ユダヤ・キリスト教史 1998.3.24


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第39回 ――ローマ・カトリック教会と宗教改革者ルター  (1998.3.24)


野呂芳男








伝記的な説明では触れなかったが、アウグスティヌスが自分の人生の謎を解くべく求めた宗教の一つがマニ教であった。彼が結局はこれにも満足できずに、アンブロシウスの指導の下にミラノのカトリック教会でバプテスマを受けたことは前述した。ところで、何故にアウグスティヌスはマニ教に満足できなかったのであろうか。既に述べたように、マニの教えでは、現実を構成するものとして、真っ向から対立する善と悪との二つの原理が考えられていた。アウグスティヌスの著作から察するに、彼のマニ教に対する不満は、現実を支配する原理が二つもあったのでは、神が自分を救って下さる確実性が揺らぐと思ったのではないか。そこで彼は一元論を求めて、ローマ教会のキリスト教に改宗したのだろう。一元論であれば、つまり、神だけが原理的にこの世の全てを支配するのであれば、自分の救いも確実だと思ったのだ。このような思索の行き着く先は予定論であり、何もかもが決定されているという運命論的な宗教性、善も悪も、喜びも天災地変や病気の悲惨も、ことごとくが神の送るものとなってしまう信仰である。

 この世は(愛なる)神の自由と、人間の自由とが、(放っておけば破壊に傾く)無を土台として(無に抵抗しながら)織りなす物語であると考える方がよいことは前述したが、アウグスティヌスが二元論から一元論に移行した時に、彼を思索において助けた哲学があった。それが、一者(神)から全てが流出してくると主張したプロティノスの一元論的な新プラトン主義であった。コップの水に、万年筆のインクを1〜2滴落とすと、広がりながら下まで落ちて行くが、下に行く程に薄められてゆく。それと同じように、一者から流出するものは、一者から遠ざかれば遠ざかる程、(一者が持っている生命エネルギーのようなものを「存在」と考えると、)存在が希薄になる。アウグスティヌスは、悪とは元来が(一者の持つ)存在が欠如したものである、と考えるに至ったのである。

 聖書のキリスト教を新プラトン主義と結びつけて解釈したのは何もアウグスティヌスが最初ではなく、アレキサンドリヤ生まれのギリシャ教父オリゲネス(185?−253)がいたけれども、アウグスティヌスが考えたような「存在の欠如」としての悪という考えは、悪と善との互いに相容れない性質をぼかしてしまい、なかなかに私たちを納得させるようなものではない。しかし、それにも拘らず、現実を新プラトン主義的に理解することは、この後、西欧のキリスト教の土台となっていった。(必ずしも新プラトン主義と結合しなくても信じられてよいことだが、)人間と神(一者)とが魂の奥底で繋がっているという思想は、中世のキリスト教神秘主義を生み出すこととなったし、また、ローマ・カトリック教会の聖礼典の考え方を決定した。







 ローマ・カトリック教会が聖餐式のパンとぶどう酒とに関して、化体説を採用していることは周知の事実であるが、この説が公に教会によって決定されたのは第四ラテラン会議(1215年)であった。この説によると、ミサの折りに、司祭がバンを高く上げて「これは、私たちのために裂かれた主イエス・キリストの体です。・・・」と言い、ぶどう酒を高く上げて、「これは、私たちのために流された主イエス・キリストの血潮です。・・・」と言う時に、形式は変わらないけれども、パンとぶどう酒の実質はキリストの体と血潮に変化するのである。ここでは、神(一者)から流出してくる存在の力、あるいは、生命エネルギーをキリストの体と血潮とを通して、人間が頂戴する。このような考え方は、アンテオケの使徒教父イグナティウス(35頃−110 頃)まで遡ることができるから、随分と古いものである。彼は、聖餐式のパンやぶどう酒は、信者の死すべき体に宿っている死の毒に対する解毒剤であると言い、また、不死をもたらす薬であると言った。

 このような考え方の背景には、「注入される恩恵」(gratia infusa) という考えが存在したが、それは、私たちの魂に神が恵みを注入されるということである。フリードリヒ・ハイラーはこのような考えを批判して霊的唯物主義(spiritual materialism)と称したが、それは神の恵が、水道管を流れてくる水のようなものとして考えられており、それを飲むことによって死毒(罪や死)が私たちから流されてゆくかの如くに信じられている、とハイラーが見たからである。

 神の恵みが薬水のように私たちに注入されるという考えを、私はハイラーのように完全には否定しないで、神と人間との間の人格的な交わりを主としながら、この薬水的な考え方もそれとのバランスを取って採用したほうが良い、と思っているのだが、中世の教会は確かにこのバランスを失っていたと私は思う。三位一体の神が薬水の源流であり、それが教皇、大司教、司教、司祭という順序で並ぶ道管を伝わって流れてきて、やっと信者の口に注入されるのである。このような組織は、信者を完全に教会が支配するには都合がよいし、領主や国王も教皇との間さえ旨くいっていれば、それを都合よく利用して民を支配することができる。従って、聖餐式とキリストとの関係をどのように考えるかが、宗教改革の時期に大きな問題となったとしても、少しも不思議ではない。







