野呂芳男「日比野君の書評に触発されて」1991
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日比野英次君の書評に触発されて

野呂芳男

   

この文章は、 野呂芳男『キリスト教と民衆宗教』の書評(日比野英次氏、1991年) に答えて、このサイトのために書き下ろされたものです。(2006.03.19) この論文に対する 日比野氏による再反論 を掲載しました。(2005.04.15)  さらに 野呂芳男からの再々反論 を掲載しました。(2005.05.20)

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 昨年(2005年)10月に拙著『ジョン・ウェスレー』を出版したが、幸い多くの方々から好評をいただき、有難く思っている。本書には長年の間、私が考えてきたジョン・ウェスレーに関する思索を投入したつもりである。ジョン・ウェスレーに関する私の解釈は、何と言っても実存論的なものであることは読者が認めて下さっているところであるが、その解釈は、アメリカやヨーロッパの研究者たちとの対話の中で生まれてきた私独自の解釈であり、誰の思想にも追随したものではない。この解釈によって、私はこれまでのジョン・ウェスレー研究書には見られない解釈の展開をなし得たと思っている。

 また、拙著『ジョン・ウェスレー』で、ウェスレーを取り巻く神学的状況の中から、私は彼の神学及び生涯の特徴を描写し得ていると自負しているけれども、これは飽くまでジョン・ウェスレーの生涯・神学・思想を浮き彫りにしているということであって、あらゆる点でジョン・ウェスレーと同じ神学・思想を私が持っているということを意味しない。彼には彼なりの苦闘があり、またそれに対する成果があったが、しかし彼は、現代人ではないし、私でもない。私は、彼がほとんど問題としなかった状況や、現代という時代に直面している人間であり、そして組織神学者でもある。私は拙著『実存論的神学』などが表しているような、現代の諸問題と出会い、それと苦闘しながら組織神学者としての思索を深めてきた。

 『ジョン・ウェスレー』出版後、久しぶりに書棚を整理していたところ、たまたま『キリスト教学』第33号(立教大学キリスト教学会、1991年12月発行)の書評欄に、他の神学者たちの著作に対する書評とともに拙著『キリスト教と民衆仏教―十字架と蓮華』に対する日比野英次君の書評を見つけ、改めて読むことになってしまった。この書評は誠に鋭い書評であって、日比野君は実によく拙著を理解してくれていると言える。大変嬉しい書評である。そこで私はどうしても日比野君の、この批評に対して何らかの反応を示したくなった。しかしこれから述べる私の反応は、おそらく日比野君の気に入らないものであろう。それにもかかわらず私は敢えて「神の死の神学」に立つと宣言している日比野君の、合理的立場に反論したくなってしまったのである。しかしながら申し訳ないことではあるが、私は日比野君の、合理性による私自身への批判に対しては、正直のところ、あまり反論する気がないのである。むしろ彼の書評は、私がこの当時何を考えていたかを思い出させる役割を果たしてくれたのである。

 書評の中で日比野君は、いろいろの宗教の合理的・普遍的本質、つまりあらゆる宗教がそこから出てきたと思われる統一的本質を獲得しようとの試みを私が棄てて、むしろあらゆる宗教が私たちに見せている、百花繚乱の個々の花の美しさを尊ぶという態度を、無意味だと批判する。しかし私は今でも、そのような態度に固執しているのである。

 日比野君にはこれが、三島由紀夫的耽美主義、そして曖昧な立場だと思われるようだ。この私の態度が、彼の立場からみると、明らかに非合理的であり、かつ不可能な試みであると日比野君が私を断罪する。彼なりのヘーゲル的な合理性を主張する、合理主義者の彼にとっては当然だろう。しかし私にとっては、正直のところ、このような批判が痛くもかゆくもないのである。

 私の立場に関する日比野君の批判の中で、私のように各宗教の独自の美しさに言及しても、それは無意味だと彼が言っているのは面白い。そしてこれは単に、諸宗教の根源的同一性の追究の立場に彼が同調しているのでもないようだ。

 先日、久しぶりに日比野君が訪ねてきてくれたが、話の最中に「トマス・アルタイザーの『神の死の神学』に自分は今でも立脚して神学しています」と彼は言っていた。読者の中には「神の死の神学」をご存知の方々も多くおられるのではないかと思う。(私もかつて二、三の拙著の中で批判的に取り上げたことがある。)アルタイザーによると、キリストの十字架の出来事において、神は私たちに向かって立つ人格神であることをご自分の決意でやめてしまい、死んで人間の根底に受肉してしまわれたと言うのである。したがって神の死後、信仰者は自分の根底で神と交わることとなる。この立場では、これまでのキリスト教が与えてくれていた―私たちと対面する―人格神が失われてしまっている。神の恵みが人間の生死を超えて、初めから終わりまで、人間の内外にかかわらず、一人ひとりに対して完全であるという有難い信仰が、アルタイザーにはない。アルタイザーの場合には、正(人格神)・反(人格神の死)・合(人間性の奥底に内在するに至った神)というヘーゲル哲学的思弁に陥ってしまっている。この立場では、内在の神と尽きざる対話をし、自分の力で、その既に死んでしまった神の命令を自分の生や世界の中に実践しなければならないという仕方で、律法主義が入り込んでくる。

