野呂芳男 聖書を深く読む 99.12.14

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新約聖書を深く読む

1999年秋期第5回目 99.12.14

                  
野呂芳男
                  (まとめ:當麻守彦)




1. 前回の復習

 アガペーは人生でたった一度しか出来ない自己を捨て他者のために捧げる愛であり、相互愛は自分も愛される事を期待している愛、そして正義では相手をよく知り合おうとしても限界がある点に夫々の特徴がある。パウロは悪魔や悪霊として表現するが、これは現代流に言えば不条理であり、これがR.ニーバーの2等辺三角形の中に侵入し、相互愛を正義の領域に押し下げてしまう。相互愛にはアガペーの香りが強く反映している事が必要で、それがないと親の子供いじめ等家庭内に政治の嵐が吹きすさび家庭内暴力の場となってしまう。アガペーが相互愛を引き上げる時それは健康な状態に在ると言える。不条理は自由と深い係わりを持ち、世間(世界)で言われる自由はそれ故一般に叫ばれている程高く評価されるものではない。それは新しく作り上げるための一種の破壊の情熱であり、自分の身は自分で守るという主張から各個人が銃を持つという事に象徴されるもので、互いに殺し合う事がどうして自由と言えるのだろうか?

  本来自由は愛に尽くすべきもので、自由は自由のために在るのではなく、聖書のパウロの言葉によれば自由は愛のために在る筈だ。R.ニーバーの2等辺三角形の頂点に水平線を引き、その上を宗教界、その下を道徳界(次元)とする分け方があるが、人によってはこの二つを峻別するあまり、道徳と宗教が激突する生活をしている場合があり、中世の修道院もその一例である。修道院の意味する事は「この世の外に出る事」である。宗教一本槍の生活をする事で堕落する世界に歯止めをするのである。しかし理念的に考えて修道院の成立の根底は、この世は悪いものということになり、これは間違っている(暗い世の中に神の光がもたらされ、この世が良くなるというのなら納得できるのだが)。神の世界とこの世とは別物で、それが互いに激突するものと考えている。つまりこの世を全て捨て去り宗教の世界にのみ生きようとし、聖書の世界とこの世との関係が無くなってしまうところに大きな問題点が在る。その問題点が発生する場はカソリックでは修道院であり、プロテスタントでは「啓示のみ」という神学を生み出した事である。カール バルト神学がそれであり、この世は全部間違いとする結果、神の世界とこの世との接合点が無くなってしまう。つまりこの世と宗教の世界(清浄無垢)との断絶の結果、教会に行っている時の自分と家に戻った時の自分は別の人間となり、二重生活に分裂し苦しむ不健康な症状を呈する。





2. 今日の生き方を考える場合に、諸宗教との係わりを如何に保つべきか?   


 空海はスケールの大きい僧であった。仏教思想界の最高峰と言えよう。24歳の時長安で三教指帰(サンゴウシイキ)を唱えた。三教とは儒教、道教、仏教を指し、当時中近東からローマンカソリックが成立する過程で、追い出された一部のキリスト教派が中国に入って景教と成っていた。空海は景教の僧侶とも交わりがあり、仏典を一緒に学んでいた。学者や僧侶には生涯の歩みの中でどんどん思想が変わる人と、終始一貫不変でその思想を更に深めて行く人とがあるが、空海は後者であり、その思想は十住心論に至るまで変わらなかった。三教指帰は一幕物の劇の形で書かれたもので、夫々自分の宗教の長所を語り合うのであるが、彼は仏典はもとより儒教にも道教にも憧憬が深かった事が分かる。その教えは歯切れ良く特に感動させられる点は他の2教を否定せず夫々の良さを認めた上で仏教の中にそれ等を採り入れ、あらためて仏教の良さを主張している事である。講師としてはキリスト教のものの考え方においてもこの様な思索の進め方をする事が正しいと確信している。西洋には信仰のみ、聖書のみ、或はキリスト教のみを主張して、信仰生活と日常生活とが繋がらなくなる現象が多々見られるが、世の中には素晴らしいものが一杯在るものだ。それにも拘らず「純粋」の名の下に馬車馬の様に目を隠し、まっしぐらに聖書の教えに従って進み、草花や樹木、浄化された空気等を顧みず天国へ直行する人がいる。不条理の世界と混じり合うまでに神が降りてきて救いを考えているというのに実にもったいない話だ。