 宗教改革者たちは皆化体説を否定したが、それはローマ・カトリック教会がこの説によって信者の魂を支配していると感じたからであった。つまり、彼らは「注入される恩恵」の考え方を主とした神と人間との関係が、人格的な愛と信頼を主とした神と人間との関係を脅かしていると考えたのだ。(事実、この神と人間との愛と信頼の人格的関係を原始キリスト教以来再び中心に据えようとしたのが宗教改革であったのだ。)マルティン・ルターの説は普通に共在説と呼ばれていて、キリストの体がパンとぶどう酒と共に存在すると主張するものであった。このような仕方で、彼は化体説の持つ「注入される恩恵」を信仰の中心から排除したのである。だが、ルターの考えには聖霊が何の投割も持っていなかったので、ジャン・カルヴァン(1509−1546)は、天上にあるキリストの体を聖餐式のたび毎に、聖霊が教会の中に運んでくるとしたのである。フルドライヒ・ツウィングリー(1484−1531)は、パンとぶどう酒をキリストの体を象徴するに過ぎないとして、ルターの共在説をカトリック主義の名残であると批判し、聖餐式をキリストを記念するものだとした。

 中世の「注入される恩恵」の考え方は、また信仰よりも愛を信者の生活の中心とする傾向があった。しかも、それは神の愛ではなく、神や隣人に対する人間の愛の行為のことである。つまり、「注入される恩恵」によって信者は魂を豊かにされて、それで神や隣人を愛するという功績を積まないといけないのであった。「愛によって形成される信仰」(fides charitata formata) という言葉が示しているように、愛が信者の生活の出発点であって、信仰は愛の功績の束であった。つまり、信者は愛の功績を積み上げることによってしか救われないのである。これに対して、宗教改革者たちの主張では、信仰が信者の生活の出発点であり、また到達点でもあった。愛の功績を何れ程積み上げたところで、――たとえそれが、神から注入された恩恵を土台としてなされたものであっても――そんなものは人間を救う価値など(神の前に)全くないのであるから、ひたすらに神の愛を信じることだけが私たちを救うのである。







 この辺りで、宗教改革をもっと深く理解するために、マルティン・ルターその人に私たちの目を向けることにしよう。彼は1483年11月10日にアイスレーベンで生まれた。父はそこで鉱山業を営んでいた。彼が生まれて数か月後に、一家はマンスフェルトに移住した。マルティンはマンスフェルト、マグデブルグ、アイゼナッハの予備学校で学んだ後、1501年にエルフルト大学に入学し、1505年に法学で修士号を取得した。そして、更に法学を専門的に勉強する準備を始めていたのだが、丁度この頃に、彼は二つの(彼にとって)大きな体験をした。一つは突然の友人の死であり、もう一つは彼自身が雷雨の折りに死にそうになったことであった。(この二つの出来事を一つにした伝説が残っているが、これは歴史的には信用ができない。それによると、野原を友人と一緒に歩いて大学に帰ろうとしていたある日、突然雷雨に見舞われ、落雷にとっさに地に伏しながらルターは「聖アンナよ。お助け下されば修道院に入ります」と誓った。見ると友人は落雷で死んでいた。ルターは聖アンナへの誓いを守るために修道院に入った、と言うのである。)1505年7月7日に、父の希望でもあった法律家になることを断念して、ルターはエルフルトのアウグスティヌス派の修道院に入った。この修道院はヨハン・フォン・シュタウビッツの管轄下にあったのだが、ルターはシュタウビッツの影響を強く受けるようになった。そして、1507年には司祭となっている。

 その翌年には、ヴィテンベルク大学に行き、ルターはその教員となる準備を始めたが、1510年11月から翌年の4月にかけて、修道会の用事でローマに出かけた。勿論ルターは聖ペテロ教会を訪ねたに決まっているが、これに関しても、余り歴史的には信用の置けない伝説が残されている。教会の石段を膝で昇れば多くの罪が赦されるとの迷信に従って、途中まで膝で昇ってきたルターは、こんなことで罪が赦される筈がないと感じ出し、すっくと立ち上がってしまった、というのである。

 1512年に、ルターは神学博士号を取得して講義を始めた。1513年から1515年までは「詩編」、そのあと1516年の暮れにかけて「ローマ人への手紙」を、続いて「ガラテヤ人への手紙」、「へブル人への手紙」、「テトスへの手紙」を講義した。

 時代的には話が少し遡ることになるが、修道院でのルターは非常に真面目な修道僧であったが、それにも拘らず、彼の心には平安がなかった。シュタウビッツはルターの目を律法から福音へと向けさせた。1509年には、ルターはアウグスティヌスの著作に夢中になっり、(後で説明する)スコラ神学に批判的になっていった。前述した「詩編」の講義の頃にはルターは、神秘主義者タウラーなどの書物の影響もあって、神は人間を(その人間の懐くキリストへの)信仰だけで受け入れて下さるという、(信仰だけで、罪人のまま義人として、神によって取り扱われるという)信仰義認の立場に立っていたように思える。とにかく1516年には、ルターのこの立場は確固としたものとなっていた。

 伝説めいた「塔の体験」がルターについて語られるのは、1512年のことである。律法を守らなければ救われないと信じ、心に平安のないルターが、周囲に自分を悩ます悪霊を見たので、それにインク壷を投げつけたというもので、塔にある部屋の壁にインクの跡が残っていた、ということである。



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入力:平岡広志
2003.4.30