ジョン・ウェスレーに於ける義認と聖化4




 以上、我々が彼の回心に就いて、相当長い叙述を費やしたのは、本論の義認と聖化とに入る前に、彼の根本的な信仰体験を探求する事が必要であると思われたからである。いよいよ中心的な課題に入るにあたり、彼の人間観、罪観より入って行きたい。

 ウェスレーは、人間を先ず神によって造られたるものとして見、「神より出で、神にまで帰りつつある霊」(註1)となした。「そして、神、三一の神は言い給うた。我等に象りて、我等の如くに、我等人を造らんと。そのように、神は人を彼自身の像に於いて造った。彼は彼の像に象って人を造り給うた(創世記1:26-27)。ただ単に、神の血気の像に於いてのみでなく、彼自身の不死の姿に。理智と、意志の自由と、種々なる性情とを付与されたる霊的存在として。ただ単に、海の魚と全地との支配権とを持って此の低き世界の支配者として、政治的な像にのみでなく、主に、使徒の言葉に従えば、それは義と真実の聖とであるところの道徳的像に象って造られたのである(エペソ書4:24)。人は神の此の像に象って造られた。神は愛である。従って、人は造られた時には愛に満ちていた。愛が彼の全ての気質、思い、言葉、行為の唯一の原理であった。神は正義、恵み、真実とに満ち給う。人も創造者の御手から出て来た時にはそのようであった」(註2)。その時の人間は、「理解力や愛情に於いて、何ら欠けなきものとして造られ」(註3)、「その時、肉体は心に対して何ら障壁物でなかった」(註4)。ウェスレーによれば、肉体は神により造られたものであり、悪しきものではなく、「それは、全ての事柄を明白に理解するに、それらに関して真実に判断するに、若し、少しでも理路を辿るならば、正しく理路を辿るに、妨げとはならなかった。”若し理路を辿るならば”というのは、多分理路を辿らなかったから。多分朽ち易き肉体が心を圧迫し、そして、心の本来の能力を損ずるまで、理路を辿る必要はなかった。その時まで、心は提供せられたる真理を、眼が光を見る如く、直接に見たのであろう」(註5)。それ故に、人間は正しく神の意志を知り、神より与えられたる自由意志によりそれをなし得ていた。「併し、人は神の像に象って造られたのではあるが、尚彼は変わらぬものとしては造られなかった。若し、人が変わらぬものとして造られたならば、それは、神が其処に人を置くを喜び給うたところの、試練の状態と矛盾したであろう。それ故に、人は立ち得るように造られたが、尚倒れ勝ちなものとしてである」(註6)。それ故に、「人は、栄誉の中に留まらなかった。彼は、彼の高き状態より落ちた。人は、神が汝それから食うべからずと、彼に命じ給うたところの木から食べた。彼の造主に対する不従順の悪しき行為によって、彼の君主に対する純然たる反逆によって、彼は明白に、彼がもはや神をして、彼を支配せしめないという事を、彼が彼を造り給うた神の意志でなく、彼自身の意志によって支配されるという事を、そして彼の幸福を神自身の中に探ねずして、世の中に、彼の手の業の中に探ねるという事を、宣言したのであった(註7)。「そして、凡ての人、全人類、其の時にアダムの腰にあった凡ての人の子達は、アダムに於いて死んだ。此の必然的な結果として、彼の後裔である凡ての人は、霊的に死んで、神に対して死んで、全く罪の中に死んで、世の中へ出で来る。全く神の生命なく、神の像なく、アダムが造られたところの凡ての義と聖となく、出で来る。その代りに、世に生れ出ずる凡ての人は今や、誇りと、自我意志とに於いて、悪魔の像を誉っている。感覚的な肉欲と、欲求とに於いて、動物の像を誉っている」(註8)。これによって見る如く、ウェスレーは人類の全的堕落、及び原罪の教義を採用し、此の点に於いて非常にカルヴィン的である(註9)。当時の傾向が、知的にも、道徳的にも、人間の自然的価値を高調せるに対して、彼は最後まで人間の堕落を高調した。彼にとって、人間の堕落こそは啓示宗教の基礎であった(註10)。彼の全的堕落の主張は、彼をして、単なるアルミニアン主義者とし、又、浅薄なる罪観を有する者となすを根底からくつがえすであろう。次の如き言葉は全くカルヴィン的な色彩を持っているではないか。「それ故、我々は第二に、次の事を学ぶことが出来る。それを原罪と呼ぼうが、又、何らか他の名を以て呼ぼうが、此の事を否定する凡ての人は、キリスト教から異教を区別する根本的な点に於いて、尚異教徒に過ぎない。彼等は一歩を譲って、真実に、人々は多くの悪徳を持っていることを許容するかも知れない。従って、我々が、我々があるべきように賢く、又、有徳には全く生まれていないという事を許容するかも知れない。而も尚、厳しく、我々が悪へ対すると同様に、善への性向をもって生まれている事、そして、生まれながらにして凡ての人は、アダムが造られた時にあったように有徳であり、賢くある事を主張する人もある。併し、合言葉がある。人は生来あらゆる種類の悪に満ちているか、彼は凡ての善に欠けているか、彼は全く堕落しているか、彼の霊魂は全的に腐敗しているか、又はテキストにかえって言えば、彼の心の凡ての思いの郷関は不断に悪であるか。それを許容すれば、あなたは其の限りに於いてキリスト者である。それを否定すれば、あなたは尚異教徒に過ぎない」(註11)。

