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ジョン・ウェスレーに於ける義認と聖化

 野呂芳男

  1   2   3   4   5   6   7   8   9   10   11   12   13      掲載にあたっての注
1947年度 日本基督教神学専門学校卒業論文




 我々の日本キリスト教団が、真実に教会であるという告白がなされるためには、信条の一致を必要とすること論をまたない。而して、信条の一致を見るためには、飽くまで、神学的に旧教派の伝統を顧みねばならないであろう。而して、我々は、此の伝統を造りあげるに偉大なる力を供給した三人の偉人を知り得る。それは、ルター、カルヴィン、ウェスレーであると云う事に就いては、恐らく異論がないように思われる。さて、我々の教会の先輩諸氏により、ルター、カルヴィンの稔多き研究がなされた事は周知の事実であるが、未だ、ウェスレーに関して、神学的な研究がなされた事は極めて少ない。伝記的な研究に於いては、既に多くの貢献がなされたのであるが、併し、一般的に見る時、ジョン・ウェスレーは日本に於いて、不親切なる待遇を受けているように思われる。併し、真実に教団が教会であるためには、彼を研究する事は必須である。

 ウェスレーの神学を研究する資料は、勿論彼の多数の著書であるが、我々が常に念頭に置くべき事は、彼の著書は、未だ神学的には充分に反省せられずして書かれていると云う事である。彼の信仰のパトスは充分にロゴス化せられずしてあるが故に、表面的な言葉使い、表面的な理論的、相互的矛盾を超えて、彼の信仰の本質にまで迫り行かねばならない。其処にウェスレー研究の面白味と同時に困難とがある。

 さて、従来日本に於ける神学的なウェスレー研究を見るに、先ずバルトの強い影響の下に立つ人々からなされたる、彼の信仰の本質を体験主義的、心理主義的となす観方がある。併し、此の場合、体験主義的、心理主義的なる言葉の意味内容が問題である。啓示が、具体的なる人間に於いて、一の事件として生起する以上、其処に人間の側の体験的な、又、心的な事柄が存在するのは当然であり、それをも不可なりとするならば、信仰と云う生命的な事実を、現実の彼岸に押しやる事に外ならない。それ故、我々は啓示――その具体的な場所は聖書であり、其処に於いて啓示は起るのであるが――啓示の下に於ける、聖書と結びつけられたる体験的、又、心理的な事実を否定することは出来ない。それ故に、それらの人々の側より不可なりとせられる体験主義的、心理主義的なる言葉の意味内容は、聖書と並置して、信仰の権威の處在とし、自己の体験的、心理的事実を権威づけるという事であろう。若し、そのような意味に於いて、ウェスレーの信仰の本質を体験主義的、心理主義的となすならば、彼の神学の周辺に幾分そのような傾向を認め得るとしても、それは誤謬を犯す事になるであろう。更に、「プロティヌス哲学とカントの批判哲学の上に」、又「シュライエルマッヘルを深く理解することによって」(註1)、ウェスレー神学の本質に迫らんとする試みも、あまり多くの成果を期待し得ないであろう。然らば、我々は彼の信仰の本質を何処に求むべきであろうか。我々はむしろ、ウェスレーの信仰の系列を、ルター、カルヴィンを結ぶ延長線上にあるものとして理解すべきではなかろうか。その時にのみ、我々は最も深く彼の信仰の本質を掘り下げ得るであろう。我々は此の立場に立って、彼の神学に於ける義認と聖化の問題を取上げて見よう。

(註1)比嘉保時著『ウェスレーの神学』2頁

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 フィシャー(Fisher)は、ジョン・ウェスレーを評して、「彼は内面的、宗教的平和の一探究者(a seeker for inward religious peace) であった」(註1)と言っているが、此の魂の平和こそ、ウェスレーをして、その神学を形成せしめた成因であった。此の平和は、「神からの平和、神のみがそれを与え得る、そして世の取り去り得ぬ、又、全ての理解力を超え、凡ての(殆どの)合理的概念を超える平和」(註2)であり、此の魂の平和は、潔からぬ心には存在せず、それ故に、其処に幸福はない(註3)。而して、此の幸福とは、彼にとって、「霊魂を造り給うた神との一致、父と子とに対して交わりを持つこと、一の霊に於いて主と結びつくこと」(註4)、即ち、神の意志に人間が服従し、それに一致する事に於いて成立し、神との結合及び神の心に於ける働きがおのずから伴う喜悦感情であり、此のウェスレーの神学的成因である魂の平和、即ち幸福は、カトリック的な、神をも人間の幸福のために用いんとする自己追求とは全然異るものである。而して、それは、彼の聖潔への希求と不可分離的に結合せられている。その事は前掲の彼の言葉によって明白である。潔き者にのみ平和と幸福がある。此の点に於いて、通常ウェスレーの特色がその聖潔の高調にあったと言われるのは正しい。さて、我々は、彼の回心と言う伝記的な経過を辿り、彼の信仰の本質を更に明瞭にし、本論に進んで行きたい。

(註1)G.P.Fisher ; “History of Christian Doctrine“ 2Edit. p.391
(註2)Wesley ; “Sermons on Several Occasions” vol.? p.63
(註3)何故なれば、潔からぬ者が幸福であるとは、事柄の本質上、不可能な事であるから。・・・その理由は明白である。潔からぬ心は不安な心であるから。 Ebenda vol.?p.404
(註4)Wesley ; ” A Plain Account of Christian Perfection” chap.6

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  17世紀の英国は清教主義(Puritanism)の全盛時代であり、道徳的緊張の時代であったが、18世紀の英国はそれに反して頽廃の時代であった。それは、清教主義の運動が「権利条例」(Bill of Right) の発令により、一応勝利を収めた事と、フランスのルイ14世の豪奢が影響した事にもよるのであるが、此の道徳的頽廃の18世紀初頭1703年、ジョン・ウェスレーは、父サムエル・ウェスレー、母スザンナとの間に生れた。両親とも、清教徒の家に育ったにも拘らず、国教会に転会した人々であった。而して、ウェスレーの後年に迄大きな影響を与えたのは母スザンナであったが、彼がその家庭に於いて、「厳格に教育せられ、注意深く教えられ」た事により受けたるものは、「神の凡ての戒めを守り、又、全的に服従する事によってのみ救われ得る」という事であった(註1)。而して、ウェスレーが国教会に育ったという事も見逃し得ない事実である。当時の国教会は理神論(Deism) と、アルミニアニズム(Arminianism) との深い影響を受けていたのであり、後者は後年のウェスレーのカルヴィニズムとの予定論論争に大きな影響を与えて居るのであるが、今我々は彼の回心を探究するに当り、差当り彼に対する理神論の影響を見ねばならない。

 理神論は、宗教的に緊張した17世紀英国の清教主義時代の後を受けて、其の緊張感の弛緩の結果、冷静なる思索を好むようになった英国を風靡(ふうび)せるものであり、教理史的に此れを見るならば、啓示と理性との対立を調和せんとするスコラ神学への類似を示すものであるが、理神論はスコラ神学とも異なり、理性をその唯一の根拠として神学を建設せんとするものであった。而して、種々其の内容は人により異なるのであるが、大体に於いて、唯一の人格的道徳的な神の存在を信じ、神は宇宙の創造者であるが、神と宇宙との関係は専ら創造に於いてのみ存することとなし、其の後、神は創造の際に定めたる自然法により宇宙を治め、人は理性、良心、自由を与えられたる人格的な存在であり、宗教の目的は、人間に一切の道徳的義務を実行せしむる事であるとなした。若きウェスレーが、此の理神論の影響を深く受けている事は疑いのない事のように思われる。その事は、1737年5月18日の彼の日記にあらわれている。「私は(そう信ずるのだが)此地に於いてなされた理神論への最初の回心を発見した。彼は暫くの間は、熱烈で模範的な宗教的人物の一人であった。併し、無邪気な(harmless)仲間の中で甘やかされていたけれども、彼はまず彼の熱心が破滅し、それから彼の信仰が破滅した。それからというもの、私は攻撃せられた数名の人々を発見した。けれども尚、彼等は彼等の立場を維持した。併し、私は、悪魔の使徒達は非常に勤勉であるから、彼等を二つの主張の間に長く止まらしめないだろうと思っている」(註2)。此処にウェスレーは自己を理神論の立場に置き(彼は無邪気な仲間にとって悪魔の使徒である)――「無邪気な仲間」――一種の熱情的な福音主義者のように思われるが――を嘲笑しているのである。

