野呂芳男<書評>八木誠一『新約思想の探求』(1972)  Home  >   Archive  /  biblio


八木誠一、その思想のデッサン

<書評>八木誠一著『新約思想の探求――第一論文集』新教出版社

 野呂芳男

 初出:『興文』1972年4,5合併号、(財)キリスト教文書センター、14−15頁 




 著者、八木誠一氏については、あらためて紹介する必要はなさそうである。少なくとも、キリスト教にある程度深くかかわっている人なら、誰でも彼の名を知っていると思う。それほどに、彼の学者としての業績は広く知られ、著書も多数である。ところで、彼はまだ40歳になったか、あるいは、まもなくそうなるかのはずである。だいたい、ひとりの学者が一生かけてなしとげるほどの仕事を、彼は今までにすましてしまったのであるから驚嘆に値する。彼の思索が今後どのように発展し、変化していくのかに、私などは大いに興味を覚えている。

 画家の秘密は、しばしばそのデッサンにあらわれると言われるが、八木さんの場合でも、『新約思想の成立』以来、何冊かのすぐれた書物が刊行されたけれども、この論文集は画家のデッサンのように八木さんの秘密をあらわしているように思われる。それぞれの論文が、一つの主題を追求しているために、その主題の間接的関連事項は粗削りのままにとどまっている。その粗削りの部分が、ふと八木さんの本音を見せてしまっていたりして楽しい。最近数年間の全部で17の論文が、?は新約学、?は組織神学、?は仏教との対話、?は批判と反論という形に分類されている。





 もちろんのこと、これらの論文の中にも、他の書物の中に見られるのと等しい、八木さんの周知のキリスト教理解が表現されている。イエスにおいて当時の人々が出会い得たキリストのできごとは、われわれが、イエスにおいてだけしか出会えないものではなく、禅における悟りの体験も実存論的には同じものである。それは人の生における統合への規定の体験にほかならない。統一は他律的であり、それに対しては当然のこと、人間の自由の欲求からの反発が生起するのであるが、人間の自由は、あるものをあるとして認識するところにこそ、その内実がある。ところで、歴史において、あるものをあるとして認識することは、歴史のロゴスたる統合への規定、すなわち、ひとりびとりの個が十分に生かされながら、しかも、他との共存へと歩み出さざるを得ないように、存在論的に人間を定めているものを認識することなのである。八木さんは、こういうキリスト、すなわち、統合への規定が禅の中に、また、西田幾太郎や田辺元の思想の中に表現されているとする。八木さんによれば、こういう理解の仕方こそ、現代人にとってのキリスト教理解でなければならないのである。





 今まで、八木さんの書物を全部読んできた者として、上述の彼の主張はすでに親しいものになっているのであるが、それでいて私はどうもこの思想の中では落ち着けない。どうして落ち着けないのか、いろいろと考えて見るのだけれども、それもあまりはっきりとしない。しかし、感じていることを率直に述べて、また彼からの辛らつな批判をあびることにしよう。

 彼の主張を読んでいると、こんなことを考える。Aという人間とBという人間がいて、両者はそれぞれ個性を持ったおもしろい存在であり、もちろん生い立ちも教育も活動領域も異なっている。彼ら二人は人間としては、足が二本あり手が二本ある。八木さんの「統合への規定」というのは、どうも、AとBとが足を二本と手を二本もっているという事情に当たるような気がする。もちろん、AもBも足が二本、手が二本あるから、すなわち、動物的に言って人間であるから、われわれに親しみ深いという事情があるだろう。しかし、われわれにとって、生い立ちや教育環境、また、性格の相違などからくるAとBとのそれぞれの個性も、はなはだ興味あるものではないのか。むしろ、そういう個性こそ、AなりBなりをわれわれの友人たらしめるものではないのか。「統合への規定」がキリスト教にも禅宗にもある、と八木さんは言う。それで、八木さんは自分でも、われわれにキリスト教についての、また禅についてのすべてを語ってくれたとは思っていないであろう。
 
 キリスト教の人々の中に、八木さんの主張の中では落ち着けない者が多くあると同様、禅宗の人々の中でもそうなのではないだろうか。私はそうなのか、そうでないのかを互いに聞き合ったらおもしろいと思う。それに、八木さんは、禅宗が仏教の真の姿であると主張するが、禅宗の人々はそれで喜ぶかもしれないにしても、浄土系の人々は何と思うだろうか。そして、浄土系の信者の方が日本では人数もはるかに多いはずである。量よりも質だと八木さんは言うかもしれない。しかし、すでにその質を決めたのは八木さんであって、他人は納得しないかもしれない。

 私が八木さんの思想でどうも落ち着けないのは、歴史におけるイエスのできごとを中心とした原始キリスト教の運動が、キリストから切断されたために、キリストの持つ意味内容がニュアンスのあるものを失ったからではないかと思う。

 それと関連しておもしろいと思ったのは、「現代人の信仰」と「現代におけるキリスト教」という二つの論文の中で、八木さんは少なくとも現代とは何かという歴史状況の考察を行なっていない。二千年の伝統に示されているキリスト教の歴史的展開への無関心と同じ八木さんの態度である。八木さんが現代人と言うとき、それは現代という状況の中で生きている人間というよりも、合理に立っている人間、実はいつの時代でも存在しうる理性的人間のことにすぎない。とすると八木さんの立場は、比較宗教学の実存論版を土台とした宗教哲学なのではないか。それはそれでよいと思う。しかし、それは少なくとも今までの意味でのキリスト教神学ではない。むしろ、八木さんも、私のある友人のごとく、神学の解体を率直に主張した方がよいのではないだろうか。

 とにかく、この論文集は、八木さんの思想に興味をもつ人々、日本のキリスト教思想の今の諸問題に関心ある人々の必読書と言ってよい。読んでいておもしろいし、多く教えられ考えさせられる。

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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/
2003.7.7