ユダヤ・キリスト教史 1997.9.16


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第19回 ――預言者の宗教? エリヤ、アモス   (1997.9.16)


野呂芳男







 カルメル山上でのアハブやバールの祭司たちとの対決に勝利したエリヤは、喜びの余りアハブ王の車の前を走って町に帰ったのだが、結局はイゼベルによって北のイスラエルを追放されてしまった。彼はユダの南の砂漠に逃れていったが、深い絶望に陥っていた。疲労困憊の眠りの間にも、親切な人々から食事を供されたりしながら、砂漠のヤーウェに会いたいという精神的な欲求から、彼はシナイ山を目指して――恐らくベドウィンの隊商の群れと一緒に旅して、南アラビアを通って――行った(「列王記上」18:41−46、19:1−18)。この辺りの記述は余りにもエリヤの心の中を如実に物語っているので、恐らくはエリヤが個人的にエリシャに語ったものかと思われる。

 ホレブ(シナイ)山の洞窟でエリヤは神と出会う体験を持ったが、その時の神は大風の中にも地震の中にも火の中にもおられず、静かにささやくようにエリヤに語りかけてきた。そして、エリヤにもう一度逃げてきた道を引き戻し、預言者としての生涯を全うするように勧めた、(「列王記上」19:19−21)。エリヤはこれ迄、ヤーウェの顕現を歴史上の大事件の中に、例えばカルメル山上の出来事のような眩(まばゆ)い事件の中にだけ求めてきたのだが、シナイから戻ってきた彼は、静かな日常生活の中に神の働きを認める、もっと謙虚な、地味な人間となっていた。騒ぎもない、静けさの中で神の業は進行してゆく。北のイスラエルには最早戻れずに、エリヤは、エリシャを初めとして、多くの弟子たちを信仰的に教育することを静かに実践して行った。

 エリヤは死なずに、エリシャや他の人々が見ている前で昇天したとの記事があるが(「列王記上」2:1−18)、これは恐らく死期が近付いたことを悟ったエリヤが、エリシャと共に、永遠の命について語り合った事実を物語っているのだろう。砂漠の宗教であったユダヤ教では、死で人間存在は完全に終わるものであったが、神との交わりが深くなればなる程、この交わりが死で終わってしまうことを、人間はとても信じられなくなってしまうものだ。昇天物語は、エリヤの生涯は死で終わったのではなく、神の御許で永遠に続いているというエリシャの信仰告白だろう(『旧約聖書』はエリヤの他にもう一人エノクの昇天について物語っている「創世記」5:24)。







 死海の西側には、ベツレヘムやテコアなどの周辺に、ハイエナのような野生動物の棲む荒地が広がっているが、そこには、それらの動物から羊たちを守るために武器を持った羊飼いたちが生活していた。彼らは風雨にさらされながらも、羊の一匹さえも自分たちの視野の外に出さない注意深い人間たちであった。聖書は彼らのこのような特性から、彼らをキリストや尊敬できる王の象徴としたのであった。

 エリヤから100年程経って、テコアにアモスと呼ばれる羊飼いがいた。アモスは、神から真実を見通す目を与えられ、ユダヤ人の堕落を直視して、それを公言し、それに対する神の審判を直言した。(「アモス書」はアモス自身か、その友人かによって書かれたものと思われるが、9:11−15だけは、アモスの恐ろしい預言を中和しようとした後世の人物が書いたものであろう。)

 アモスの生きた時代を知るには、エリヤからの100年間がどのような時代であったかを知ればよい。それは、戦争しては和平し、その平和の中で国は富裕となり、富裕の中で皆が自分たちの野心と利益追求に走り、また戦争するという繰り返しであった。特筆すべきは、紀元前853年のカルカルの戦いであったが、その戦いは、北イスラエル王アハブが、シリヤなどのパレスチナ連合軍に加わり、アッシリヤの南下を阻止したものであった。そのお陰でパレスチナ諸国はアッシリヤの属国になることを免れたが、イスラエルの民の損失は大きかった。そして、パレスチナ諸国はまたまた自分たちの間で争いを起こした。アハブ王はシリヤのアラム王との戦いにおいて戦死した(「列王記上」22:29−38)。紀元前842年にエヒューが革命を起こしてアハブの家系を皆殺しにし、北イエスラエルの王位についた。それから30年間は、シリヤの諸王がイスラエルに度重なる攻撃をかけ、また南のユダもペリシテ人の攻撃によって多くの民が連れ去られ、エドムなどに奴隷として売られた。

