野呂芳男 聖書を深く読む 99.11.30
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新約聖書を深く読む
1999年秋期第4回目 99.11.30
野呂芳男
(まとめ:當麻守彦)
1. パウロの思想には「原罪」という考えはない
今日は聖書を通してパウロの考え方の根本に触れたい。ロマ書5章12節からが今日の重要なテーマとなる。ここでは罪や死が人格的に考えられていて、罪が人間或は悪魔の様に人類の歴史の中に入り込み、全ての人を支配すると述べている。初代教会教父のテルトリアヌスやアウグスチヌスが、パウロのこの個所を解釈して有名な原罪説を作った。
ローマンカソリックや東方教会は勿論、プロテスタントも余り疑いを持たずこの説を受け入れている向きは多い。カルヴァン、ルター然りである。しかしこの原罪説は人間の遺伝と絡み合わされ、何時の間にか生まれながらにして罪を犯す人間の性癖が親から子へと遺伝するものなのではないかと考える様になってきた。これは特に聖書を中心に考える人々の中に顕著である。しかしパウロはそう(罪の遺伝)は言っていない。悪魔が人類の中に入りこんできた結果人間は死に支配されたと言っている。一体原罪説では「私一個人」の責任をどう考えているのだろうか?
当時全ての教会がアウグスチヌスやテルトリアヌスの考えた原罪説と同じように考えていた訳ではなく、むしろ批判的な宗派もあった。たとえばブルガリアのボゴミール派や、南仏から北部イタリアにかけてのカタリ派、さらに遡ってのグノーシス派(キリスト教グノーシス)等がそれである。その前にもパウロ派などが在った。しかしこれらの宗派はローマ権力を借りた正統派によって弾圧された。今日カタリ派の文献は沢山残っている。ボゴミール派も彼等はパウロの末裔と考えている。パウロの言葉は今日の科学的な目で見るとスッキリしないし、極めて神話的で土臭く迷信じみているが、神話的なものを合理主義的に解釈し過ぎるよりは神話の形のままに残していく方が信仰的には大切である。どう考えてもパウロの言葉を遺伝的に考える事の方がおかしい。そもそも人間は生まれた時から原罪を背負わされていたとすれば神は罪人に生んで置いて、いじめるために人間を創造したのか? これは極めて残酷な事であり、神自体が惨めさを露呈するものではなかろうか? 一体何のために人を創ったのかと問わざるを得ない。
2. パウロの発言の根拠となる創世記第2章
パウロの発言の根拠は創世記第2章1節から始まる神話に基づいているが、一見奇妙な神話を合理的に解釈し過ぎるととんでもない事になるので要注意である。「神話的表現」とは神の力が我々の生活に働くという事を表現する一つの手段である。アダムとアダマ(土)は同一と考えられ、人間は土から生まれ土に帰るという思想を表し、又ユダヤ人の考えの中で、ルアーハ(息、風)を吹き込むという事は非常に重要で、その点中国の「気」の考えと似ている。古代において空気は非常に大切なものと考えられていた。中国の合気道や座禅(呼吸法)もその表れである。同様に水も大切にした。
ヤーヴェは元々シナイ山の山の神、沙漠の月の神であった。当時シナイ山は活火山で火を噴いていた。当然雷現象も多発し、水が豊かで周辺は牧草地であった。つまりヤーヴェは雨の神、雷の神、風の神であった。この点はインドとも似ており、スリランカを望む山の神であった観世音菩薩に似ている部分が多い。ヤーヴェは初め女神であったが後には律法の必要性を生じ父(男)神となっていく。それはエジプトからシナイ、アラビアの沙漠(荒野)を経てパレスチナへと集団が生き抜くために沢山の律法が必要となり、男神化したのである。ヤーヴェが初め女神であった証拠にはイスラエルに対する神の態度を示すものとして「愛するイスラエルのために子宮が痛む」と書かれている所がある。エジプトの太陽神、イシスの女神崇拝等と共通する考えと言えよう。しかしその後キリスト教は次第に男尊女卑の宗教となる事は残念なことである。次に「生命の木」「善悪の知識の木」等創世記2:9以後を読んでいく。どうして神は「善悪の知識の木」を生えさせたのか等、沢山の疑問が生ずる。創2:
