野呂芳男「研究の進展」(1)-3

 この段階で、カブのウェスレー神学に関する貢献について、触れておきたい。カブは世界的に著名な、いわゆるプロセス神学者である。プロセス神学についての詳細な叙述は拙著『神と希望』(1980年、日本基督教団出版局、30頁以下)に譲ることにして、ここではやむを得ない場合にだけ触れることにしたい。カブの『恵みと責任―今日のためのウェスレー神学』(5)は全く彼のプロセス神学の立場から理解されたウェスレー神学だと言ってよい。彼の意図は、ウェスレーの神学をもう一度客観的に紹介するところにはなく、むしろ現代のわれわれに役立つものとしてウェスレー神学が提供してくれるものが何かを探るところにあるのだから、これは当然であると言えよう。そのために、これ迄の研究では余り注目されなかったウェスレー神学の局面がカブによって光を当てられ、改めてウェスレー神学が、例えば宗教改革者たちとは違って、現代のわれわれに示唆するところが多いものであることに気づかされたりするとともに、現代の状況とウェスレーとをカブの仕方で結びつけることはウェスレー神学を歪めてしまい、現代状況を救ってくれるのではないかと私などが考えているウェスレー神学の局面が、カプによって捨てられているのではないかとの思いを持たされたりする。『恵みと責任』という書物の題名が告げているように、神がイエス・キリストにおいてわれわれを救って下さるという恵みとそれを信じる人間との関係が、ウェスレーにおいては他の宗教改革者たちとは違って、予定論的には考えられていなかったことが、カブによって先ずウェスレー神学の特色であると指摘されている。

 神だけが排他的にわれわれの救いのために働いて下さるというルターの思想にしても、われわれの救いは永遠の昔における神の予定によって定められていたものが現実になったに過ぎないというカルヴァンの思想にしても、自分の救いに関しては人間は積極的に何の貢献もできないという思想である。ホイットフィールドによって代表されたこのような思想に、ウェスレーが真っ向から反対したことは、この拙著の第一章「生涯」(七)「伝道生活の開始とホイットフィールド」において既に述べたが、その反対の神学的根拠となっていたものが第三章「人間論」(二)「人間の中における神の像と先行の恩恵」で述べられているウェスレーの先行の恩恵の思想であった。

 後で述べるつもりであるが、この先行の恩恵の思想がランヨンにおいては十分に取り上げられていないとの感想を私は持っているのであるが、カブの場合にはむしろこの思想にすべてが集中されており、ここからウェスレー理解がなされているように思える。私には両者ともに、ウェスレーが持っていたバランスを崩してしまっていると思えて仕方がないのである。既に検討してきたように、先行の恩恵というウェスレーの思想は、アダムの堕罪によって全人類や、その結果として被造物の全てが、神との交わりから原罪と死の世界に転落してしまった時に、神は人間及び他の被造物をそのような惨めな状態に放って置かず、イエスの贖罪の業の前にも、それに先行し、それに向かって人間を準備させる意図で恵みを与え、堕罪によって壊された人間の中の「神の像」をある程度ではあるが回復して下さっているということを意味した。

 堕罪によって汚れてしまった生まれながらの人間性(human nature)には、もはや悪に対して善を選ぶ自由意志も良心もなくなってしまっているのであるが、人格としての人間(personality)には、再びある程度の自由意志と良心とが先行の恩恵によって与えられ、それによって人々は、なんとか互いに住んで行くことのできる社会を構成し、また、キリストにおける罪の赦しの福音を受け入れる心の準備をなし得るのである。いわゆる自然的良心と言われているものは、ウェスレーの考えでは、まさに先行の恩恵そのものなのである。

 カブが述べている以上の先行の恩恵についての叙述は、読者にとっては既に読んで下さった事がらの言わば復習であるが、次にカブはスターキー(Lycurgus M. Strakey)の研究に負って、ウェスレーにとってはこの先行の恩恵がそのまま聖霊の働きとして見られている、と言う(6)。この指摘の後、ほんの数頁ではあるがカブは教会史における聖霊理解の変遷に触れて、その上でウェスレーの聖霊理解の特色を明らかにしているけれども、これはなかなかに貴重な、教えられるところの多い部分である。私はウェスレーの神学を、教会史上の聖霊運動に悼さしたものとして(7)把握してきたが故に、カブの理解には共感するところが多々ある。ウェスレーが人間に対する聖霊の働きを、キリストを信じて罪の赦しを得た信者だけに限らなかったことは歴然としている。従って、カブが「神との関係は、われわれの存在の構成要素である」(8)と言っても、別に異論を持たないけれども、しかし、この言葉はカブのウェスレー理解の特徴を表していて、とても興味深い。この言葉が表現しているのは、人間のすべてが、神やキリストを信じる信じないに拘らず、存在しているそのこと自体で既に神のお陰をこうむっているという事実である。誰もが持っている理性や良心などは、自然のものではなく、神の聖霊の働きによる。そうであるならば、われわれの存在に初めから神は構成要素として内在している(immanennt)というのが、カブの主張である。

