづらいところがある。おそらくそれは、山上の説教における倫理命題を、信者はいかに実行せねばならないか、という難問と相通じるものがあるからであろう。しかし、一言で言おう。これまで私が体験した、ウェスレーのキリスト者の完全の教理が解説されたもののうち、本書を読んで、これほどにスッキリとした後味を感じたことはない。その教理の理解には、ウェスレー自身が退けた、神秘主義的な体験が要求されないことはもちろんである。あるいは、特定のクリスチャンにしか通用しないような用語を理解しなければ、その道を成就することができないわけでもないこともまた、本書によって明らかにされるであろう。要するに、多くの人々が理解し納得できるような形で、かの難解な教理が的確に解釈されているのである。

 そして、このような解釈の土台となっている理論とは何か。この点が第三に注目すべきところだが、それは、ウェスレー神学を実存論的に解釈する立場の徹底である。野呂氏のこの立場は1963年刊『ウェスレー』で紹介され、さらに『生涯と神学』で確固とした地位を得ているものである。本書ではそれがさらに徹底され、キリスト者の完全の教理のみならず、ウェスレーのさまざまな神学的主題―人間論、キリスト論、神論、義認と聖化、確証の教理など―を読み解く鍵として機能している。

 指摘されなければならない重要な点は、野呂氏は伝道者であり、ウェスレー研究家であると同時に、組織神学、とくに現代神学を専門とする、優秀な神学者だということである。(ちなみに立教大学で教えを受けた学生たちにとっては、前述したような事情から、ウェスレー研究家としての野呂芳男よりも、組織神学者・野呂芳男という印象の方が強いと思われるほどである。)たとえば、本書でたびたび言及される「次元的相違の思考法」、「近代性の理解」などは、氏の組織神学者ならではの立場から導き出されるものである。さらに本書によって、組織神学の醍醐味ともいえる、その奥深さ、懐の深さをも実感することができると思う。

 この、ウェスレーの実存論的な立場からの解釈という点においては、63年刊『ウェスレー』から一貫しているといってよい。1964年に氏によって『実存論的神学』が発表されて以来、野呂芳男=実存論的神学の構図のみが固定化された感がある。確かにこの構図自体は一貫しており、大きな転向も見られない。しかしそれだからといって、野呂神学それ自体が固定化してしまっている、進化が見られないと断じてしまうと、その人物は、大きな落とし穴にはまってしまう羽目に陥るであろう。なぜなら、「一貫」と「変化」の共存こそが、「実存論的神学」それ自体の持つ、最大の特徴であるからだ。つまり、実存論的であること自体がすでに、あらゆる変化への対応という可能性を秘めているのである。実際、実存論的神学が扱う具体的な、さまざまな神学的問題―聖書へのアプローチの方法、キリスト論、歴史神学への理解、他宗教との関係、他の学問分野との関連、世俗社会との関係、等々―に関する野呂氏の研究に付いて行こうとする者には、大変な思考的柔軟性が求められている。そして、ジョン・ウェスレー自身の生涯にわたる神学的活動もまた、まさにこれらの具体的な問題との格闘であったではないか。

 ウェスレーの実存論的な解釈の立場に立つ野呂氏からは、本書執筆終了直後からすでに、今後のウェスレー神学における具体的な課題が、いくつか提唱されている。ここにそれらのほんの一部を挙げておこう。ひとつには、第二の回心との関連で、母スザンナ・ウェスレー系統のピューリタニズムの、これまで以上の掘り下げである。第二は、ジョン・ウェスレーの著書である Primitive Physic ― An Easy and Natural Method of Curing Most Diseases (『民間療法』)の持つ、これまで誰によっても提唱されなかった、ウェスレー神学全体に対する重要性である。第三は、モラヴィア兄弟団からのウェスレーに与えられた、これまでの研究では明らかにされて来なかった側面、などである。これらの、新たに提唱されている課題が、(当然ながら)新著にさえ反映されていないことは残念であるが、それほどに、氏の研究は日々進化し、更新され続けている。

 ジョン・ウェスレーの回心体験を、第一の回心、第二の回心というように2つの回心に分け、それら2つの回心を、焦点を2つ持つ楕円の中心にたとえてウェスレー神学を解釈する立場は『生涯と神学』において提唱され、それが今や世界の標準的解釈となっている。どちらの回心に重要性を見出すかは、研究者の立場・独創性によるとしても、である。今回の新著において、新たにユニヴァーサル・スタンダードとなり得ると期待できる解釈を、あえてひとつ挙げるならば、それはキリスト者の完全についての解釈であるといえよう。

 本書の編集に携わった私は、すでに何度も、目を皿のようにして本書を読み返したわけだが、その作業を辛いと感じたことは一度もない。それどころか読むたびに、新しい発見に感動し、初めて理解することのできた喜びに満たされるのである。



(注)  青山学院大学でも学生闘争の嵐が吹き荒れていたその当時、文学部長であった野呂氏は、それまでも学生・それに組する教師たちと、理事会とのはざ間に立たされていた。大学長がついに機動隊の導入を許可したことに対し、野呂氏が反対したことで、「衝突」は最頂点に達した。


(2005.08.20 up)

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