18の「人が独りで居るのはよくない」という箇所は大変薀蓄があり、多くの疑問に対する答えともなる重要な所である。人間の生涯を通して観る時、人生の経験から彼に合う援助者を創ることになり、神話の上では女性をはじめ、人を創ったのと同じ材料で鳥や獣を創った。人が呼ぶとその声はその生物の名となった。名をつけることは言語であり、ユダヤ人の考え方によれば、これは極めて神秘的な事柄を意味し、一つの性格付け(呪いの言葉等、魔術的な性格もある)を行うことになる。そしてその言葉が独立する事になる。相手を呪われた状態にする場合もあり、相手が立派な時はその言葉は自分に戻ってくることもある。アダムが名をつける事はアダムが動物や植物を支配する事を意味した。
ヤーヴェをユダヤ教のラビはアドナイ(ラテン語で主の意)と考えるが、元々は月の女神に対して「私と一緒に居て欲しい」と叫ぶ声であった。この様にヤーヴェが初め女神であった事は明らかであるが、創2:21−22の話はどう見ても男尊女卑と言わざるを得ない。殆どの宗教は皆男尊女卑の社会になってから生まれたものであり、特にイスラム教はその最たるものである。キリスト教の中ではメソジストとバプテストは女性司祭が登場し、異例のことであった。
創世記3:1に出て来る蛇は東洋では永遠の命の象徴(脱皮)で、過去を捨て新しく生まれ変わるものとして大事に扱った。シベリア、中国、東南アジア皆然り、日本の地方文化の中にもそれが見受けられる。ところが西欧では悪の権化と考えられ、セクシャルな象徴から転じて罪深いものと考えられて来た。しかし東洋ではセックスを悪と考える慣わしは無い。
創世記3:8を読むと講師は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出す。洋の東西を問わず人間のエゴイズムの表現は普遍的ですらある。エデンの園は農耕社会の中での話であり、創世記3:21の「神は二人に皮衣を着せた」の意味は、無教会派の故 黒崎幸吉氏の解釈によれば「動物の衣」即「犠牲」を意味し、これは「キリストの贖罪」を表しているという事を昔講師が読み、それが妙に講師の脳裏から離れないとのことである。
3.パウロの万人救済説
ここでロマ書5:15へ戻る。恵みの賜物は罪とは比較にならず、「アダムの罪を一つの契機として多くの人が死ぬことになった事」と「一人の人イエスキリストの恵みの賜物が多くの人に豊かに注がれた事」との大きさは後者の方が大きく、それを「なおさら」と表現している程である。ロマ5:15−16は重要な箇所である。パウロは多くの人がアダムからの原罪の遺伝により死に捉えられたのではなく、多くの人々は夫々のT.P.Oにおいて自らが犯した罪により死に捉えられることになる事は認めても、一人の人イエスキリストによる恵みの賜物の大きさは罪の大きさに勝り、その恵みと神の義の賜物を豊かに受け容れる人はイエスキリストを通して生きる様になると言っている(5:17)。 ここまで読めばカルヴァンの二重予定説(神は永遠の昔から人間の一部分は救われ、それ以外の部分の人は断罪される様に定められて居り、アダムを創った時にこの事は既に予定されていたとするもの)とは比較にならない程の考え方の奥行きの深さと言わねばならない。結局パウロの考えは万人救済説なのである。
J.ウエスレーは信仰さえ持てば誰でも救われると言ったが、それでは自分の信仰は本物かといった疑問が湧いて来て迷う人も多い筈だ。万人救済説とは信仰を持っていようがいまいが救われるという事である。自分が救われるために信仰を持つという事は明らかな利己主義である。従ってウエスレーの考えにも物足りなく思えた時があった。
しかし明らかに信仰を持っている人は持てない人より恵まれた心の生活を送っている事は確かである。日本では死刑賛成論者が90%以上も居る現状では程遠い話であるが、ロマ書5:16−21で明らかなようにパウロは声高らかに万人救済説を主張しているのである。
4.私達は平等には生まれて来なかったが、一方で神の救いは不平等なほどに普く与えられる(贖罪論を含む)
カルヴァンの二重予定説と原罪を否定する事で、当然の事ではあるが生まれながらの罪人等はあり得ない。全ては個人の責任である。自分の犯した罪を裁かれるのは致し方ないが、それでは人生は全く平等なものかというと決してそうではない。かなり不平等に生まれ来ているものだ。この問題をどう考えたらよいのであろうか?
