ジョン・ウェスレーに於ける義認と聖化1




 我々の日本キリスト教団が、真実に教会であるという告白がなされるためには、信条の一致を必要とすること論をまたない。而して、信条の一致を見るためには、飽くまで、神学的に旧教派の伝統を顧みねばならないであろう。而して、我々は、此の伝統を造りあげるに偉大なる力を供給した三人の偉人を知り得る。それは、ルター、カルヴィン、ウェスレーであると云う事に就いては、恐らく異論がないように思われる。さて、我々の教会の先輩諸氏により、ルター、カルヴィンの稔多き研究がなされた事は周知の事実であるが、未だ、ウェスレーに関して、神学的な研究がなされた事は極めて少ない。伝記的な研究に於いては、既に多くの貢献がなされたのであるが、併し、一般的に見る時、ジョン・ウェスレーは日本に於いて、不親切なる待遇を受けているように思われる。併し、真実に教団が教会であるためには、彼を研究する事は必須である。

 ウェスレーの神学を研究する資料は、勿論彼の多数の著書であるが、我々が常に念頭に置くべき事は、彼の著書は、未だ神学的には充分に反省せられずして書かれていると云う事である。彼の信仰のパトスは充分にロゴス化せられずしてあるが故に、表面的な言葉使い、表面的な理論的、相互的矛盾を超えて、彼の信仰の本質にまで迫り行かねばならない。其処にウェスレー研究の面白味と同時に困難とがある。

 さて、従来日本に於ける神学的なウェスレー研究を見るに、先ずバルトの強い影響の下に立つ人々からなされたる、彼の信仰の本質を体験主義的、心理主義的となす観方がある。併し、此の場合、体験主義的、心理主義的なる言葉の意味内容が問題である。啓示が、具体的なる人間に於いて、一の事件として生起する以上、其処に人間の側の体験的な、又、心的な事柄が存在するのは当然であり、それをも不可なりとするならば、信仰と云う生命的な事実を、現実の彼岸に押しやる事に外ならない。それ故、我々は啓示――その具体的な場所は聖書であり、其処に於いて啓示は起るのであるが――啓示の下に於ける、聖書と結びつけられたる体験的、又、心理的な事実を否定することは出来ない。それ故に、それらの人々の側より不可なりとせられる体験主義的、心理主義的なる言葉の意味内容は、聖書と並置して、信仰の権威の處在とし、自己の体験的、心理的事実を権威づけるという事であろう。若し、そのような意味に於いて、ウェスレーの信仰の本質を体験主義的、心理主義的となすならば、彼の神学の周辺に幾分そのような傾向を認め得るとしても、それは誤謬を犯す事になるであろう。更に、「プロティヌス哲学とカントの批判哲学の上に」、又「シュライエルマッヘルを深く理解することによって」(註1)、ウェスレー神学の本質に迫らんとする試みも、あまり多くの成果を期待し得ないであろう。然らば、我々は彼の信仰の本質を何処に求むべきであろうか。我々はむしろ、ウェスレーの信仰の系列を、ルター、カルヴィンを結ぶ延長線上にあるものとして理解すべきではなかろうか。その時にのみ、我々は最も深く彼の信仰の本質を掘り下げ得るであろう。我々は此の立場に立って、彼の神学に於ける義認と聖化の問題を取上げて見よう。





(註1)比嘉保時著『ウェスレーの神学』2頁



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