Home > Eucharistia | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ニュースレター 8月 第25号2006年7 月26 日発行
日本の夏は、盆という暦や、戦争が終わった季節、ということから死者を悼む機会が多いですね。身体に堪える暑さ、ジージーとうるさいセミの声、これらがまるで、生きる者たちへ与えられている試練の象徴であるかのように感じられます。ユーカリスティアでは、公の礼拝は月1度きりですが、祈りとは本来、神との個人的な対話が基本であるはずです。もちろん、公の礼拝に出席し、聖餐式に参加していただきたいものですが…。
8 月の活動予定
礼拝 11:00 am ~ その他すべての講座 2:00 ~ 3:30 pm <7月の活動報告>
● 礼拝 (7 / 1)説教:野呂芳男「神と天使と悪魔」。マタイによる福音書4.1‐11。
● 聖書研究会 (7 / 25) 6.1‐28 〈1節‐15節〉聖餐式の形態は「開かれた( opened )」と「限定的な( closed )」との2つが存在しています。この箇所は、前者の聖餐式のあり方の聖書的根拠とされるところだと言えるでしょう。カトリック教会の立場である化体説の考え方と、この箇所から読み取れる聖餐式のあり方の違いを学びました。〈6節‐21節〉湖の上を歩くイエスは何を象徴しているのでしょうか。それは「恐怖からの解放」であるということが、多くの注解書の一致した解釈です。人間はさまざまな恐怖を抱えて生きていますが、そのような恐怖からの解放者としてのイエスが描かれており、しかもイエスは「恐れるな」と言いながら、自ら弟子たちの方へと歩み寄っていくのです。
● ウェスレー研究会 (7 / 8) ウィリアム・ローとジョン・ウェスレーの出会いと別れを中心に研究されました。当時ローは、ヤコブ・ベーメの神学に依拠して、神秘主義的な傾向の強い神学者として著名でしたが、ウェスレーはローの指導によって、それら神秘主義的著作を研究した結果、ベーメの神学についてゆけず、ついにローと袂を別ったのした。ここにウェスレーと神秘主義との出会いと別れがくっきりと浮かび上がったのです。ウェスレーはローのような神秘主義が、結局はキリスト教を破壊することに気付き、生涯そのような神秘主義との闘いを続けることになったのです。なお、来月からは、ウェスレーの「標準説教集」を精読することになりました。
● 現代神学の扉 (7 / 17) 前回では、ゼーレン・キルケゴールの「人生の諸段階」のうち美的段階、倫理的段階について、キルケゴールの立場を尊重しながら彼の意味するところを理解しようと努めましたが、今回もまた、理解するということを主な目的として、宗教的段階が解説されました。この段階はさらに、宗教性 A と宗教性 B とに区別され、キルケゴールは宗教性 A によって、ヘーゲル哲学に依拠したデンマークの国教会の客観主義的な教会形成を解説しています。そこでは個人の主体性は顧慮されないで、集団としての宗教のあり方が展開されていました。彼はこのようなヘーゲル哲学に依存した国教会のあり方に反対するものとして、宗教性 B を提示したのです。つまり宗教性 B は、主体的な信仰者のあり方を、彼なりに提示しようとしたものだったのです。その折に、彼はアブラハムとイサクの関係について語り、神が倫理を超えた不条理的と思われるような仕方で、アブラハムに息子の命を捧げるようにと迫った存在として描かれています。これは、神には倫理が通用しないということを意味しないでしょうか。この次の講義では、神の全知全能、倫理超越の問題について語られることになります。
● キリスト教的カバラ (7 / 4) ― 新講座!― 先月のニュースレターでもお伝えしたとおり、先月の聖書研究会が本講座のオリエンテーションのような形でした。そこで「生命の樹」についての基本的な用語・構成などをすでに学んでいましたので、今回からは、 図 イスラエル・リガルディー『柘榴の園』(国書刊行会)をテキストにして、いよいよ内容に入っていきました。カバラ思想というと、私自身、「難解だ」というイメージを抱いていましたが、野呂牧師の丁寧な解説のおかげで、難解なテキストが、とても分かりやすいものへと変容していっています。それにともなって、カバラ思想の興味も増し、「これは知らないわけにはいかない」という思いを今、私は抱いています。
<お知らせ&トピックス>
● 「ウェスレー研究会」では、新たにジョン・ウェスレーの「標準説教」の精読がスタートします。ウェスレーに関心のある方々のご参加を歓迎します!
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
>TOP |