講師の恩師の一人であるR.ニーバー(Reinhold Niebuhr)は生活の倫理基準としてニ等辺三角形を描き、その頂点にアガペー(Agape)を、中線に相互愛(Mutual Love)を、そして底辺に正義(Justice)を置き、次の様に説明された。
?アガペーは自分を捨てて他者のために尽くす神のみが為し得る愛で、死を覚悟した愛である。教会で一時盛んに語られた時があったが、これは簡単に使える言葉ではない。実行が如何に大変な事であるかは想像に難くない。
?相互愛に属するものは夫婦、恋人、友人、親子の愛であるが、この愛の性格は相手がどういう人物であるかがわかっていないと愛せない。つまりエゴが無くなる訳ではなく、自分も相手から愛されたいという愛である。
?正義は社会の中で我々自身が数値で表される関係であり、個性は重要視されない。年金支給開始に当り受給者が身を以って体験する事柄である。それは又倫理道徳の問題である。政治、経済、世界観を通して平等に権利を評価しようとする性格がある。
さて聖書はアガペーを説いているが、我々は相互愛と正義の狭間で生きている。実際我々にはアガペーは実行出来ない。では それだからといってアガペーを除去したらどうなるか? 米国でもキリスト教の力が衰えセキュラーな世界になりつつある。講師の母は非常な高齢にも拘らず、今尚米国で銃の規制を叫んでいる。日本も同じで社会倫理の退廃は加速化される状況にある。そして日本も世界各地と同じ様に一人々々が大切にされなくなりつつある。つまりアガペーが無くなると相互愛とか正義のレベルはどんどん低下する一方である。相互愛から正義の領域に落ち、更にその次は犯罪の領域に入って行く。ある程度のエゴイズムがあっても相互愛はアガペーに触発されて浄化を保っているのである。同じく平等で丁重に扱われるべき事が約束されている正義の段階でも、相互愛に触発されて、細かい個人情報が大切にされ社会倫理や道徳的行動が活性化されていた姿が後退し、相互愛の質の劣化に伴い正義も又唯犯罪を取り締まるだけの尺度としてしか機能しない姿に成り果てるのである。正に現実の世界(生活)は神と悪魔との闘いの場であり、又妥協(せめぎあい)の場である。この事をカミュは不条理と言ったのである。何故神は人間の誕生の時から不平等(不条理:根源的な無意味)に創ったのかと問いたくなるが、そうしなければ私という存在を現存させる事は出来なかったのである。カミュの「ペスト」では何か気持ちの悪いもの(人格的に悪魔と表現したくなる様な)が我々の生活の中に入り込んできてその生活を破壊に導く力を語り、その最たるものが自由(破壊の情熱:自己主張)であると言っている。自由は愛を生み出す基盤であるから尊い事は認めるが、米国で自由々々と言って銃を振り回す米国的自由(自分の思い通りに生き、その後に何かを作り上げる)の中に、知らぬ間に我々の世界に入り込もうとする悪魔的で破壊に導く力が忍び寄っている事に気付かなければならない。聖書は自由の後に愛の創造を目指す。しかも聖書は強制しない。一方で今話題の在宅介護制度などはJusticeの領域内で機能するものであり、計算により一見「平等」を装っているがそこには既に不条理が入りこんで来ている事が感じられる。数値の必要性はあるが、数値で表せないものも数値化しようとしている。
Justice(正義)は平均値で扱おうとし、個人差を問わない。ところでキリスト教の贖罪論はどの様な考え方から生まれたものなのであろうか? 神の怒りの全てがキリストイエスの上にだけ爆発し(キリストは一種の避雷針)、お陰で他所は大丈夫であったと考え勝ちであるが、これこそ神の怒りの分量計算であり、全ての人の罪、従って神の刑罰を分量で計るもの、キリストの贖罪をJustice(正義、数値)の領域で扱おうとするものに他ならない。しかし神の義は人間社会の正義ではない。神の義は貧しい者に富める者が降って行く(与える)様な、ある種の不平等な姿を採るものである。つまりキリストの贖罪はなるべくアガペーに近い所で考えるべき事柄である。そのための最善の方法は旧約聖書の神の義を中心に考える事である。
貧しい人、苦しむ人、悲しむ人の所にキリストが出かけて行く事の大切さにもっと目を向けよう。不条理に生まれて来た自分の姿を肯定してしまうのは間違っている。キリストが近づいて不幸に生まれ、罪を犯し勝ちである人類全体の重荷を背負い、十字架による捨て身の懺悔の行動を採られたこと。私の罪を悲しみ、何とかしようと苦しみながら死んだ事に思いを致さなければならない。
それは又講師の最大の恩師の一人であられる パウル・ティリッヒが言われる様に、救われるべき者、癒されるべき者は存在する全てであり、決して特定の個人(例えば祈り願望した当人)ではない。他の全ての人々、場合によれば宇宙と共にすら救われるという事であろう。その様な意味で万人救済説は不平等に神の意志で行われるのである。
99.11.30 秋期第4回目の記録は以上 文責:當麻
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