 最後に、ウェスレーの律法主義に影響を与えた今一つのものは、Jeremy Taylor の "Rules and Exercises of Holy Living and Dying"、Thomas á Kempis の"The Christian's Pattern"、William Law の "Christian Perfection" "Serious Call" 等の神秘的著作であり、此等によりてウェスレーは、「内的にも、外的にも、彼の力の限り、神の凡ての律法を守るための絶えざる熱心によって、彼が神から受け容れられるべきことと、またこの時にのみ救いの状態にあることを納得せしめられた」(註3)のであった。されば、回心以前のウェスレーは、幼き日よりの家庭の感化、理神論、及び上掲の神秘的著者達の影響により、彼の全心全霊を捧げて神の聖なる律法を遵守し、救われんとしたのである。併し、このウェスレーの律法主義的平和探究の効果は如何であったか。アメリカへの渡航途中、死の淵にのぞんだ時、それは救われ得るという慰めを何ら彼に与えなかったのであった(註4)。

 此のようなウェスレーの仲保者なき律法主義的信仰を福音主義に導いた一の原因は、アメリカに於ける彼自身への失望であった。それは彼の英国到着の頃1738年1月29日の日記によくあらわれている。「それ故、地の果てに於いて、私が学んだ事は次の事であった。即ち、私は神の栄光から落とされている。私の全心情は、全く腐敗し、嫌悪すべきである。従って私の全生活も。(何故なれば、悪き樹は善き果をむすぶことが出来ないから。)神の生命から遠ざけられているから、私は怒りの子、地獄の世嗣である。私自身の業、私自身の苦しみ、私自身の義は、怒り給える神に対して私を和解せしめる事、頭髪よりも多い私の罪に対して何らかの贖いをなす事、などはとても出来ない。・・・私の心情の中に死の宣告を持ち、又、私自身の中にも、私自身についても、弁護すべき何も持っていない。キリストに於いてある所の贖いを通して、自由に義とせられるそれを望む事を除いて、何等の希望をも持っていない。若し、私がたずねるならば、私はキリストを見出し、そして彼に於いて見出されるという希望以外、私は何らの希望をも持っていない。即ち、私自身の義を持たずして、キリストを信ずる信仰を通してのそれ、即ち、信仰による神からの義を持つことの希望以外」(註5)。この記事は後半に於いて、モラヴィヤンの宣教師スパンゲンベルク(Spangenberg) の強い影響を物語っているのであるが、ウェスレーを積極的に福音主義へと導いたものは、其の後の同じくモラヴィヤンの宣教師ピイタア・ベエラア(Peter Böhler)との交わりであった。理神論に立ち、己が義により魂の平和を得んとしていたウェスレーに、ベエラアは彼の哲学(理神論)を棄てん事を要求している(註6)。そして、ウェスレーは彼により、それによってのみ救われる、というところの信仰の欠乏を徹底的にさとらせられたのである(註7)。漸く、自己の業による救いの達成の不可能を徹底的に知ったウェスレーは、遂に1738年5月24日、アルダスゲイト街(Aldersgate-street) に於いて、福音的な回心をなしたのである。「夕方、私は非常に心進まぬながら、アルダスゲイト街に於ける集会に行った。其処で或人がルターのロマ書序文を読んでいた。9時15分前頃、彼が、神がキリストに於ける信仰を通して心の中に働き給う変化を述べつつあった間に、私は、私の心が不思議にも熟するのを感じた。私は、私が救いのために、キリスト、キリストのみに信頼したのを感じた。そして、彼が私の罪を、私の罪をさえ取り去り、私を罪と死との法から救い給うたという確信が与えられた」(註8)。而して、彼にとって、「心熟した」事実は、活けるキリストの彼自身になし給いたる客観的な事実であり、此れを歴史的に見るならば、ルターの回心と最も近き類似に立つものであることは、此の回心に至るまでの前述の如きウェスレーの体験を知る時に、誰人も否定し得ない事であろう。ウェスレーの回心は律法主義より福音主義への回心であり、彼の回心を、何らか他のものに理解することは許されない。併しながら、ルターの回心と非常な類似を示しながら、ウェスレーの場合には、ルターのそれよりも倫理的な色彩が濃いという事は見逃し得ない。神の怒りを免れ、神に対して平和を得ることと共に、その回心は罪を遁れて聖潔を得るという事に密接に結合せられている。それは、その日のそれに続く彼の記事に於いて明瞭である。「家に帰って後、私は非常な誘惑に攻撃せられた。併し、叫んだのでそれらは逃げ去った。それらは何回も何回も戻って来た。私が上を仰いだので、神は聖所から私に助けを送り給うた。そして此処に、私は此の状態と、以前の状態との間に主に存する相違を発見した。私は全力を以て、恩寵の下にある現在と同様に、律法の下にあって、励みつつ、然り、戦いつつあった。併し、其の時には、屡々でないにしても時々は征服せられた。今は、私は常に征服者である」(註9)。此れにより、ウェスレーの回心に於ける倫理的要素は明瞭ではあるが、併し、それ故に、ウェスレーの回心を、第二の賜物として彼が主張したところの完全(成人としての)への回心であるとするのは早計であろう。彼の回心に至る道程を知り、後に示す如き彼の深き罪観を知るならば、我々はそのような結論に傾くわけには行かない(註10)。此の点を最もよく示して呉れるものは、後に於ける彼のモラヴィヤンとの分離である。それには多くの理由が存する事であるが、その主なる一は、モラヴィヤンが、清浄なる心なき時には義認信仰が存在しないと主張したからである。それに対してウェスレーは信仰のみによる義認を説き、此処に両者は分離したのである(註11)。されば、ウェスレーの回心はその本質に於いて、飽くまで福音的なものであるという事は疑い得ないもののように思われる。併し、倫理的関心が、彼性来のものであった事と共に、彼の生きた時代の道徳的頽廃が彼を刺激し、ウェスレーはその神学の強調点を恩寵による倫理的聖化に持って行ったのであった。それ故に、ウェスレーの強烈な関心が飽くまで倫理的である事を理解する時に、我々は、一応彼の非福音主義的とされる神学の部分をも、その内奥に、彼の福音的な信仰の躍動しているのを理解出来るであろう。

(註1)Wesley’s Journal (Everyman’s Library) Vol.?p.96
(註2) Ebenda Vol.?p.48
(註3) Ebenda Vol.?p.98
(註4)此の方針に従って数年間を続けた後、死の近きを自ら懸念した時、此等凡てが、私に何等の慰めをも与えないという事、又、神に受け入れられるという何等の確信をも与えないという事を発見したのであった。Ebenda Vol.?p.98
(註5) Ebenda Vol.?p.76
(註6)この間中、私はピィタァ・ベェラァと多く話した。併し、私は彼を理解しなかった。そして就中、彼が「兄弟、兄弟、あなたのその哲学は取り去られねばならない」と言った時に。Ebenda Vol.?p.83
(註7)オックスフォードで、肋膜炎から回復しつつある弟に会った。そして彼とともに、ピィタァ・ベェラァがいた。偉大な神の御手の中にある彼によって、私は五日の日曜日に、明白に不信仰を確信させられた。それによってのみ我々が救われるところの、その信仰の欠乏を。Ebenda Vol.?p.84
(註8) Ebenda Vol.?p.102
(註9) Ebenda Vol.?p.102
(註10)ウェスレーの回心に続く次の記事は、此の事を示している。「然るに悪魔は恐怖を注入した。“若し汝が信ずるならば、何故もっと認め得るような変化がないのか”と。私は答えた。(否、私ではない)“私はそれを知らない。併し、次の事を私は知っている。即ち、私が現在、神との平和を持っているという事を。”Ebenda Vol.?p.102
(註11)あなた方の中、他の人々、即ち現在英国に居る人々(特にモルター氏)が次のように主張するのを私は聞いた。弱き信仰というような信仰は存在しない。信仰には何らの段階もない。未だ何らかの疑惑があるところには義認信仰はない。信仰の充分さ、又、明白な聖霊の住み給う証しのないところに義認信仰はない。又、充分な、本来の意味に於いて、新しい、又、清い心のない所には義認信仰はない。そして、此等の二つの賜物を持っていない人々は単に目覚まされたのであり、義認せられてはいない、と。Ebenda Vol.?p.328
“弱い信仰は信仰ではない”という此の主張に対して、ウェスレーは次のように答えている。「然しながら、弱い信仰も信仰であるということは、次の引例に明白に表われている。(一)聖パウロ“信仰の弱き者を容れる”(二)聖ヨハネは、若者又父たちと同様に小さき児たちであるところの信者について語っている。(三)主自身の御言葉“汝、何で恐るるか、信仰うすき者よ”“ああ、信仰うすき者よ、何で疑うか”“我、汝(ペテロ)のために、その信仰の失せぬように祈りたり。”それ故に、其の時ペテロは信仰を持っていたのである」Ebenda Vol.?p.276

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 以上、我々が彼の回心に就いて、相当長い叙述を費やしたのは、本論の義認と聖化とに入る前に、彼の根本的な信仰体験を探求する事が必要であると思われたからである。いよいよ中心的な課題に入るにあたり、彼の人間観、罪観より入って行きたい。