 この神の内在の主張は、カブのプロセス思想から来ている。プロセス思想は哲学者ホワイトヘッドの思想に沿った世界観に立っているのであるが、人間の歴史(時間の流れ)や自然、つまり宇宙全体を見る一つの見方を持っている。この見方によると、宇宙全体が一つの有機体として見られ、しかもその有様体は種々の存在物、自然の事撒や人間などが変化しながらも互いにその折々に織りなす深い関わり合いに基づく調和を形成している。人間も物体も、心的な極と物的な極とを持つところの存在であって、本質的には変わりがない。時間の流れの中で変化しながらも、すべての存在するものが互いに調和を織りなして行くことを考えてみると、人間や他の存在が持つ自由な動きを、ことごとく瞬間々々に察知しては、それぞれがなす動きを互いに調和させて行く先導役あるいは調整役を実践する、ある現実の力がこの世界の中では働いていると言わざるを得ないのであって、ホワイトヘッドはこれを神と呼ぶ。

 ホワイトヘッドの言う神は、正統主義的なキリスト教神学が主張するような意味での創造者でも超起者でもない。無から天地万物を創造する神、時問とは質的に全く異なった永遠の中に住む神ではなく、ホワイトヘッドの神はこの時間と空間の中で働く一つの存在なのである。そしてカブはホワイトヘッドの主張するような神こそが、イエス・キリストの中で啓示された、キリスト教神学が主張しなければならない本当の神であると言う。このようなカブのプロセス神学の立場から見れば、ウェスレーはルターやカルヴァンとは異なり、先行の恩恵やその後に続く罪の赦し、また、完全の追求において、人間の中で働いて下さる聖霊なのである。ウェスレーはちようどホワイトヘッドと同じように、人間の自由意志を損なわずに完全の聖化まで人間を導いて行く、時間の中に内在する神を強く主張した神学者となる。ところで聖霊の神学であるウェスレー神学は、例えばルターやカルヴァンとは違って、確かに時間の中での神の内在を中心としていると私も思う。しかし、神から超越性を全く切り捨ててよいかという点では、私はカブには同意できない。

 だが、プロセス思想に忠実なカブだからこそ、これ迄のウェスレー研究者には見えなかったウェスレー神学の幾つかの局面が見えてきたことも否定できない。今日の環境問題との関係で、人間以外の動物に対するウェスレーの態度を高く評価している点などもそうであるが、この点でのカブの貢献は大きい。更に例を挙げるならば、ウェスレーと神秘主義との関係についてのカブの指摘も見逃せない(2)。ウェスレーによる内在する聖霊の働きの強調が、他の人々には熱狂主義と映り、そのために彼は攻撃に晒されたのであるが、ウェスレー自身も熱狂主義が嫌いで、それから自分の立場を区別するのに懸命であったことは周知の事実である。そして、熱狂主義は神秘主義と混同され、ウェスレーも神秘主義を遂にはキリスト教の敵として非難するに至った。ウェスレーと神秘主義との関係については、私もこの小著の第一章「生涯」(三)「第一の回心前後青年時代−1」の中で取り上げているが、そこでは神秘主義に対するウェスレーの嫌悪の理由として、最終的に神秘主義では人間が神と融合してしまい、神と人間との区別がなくなってしまうとウェスレーが感じ取ったことを挙げている。この点で私は自分が間違っていたとは思わないが、カブの理解を利用させて貰うと、神秘主義に対するウェスレーの態度が更に明瞭になるように思う。

 カブによると熱狂主義は、神をいつも人間の外に考えており、その神が人間の中に入って行き、人間の魂を占拠してしまうことなのであるが、ウェスレーの宣教を熱狂主義であるときめつけ非難した人々は、ウェスレーを神によって憑霊されることを善として説いて回っている説教者である、と見なしていたことになる。ところが、ウェスレーには元来神が全く人間の外にあるという発想がなく、本来神の働きがなければ人間の人格が成立していないのであるから、信仰を深めたり、聖化を追求することは悪霊現象とは全然別個の事がらなのである。従って、ウェスレーも熱狂主義を非難したのだが、カブによると、そのことはウェスレーが生涯に渡って、深く神秘主義的であったことを妨げないのである。