 ところが紀元前805年に、アッシリヤがシリヤを攻撃し、802年にはシリヤの首都ダマスカスが陥落した。そのお陰で、イスラエルはシリヤに取られていた領土を取り戻し、前にも述べた繁栄時代(紀元前785−740年)を迎えることができた。この間には、南アラビアとフェニキヤの港を結ぶ陸上商業ルートで再び税金を取り立てることもできるようになった。このような繁栄を、国の宗教であるバールやヤーウェ礼拝は大歓迎したのであった。沢山の犠牲が神々に捧げられ、祭司たちや神殿関係の者たちは大いに潤ったのだから。

 しかし、既に述べたことだが、この繁栄の中で貧富の差は拡大し、貧しい農民はその土地を富裕階級に売り渡し、未亡人や親のない子供たちは奴隷に売られていった(「アモス書」8:4−7)。アモスや(後に述べる)ホセアが預言者として活躍したのは、このような時代であったのである。

 テコアの羊飼いアモスは、どのような事情の下にであったか、北のイスラエルの首都サマリアに出かけたことがあった。そこで彼は贅沢に暮らしている女たちにショックを受け、そこで行なわれている貧しい人たちへの不正に怒り、遂にペンを取ったのである(「アモス書」6:1−6、2:6、8:6)。戦争で見る残酷さよりも、富める者が貧しい者に与える残酷さの方がひどいことを見た彼は、最初の預言者であったと言える。彼はこのような体験の中で、ヤーウェの正義とは哀れみであって、神がユダヤ人を愛して下さるのは、ユダヤ人が立派だからではなく、価値がないにも拘らず神が愛して下さるのだ、と気づく。しかし、眼前の悪に対して何もできない自分であることに落胆していたアモスに、預言せよとの神の命令が下った(「アモス書」3:8、7:14−15)。ベテルで祭司アマツヤに、今後はイスラエルで預言してはならないと言い渡された後は、アモスはユダだけで活躍したのかも知らない(「アモス書」7:10)。

 アモスの預言をまとめてみよう。ヤーウェの心はアモスと同じで、貧しい、苦しんでいる人々の見方であり、このように発言する自分には、――アモスが出エジプトに言及する時には、自分にもモーセと同じ神の働きかけがあったと暗示しているのだ――神の導きがある。そして、私が前に述べた、神の女性的象徴(哀れみなど)がアモスにおいて再び中心的象徴となっていることに私たちは気づく。また、イスラエルやユダにはアモスは特に厳しい預言をしているが、それは彼らがヤーウェを知りながら、この有様だからであった。アモスはユダヤ人の堕落が止めようのないものであると感じ、アッシリヤによって滅ぼされる以外に仕方がないと思っていた(「アモス書」5:27)。更に、アモスの目は異国にも向けられ、その民たちもヤーウェの支配下にあると信じており、ヤーウェの普遍性が言われている(「アモス書」9:7)。また、アモスには、ヤーウェ礼拝に犠牲の必要はなく、精神的礼拝だけで十分であるとの、一種無教会的な信念があった(「アモス書」5:21−24)。





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 同時代の預言者ホセアも、自分で書いたか友人に書いて貰ったか、「ホセア書」を残している。汚れた妻への愛がこの書には出てくるが、これを単に比喩だとする見解もあるけれども、私はホセアの事実的体験であったと思っている。どうしても汚れた妻を捨てられない、愛せざるを得ないのがホセアであり、汚れたイスラエルを見限れないのがヤーウェなのだ(「ホセア書」1:1−9、3:1−5、2:4−23)。ホセアはイスラエルの住人であり、王と富裕階級が貧しい人々を罠にかけ、仕掛け網で搾取したと信じ、イスラエルの危機の責任は王と富裕階級にあるとした(「ホセア書」5:1)。だが、ホセアはイスラエルの破滅を預言しながらも、この危機をイスラエルとユダがもう一度ひとつの国となり、ダビデの系統から王を出すことにより乗り切れると信じたが、これは無理であった。


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入力:平岡広志
2003.3.8