 ウェスレーは、人間を先ず神によって造られたるものとして見、「神より出で、神にまで帰りつつある霊」(註1)となした。「そして、神、三一の神は言い給うた。我等に象りて、我等の如くに、我等人を造らんと。そのように、神は人を彼自身の像に於いて造った。彼は彼の像に象って人を造り給うた(創世記1:26-27)。ただ単に、神の血気の像に於いてのみでなく、彼自身の不死の姿に。理智と、意志の自由と、種々なる性情とを付与されたる霊的存在として。ただ単に、海の魚と全地との支配権とを持って此の低き世界の支配者として、政治的な像にのみでなく、主に、使徒の言葉に従えば、それは義と真実の聖とであるところの道徳的像に象って造られたのである(エペソ書4:24)。人は神の此の像に象って造られた。神は愛である。従って、人は造られた時には愛に満ちていた。愛が彼の全ての気質、思い、言葉、行為の唯一の原理であった。神は正義、恵み、真実とに満ち給う。人も創造者の御手から出て来た時にはそのようであった」(註2)。その時の人間は、「理解力や愛情に於いて、何ら欠けなきものとして造られ」(註3)、「その時、肉体は心に対して何ら障壁物でなかった」(註4)。ウェスレーによれば、肉体は神により造られたものであり、悪しきものではなく、「それは、全ての事柄を明白に理解するに、それらに関して真実に判断するに、若し、少しでも理路を辿るならば、正しく理路を辿るに、妨げとはならなかった。”若し理路を辿るならば”というのは、多分理路を辿らなかったから。多分朽ち易き肉体が心を圧迫し、そして、心の本来の能力を損ずるまで、理路を辿る必要はなかった。その時まで、心は提供せられたる真理を、眼が光を見る如く、直接に見たのであろう」(註5)。それ故に、人間は正しく神の意志を知り、神より与えられたる自由意志によりそれをなし得ていた。「併し、人は神の像に象って造られたのではあるが、尚彼は変わらぬものとしては造られなかった。若し、人が変わらぬものとして造られたならば、それは、神が其処に人を置くを喜び給うたところの、試練の状態と矛盾したであろう。それ故に、人は立ち得るように造られたが、尚倒れ勝ちなものとしてである」(註6)。それ故に、「人は、栄誉の中に留まらなかった。彼は、彼の高き状態より落ちた。人は、神が汝それから食うべからずと、彼に命じ給うたところの木から食べた。彼の造主に対する不従順の悪しき行為によって、彼の君主に対する純然たる反逆によって、彼は明白に、彼がもはや神をして、彼を支配せしめないという事を、彼が彼を造り給うた神の意志でなく、彼自身の意志によって支配されるという事を、そして彼の幸福を神自身の中に探ねずして、世の中に、彼の手の業の中に探ねるという事を、宣言したのであった(註7)。「そして、凡ての人、全人類、其の時にアダムの腰にあった凡ての人の子達は、アダムに於いて死んだ。此の必然的な結果として、彼の後裔である凡ての人は、霊的に死んで、神に対して死んで、全く罪の中に死んで、世の中へ出で来る。全く神の生命なく、神の像なく、アダムが造られたところの凡ての義と聖となく、出で来る。その代りに、世に生れ出ずる凡ての人は今や、誇りと、自我意志とに於いて、悪魔の像を誉っている。感覚的な肉欲と、欲求とに於いて、動物の像を誉っている」(註8)。これによって見る如く、ウェスレーは人類の全的堕落、及び原罪の教義を採用し、此の点に於いて非常にカルヴィン的である(註9)。当時の傾向が、知的にも、道徳的にも、人間の自然的価値を高調せるに対して、彼は最後まで人間の堕落を高調した。彼にとって、人間の堕落こそは啓示宗教の基礎であった(註10)。彼の全的堕落の主張は、彼をして、単なるアルミニアン主義者とし、又、浅薄なる罪観を有する者となすを根底からくつがえすであろう。次の如き言葉は全くカルヴィン的な色彩を持っているではないか。「それ故、我々は第二に、次の事を学ぶことが出来る。それを原罪と呼ぼうが、又、何らか他の名を以て呼ぼうが、此の事を否定する凡ての人は、キリスト教から異教を区別する根本的な点に於いて、尚異教徒に過ぎない。彼等は一歩を譲って、真実に、人々は多くの悪徳を持っていることを許容するかも知れない。従って、我々が、我々があるべきように賢く、又、有徳には全く生まれていないという事を許容するかも知れない。而も尚、厳しく、我々が悪へ対すると同様に、善への性向をもって生まれている事、そして、生まれながらにして凡ての人は、アダムが造られた時にあったように有徳であり、賢くある事を主張する人もある。併し、合言葉がある。人は生来あらゆる種類の悪に満ちているか、彼は凡ての善に欠けているか、彼は全く堕落しているか、彼の霊魂は全的に腐敗しているか、又はテキストにかえって言えば、彼の心の凡ての思いの郷関は不断に悪であるか。それを許容すれば、あなたは其の限りに於いてキリスト者である。それを否定すれば、あなたは尚異教徒に過ぎない」(註11)。

 以上の如きウェスレーの深い罪悪観は、理神論の盛んな当時に於いて、驚くべき事と言わねばならない。此のような罪深き人間は、自力を以て如何にするとも救われ得ない。自力を以てしては、罪の最も小さきものをも償い得ない。又、人間は自己自身の罪の深きをも知り得ない。「なぜなれば、あなたの現実の罪は、あなたが言い表す事の出来るよりも、又、あなたの頭髪よりも多いのであるから。誰が海の砂と、雨の滴りと、あなたの罪を数えることが出来ようか」(註12)。此の点、ウェスレーの罪観は、ルターの戦慄した自己追求の悪魔的意志が、無意識的な程の深さに於いてある事にまで及んでいる。

(註1)私は考えた。私が空を飛び行く矢の如く人生を過ぎ行く一個の生物である事を。私は神より出で、神に帰りつつある霊である。Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.6
(註2)Ebenda Vol.?p.400
(註3)Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.25
(註4)Ebenda chap.25
(註5)Ebenda chap.25
(註6)Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.400
(註7)Ebenda Vol.?p.400
(註8)Ebenda Vol.?p.401
(註9)ウェスレーは原罪の教義を此処に見る如く力説しているが、カルヴィンの原罪遺伝説を攻撃している。「我々はアダムの罪のために、悪への傾向性をもっているが、しかし、此の傾向性はキリストの義によって恩恵を招来するという条件の下に成立するものである。人間が罪人であるということは、人間が被創物としての自らの立場を忘れ、神の恩恵を無視したという各個人の堕落に基づくものである」Wesley ; "Doctrinal Standard?" p.436
アダムにより遺伝せられたのは、罪への傾向性であり、罪を犯すのは各個人の責任である。例え幼児といえども、その各個人の責任に於いて罰せられる。アダムの後裔は凡て生まれながらに、各個人の責任に於いて死に値している。「人祖アダムの罪のために地獄に陥るような幼児は過去に於いて一人も存在しなかったが、将来に於いても又、アダムの罪のために地獄に陥るような幼児は一人も存在しないであろう」Wesley's Works X? p.437
併し、此等のウェスレーの言葉はカルヴィン主義との予定論論争のための言葉であり、後に見る如く、ウェスレーの予定論に対する態度を正しく把握する時、此等の言葉はあまり重要性を彼の神学に於いて持っていない。併し、此処にウェスレーが、各個人の責任を強調せる事は注意すべき事である。
(註10)「人間の堕落こそは啓示宗教の基礎である。若しこれが取り去られるならば、キリスト教体系は覆され、巧みに案出せられし寓話と云うほどの名誉ある名さえも受ける資格を失うであろう」Wesley's Works ?p.176
(註11)Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.398
(註12)Ebenda Vol.?p.65

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 併しながら、ウェスレーが、此の罪を肉と同一視したものの如く、言わば、其処に於いてウェスレーが、霊魂と肉体との二元論的思惟に陥り、肉体其のものが罪であると見たとする如き、彼の罪観に対しての一抹の不安がなくはない。例えば、彼の「新生」(The New Birth) と言う説教に於いて、彼は人間の罪を感覚的欲望と同一視しているからである(註1)。併しながら、此の疑惑は、「基督者の完全」の中に於ける、彼の完全なるキリスト者の生活の叙述に於いて、如何に彼が禁欲主義から離れていたかを読む者には直ちに氷解するであろう(註2)。併し、ウェスレーに於ける罪と肉体との関係は、後に論ずる彼の聖化、特に完全の主張と密接に関係を有するが故に、我々は更に此の問題を取り上げて見たい。

