ユダヤ・キリスト教史 1998.4.7
講義「ユダヤ・キリスト教史」
第41回 ――近代主義神学から弁証法神学へ (1998.4.7)
野呂芳男
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ルターの起こした宗教改革は、ヨーロッパの国々をローマ・カトリック教会を信じ続ける国々とプロテスタント教国とに分けてしまったが、この影響が深くそして広く、今日に至るまで(文化的にも政治的にも)及んでいることは言うまでもない。だが、どのような宗教的運動であっても、何時迄も初めのままの状態で留まることは不可能である。宗教改革も例外ではなく、17世紀になるとルター系の教会もカルヴァン系の教会も所謂プロテスタント・スコラ主義を生み出すに至った。それはローマ・カトリック教会のスコラ神学と同じように、神学の細部に至るまでの徹底的な探究であったが、そのこと自体は反対する理由はないけれども、一般の信者にとっては、煩雑で信仰とは何の関係もない事柄に対する神学者たちの執念としか映らなかった。更に、私たちが忘れてはならないことは、三十年戦争や(イギリスの)ピューリタン革命などに見られた宗教戦争の残酷さの故に、民衆の間に宗教に対する嫌気がさしてきた事実である。また、科学に対する興味が徐々にではあるが人々の間に広がって行き、理性的に世界や人間を考える雰囲気が作られていったことである。このようにして、例えば(既に私たちが勉強した)イギリスの理神論などのように、宗教をも合理的に考える傾向が広がって行き、所謂「理性の時代」である18世紀が到来したのであった。
しかし、理性と科学の時代は人間の心を完全には満足させることができないために、感情を人間の持つ崇高な性質として高揚させるロマン主義の時代が、18世紀の後半から19世紀にわたって到来した。例えば、(私たちが既に勉強した)ゲーテのような人物は自然科学に飽くことのない興味を終生示していながらも、人間の感情を高らかに歌いあげた詩人であり、しかも、モラビヤ派の敬虔な信仰に強く影響されたプロテスタントであった。このゲーテをこよなく尊敬し、ゲーテの宗教性を神学の中に生かそうと努めたのが、いわゆる近代主義神学の父とも言えるフリードリヒ・シュライエルマハー(1768−1834)であった。
時間の都合上、ここではシュライエルマハーについてしか語れないが、一応近代主義神学の巨匠たちのうち、特に著名な神学者たちの名前を挙げておくことにしよう。アルブレヒト・リッチュル(1822−1889)、アドルフ・フォン・ハルナック(1851−1930)、エルンスト・トレルチ(1865−1923)などである。これらの神学者たちは、シュライエルマハーの合理的で、しかも宗教性豊かな教会的な近代神学を、自分たちの信仰と学問を投入して発展的に継承しようとしたのであった。
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シュライエルマハーは改革派の牧師の家に生まれたが、(ツィンツェンドルフ伯爵の率いたモラビア派たる)ヘルンフート兄弟団の学校で学び、ルター派敬虔主義の大きな感化を受けた。敬虔主義の牙城であったハレの大学で学び、後にはこの大学の教授となったが、やがて哲学者フィヒテと協力してベルリン大学を設立し、そこの神学部の教授となった。シュライエルマハーはゲーテを心の友とし、ゲーテの持っていた宗教性こそがキリスト教のあるべき姿を示していると信じて、キリスト教の信仰は絶対依存の感情であると主張した。その後の神学の歴史の中で、(特に後で述べる弁証法神学の陣営から、)信仰の座を感情に置いたことに対して強い抗議が表明されたが、これはシュライエルマハーの言う「感情」がどのようなものであるかについて誤解しているところから出た抗議であると言わざるを得ない。
彼にとって、宗教は(理性の行為である哲学)とも(意志の行為である)道徳とも違うものであった。既に述べたように、理性でも意志でもなく、キリスト教信仰は感情にその座を求めねばならないのであるけれども、その場合の感情とは、理性と意志との地盤をなしている人間性の深みであった。つまり、これを今日の用語で表現すれば「実存」とでも言うべきもので、この深みで人間が決断すると、その決断は理性にも意志にも決定的な影響を及ぼすのであった。そして、シュライエルマハーは依存感情にも二通りあるとして、相対依存と絶対依存とを区別したのであるが、例えば子供が親に依存するような依存は、やがて大人になればその依存は存在しなくなるのであるから、相対依存である。それに対して、人間が生まれてから死ぬまで、片時も依存しないではいられないようなもの、神への依存は絶対的なものであった。この依存感情こそがキリスト教信仰の本質であり、その感情がイエス・キリストの生涯と十字架の死において比類のない仕方で表現されているとしたのである。そして、贖罪とは、私たちがそのイエスの生涯と十字架に表現されている絶対依存感情に浸り切って行くにつれて、私たちが感化されて徐々にその依存感情を自分のものとして行くことに他ならなかった。
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シュライエルマハーは、まさに私の分類によるプラトン的系列の神学者であったと思うが、時代が経つにつれて(プラトン的系列の持つ人間体験の強調が、神の啓示との間に存在しなければならないバランスを失って)一方的に、人間の側が強調されるようになり――この責任はシュライエルマハーというよりはリッチェルにあったが――、神の国は人間の道徳的な努力によってこの地上に実現されるものとなってしまい、宗教改革者たちが持っていた人間の深い罪性への理解などは見られなくなってしまった。19世紀の後半から20世紀初頭にかけて、キリスト教においては、全てが楽天的に考えられてしまい、そのようなキリスト教理解に反対したデンマークのゼーレン・キルケゴールなどは、一般には無視された孤独な叫びに過ぎなかった。しかし、この状況は第一次世界大戦(1914−1919)の勃発によって大きく変わった。戦争による悲惨が、人々をキリスト教的な人間理解に連れ戻したのである。