 日比野君はアルカディア(原初的理想郷)とユートピアとを区別して私に話してくれた。アルカディアはおそらく聖書神話のパラダイスの意味で使われているのであろうが、それを失った人間はユートピアを実現するために闘っていかなければならないと彼は考えているようであり、そこに彼が「新しき村」の運動に携わっている意味が存在するのだろう。しかしこのようなユートピア志向で困るのは、理想が実現できなくなった時なのである。

 ユートピアは必ず実現しなければならないのだろうか。それに近づくことができれば嬉しいに決まっているが、人間が自由な存在であるがゆえに、どれほど高められた個人や社会であっても、それを破壊する作用が働いてきて、完全な挫折でないまでも、理想の低められた状態に、いつかは陥落するものだと私は思う。

 神の愛の顕現をユートピアの追求や、その実現の追求に求めることよりも、ユートピアが実現しようがしまいが、このような人間の営みのすべてが、その達成いかんと関係なく、初めから終わりまで人格的な神の愛の中での出来事とみるのが「私たちは神の中にいつも初めから生き、働いている。(パウロの発言。「使徒言行録」17章28節。)」という人格神への信仰の方が、つまり聖書のキリスト教の方が、より深い信仰のあり方なのではないか。私が愛(め)でるキリスト教という宗教に固有の美しい花は、私にそのように語りかけていると思えてならない。

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 相変わらず私は、個々の宗教が咲かせている花の美しさに惹かれているのである。諸宗教を統合する原理とか、キリスト教の啓示の前に起こる絶対との第一の接触だとか、絶対無などというものは、今の私にとっても相変わらず興味がないし、無縁なのである。宗教と宗教との出会い、二つ(あるいは三つ以上でも)の、個々の宗教の美しさに、私は酔いしれているのである。

 八木誠一氏の統合の原理とか、滝沢克己氏の第一の接触とか、小田垣雅也氏の絶対無などの主張に見られる、諸宗教の根源的一致を追求する試みは、理性を至上のものとしないことには主張され得ないがゆえに、私には人間理性の絶対化と思えて仕方がない。マルキシズムを持ち出すまでもないことだが、人間の理性は社会的な経済構造によって支配されることもあるし、理性ではどうしても把握できない人間体験の深みもあるだろう。私は彼らの言うように、それほど理性を絶対的に信頼できるものとも思っていないし、それだけで人生が極めつくされるとは到底思えない。美的体験、つまりあるものを見て美しいと思い、それに深くのめりこんでいく体験は、これらの人々の言う理性の絶対視からは、生まれてこないのではないか。もちろん、理性の中に美的認識を挿入することを通して、理性を拡大解釈することは可能であろうが、それはもはやこれらの人々の言う理性ではない。
 個々の宗教が咲かせる美しい花に、宗教の深みの次元を置こうとする私のような立場によれば、それはそれなりの体験的理論を展開できるものなのである。

 日比野君は書評の中で、「接ぎ木」という言葉を使っているが、もちろん日比野君も知っているように、これはパウロの宗教の真理認識の方法のひとつであった。私はパウロのように、いくつかの宗教を接ぎ木する体験を通して、個々人の宗教が独特の色合いを呈するようになり、自分の信じる宗教がさらにこれまで以上に自分にぴったり適合し、自分の深い体験を形成してくれることがあり得ると思っているのである。パウロの場合には、周知のように、ユダヤ人の神が最初にユダヤ人を救ってくださり、その木に接ぎ木されて、異邦人の救いが加えられるのであるが、その接ぎ木のお陰で、またユダヤ人は神への信仰をより深く認識するようになるのである。

 このような接ぎ木の理論によって、時に私はこれまでの宗教体験を深められ、自分がより深い宗教への信頼に導かれると思っている。

 ひとつの例を挙げると、このような接ぎ木の理論を説明できるかもしれない。鶴岡真弓氏も『ケルト美術への招待』(ちくま新書、1995年)の中で指摘しているが、カエサルの『ガリア戦記』の中に出てくる話で、ローマの宗教がガリアの人々に押し付けられたことがあった。元来はギリシアに由来するメリクリウス信仰が、ローマ人によって受け入れられ、その信仰が今度はガリアの人々に伝えられたのだが、ガリア人たちはそれに親近感を覚えたのである。それは、すでにガリアの人々の中に、それとほとんど同じ神への信仰が存在していたからであった。それゆえに同一の神への信仰であるとガリアの人々に判断され、たとえば「メリクリウス・アルタイオス(熊のメリクリウス)」などという形で、メリクリウス信仰はすんなりとガリア人たちに受け入れられたのである。