 前述せる如く、創造に於ける人間は、神の真理を、眼が光を見る如く、直接に見、神の義と聖とに歩んでいたのであるが、アダムの堕落の結果、先ず罪は肉体に宿るものとなり、「朽ちざる肉体は朽つるものとなった。それ以来、肉は魂に対して妨害物となり、そしてその働きを妨げる。以後、現在に於いても、人の子は誰でも常に明白に理解し得ず、又、正しく判断し得ない」(註3)。此処に、人間は神の意志を知る上に於いて誤謬を犯すようになった。「そして、判断と理解に於いて誤っているところに於いては、正しく理路を辿ることは不可能である。それ故に、人が誤謬を犯すことは呼吸する如くに自然である」(註4)。併し、ウェスレーによれば、かくの如き判断における誤謬より来る人間の過失は、キリストの血の贖いを要するものではあるが、――何故ならば、終末的な全き救いに於いては、その過失もなくなり、人間は全く神の意志と一致し得るのであり、そのように人間の体を回復するのは、キリストの血の贖いであるから、――併し、罪とは呼ばれなかった。この事実は非常に重要である。というのは、後述する如き、ウェスレーに於ける罪なき成人の完全とは、以上のような人間の過失は此れを許容し、完全者といえども肉体に於いて生くる限り、此等の過失を免れ得ないとしているからである。このような肉の魂に対する妨害は、人間が神より離れたる結果であった。彼によれば、罪とは、神の意志に対する人間の意志的な反抗であった。「過失、及び、朽ち易き肉の状態から必然的に由来する如何なる欠点があろうが、決して愛に反していない。それ故に、又、聖書的意味に於いて、罪ではない」(註5)。それ故に、彼は、罪を最も聖書的に、人間の意志の問題として取扱っているのである。彼は、パウロに倣って、罪を飽くまでも意志の問題としつつも、人間の罪と肉とが、経験上に於いては、一なるかの如くに現れることを理解していたのであろう。以上に於いて、我々は、ウェスレーの罪観の深さを知り得たであろう。彼の罪観が浅薄なりとなすのは、主に、彼の完全の教義によって彼の罪観をも覗わんとするより発する誤謬であり、我々は逆に、彼の罪観の深さの把握より出発しなければならない。


(註1)「かくて人は、それなくして神の像が生存し得ないところの神の知識と愛との両者を失ってしまった。それ故に、人は同時に両者を奪われ、そして、不幸であると共に不潔になった。これに代わって、人は、誇りと自己追求、即ち悪魔そのものの像の中に沈んで行った。そして、感覚的な肉欲と欲望との中に、滅ぶべき獣の像の中に沈み入った。・・・此れに反して、世に生まれ出ずる凡ての人は、誇りと自己追求とに於いて、悪魔の像を誉っている。感覚的な肉欲と欲望とに於いて、獣の像を誉っている」Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.401
(註2)其の例として、結婚及び世俗的な事業に関する彼の言葉をあげる。
「それ故に、我々は、愛に於いて完了せられたる者は、結婚する事が不可能であろうとか、又、世俗的な事業に携わる事が出来ないとは言えない。若しも、彼が世俗的な事業に召されるならば、かつてよりも、より有能であろう」Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.19
(註3)Ebenda chap.25
(註4)Ebenda chap.25
(註5)Ebenda chap.19

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 此のように、神の像を汚し、罪の中に滅びつつある人間は如何にして救われ得るか。単なる神への知的承認でなく(註1)、神のキリストに於けるアガペー的意志への信頼によってである(註2)。「恩恵は救いの源、信仰はその条件である」(註3)。而して、此の信仰は、求める全ての者に与えられるものである。此れは、ウェスレーの普遍的救済論であり、此の点に於いて一応ウェスレーは、アルミニアニズムを採用している。信者は、キリストの義を転嫁せられて義と認められる(註4)。ウェスレー神学にとって、義認論は、その基の一切であり、ウェスレーが引用せるルターの言葉の如くに、「それによって、教会が立ち、また倒るるところの個条(articulus stantis et cadentis ecclesiae ;The Christian church stands or falls with it) 」であった(註5)。此の点に於いて、我々はウェスレーに於いて、義認と聖化とが区別せられ、二つの事柄の如くに見られ、両者の関係が経過的に解釈せられて居り、義認に於いては神の絶対的な恩寵の働きがあり、聖化に於いては信者は律法的努力をなし、自己の業によって救いを――キリストに於ける恩寵によってではなく――達成せねばならぬと、ウェスレーが主張したかのように論ずることの誤謬を知り得るであろう。それは、次の如きウェスレー自身の言葉により明らかである。「何ら此れ以上の反対が起こらない時、唯我々は次のように問われる。信仰にのみよる救いは、最初の教理として説かれてはならない。又、少なくとも、全ての人に対して説かれてはならないと。併しながら、聖霊は何と言い給うか。”既に置きたる基の外は、誰も据えうる事能わず。この基は即ちイエス・キリストなり”。それ故に、”彼を信ずる者は、凡て救わるべし”という事は、凡ての我々の説教の基礎であらねばならない。即ち、最初に説かれねばならない」(註6)。義認即ち罪の赦しが根本であり、「公分母」である(K.Barth) 。併しながら、ルターの信仰義認論がとかくすると、道徳無用論に陥らんとする危険を持つのに対して、ウェスレーの場合には、義認は新生の教義と密接に関係している。併し、それであるからと言って、神の恩寵の時間的面に於いてまで、彼が義認を聖化の中に巻き込み、カトリック的信仰義認観へと落ちた事を意味しない。彼に於いて、神の恩寵の時間的面に於いては、義認と聖化とは明瞭に区別せられている。「それ(義認)は、明らかに既に見られた如く、現実に義とせられ正しくせられるということではない。それなら、それは聖化である。正当に聖化は、義認の即刻の果として、或る程度あり得る。併し、それにも拘らず、両者は神の異なった賜物であり、全く異なった性質のものである。義認とは、神がイエスによって我々のためになし給うことであり、聖化は神が聖霊によって我々の中になし給うものである」(註7)。我々はこれ迄、ウェスレーに於ける義認論を跡付けて来たのであるが、彼の生きた時代に於いて、彼が最もその使命として意識的に高調した聖化論へと入って行こう。


(註1)それ故に、キリスト教信仰とは単なるキリストの全福音への同意ではなく、キリストの血への充分なる信頼である。キリストの生と死と甦りへの信頼、我々の贖い、又、生命としての、又、我々のために与えられ、我々の中に生きつつあるところの、彼に寄りかかることである。Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.14
(註2)信仰は神が与え給うところの自由なる賜物である。彼の恵みに値する者の上にではなく、前もって潔くあるような人の上にでもなく、そして、神の善なる凡ての祝福を栄飾られるに適わしい者にでもなく、不敬虔なる者、潔からざる者に、其の時に尚永遠の破滅に適わしい人々に、その中に何らの善もなく、唯一の願いが、”神よ、罪人なる我を憐れみ給え”である人々に、神が与え給う賜物である。人間の中に於ける何らの功も、何らの善も、神の赦しの愛に先立たない。Wesley ; "An Earnest Appeal to Men of Reason and Religion" Section 11
(註3)Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.12
(註4)実際厳密に言えば、恵みの契約は、絶対的に必要欠くべからざるものとして、我等の義認のために、少しも行うことを要求せざるばかりでなく、彼の独子と、そのなした贖罪のために、敬虔なる者、働かざる者を義とし、信ずる者の信仰を、彼に義として転嫁する処の神を信ずればよいのである。Ebenda Vol.?p.55
(註5)Ebenda Vol.?p.179
(註6)Ebenda Vol.?p.18
(註7)Ebenda Vol.?p.47

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 信仰によって義とせられた人間は、聖化の結ぶ初めの果なる新生を与えられ、漸次罪に死に、恵みに成長するのである(註1)。新生は義認と密接に結合せられ、「それは、神が人の霊魂を生命にまで連れ行き給う時に、霊魂の中に於いてなし給う大変化である。神が、霊魂を罪の死から義の生命にまで高め給う時の大変化である」(註2)。そして、此の新生を与え給うた後も、「神はかつてそうであったように、霊魂の上に絶えず息を吹き給う。それ故に、人の霊魂は神にまで息づく。恵みは人の心の中に降り、そして、祈りと讃美とは天にまで昇りつつある。そして、此の神と人との間の交わりによって、父なる、又、子なる神との交わりによって、或る種類の霊的な呼吸によっての如く、霊魂の中に於ける神の生命は維持せられる。そして、神の子達は、キリストの像の満ちあふれるようになる迄成長する」(註3)。漸く新生を得たる信者、即ち、神の子達は、子たる者の懼れに於いて、神の栄光のために、神への服従に生きるのである」(註4)。