  空海が行った真言密教の集大成は十住心論である。十の心が住み着いている処の意味で?本能 に始まり、?―?は世間道として儒教、道教もここに入る。?―?は小乗仏教、?天台、?華厳、?真言密教とし、当然自ら信ずるものを「究極」としているが、しかしその他も全て捨てていない。この思考方法を肯定する講師が更に続けるとすれば??にキリスト教を登場させるであろう。キリストの十字架と復活により救われる事(それは神話かもしれないが)を信ずる者として当然の思索の在り方である。

  十住心論で?―?は顕教、?のみを密教としている。真言密教を信じられれば他の全ては素晴らしいのである。9つの顕教等、空海にとってはあらゆるものは排斥されない。同じようにキリスト教も他の信仰や思想を採り込めるものと成らなければ駄目だと思う。相互愛も正義もキリスト教の中で場所を得て捨てられない。又捨てる必要も無いのである。キリスト教を信ずる事でそうしたものを自分なりに豊かに受け止める事が出来る。一例として大乗仏教では釈迦の骨を塔の中に分けて舎利を礼拝する様になった。小乗仏教では小我は大我(釈迦)と繋がる事で、ヒンズー教に収束されてしまい、インドで絶滅した。つまり釈迦は向こうに対面している釈尊でないと人格対人格の対話が出来ない。釈尊は自然死したがイエスは31歳―32歳位で十字架に架り死んだ。イエスに引かれるのは当然であるが、釈迦の言葉にも引かれる。この世は迷いの世界であり、解脱、空、無、真如(在りの侭の現実:実相)等、迷いの世界から仏を仰ぎ見て離脱する大乗仏教と、神秘主義に逸れていった小乗仏教との違いがここに在る。キリスト教も虚無の世界(不条理、悪魔)から愛の世界に解脱することが語られて居り、これは色即是空、空即是色と同じく、不条理と神が衝突し、不条理の中に在る人を解脱させる事が教えの中心となっている。 大日如来は光の世界から闇の世界を照らし、闇の世界(迷い)から光の世界に導かれる。この点はキリスト教も同じで、実は人間が生きる事の讃美を行っているのである。





3. 神、人間、この世   

 創世記2:1―25の中で特に19―20節に注目されたい。言葉は重要な意味を持ち、人間は動物に名をつけ、動物を支配する事になる。これは神が人間に委ね、命令された事として意義がある。キリスト教は 神|人間→この世、動物 の関係の中で18世紀以降 科学思想を生み出して来た。この事は「この世」と「人間」とが一つではなかった事を示して居り、勿論 神を自然現象の中に見る汎神論ではなかった。もし汎神論の下で自然崇拝を行えば、戦後東京を襲ったキティ台風の例を見るまでもなく自然の猛威の意味を説明する事は出来ないであろう。これ一つ採っても 自然≠神 である事は明らかだ。

 地球は本来神に委託された人間の支配(管理)下に入ったのだが、環境破壊や自然汚染は神抜きによる人間の地球支配という奢りと失敗との見事な典型である。仏教の中に仏と地球を混同する傾向が見受けられるが、自然は神でも仏でもない。

  アガペーによる相互愛の活性化とそれに準じた正義の健全化が我々に教える事は、人間が自力で万有の支配者になると必ず間違いを起こす。神に委託され、神と対話し、その指導を受けながら自然を管理する時に初めてその責任を全うすることが出来る。これがこの個所の神話の意味である。人間が生きる意味は成功、快楽、権力等この世から受けるものではなく、本来神から与えられるものである。鎌倉龍ノ口で観音経(法華経巻第八)を唱えた日蓮上人を死刑執行人が遂に切れなかった様な奇跡は、そう度々は起らないであろうが、serene obscurity(心静かな無名性)といった言葉で表現し得る静かな、しかし堂々たる生涯を送る人は神に委託されてこの世を管理する資質を与えられている者と言えよう。