 このような例を、日本の民衆宗教の中に求めることができるのではないかと私は常々考えている。つまりキリスト教の持っている、キリストの苦難と死、神の溢れる恵みの信仰は、実は観世音菩薩のイメージや、地蔵菩薩のイメージと、本質的に重なり合い得るものではないだろうか。エルンスト・トレルチがその晩年期に主張していたことに私も賛成なのだが、全世界の人々の宗教体験が、あらゆる点で同一であるとは思えないのである。神の愛の信仰であっても、その地域の人々の伝統的信仰体験のもつ相対的な衣(ころも)に被われて、さまざまの地域的衣装を着て表現されるものであると思っている。それゆえに神の愛が観世音菩薩の仏教的衣を纏って出現されると考えたり、地蔵菩薩の衣装を纏って表現されるとしても、少しも私には不思議ではない。

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 このような同一の神の愛を、いろいろな衣装のもとに見出すことは、先ほどの、ガリアにおけるメリクリウス・アルタイオス信仰と同じ事柄だと思われる。これが私にとっては諸宗教の出会いの中で重大なひとつの視点だと思えるのである。これをまず体験的に自分の信仰生活の中で味わわなければならない。

 このような体験的味わいは、時間がかかる。思ったとたんに、それが正しいと言ってくれるものではないのだ。直ちに「正しい」と保証してくれるものは、存在しない。同一のものの異なった表現と判断して、自分の宗教体験の中で長い間味わいながら、自分の判断が正しいか、その判断をしたお陰で自分の信仰生活が深められ、強められてきているかどうかを、個人的に体得するのも時間がかかるが、さらにそれが、ある地域の人々の信仰体験となって、人々の信仰生活の土台をしっかり築き上げ、深め、伝統を形成できるかどうか、それが体得されるには個人の場合よりももっと時間がかかる。

 同一のものの受容以上に、異質のものの理解、受容、体得には、さらに時間がかかるだろう。たとえばケルト人たちの信仰の中に、ローマ・カトリック信仰が投入されてきた場合を考えることは、ひとつの例としてよいかもしれない。ドルイド(土着の司祭たち)が司っていた宗教性の上に、ローマ・カトリック教会の信仰が接ぎ木された例を見てみよう。この場合にも随分の時間が経過したと言わざるを得ないが、しかしこの習合の結果は、以前よりはるかに豊かで独特な宗教性をアイルランド等の人々にもたらし、同時にローマ・カトリック教会の信仰もまた、他の地域よりも独特の風味を与えられているように私には思える。

 もちろん、根底的に異なるもの同士を接ぎ木すれば、接ぎ木された方も接ぎ木した方も、ともに枯れてしまうこともあるだろう。この接ぎ木の試みは、ひとつの冒険的態度を人々に要求するだろうし、長い期間、本質的な融合を達成することの困難を、人々は要求されるだろうと思う。

 多宗教の並存が日常茶飯事になっている今の世界の状況を考えると、以上に述べた、二つの態度決定が、私たちに要求されているように思える。繰り返して言うならば、実は同一の信仰だったのだという確認と、これまで体験していなかった信仰的体験の受容とである。

 この私の立場を、日比野君の書評との関連で詳しく展開する余裕は、今の私にはない。いつの日にか、これをもっと詳しく説明しなければならないだろうと思うが、そのときに問題になる点だけを挙げておいて、読者にお考えいただく手がかりとしたい。

 たとえば拙著『ジョン・ウェスレー』の中ではまだ深く追究されていないけれども、ネイティブ・アメリカンの宗教とウェスレーの信仰との出会いはどうだったのか。また、ルネサンス・ヒューマニズムと言われている、イタリアのフィレンツェで起こった新プラトン主義的魔術に対して、ウェスレーは心の中でどのような神学的対処を行ったのか。さらに彼はなぜ、アリストテレス-トマス的な認識論を展開したのか。つまりウェスレー当時のイギリスの知識人の常識であった―クリストファー・マルローや、ベン・ジョンソンやウィリアム・シェークスピアらに寓意的に表現されているような―ルネサンス・ヒューマニズムを、彼がどのように神学的に処理していったのかも、ウェスレーにとっての諸宗教との出会いの体験と言ってよいだろう。これらの点も私の将来の課題であるが、ジョン・ウェスレーとは違って私は日本人であり、ウェスレーの知らなかった諸宗教との出会いに、組織神学者として対処しなければならないのだ。今の私にとっての課題とは、たとえば次のような事柄が挙げられるであろう。

 すでに述べた、仏教・神道・道教などとの出会いだけではなく、キリスト教それ自体の中で、新しくて大きな研究の流れが発生してきている。たとえばナグ・ハマディの諸文献に表されているグノーシス的なキリスト教の流れ、死海写本と原始キリスト教との関係、また仏教との出会いと似ているところのある、ピレネー山脈の辺りで中世に活動したカタリ派のもっていた二元論―カタリ派には輪廻転生説があり、この点でカタリ派は仏教と似ている―を、現代の宗教性との関係で問題としないわけにはいかないだろう。

 このような課題のひとつひとつを、私が自分のキリスト教信仰の豊かさを増し加えるような仕方で、また、通常は正統的なキリスト教徒ではないと言われている人々や、仏教徒などの方々にも役立つような研究をしたいと私は考えている。自分の信仰だけが豊かになるだけでは私には不満足なのであって、他の信仰に生きる人々も納得し、信仰的利益を受けて下さるような研究が、私はしたいのである。

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2006.03.20