 而して、ウェスレーは、ヨハネ第一書3章9節「凡て神より生るる者は罪を行わず、神の種、その内に止まるに由る。彼は神より生るる故に罪を犯すこと能わず」により、凡てのキリスト者は、例えキリストにある赤児(経験的に信仰生活の初歩者)にしても、キリスト者たる以上は罪を犯さぬという事に於いては完全である事を主張した(註5)。これは、後に述べる成人(信仰生活の上達者)の完全とは異なる。彼の言う赤児の完全とは、「信仰により、神によって生まれたる者は罪を犯さない。第一に、何らかの習慣的な罪によって。というのは、凡ての習慣的な罪は支配的な罪である。併し、罪は、信ずる如何なる人の中に於いても支配し得ない。第二に、何らかの故意の罪によって。というのは、彼の意志は、彼が信仰に留まる間、凡ての罪に全く反対して置かれて居り、そして、それを死毒の如くに憎むからである。第三に、何らかの罪深き欲望によって。というのは、彼は絶えず、神の潔き全き意志を意志し、潔からざる欲望に対する如何なる傾向をも、神の恵みによって、その芽生えに於いて抑えるからである。第四に、行為、言葉、思いの何れに於いてでもの欠点によって罪を犯さない。というのは、彼の欠点は、彼の意志の何らの協力も持たないから。そして、此の意志の協力なくして、それらの欠点は、厳密には罪ではない。このように、神より生るる者は罪を行わない。そして、彼は、罪を犯さなかったとは言い得ないとしても、尚、今や彼は罪を犯さないのである」(註6)。もっと具体的に、彼の意味するところは、義認せられたキリスト者は、凡て、外的な罪(outward sin) を犯さないという事である(註7)。では、ウェスレーは、凡てのキリスト者は、絶対的に、言葉に於いても、行いに於いても、思いに於いても、外的な罪を犯さないと主張したのであろうか。此れについて、面白いのは、此のウェスレーの主張に対して、使徒ペテロやパウロも外的な罪を犯しているではないかと反問せる人々に対する『基督者の完全』の中にウェスレーが書いている言葉である。「併し、使徒達自身も罪を犯した。ペテロは佯る事によって、パウロはバルナバとの激しい争いによって。若し、彼等が罪を犯したとするならば、あなたは次のように議論しようとするのか。若し、二人の使徒が罪を犯したならば、其の時には、あらゆる時代に於ける、凡ての他のキリスト者も、彼等が生くる限り、罪を犯すし、又、犯さねばならないと。否、決してそうではない。罪を犯す如何なる必要も彼等にない。神の恵みは彼等に対して、確かに充分であった。そして、現在の我々のためにも充分である」(註8)。此れによると、ウェスレーは、使徒ペテロ、パウロも外的罪を犯している事を認めているのである。此の文章全体にわたるウェスレーの語調は、次の如き通俗的カルヴィン主義的見解に反対しているものである事を知るであろう。即ち、キリスト者といえども、その全生涯にわたって罪を犯さねばならないという決定論である。此の倫理的緊張を破る決定論に対して、彼は絶えず信者の倫理的努力を継続させるために、この、赤児といえども完全であるとの教義を主張したのである。

(註1)「何時内的な聖化は始められるのか」「人が義とせられる瞬間に於いて。(それでも尚、罪は彼の内に残っている。然り、凡ての罪の根が残っている。罪は彼が全く潔められる迄残る)此の時以降、信者は漸次罪に於いて死し、恵みに於いて成長するのである」Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.17
(註2)Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.403
(註3)Ebenda Vol.?p.403
(註4)あなたはもはや、地獄や死や、かつて死の力を持っていた悪魔を恐れない。否、神自身をも痛ましくは恐れない。唯あなたは、神を怒らす事に対しての、柔しい、子としての恐れを持つのである。Ebenda Vol.?p.67
(註5)併し、キリストに於ける赤児でさえも、罪を犯さなという限りに於いては、完全である。此の事を聖ヨハネは明白に主張している。Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.12
(註6)Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.16
(註7)此等の事は(ロマ書4章 1,3,5,6,7,11,18等)の中に含まれる意味は少なくとも、その中に語られている人々、即ち、全ての真実のキリスト者、又はキリストに於ける信者は、外的な罪から自由にせられているという事である。Ebenda Vol.?p.359
(註8)Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.12

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 此の事実を最も明白に示すものは、ウェスレーが信者に於ける罪を強く主張した事である。我々は義認せられた時に全く聖化せられ、神の像を回復したのではなく、尚、罪の深淵(a depth of sin)を保持している(註1)。それ故に、罪は我々の言語や行為の全てに対して固着する(註2)。「神の子達は、堕落へ傾かんとする心、悪への自然的な傾向、神から離れんとする癖、地上の事柄への執着を絶えず感ずる」(註3)。それ故に、信者は何時も開始に戻って、悔改めをせねばならない。聖化は何時も再び義認の恩寵を仰ぐことである(註4)。否、我々は、聖化に進めば進むほど、逆に、より深き悔改めへと駆られるのである(註5)。我々の罪は、聖化の過程に於いて、より明白になってくる。「然り、斯く如き堕落の深淵を、神からの明白な光なくして、我々は殆ど理解し得ない。されば、凡ての罪悪が信者の心情に残るという確信こそ、義とせられたる者に属する悔改めである」(註6)。

 併し、ウェスレーの赤児の完全の思想を、更により明らかにするものは、信者はその罪を鎖につないでいる(in chains) という言葉で表現した事実である。「罪が我々の中にあるという事を仮定することは、それが我々の力を占有しているという事を意味しない。否、むしろ、十字架につけられた人(キリスト)が、彼を十字架につけた人々(信者)を所有している。又、その事は、罪が我々の心情を横領しているという事を殆ど意味していない。横領者は王位より退けられている。実際、彼は、彼がかつて支配した場所に残っている。併し、鎖につながれてである。それ故に、彼(横領者)は、或る意味に於いて、戦いを続けるがますます弱くなる。一方、信者は、力より力へ、征服して、又征服するために進み行く」(註7)。ウェスレーは、当時のカルヴィン主義者が、信者をも、罪の奴隷の如くに画いたのに反対する。「実際、此等の中の或るものは、行き過ぎているように思われる。信者がその心情の腐敗を支配しているという事を殆ど許さないで、むしろ、それに対して、奴隷の状態にあるように画くことに於いて。そして、此の理由によって彼等は、殆ど、信者と不信者との間の区別を捨て去ってしまうのである」(註8)。併し、此のような彼の言葉によって、彼が信者に於ける、深き原罪の事実に盲目であったとすることは出来ない。それは、前述せる如き、信者に於ける罪を、如何にウェスレーが深く把握していたかを見れば明らかである。彼の此の言葉は、常に倫理的な面を見つめていた彼らしい言葉として、現実に、未信者が信者になってからの倫理的生活の向上を表現した言葉として理解すべきであろう。「実際、キリストは罪が支配する心に於いては支配し得ない。又、彼は、何らかの罪が許されているところには住まないであろう。併し、彼は、凡ての罪と戦いつつある凡ての信者の心の中にあり、住んでいる」(註9)。それ故に、信者は罪を支配するという言葉の意味は、信者が常に罪と戦うものだという事である。されば、ウェスレーの意味した、キリスト者は凡て赤児の意味に於いて完全であるというのは、キリスト者は、凡て、絶えず罪と戦うものであるという事であると結論してさしつかえないであろう。

(註1)併し、其の時(義認の時)に、我々は全く変化せられたのか、或いは、我々を造り給うたところの最初の姿に変えられたのか。決してそうではない。我々は尚、罪の深淵を保持している。Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.124
(註2)併しながら、同様に我々はこのことを確信せねばならない。即ち、我々の心情に罪が残っているが故に、罪は我々の言語や行為の全てに対して固着するという事である。Ebenda Vol.?p.119
(註3)Ebenda Vol.?p.110
(註4)併し、此れにも拘わらず、我々が福音を信じた後にも必須であるところの悔改めと信仰とがある。然り、如何なる我々のキリスト者のコースの続く段階に於いても。さもなければ我々は、我々の前に置かれた駆場を走り得ない。そして此の悔改めと信仰とは、以前の信仰と悔改めとが神の国に入るのに必須であったように、我々が恵みの中に継続し、成長するために必須である。Ebenda Vol.?p.116
(註5)次のような事を言うな。”併し、私は充分には悔改めていない””私は、私の罪に対して、充分には鋭敏ではない”と。私はそれを知っている。私も神に対して、あなた方がそれらに対してもっと鋭敏であり、現在よりも何千倍も悔改める事を望んでいる。併し、此のために停滞してはならない。多分、神があなたにそのようにして下さるだろう。あなたが信ずる前ではなくて、信じる事によって。Ebenda Vol.?p.60
(註6)Ebenda Vol.?p.119
(註7)Ebenda Vol.?p.114
(註8)Ebenda Vol.?p.108
(註9)Ebenda Vol.?p.111

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 さて、我々は、いよいよ彼の成人としてのキリスト者の完全の叙述に入らねばならないのであるが、その前に、彼の義認と聖化の教義と密接な結合にある、「霊の証」の教義を叙述することが適当であろう。