これには、「弁証法的神学」という呼び名で当時一つにくくられた神学者たちが大きな役割を果した。カール・バルト(1886−1968)、エミール・ブルンナー、フリードリヒ・ゴーガルテン、ルドルフ・ブルトマン、パウル・ティリヒなどがその主な人々であったが、彼らは後にそれぞれが独自の道を歩み出してしまい、とても彼らを一つの神学者集団であるとは言えなくなってしまったが。(最初の二人がスイス人、あとはドイツ人であることも覚えておくと便利。)「弁証法的神学」という名称で使われている「弁証法」は、哲学者ヘーゲルの弁証法の意味ではなく、むしろキルケゴールの、神と人間とは質的に全く違うという意味で使われている。「人間の中にある神性」というような近代主義的楽天的人間観を嫌った神学であったのだ。
これらの神学者たちの中で現代のプロテスタント神学に一番大きな影響を与えたのは、 何と言ってもバルトであった。バーゼルで誕生したが、父は大学教授であった。1921年にドイツのゲッティンゲン大学の教授になっているけれども、その前12年間にわたりスイスで牧師をしていた。彼はその頃から社会主義者であり、人々から「赤い牧師」と言われた程であったが、また実存主義的な立場の哲学にも近かった。つまり、人間体験や合理性を重んじる近代主義神学に立ちつつも、マルクス主義やドストエフスキーやキルケゴールに惹かれていたのだ。従って、彼が世界に衝撃を与えた著書『「ローマ人への手紙」講解』(1919年に初版。但し、バルトはこれに不満で、1921年に改訂版を出しているが、今はこの改訂版が定本となっている)には、まだ人間体験の尊重や実存主義への傾倒が見られて、私などにはこの立場を彼が捨ててしまったことがとても残念である。1925年にはミュンスター大学、1930年からはボン大学で教えていたが、1935年にドイツを追われ、スイスの生れ故郷であるバーゼルの大学で教えた。バルトの著書は多数であるが、特に著名なのは『教会教義学』である。1932年よりその出版が始まり、4巻12冊でまだ未完であったが、生前の最後の出版は1967年のものであった。その他にも『我信ず』(1935)、『教義学要綱』(1947)、『19世紀のプロテスタント神学』(1947年。2版が1952年)などがある。
ナチスがドイツ議会で第一党となったのが1932年の7月であり、ヒトラー内閣の成立が1933年1月のことであって、バルトが『講解』時代の近代神学の名残を清算して、いわゆる「神の言葉の神学」という、一切の人間的な体験や思索よりも、まず聖書の中で私たちに語りかける神の言葉に聞くことが、神学の出発点であるという彼の立場を鮮明にしたのが、1931年に出版された『知を追い求める信仰』においてなのであるから、ドイツにおけるナチスの台頭とバルトの「神の言葉の神学」の成立とは直接的には関係がないと言わざるを得ない。しかし、バルトは自分の確立した立場から、他の神学者たちの神学に、(実際にはその危険があったかどうかは今もって分からないのだが)ナチズムに荷担しかねない傾向を読み取って、これを強烈に批判していった。
まずバルトの槍玉にあがったのが1932年に『政治倫理』を出版したゴーガルテンであった。ルター派の神学者であったゴーガルテンは、ルターの良心宗教の伝統に従い、聖書に聞く前に人間は、生まれながらにその良心において神の律法を不十分ながら知っているのであるから、例えキリスト教とは余り縁のない法であっても、その中に含まれている神の律法には、人間は服従しなければならないと主張していたのだが、これがバルトにはナチスの政治活動に荷担しかねないものと映ったのである。そして、1934年には、『自然と恩恵』という書物を同年に出版したブルンナ一に対して、バルトは『否!エミール・ブルンナーへの答』を出版して、ブルンナーの自然神学をある程度ではあるが許容した立場を粉砕した。自然神学とは、生まれながらの人間や、自然の中には、神との結合点となるようなものがある程度ではあるが存在するという立場である。確かにブルンナ一には、人間の堕罪によって、(創造の時に、神によって)人間に与えられた「神の像」が確かに実質的には失われたけれども、形式的には失われなかったと主張するような、何か実質と形式とが分けられるかのような、納得できない思想が存在していた。だが、(ゴーガルテンの言う良心も一種の自然神学だが、)自然神学は−−宗教改革をも含めて−−キリスト教がこれ迄決して完全には否定してこなかったものである。これを否定したら、ブルンナーがバルトに反論したように、人間は神の前に石と同じものとなり、救いはたまたまその石が、救われる人間にぶつかったこととなる。(ティリヒが教室で言ったことだが、バルト神学が盛んな神学部の学生は勉強しない。真理は聖書の中にすべて入っているから。)
だが、1934年にバルトの指導下に、ナチズムに抵抗した告白教会が出したバルメン宣言の第一条の、キリストだけが私たちに与えられた唯一の神の言葉であるという自然神学否定の立場は、(ナチの神話とキリスト教との混合を避けさせ)政治的には有効であった。
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入力:平岡広志
2003.4.30