 カブによる熱狂主義と神秘主義との区別、また、ウェスレーと神秘主義との関係に関する考察からは、私も多くを教えられ大変有り難く思うのであるが、ただ私としては読者に次の点を注意していただきたいのである。ウェスレーの言う先行の恩恵は人間の中に内在し、そのお陰で人間が今の人格を形成していることはカブの言う通りであるけれども、ウェスレーにとって先行の恩恵は飽くまでも神の働きであって、人間性に本来属するものではないが故に、もしも先行の恩宙や聖霊の働きが人間性と少しでも混同されるならば、そのような意味での神人合→が語られるならば、それは矢張りウェスレーの非難を受けることになる。

 カブのプロセス神学では、歴史や自然に対する神の超越性が語られていないので、この書物の中では歴史の終末や永遠の命などの、従来の研究が取り上げてきたウェスレー神学の面が論じられていない。確かにカブは終末論との関係で、ランヨンのウェスレー解釈を高く評価してはいるが、それは飽くまでもランヨンがウェスレー神学を今日の解放の神学と接近させ、この地上で正義が実現されることをウェスレーは期待していたとする点、つまり、歴史の中で人間が正義に則った社会を実現するべく努力しなければならないという点だけの強調であり、しかも、ランヨンのようにはその実現を信じることがキリスト教の本質に属すると考えている訳ではない。正義を実現するための努力は、信仰に生きる人間の当然の義務であるが、それによって正義の社会が本当にこの地上よ実現すると信じることは、カブによってわれわれは要求されていないのである。後で明らかにするつもりであるが、私も実はカブのように、正義の社会がこの地上に実現することを信じるユートピア思想とキリスト教は違うし、ウェスレーの福音理解もその実現への信仰をキリスト教信仰にとってなくてはならないものとは把握していなかったと考えている。カブが「神の国へ至る道」(The Way to the Kingdom)というウェスレーの説教を引用しながら(10)、ウェスレーにおいては神の国は内的な「真の宗教」のことであると言う時に、私も賛成なのである。ただ、カブの場合には、この地上での神の国の実現の間題だけではなく、あらゆる神学の局面においてこれ迄の超越性をキリスト教から取り去ってしまっている点が私には承服できないのである。

 ウェスレー神学の理解においては勿論のことであるけれども、今日のキリスト教理解においても、これ迄の神学が取り上げてきた神の超趣性が神学における不可欠の要素であると私は考えているので――この点は拙著『神と希望』(日本基督教団出版局、1980年)をお読み下されば幸いである。この書物全体が、この点に関する私の思索での長い苦闘の結果なので。――、カブが取り上げているウェスレー神学の面で、超越性の間題がどうしても絡んでくると私には思えるものに、ここで少し触れておきたい。

 まず私が取り上げたいのはこの小著の第一章「神学的認識論」全体に関連し、特にその(三)「啓示と理性」に関わる問題である。カブはこの問題を論ずるに当たって、キリスト教思想史上の二つの大きな流れ、つまり、アリストテレス的な流れとプラトン的な流れとをウェスレーが独創的な仕方で結合した、という大変に深い洞察を披露している(11)。カブだけではなく、多くの人々によってよく言われることであるが、キリスト教の思想史には、人間の感覚経験を神を知る手段とするアリストテレス的な流れと、神は感覚経験によらずに直接に直感によって知られるとするブラトン的な流れがある。カブは、ウェスレーがアリストテレス的な伝統に接したのはオックスフォ-ド時代のことであり、この伝統は更にロックの哲学を通してウェスレ-に深く根を下ろしていった、とする。読者が既にご存じのように、ウェスレーの神学は聖書と理性と体験の上に構築されたものだが、聖書の中に書かれている律法などは、社会における体験を通して人間が理性的に知ることのできるものであり、律法を犯した良心の呵責は、信者でなくても先行の恩恵によって持つものなのである。神が創造された世界を、また、社会を、感覚的に体験することによって、人間はある程度ではあるが神を知ることができる。ウェスレーはこのような自然神学を排除しなかった。

 また、ウェスレーは。フラトン主義的なキリスト教の理解をケンブリッジのプラトン主義義者たちを通して知った、とカブは言う。ケンプリッジにはヘンリー・モア(Henry More)やラルフ・カドワース(Ralph Cudworth)のような、プラトン及びプロティノスの哲学に影響された一群の人々がかつて存在した。確かにウェスレーはこれらの人々のプラトン主義にカブの言う通りに影響されたであろうが、しかし、ウェスレーに対するプラトン主義的キリスト教の影響について語るならば、アウトラーの指摘するように先ずニケア会議前の東方教会の神学者たちや、アウグスチヌスなどの西欧教会の神学者たちを挙げねばならないだろう。それはとにかく、プラトン主義的キリスト教の流れは、霊的世界については人間は感覚経験に頼らずに、自己の内面に深く沈潜することによって知ることができると主張する。