 ウェスレーは、ロマ書8章16節「御霊みずから我らの霊とともに、我らが神の子たることを証す」に従って、「聖霊の証」と「我等の霊の証」の両者を主張する。而して、前者、即ち「此の神の証は、事柄の本質上、是非とも我等の霊の証に対して先行的であらねばならないという事は、次の事を少しく考えれば明瞭である。我々がそうである事を自覚し、我等の霊が、我々が内的にも外的にも潔くあるという事を証する以前に於いて、我々は心に於いて、又、生活に於いて、潔くあらねばならない。併し、我々が少しでも潔くあり得る前に、我々は神を愛さねばならない。此の神を愛する事が、あらゆる潔さの根本である。さて、我々は彼が我々を愛している事を知る迄、神を愛し得ない。”我等、神を愛するは、神先ず我等を愛し給うによる”。而して、我々は、神の霊が我々の霊に対してそれを証するまで、我々に対する神の赦しの愛を知り得ない。それ故に、此の神の霊の証は、神を愛する我等の愛や全ての潔さに先立たねばならない。その結果、神の霊の証は、我々の全ての潔さについての内的自覚や、それらに関する我々の霊の証に先立たねばならない」(註1)。即ち、聖化と関係している「我等の霊の証」に対して、義認と密接に関係している「聖霊の証」は先行的であり、而して、神の子達の生活に亘って、此の「聖霊の証」は持続し、「我等の霊の証」と常に密接に結合している。具体的に此の「聖霊の証」とは何であるか。「併し、我等の霊の証に附加せられ、結合せられている神の霊の証とは何であろうか。如何にして神の霊は我等の霊と共に我等が神の子であるという事を証するのか。神の事柄を人間の言葉に於いて説明すべき語を見出すことは困難である。真実に神の子が経験するところの事柄を充分に表現するものは、何もない。(神によって教えられている誰でもに、以下の表現を訂正し、柔らげ、又、強めて呉れる事を望む)聖霊の証とは、それによって、神の霊が直接に私の霊に対して、私が神の子であり、イエス・キリストが私を愛し、私のために彼自身を与え、私の全ての罪が消され、私、此の私が神と和解しているという事を証するところの、魂の上への内的な印象(an inner impression on the soul) である」(註2)。而して、此の「聖霊の証」が心に対して明瞭にせられる仕方は説明を得ない。唯、「風は己が好むところに吹く」(ヨハネ伝3:8)と云い得るだけである。併し、信者は、事実としてその証が魂に現在しているという事を知っている(註3)。

 此の「聖霊の証」に即応する人間の態度は、キリストの十字架に対する信頼である。此の「聖霊の証」にウェスレーは救いの確かさを求めた。しばしば此のウェスレーの「聖霊の証」の教義は、彼に於ける体験主義なるものと見られるのであるが、併し、彼の此の教義は、義認論と結合せられているという事にその本質があるのであり、それは客観的なキリストの十字架の事実と結びつけられている信仰の事柄であり、ウェスレーが、此の「聖霊の証」なる教義で表現せんとした事は、神の恩寵を我々が有っているという此の事実を知り得るのは――即ち、その覚知は、此れまた、我等に恩寵により、聖霊の恩寵により生ずるという事なのである。

 此の「聖霊の証」による救いの確かさの獲得と同時に、自己の救いの認識根拠として、聖化と結合している「我等の霊の証」がある。それを具体的に言えば、自己が真実に救われているかどうかを、自己審査することである。信仰はその生活にその果を結ばなければならない。信徒は、人間が、自己の生きているかどうか、現在健康であるか病気であるかを直接的に自覚し得る如く、自己が神と隣人を愛しているか、神の戒めを守っているかを知り得る(註4)。即ち、「我等の霊の証」とは、信者の中になされたる神の業に対する人間的な証明であり、承認であり、自己自身の業を観みての人間的な信頼である。併し、此処に於いて、人は、救いのために自己の業により頼んでいるのではなかろうか。併しながら、「彼等(信者)は、彼等がかつて、より悪しき罪行を恥じたよりも、今、彼等の最善の忠順を恥じるのである」(註5)。而して、此の自己自身の業に於ける救いの確かさの認識は、神の恩寵の光による、神御自身が信者の中になし給うた業の謙虚なる認識である。「神は、善であるところのあらゆる事柄を我々の中になすばかりでなく、彼自身の業を照らし、そして、明白に彼がなし給うた事を示すのである」(註6)。それは、一切の信頼を神に投げかけたものであり、神の義の恩寵の約束にのみにより頼んでいるものであって、其処に於いても罪の赦しが中心なのであって、信仰の中で、終末的な希望に於いて、自己の中になされたる神の業の感謝に満ちた承認なのである。(註7)。

(註1)Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.88
(註2)Ebenda Vol.?p.87
(註3)神的な証が心に対して明瞭にせらるるその仕方を私は説明し得ない。かような知識は私にとってあまりに驚異的であり、優れているので、私はそれに到達し得ない。風が吹く、そして私はその音を聞く。併し、私はそれが如何にして来るか、又、何処へそれが行くか語ることが出来ない。此の事柄は、その人の中にある霊以外誰も知り得ないように、神の霊を除いて誰も神の事柄の方法を知らない。併し、我々は事実を知っている。即ち、神の霊が信者に、かような子であるという証を与えるという事、それが魂に対して現在している間、信者は彼の子たる身分の 真実性を疑い得ない。それは丁度、彼が太陽の輝いているのを疑い得ないと同様であるという事を知っている。Ebenda Vol.?p.89
(註4)併し、如何にして我々が此れらのしるしを持つことが明瞭であるか。此の事が尚残っている問いである。如何にして我が神と隣人とを愛していることが明瞭であるか。そして我々が、彼の戒めを守っていることが。此の問いの意味が、如何にして我々自身にとって(他人にとってではない)明瞭であるかという事がある事に注意せよ。私は此の問いは、如何にしてあなたが生きているという事が明瞭であるかを探究することであるという事を彼に質問したい。又、現在あなたが健康であるか病気であるかという問いを提出することではないか。あなたはそれについて、直接に知り得ないが、同様に直接的な自覚によって、あなたは、あなたの魂が神により生きているのか、怒りから救われているのか、柔和な静かな霊的安息を持っているのかどうかを知るであろう。Ebenda Vol.?p.87
(註5)Ebenda Vol.?p.120
(註6)Ebenda Vol.?p.88
(註7)カルヴィンも此れと同様の教説を、彼の『基督教綱要』第三編14・18章に於いて述べている。

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10

 さて、此処に於いて、我々はキリスト者の完全(成人としての)の教義に入って行こう。このキリスト者の完全は、ウェスレーが、彼に神が託し給える委託物であるとなし、それを宣べ伝えるところに、彼の使命を見出していたものであった(註1)。

 ウェスレーの主張した完全とは一体如何なる事であろうか。彼は、ガラテヤ書2章の21節「我キリストと共に十字架につけられたり、もはや我生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今我肉体に在りて生くるは我を愛して我がために己が身を捨て給いし神の子を信ずるに由りて生くるなり」によって、消極的に、又、積極的に説明している。

 消極的に言えば、完全とは罪なき事である(註2)。アダムの堕落以後の肉体が魂を圧迫する故に、過誤は存在する。即ち、完全者といえども、知的には完全でなく、それ故に、それに伴う過誤からも免れていないのである。又、同様に、自然的な弱点から免れていない。要するに、完全者といえども、愛に反しない、従って罪ではない、諸種の無知、過失、弱点、欠点を持っているのである。「如何なる意味に於いて彼等は完全でないか。彼等は知識に於いて完全でない。彼等は無知から自由でない。又、過失からも自由でない。如何なる生ける人にでも、全知であると同様に、過失なき事をも期待する事が出来ない。又、彼等は弱点から自由でない。例えば、理解力の弱さ、又、遅さ、又、想像力の不揃いな速さ及び重苦しさ、其の他、言葉の不適当、発音の優美でない事等。又、此等に対して、人は、会話に於いても、態度に於いても、幾千もの名も知れない欠点をつけ加えるかも知れない。此のような欠点からは、彼等の霊が神に帰るまで、誰も自由ではない。又、我々は其の時まで、誘惑から全く自由である事をも期待出来ない。というのは、僕は其の主に勝らぬからである。併し、此の意味に於いては、地上に於いて、何らの絶対的な完全もない。誰も絶えざる成長を許さない程度の完全はない」(註3)。此の点に於いて、ウェスレーの意味した完全は、成長という意味を多分に包蔵する。それは未完成の完全であり、絶対的完全ではない。「併し(完全到達後)尚、彼は恵みに於いて、キリストの知識に於いて、神の愛と像とに於いて成長する。そして、単に死するまでではなく、全永遠に亘って成長するであろう」(註4)。

