ユダヤ・キリスト教史 1997.7.8


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第10回 ―― モーセと出エジプト? ( 1997.7.8)



野呂芳男








 聖書を合理的な歴史研究の眼で検討しても、決して宗教的な味わいは失われないという自信を私たちは持つことができたと思うので、旧約聖書の研究に入ってもよい段階に来たように思う。市販されている聖書には、普通巻末に地図が載っているので、これからはそれを利用しながら勉強していただきたい。

 旧約聖書には沢山の書物が含まれているが、今は一つ一つの書物を勉強するというよりは、ユダヤ教の成立史の大略を知ることに重点を置いて行きたい。ユダヤ教の歴史を何処から始めるかが先ず問題となるが、私はモーセから始めたいと考える。最近はモーセが実在したことを疑う学者も多くなってきているけれども、やはりモーセを実在の人物として考えた方が正しいように私は思う。確かに余りにも煩瑣な伝説的記述にまとわりつかれた「出エジプト記」などのモーセに関する記述を読むと、実在を疑う人々の考えも分かるけれども、それらの煙幕の向こう側をじっと目を凝らして見つめているうちに、それ自体の力でモーセは自分の実在を私たちに確信させてしまうように、私には思える。モーセ物語が持っている、それ自体の説得力と言ってもよい。

 このようにユダヤ教がモーセから始まったと仮定すると、「創世記」に載っているモーセ以前の物語は実際の歴史ではなく、恐らくはユダヤの支族が持ち込んだ伝説であろうということになってしまう。







 出エジプトの出来事は一体何年頃の出来事であったのだろうか。いろいろの説があるし、また確定してみたところで、それは大雑把なものに過ぎないであろうが、私はイギリスのケンブリッジ大学で教えていた旧約聖書学者、エルムスリー(W.A.L.Elmslie)の説をとって、紀元前1220年頃と考えておきたい。そうすると、ユダヤ人がエジプトに住み着いたのは、(不正確ではあるが)おおよそ紀元前1400年頃と仮定できるだろう。しかし、すべてのユダヤ人(ヘブル人、ヘブライ人)がエジプトに来て住んだという訳ではない。元来は恐らくユーフラテス川流域のハランの辺りからユダヤ人たちは南下してきて、大部分はカナンやその周辺に定着したのだが、その一部が更にエジプトまで南下してきたのではなかろうか。カナンの辺りに定着したユダヤ人を、更にエジプトまで南下したユダヤ人と区別するために、古ユダヤ人あるいは古イスラエルと呼ぶとよいかも知れない。







 古代エジプトには、地中海から南に下がって紅海の湿地帯に至る壁が存在していたが、これはアラビア砂漠に住む勇猛な諸民族の侵入を防ぐためのものであった。この壁とナイル川のデルタ地帯との間がゴシェンと呼ばれる地で、放牧に適していたが、南下してきたユダヤ人はここに住むことを許された。エジプト人は、ユダヤ人が提供してくれる羊毛からいろいろなものを作ることができたし、食用として羊の肉は大切であった。一方ユダヤ人たちは、羊を飼いながら農業にも手を出し、キュウリ、ニンニク、メロン、玉ねぎ等の野菜も作っていた。

 元来は砂漠の民であるユダヤ人は、自由に動き回ることを好んだ。だが、今はゴシェンの地から離れることが許されず、しかもエジプト人からは差別され、蔑(さげす)まれた生活に陥ってしまったので、不満が高まっていた。このような状況にあった時に、エジプト王ラムセス二世(Rameses?)は建築現場で働かせる奴隷が足りなかったので、ユダヤ人を働かせることとした。ユダヤ人たちはいろいろの形で抵抗したが、そうすればする程、仕事の量を増やされてしまった。ここにモーセが登場してくる。

 「出エジプト記」(1:22-3:10) によると、モーセはファラオの王女の息子として育てられたことになっているが、それが事実であるかどうかは別として、彼がエジプトの上流階級の教養を身につけていたことは、認められねばならないであろう。同胞ユダヤ人に対する同情が、モーセをエジプトにいられなくしてしまった事情は、聖書の記事に明らかであるけれども、彼が逃れていったミディアンの地に住む人々は、恐らくはモーセの遠い親戚だったのであろう。そこで妻をめとったモーセに、エジプトにあるユダヤ人を救い出せという神の召命が下ったのが、シナイ(ホレブ)山の柴の間であった。聖なる場所に近づく当時の習慣であるが、モーセは履物をぬいで神に近づいていった。召命を受けたモーセは、自分がそのような役目には不向きであることを神に告げるが、神はモーセの反対を悉く封じてしまった。

 当時の多神教の背景を考えると、モーセが自分の出会った神を、エジプトにいるユダヤ人に、どのような神であるとして紹介したらよいのかを、神に伺っているのは理解できるのであるが、(「出エジプト記」3:14-15)、「私はある。私はあるという者だ」(I am that I am)という神の答は、中世の神学者たちが考えたように、神は存在そのもの、全ての存在するものを存在させる力、という意味ではなく、今多くの聖書学者が訳すように「私はあるだろう、という者であるだろう」(I will be that I will be)、つまり、私は自分が為そうとすることを為し得る者だ、という意味であろう。

 アロンの助けを当てにしながらモーセがエジプトに帰る途中、彼は(エジプト人として育てられたので、していなかった)割礼を受けたことになっている(4:24-26)。



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入力:平岡広志
2003.1.7