 目立たず出しゃばらず、権力を振り回さず、神に愛され、神と対話し、神と自分との関係を大切にした人こそが神から人間存在の意義を与えられ幸福を感じてその幸せを人に分ち、世の中をよく管理し得る筈だ。人間とこの世との間は、あくまで科学的な関係として理解すべきであり、奇跡が起ることを期待してはいけない。フリードリッヒ・ゴーガルテン(Friedrich Gogarten:独プロテスタント神学者)のDer Mensch zwischen Gott und die Welt(神と世界との間に立つ人間)という思想は 大切である。しかし、人間とこの世の間に神を持って来てはいけない。

  日本ほど動物を虐待している国は珍しい。人間は動物が健やかに生きられる様に管理(世話)することを神から委託されているのだから犬を犬の侭、猫を猫の侭の形で愛することが大切である。ベルジャエフ(Nikolaj A Berdyaev :ロシアの哲学者)は愛猫も天国に来ないと幸せではないと言っている。我々は神との対話に基づき、神に委託された場面でベストを尽くし、地味にではあっても、これが正しいと思われる事をこつこつとやる事が大切である。





4. 楽園喪失(善悪を知る)   


 創世記3:1―24でエデンの園の中心に「善悪の知識の木」、「命の木」の2本の木が植えられていたのだが、もしも善悪の知識の木の実を取って食べなかったなら善のみしか知らなかったであろう。しかしエデンの園から追放された後ユダヤ民族の時代となり、イエス キリストにおいて人類は、永遠の生命を得て善悪を深く深く知る体験をすることになる。

  蛇は換言すれば不条理を意味し、人間は不条理に誘惑され易い。善悪を知る事は永遠の命を知るための前提となっている。善悪を知る事は神の処へ戻って来ることを意味する。つまり人間は不条理を通過しないと神の元には帰れないのである。善悪を知るとは不条理の怖さや魅力に負ける事であり、この体験をしないと神の愛は解らない。それは単なる知識ではなく愛とはこんなものだったのかと人間の凄まじい自分の罪との闘い、更には人の罪を赦す事の難しさを体験し、善と悪との混交を契機として神から逃げ出すのだが、それは又神に戻ることに通ずるのである。善悪を知るとは精一杯人生の喜びと悲しみを味わい体験することであり、その後でやっと神の処に帰ることが出来るのである。

 人生の目的は万有救済である。では何が悪で何が善なのか、それは愛にそぐわない事が悪であり愛と一致することが善なのである。万巻の書物を読み、人を不幸にした苦しみや悲しみを全存在で感じ取った後、serene obscurity に徹する事が大切である。世の中の仕組みの中で、我々は神の行為と不条理の誘惑との混交、衝突、妥協を体験しながら生きるのだ。このせめぎあいの中を生き抜いて我々は神の元に帰るのである。神は愛においては何でも出来るが、制限がある。つまり大空襲や広島・長崎・神戸の災害等の暴力をも含めて何でもが出来る訳ではない。神の愛の凄さは我々が神を捨てゝも捨てゝも根負けした揚句救われ、神の元に帰る所に在る。

 神を呪い、自己満足を追求して生きる生き方があるが、そうしても一向に楽しくない。聖書には輪廻転生を語っている箇所があり、樽の中で生きるハンセン氏病患者が感ずる不条理への恨みや憤りはいやと言うほど味わい尽くされている筈だが、これらを心底から とことん味わい尽くした上で神の愛の全能を信ずるのである。

  次回はローマ書6章に進み、霊なるキリストがパウロにとってどういう意味を持つかに就いて学ぶ。





             99.12.14  秋期第5回目の記録は以上  文責:當麻


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