 積極的に言えば、「なんじ心を尽くし、精神を尽くし、恩を尽くして主なる汝の神を愛すべし」「おのれの如く汝の隣を愛すべし」(マタイ伝22:37-39)という黄金律が我々の中に成就されることである。「汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ」(マタイ伝5:48)というイエスの御要求を我々が満足せしめる事である。それは「キリスト・イエスの心を心とし」(ピリピ書2:5)「キリストの歩み給いし如くに歩む」(ヨハネ第一書2:6)事である。「我々の意志、霊、及び力の凡てをもって神を愛する事である。これは次の事を含んでいる。即ち、何らの悪しき気質、愛に反するものは、何ものをも其の魂の中に残らないという事、そして、凡ての思想、言語、行為が純粋なる愛によって支配される事を含んでいる」(註5)。そして、完全者といえども、キリストの贖いを絶えず必要とする。如何なる意味に於いてであろうか。「彼等は、新たに神に対して彼等を和解さすためにキリストを必要としない。何故なれば、彼等は和解しているから。彼等は神の愛を回復するためにではなく、それを続けるためにキリストを必要とする。キリストは新たに父の赦しを、彼等のために獲得し給うのではなく、彼等のために執成しをなすために、常に生きてい給う」(註6)。「最も聖なる人であっても、尚、彼等の預言者として、世の光として、キリストを必要とする。何故なれば、キリストは光を各瞬間に於いてでなければ与え給わない。キリストが離れ給う其の瞬間、凡ては暗闇である。斯かる人は、尚、キリストを王として要する。何故なれば、神は潔さの蓄積(a stock of holiness) を与え給わない。即ち、人が潔さの供給を毎瞬間受けないならば、聖ならざるものの他、何ものも残らない。彼等は、尚、その聖なる事柄のために、贖いを為すための祭司としてキリストを要する。完全なる聖といえども、唯イエス・キリストを通してのみ、神に受け入れられ得るのである」(註7)。此処に、ウェスレーが毎瞬間(from moment to moment) と言っている事は注目すべき事である。彼の主張した完全は、キリストに固着しているのであって、贖罪者なるキリストを離れてあり得ない。而して、義とせられた時と同様に、「聖霊の証」と「我等の霊の証」とが存在し、それによって完全者は、自己が完全を与えられた事を知るのである。又、完全者といえども堕落し、又、滅びる事がある。それ故、完全者といえども、絶えざる神との緊張せる対決関係にある。

 此の完全者こそは、此の世界にとって「新しき被造物」であり(註8)、「疑いもなく、彼等に触る者は、言わば神の瞳に触れるのである」(註9)。

(註1)私は、兄弟ローが、全き聖化(full sanctification) に関して、より以上の光を持てば嬉しいと思います。此の教義は、神がメソヂストと呼ばれる人々に与え給うた偉大なる委託物であります。そして、主に此れを宣べ拡げるために、神は我々を起し給うたように思われます。G.Eayrs ;"Letters of John Wesley" p.173
(註2)故赤澤元造氏が、involuntary を「無意識の」と訳したのは誤解を招く恐れがある。ウェスレーは人間の罪は無意識の深さにある事を知っていたからである。むしろ「意向なき」とでも訳すべきであろう。赤澤元造訳『基督者の完全』84頁
(註3)Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.12
(註4)Ebenda chap.19
(註5)Ebenda chap.19
(註6)Ebenda chap.25
(註7)Ebenda chap.25
(註8)真実に、此の全く新しい被造物は、狂える世界に対して、全くの狂気である。併し、それにも拘らず、それが神の意志であり、智慧である。我々皆がそれを追求するように祈る。Ebenda chap.21
(註9)Ebenda chap.19

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11

 ウェスレーが、「完全」という言葉を使用したのは、回心以前の事であり、その事は、「心情の割礼」(The circumcision of the Heart) なる、回心以前に出版せられた彼の説教に、此の語が使用されている事により明らかである(註1)。而して、其の構想は、表面的には生涯の間変化を受けず、終始一貫しての彼の主張であるが、回心以前の彼は、其の完全を自己の業をもって律法的に追い求めたのであり、回心という事件を分岐点として、彼は此の完全を、キリスト者の完全とし、神よりの恩寵の賜物となしたのである。それ故、内面的には、根本的に、回心以前と以後とに於いては「完全」という事柄が異質の事柄となったのである。

 併し、一応、ウェスレーは義認と此の完全とを、第一の賜物、第二の賜物という風に、並列的な表現をしているのであるが、彼が、此の完全を、義認とは全然分離したという事は考えられない(註2)。その事は、彼が此の完全の与え主は、贖罪者キリストであるとなした事によっても明らかである。

   我等の生命なるイエスよ、
   日々、汝の死を死ぬる我等にあらわれ、
   汝自身、完全者をあきらかにし、
   活気の霊をそそぎ給え。
   隠れたる秘密を開きて第二の賜物を与え、
   我が中に汝の栄光をあらわし給え。
   凡ての待ち望む心にも。(註3)

 言わば、此の完全は、キリストの贖いに固着している(klammern an die Vers ö hnung ; K.Barth)事実であり、神の創造にも比すべき奇蹟的な、絶対的な恩寵として、瞬間的に与えられるものである(註4)。而して、此の第二の賜物の分与の時期は、神の主権の中にあるのであるが、一般的には、義認、新生の後、此の地上に於いて、或る瞬間に与えられるものである(註5)。此の或る瞬間は今であり得る。普通、一般の信者が死の際まで潔められないのは、求めないからである(註6)。而して、此の完全の瞬間的達成と言う事は、漸次的な聖化と矛盾しないであろうか。「人は、暫時の間、死につつあるかも知れないが、尚厳密に言えば、彼は死んでいない。魂が肉体から離れるまでは死んではいない。そして、その瞬間に彼は永遠の生命に住む。同様な仕方に於いて、人は、暫時の間、罪に対して死につつあるかも知れない。併し、彼は罪が彼の魂から離れる迄、罪に対して死んでいない。そして、その瞬間に、彼は愛に満ちた生命に生活するのである」(註7)。

(註1)此の説教は後に訂正されて、現在ウェスレーの説教集の中に取入れられている。併し、次の言葉は、彼が「完全」という言葉を、回心以前に使用した事を示している。「注意せられてもよいことであるが、此の説教は、公にせられた凡ての私の説教中、最初に活字に組まれたものである。これは、其の時に私が持っていた宗教の見解である。其の時でさえも、それを私は完全という言葉で呼ぶのを何とも思わなかった」Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.6
(註2)チャールスの「聖歌と聖詩」中の言葉で『基督者の完全』中に引用せられ、ウェスレーも承認せる句に、次の如き句がある。「第二の賜物に与からしめ給え」"the second gift impart"
(註3)Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.18
(註4)我々は熱心に警戒し祈るとも、我々の心や手を全く潔める事は出来ない。我々は次のような時まで、潔められないと言う事は確実である。即ち、神が我々の心に再び「潔くあれ」と語り給う時まで。そして、その時にのみ、癩病は潔められる。そして、その時にのみ悪の根、悪しき心は滅ぼされる。そして、生来の罪はもはや生存しない。併しながら、もし斯様な第二の変化がないならば、もし義認の後に於いて、瞬間的な救いがないならば、もし神の漸次的な働き(聖化のそれ)以外ないならば、(そして、漸次的な働きを誰も否定しない)その時には、我々は死ぬまで、罪に満ちてとどまることで満足せねばならぬし、又、満足出来る。Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.122
(註5)或る人が言うように、我々は次のように断言は出来ない。此の救いは全く一度に与えられると言う事を。神の子達に於いて、漸次的なものと同様に、瞬間的な神の働きがある。そして、瞬間に彼等の罪の赦しの明白な意識と、聖霊の住める証とのいずれも受けたという雲の如き証に欠けていないという事を知っている。併し、我々は何処に於いても回心の瞬間に、罪の赦しと、聖霊の住み給う証と、新し清浄な心とを受けた人があるという一例をも知らない。勿論、如何に神が働き給うか我々は語ることが出来ないが。Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.13
(註6)「一般に此れは、死の寸前まで与えられないか」「それは、それより早く期待しない人々には与えられない」「併し、それを我々は、より早く期待してよいのか」「何故期待していけないのか。尤も我々は次の事を容認するけれども。 (1)我々が此迄に知った信者の多数は、死の近くまでそのように聖化されなかった。――しかし尚、此等凡ての事は我々が今日そのようであり得ないという事を証しない」Ebenda chap.18
その瞬間が今であり得るという事は考えられないか。我々は他の瞬間に延期する必要がないではないか。今、今が受け得る時ではないか。今が此の充分なる救いの日ではないのか。そして最後に若し誰かが他の方法で語るならば、彼は我々の間に、新しい教義を持ち来る者である。Ebenda chap.14
(註7)Ebenda chap.19 1947wesley-11.html

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12

 次に、我々は、ウェスレーが此の完全の教義を主張した動機を知らねばならない。それには二通りあるように思われる。ひとつは、神の全能の主権を飽くまで徹底させるためで
ある。神は、必ずしも、死の刹那、或いは死の真際に完全を与え給うのではない。若し、それが神の意志であるならば、今がその時であり得るのである(註1)。