 以上の如きウェスレーの深い罪悪観は、理神論の盛んな当時に於いて、驚くべき事と言わねばならない。此のような罪深き人間は、自力を以て如何にするとも救われ得ない。自力を以てしては、罪の最も小さきものをも償い得ない。又、人間は自己自身の罪の深きをも知り得ない。「なぜなれば、あなたの現実の罪は、あなたが言い表す事の出来るよりも、又、あなたの頭髪よりも多いのであるから。誰が海の砂と、雨の滴りと、あなたの罪を数えることが出来ようか」(註12)。此の点、ウェスレーの罪観は、ルターの戦慄した自己追求の悪魔的意志が、無意識的な程の深さに於いてある事にまで及んでいる。





(註1)私は考えた。私が空を飛び行く矢の如く人生を過ぎ行く一個の生物である事を。私は神より出で、神に帰りつつある霊である。Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.6
(註2)Ebenda Vol.?p.400
(註3)Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.25
(註4)Ebenda chap.25
(註5)Ebenda chap.25
(註6)Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.400
(註7)Ebenda Vol.?p.400
(註8)Ebenda Vol.?p.401
(註9)ウェスレーは原罪の教義を此処に見る如く力説しているが、カルヴィンの原罪遺伝説を攻撃している。「我々はアダムの罪のために、悪への傾向性をもっているが、しかし、此の傾向性はキリストの義によって恩恵を招来するという条件の下に成立するものである。人間が罪人であるということは、人間が被創物としての自らの立場を忘れ、神の恩恵を無視したという各個人の堕落に基づくものである」Wesley ; "Doctrinal Standard?" p.436
アダムにより遺伝せられたのは、罪への傾向性であり、罪を犯すのは各個人の責任である。例え幼児といえども、その各個人の責任に於いて罰せられる。アダムの後裔は凡て生まれながらに、各個人の責任に於いて死に値している。「人祖アダムの罪のために地獄に陥るような幼児は過去に於いて一人も存在しなかったが、将来に於いても又、アダムの罪のために地獄に陥るような幼児は一人も存在しないであろう」Wesley's Works X? p.437
併し、此等のウェスレーの言葉はカルヴィン主義との予定論論争のための言葉であり、後に見る如く、ウェスレーの予定論に対する態度を正しく把握する時、此等の言葉はあまり重要性を彼の神学に於いて持っていない。併し、此処にウェスレーが、各個人の責任を強調せる事は注意すべき事である。
(註10)「人間の堕落こそは啓示宗教の基礎である。若しこれが取り去られるならば、キリスト教体系は覆され、巧みに案出せられし寓話と云うほどの名誉ある名さえも受ける資格を失うであろう」Wesley's Works ?p.176
(註11)Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.398
(註12)Ebenda Vol.?p.65




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