 この小著第二章「神学的認識論」(三)「啓示と理性」の中で、私はロックの経験主義的哲学の認識論とウェスレーの神学的認識論との間には密な関係が存在することを指摘した。ロックは人間の心を白紙のようなものと考え、感覚経験を通して外界の事物の刺激が入り込んできて、まるで白紙の上に文字を書くように心に印象を与え、やがて心の中には観念が生まれてくるとした。私は前述の箇所でウェスレーの説教を引用し、彼がロックの認識論と呼応する形で、人間が神の事がらについて初めは知らなかったのに、神の霊の働きによって人間の中に神の声を聞く耳、神の働きを見る目などを(白紙のように何もなかったところに)改めて与えられる、と考えていたことを述べた。つまり、ウェスレーの考えでは、先行の恩恵が確かに人聞を準備して下さってはいるのだが、キリストによる罪の赦しや、人間への永遠の命の授与などに関する福音については、聖書において与えられている啓示に依存しなければ人間は相変わらず無知なのである。ここには、(既に先行の恩恵のお陰を被っている)人間の日常的な体験と、聖書によって与えられる啓示との区別が明らかに見られるのであり、ウェスレーの認識論は二重構造となっている。この二重構造を成り立たせているそれぞれの構造が、互いに矛盾することなく調和を保って共存しているのがウェスレーの認識論の特徴であるが、カブはこの内、感覚経験に頼る認識の仕方をアリストテレス的であるとし、新たに神の声を聞く耳を与えられるような信仰的体験をブラトン的であるとして、ウェスレーは独特の仕方でこれら二つの神学史上の流れを統合したのだ、と言う。成る程カブの言う通りであると私も思うけれども、ウェスレー神学が持つこの調和的二重構造が今日においては却って、キリスト教を人々に信じて貫うのに邪魔となっているとカブが主張して、感覚経験を深く分析し理解すれば、キリスト教の信仰にとって十分な真理が得られると言い始めると、乱はカブに付いていけなくなってしまう(12)。

 カブはプロセス思想を神学に導入すれば、すべての人でが経験する同じ感覚経験の中で、信仰まで導くような体験も得られる、アリストテレス的なものばかりでなくプラトン的なものも、世界の中でのわれわれの生活経験において獲得できると言いたいのであろうが、このようにして得られる神やキリストにっいての信仰は、これ迄のキリスト教神学が与えてくれた真理から比べると貧しいものではないだろうか。ウェスレー神学を今日の状況に適合させようとのカブの意図は尊重するけれども、福音を貧しくしてしまう必要はなく、ウェスレーの二重構造の方が豊かな福音的な真理をわれわれに与えてくれる。カブのような立場では、われわれ個々に与えられる永遠の生命、死後の命について十分に語り得るとは到底私には思えない。

 カブの神学におけるウェスレー的二重構造の否定は、神をどのように考えるかにまで影響を及ぽしてくる。いかにもプロセス思想に立つ神学者らしくカブは、神が人間や他の被造物、特に人間に起こる事がらによって影響されると主張する。そして、その問題との関連でウェスレーを取り上げ、神に影響を与える事がらの内で、喜ばしい事がらには神が共に喜んで下さるが、人間の悲しみや苦しみについては、神は共に苦しまれることはないとウェスレーが言ったことに、カブは不満を表明する。カブは、これはウェスレーに対する伝統的神学の神の不受苦性の教理からの影響であるとして、神には苦しみがないというこのようなウェスレーの考えを否定するようにわれわれに勧めているが(15)、神のすべてを時間の流れの中で把握しようとするカブの一元的構造――二重構造の否定――が、ここでも顔を出していると言える。この小著の第五章「キリストの業」(三)「祭司なるキリスト」において、私はウェスレーにとっての神の不受苦性の教理の重要性を述べ、それが彼の完全の教理や救いの考え、すなわち、完全や救いは人間における聖潔と幸福との融合であるという思想に基づいていることを述べた。もしも神のすべてが時間の流れの中に埋没しているのであれば、人間などの苦しみに共感して神もそれと同じように苦しむことになる。否、神の愛から来る共感は人間の想像する以上に強烈なものであろうから、苦しんでいる被造物そのものよりも神の方が強く苦しんで下さることとなる。自分のためにそんなに神が苦しんでいるのを知って、人間は――信仰ある人間であれば尚更のこと――幸福に安住できるであろうか。神を苦しめるくらいなら自分を消滅させる方が、まだましなのではないか。神が人間などの苦しみに共感して下さることを、神の苦しみとして比喉的に語るのは許されるかも知れないが、神には時間の流れに埋没してしまわない超越、深みの次元と言ってもよいようなもの、永遠の浄福が存在することを、ウェスレーに倣ってわれわれは言わなければならない。このような超越は、恐らく.ブロセス思想からは決して出てこないものであろう。



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