 今ひとつの動機は、次のウェスレーの日記に於ける記事によくあらわれている。「コーンウォール(Cornwall)の信者達と話をすればする程、彼等が、明白に、強く実行せられているキリスト者の完全の教義について聞かないために、大きな損を受けていることを確信させられる。此れが聞かれていない何処でも、信者は死なんとして居り、冷たくなってしまうように思う。此の事は、愛に於いて完全になり得ることの絶えざる期待を彼等の中に保つことによってのみ阻止せられ得るのである。私は、絶えざる期待と言う。何故なれば、死に於いて、又は今から暫時の後に於いて、それを期待することは、それを少しも期待しないのと全く同様であるから」(註2)。即ち、ウェスレーは、此の地上に於いて与えられる完全を、毎瞬間求めしむる事によって、信者に絶えず倫理的な緊張を持たせたのである。此の完全を求むる態度は、「不注意なる無関心、或いは、怠惰な不活発に於いてではなく、活発な全的服従に於いて、凡ての戒めを熱心に保つ事、油断なき事、苦心する事、自己を否定し、日々己が十字架を取る事に於いて期待せねばならない。又、熱心なる祈りに於いて、又、断食に於いて、神の凡ての命令に全く服従する事に於いて期待せねばならない」(註3)。

 而して、ウェスレー自身の信仰体験に於いて、彼は此の完全の賜物を与えられていたのであろうか。我々は否と答えなければならない。凡ての人を信じ易かったウェスレーは、他の人々が此の賜物を得たと告白する時、それを単純に信じたのであるが、彼自身――あんなにも理智の勝った、又、罪悪の深い認識を持ち、その罪悪体験に於いてルター的である彼が、此の賜物を得たことは信じられない。それを我々に確証するものは、彼が、その日記に於いても、他の著書の何れに於いても、「言葉といえども自己が此の信仰体験を得たことを告白していないことである。何故ならば、『基督者の完全』の中に於いて、完全を得た人々に、それを告白すべき義務のある事を教えている彼自身、それを、単なる謙虚のために告白しないという事はあり得ないからである」(註4)。それに反して、彼自身常に引用したのは、ピリピ書3章12節「われ既に取れり、既に全うせられたりと言うにあらず、唯これを捉えんとて追い求む。キリストは之を得させんとて我を捉えたまえり」との言葉であった。それ故に、ウェスレー自身の信仰体験に於いては、あのルターの「常に罪人、同時に義人」(Semper justus,simil peccator)との言葉があてはまったのである。結局この完全は、ウェスレーにとって、希望の対象であり、此の教義は、倫理的関心の強いウェスレーらしい教義であったのである。

(註1)神の用い給う普通の方法もあるが、彼の主権の意志を用い給う他の方法もある。神は、彼の業を早くし、遅くするに、共に賢き理由を有し給う。時には、不意に、そして予期せられざるに来り給い、時には我々が永く彼を待ち望む迄、来り給わない。Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.21
(註2)Wesley's Journal (Everyman's Library) Vol.? p.115
(註3)Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.19
(註4)併し、全然それについて語らないで、全く沈黙する方がよくはないであろうか。沈黙に依って、人は多くの十字架を避け得るであろう。十字架とは信者の間に於いてすら、神が彼の霊魂のために為し給いしところのものを、単に語っただけでも自然的に又、必然的に起こるのである。それ故もし、血肉に相談するならば、全く沈黙をするのであろう。併し、此れは明白な良心を以てしてはなされ得ない。何となれば、疑いもなく、彼は語らねばならない。人は枡の下に置くために灯をつけない。全てを知り給う神に於いては尚更である。神は決して全人類から隠すために此のような彼の力と愛との記念碑を建て給わない。むしろ単純なる心の人に対する一般的な祝福として、それを意図し給う。それによって神は単にその個人の幸福を意図し給わず、他人を同様な祝福に従うように鼓舞し、元気づける事を意図し給う。Ebenda chap.19

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13

 以上、我々は、ウェスレーの信仰の本質が、如何に恩寵のみを以て一貫せられて来たかを、彼の義認と聖化の教義に於いて見て来たのであるが、最後に、我々は附言的に、彼の予定論論争に就て考察してみたい。予定説は、成程、周辺的な事柄ではあるが、もし此の事柄が正しく取扱われていない場合には、中心的な義認と聖化の問題に迄、疑惑が投ぜられるからである。

 一般的に、ウェスレーはカルヴィン主義に対立して、アルミニウス主義を取ったと言われているが、表面的には事実其の通りであった。併しながら、単純に、ウェスレーをオランダのアルミニウスの系統を継ぐ者とし、ソシニヤン的、ペラギウス的要素を、又、人間の自然的価値を認める近代的精神の萌芽を、早計に彼に帰すわけにはいかない。我々は、先ず当時の英国に於ける、カルヴィン主義予定論を考察しなければならない。此の当時のカルヴィン主義は、カルヴィンの教説から相当な変形を示していたように思われる。当時のカルヴィン主義者は、予定論を、救拯論の前面に出し、神の選びを救拯論的にではなく、創造論的に考えるのが常であった。斯くして、キリストに於ける神の恩寵の選びは、創造に於ける神の選びとなり、所謂二重の選びを主張し、選びがキリストの十字架の前面に立てられ、予定がキリスト教神学の中心課題となり、贖罪の事実は、その選びの副題として、キリスト教神学の一部になってしまったのであった。それが通俗的な形式に於いて表現せられた時には、予定は運命と同一視せられ、凡ての人の運命は、神の創造に於いて予定的に決定せられているものとせられ、神の選びは、人間の選びとなり、自己が選ばれているのか、選ばれていないのかとの絶えざる不安を与え、遂には、自分は選ばれている、或いは、自分は選ばれていない、という人間的な自己判断となり、又、それを他者にも適応するに至った。斯して、慰めの教説であるべき予定論は、不安の教説となり、未信者が信仰に入る最大の躓きとなってしまった。ウェスレーの如き、実際の伝道者である者が、此れに反対したのは当然である。それ故に、彼は、自由なる恩寵(free grace)を主張し、凡ての者を憐れまんとする神の恩寵を主張したのであった。此の点に於いて、ウェスレーは、カルヴィン主義と対照的なアルミニウス主義を奉じるものとせられ、又、彼自身、自己を此の点――即ち、普遍的救済を主張する点に於いてアルミニウス主義者であるとなしたのである。

 それでは、ウェスレーは一般のアルミニウス主義者と同様に、人間の側に、何らかの恩寵獲得の可能性を残したのであろうか。我々はそれを決定するために、彼の信仰に関する次の如き言葉を考えねばならない。「それならば、何故凡ての人は此の信仰を持たないのであるか。少なくとも、それをそのように幸福なるものであると認めている凡ての人が。何故、彼等は早速信じないのかと、あなたが問うならば、我々は聖書の説に従って、それは神の賜物である、と答える。何人も、彼自身の中に信仰を造る事は出来ない。それは神の業である。此のように、死せる魂を生かすことは、墓の中に横たわっている体を甦らすのと同様な力を要求する。それは新しき創造である。そして、誰もが魂を新たに造り得ない。唯、太初に、天と地とを造り給うた神を除いては」(註1)。恩寵を受け取る信仰さえもが、ウェスレーにとっては、神の恩寵の賜物なのである。されば、若し、恩寵を受け取ることが恩寵ということの意味であり、これが予定説の一般的な、根本的な意義であるならば(K.Barth) 、ウェスレー自身はカルヴィン主義との論争のため、其処へ進み行かなかったが、彼の恩寵のみの主張は、必然的に予定論へまで進み行かねばならないのである。而も、ウェスレーの場合には、凡ての人を憐れまんとする神の恩寵にまで、キリストの中に於いて――ウェスレーの普遍的救済論に注意せよ――選ばれる、慰め多き、救拯論的な予定論にまで。其処にまで進み行く事は、後代の我々のなす事であろう。

(註1)Wesley ; "A Earnest Appeal to Men of Reason and Religion" sestion 9
次の如きもウェスレーの信仰観への一例であろう。「あなた方自身からは、あなたの信仰も救いも出で来たらない。それは神の賜物である。自由な、身に余る賜物である。あなた方が、それによって救われるところの信仰、又、同様に神が彼の善意志から、彼の単なる好意から信仰に附加し給う救いもみな、神の賜物である。あなた方が信ずる事は神の思いであり、信じて救われるという事も神の思いなのである」

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結び

 さて、今、我々は彼の信仰の本質が、飽くまで恩寵のみによって貫かれている事を知った。今こそ、我々は、大胆に彼の信仰の系列を、ルター、カルヴィンの線に立つものであると言い切ってよいであろう。 

――終り――

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〔掲載にあたっての注〕
1. 旧かな使いを新かな使いに直した。

 (例:・・・といふ事は → という事は) 2. 旧漢字は当用漢字に直した。  (例:日本キリスト教團 → 日本キリスト教団) 3. 傍点箇所は太文字で表した。 4. 原文には章・節などは無いが、サイト掲載の便宜的上、註釈がつけられている箇所で章分けをした。

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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/

2003.1.21