ユダヤ・キリスト教史 1997.6.3


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第5回 ――万有救済説  ( 1997.6.3)



野呂芳男






 神と、神を信じたり信じなかったりする人々との関係が、両者が向かい合ってチェスをしていることに喩えられることは、これ迄に再三述ぺたが、このウイリアム・ジェイムズやエドウィン・ルイスの喩えでは、次のような事がらが内容として含まれていることを承知して置く必要があるだろう。

 私たちと一緒になって神も、私たちの前に立ちはだかる障害物を取り除こうとされるのだが、簡単に取り除き得るものなら神も私たちも一緒になって取り除いてしまうだろう。ところが、なかなかに取り除き得ない障害物の場合には、神はそこでじっと待つ方が良いと判断されると、ご自分もじっとそこで待つ。それでも駄目な場合には、回り道をするように私たちを説得する。迂回して前進するように勧められるのである。そして、ある場合には、私たちはどのように考えても自分にとってマイナスとしか思えない状況に落ち込んでしまうことむあるが、そのマイナスを自分にとってのプラスに変えるように私たちに働きかけるのも、神の創造性なのである。

 「我とそれ」の関係に見られる、神が物のように私たちを勝手に操ってしまうのではなく、「我と汝」という神と人間との関係では、神は人間の主体性を徹底的に重んじて下さるのだから、所謂「神の全知全能」という考えは捨てられてしまう。考えてみれぱ「全知全能」という概念も、何を言いたいのかがはっきりしない。神にも2と2を足して8にすることや、物を下から上に落とすことはできはしない。もしも私たちが「神の全知全能」を言うならば、それは神が愛において、私たちを必ず救って下さるという意味でなければならないだろう。力づくで私たちを救ってしまうのではなく、あくまで自由な、主休的な人間である私たちを説得して下さるのである。自分は救われなければならないのだ、と種々の体験を通して納得するように人間を導かれるのである。<説得(persuasion)はクエ一カー教徒がよく使った言葉だが、「我と汝」の関係における「あり方」を表現するのになかなか良い言葉である。






 神は愛だと知ってしまい、「創世記」のアダム神話が(ユダヤ教の人々が言うように)キリスト教会が伝統的に教えてきた原罪説を保証しないものだと分かってくると、この世の中に充満する人間の罪や悲惨はどこからくるのかという問題が、当然人々にとって疑問となる。詳しいことは後にゆずるが、私は、既に述べたプラトンや新プラトン主義者のプロチノスが主張したように、(また、キリスト教史上の二元論的宗派が一様に唱えたように、更にまた、聖書の解釈でも言えるように)無が神の創造の業に抵抗するからだと思っている。では無の抵抗を受けながら、どのようにして私たちが救われることは確実なのだろうか。その確実性は「物語の確実性」だと思っている。

 旧・新約聖書は壮大な神と人間との物語である。神は人間に裏切られても徹底的に救おうとされて、イスラエル民族を特別に教育したり、イスラエル民族にも裏切られると、今度はイエスを送ってこられた。そのイエスまでが殺されてしまうと、復活の事件を起こされて人々を救おうとされる。神の手段はさまざまで、尽きることがない。そして、工夫に工夫を重ねられて、遂には神は人間を救ってしまわれる。物語は神の救いの賛美で終わるのであるが、自分の物語もこのようにして終わると信じるのが、自分の救いの確実性なのである。






 ここで私たちは、神が愛であるということを徹底して考えると、万人救済説(否、万有救済説)にまで到達することに気づかせられる。「ローマ人への手紙」5章など、特にその18節がそのように解釈される根拠だが、そのような文章がなくても、聖書全体があかしする神の愛から考えて、その愛は全ての人を、否、全ての物を救うまで諦めない愛だと考えるのが至当だろう。キリスト教史上多くの人々がこれを信じてきた理由がそこにあった。

 万有救済説のように、物が救われるというのはどのような事がらを指すのだろうか。日蓮上人があるところで、釈迦の浄土における山川草木について述ベているが、それによると、浄土では山川草木が緑滴り光り輝いていることとなっている。これは私たちにも参考となるだろう。

 すべての人が救われるには、救いへのプロセスの中で信仰を持つことが当然なのだが、信仰が救いの条件になってしまうと、自分の信仰について人間は意識過剰になってしまう。法然や親鸞の浄土教でも、南無阿弥陀仏を一生のうちに何回唱えたら、間違いなく浄土へ行けるのかが間題となったことがあったが、キリスト教徒の場合、信仰は救われる条件ではなく、信じることが、救われていること、必ず救われてしまうことの自覚、それへの感謝なのだ。







 これとの関連で面白いのは「ヨハネによる福音書」(9:1−41)である。生まれながらに目の見えない人が、どうしてそうなのかが間題とされている。イエスはここで明瞭に因果応報説を否定しておられる。その人が目が見えないのは、その人の罪でも親の罪でもないのである。そして、弟子たちが、その人の前生に言及しているのに、イエスは前生の存在を否定されていない。つまり、輪廻転生を否定されていないのである。




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入力:岩田成就
2002.7.29