野呂芳男「ウェスレーの信仰の性格」1963

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ウェスレーの信仰の性格  

野呂芳男

        

初出:『ウェスレーとカルヴィニズム』ウェスレーとメソジズム双書、日本ウェスレー協会、1963年、55-81頁 。


 この論文の意図は、1738年5月24日にアルダースゲイト街で劇的な回心をもったウェスレーが、その後もずっと抱きつづけて、偉大な信仰復興運動を英国におこしたあの信仰の性格を探求することにある。


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 ウェスレーが、アルダースゲイト街での福音的な回心を体験した原因として、われわれは、もちろん、それに先立つ長い間の彼の宗教的探求を考慮しなければならない。しかし、直接に彼を福音信仰に導いた大きな原動力となったのは、モラヴィアン派の宣教師シュパンゲンベルクの影響であった。このことは、ウェスレーの「日誌」の回心前の記事を見れば、きわめて明瞭である。その中から、1つの重要だと思われる個所を次に引用してみよう。

 〔オグレゾープ氏は〕、夕方、シュパンゲンベルク氏と一緒に帰ってきた。この人が、ボヘミヤの兄弟たちの最初の一団をジョージアに連れて行ったのである。……私は自分の行動に関して、シュパンゲンベルク氏の忠告を求めた。彼は私に言った。なにかの答を言うまえに、2、3の質問をしたい、と。「あなたは、自分のことを知っていますか。」自分の中に確証をもっていますか。あなたが神の子であるということを、神の霊が、あなたの霊とともに証ししていますか」。私は驚いてしまって、なんと答えてよいかわからなかった。彼はそれを認めて、たずねた。あなたは「イエス・キリストを知っていますか」。私はどぎまぎしていった。「私は知っていますが、キリストは世界の救い主です」。「その通り」と、彼は答えた、「しかし、キリストがあなたを救ってくださったことを、あなたは知っていますか」。私は答えた、「キリストが私を救うために死んでくださったことを、私は望みます」。彼はただつけ加えた、「あなたは、自分のことを知っていますか」。私は、「もちろん」と答えた。しかし、これらのことばが根のないものであったことを、私は恐れる(1)。

 この引用からきわめて明瞭なことは、シュパンゲンベルクがウェスレーに分かち与えようとしたもの、そして、ウェスレーが熱心に追求していたものは、個人的な信仰――あるいは、われわれはこれを、実存的な信仰と言ってもよいだろう――である、ということである。全人類というような普遍的なものが救われることではなく、実に、ジョン・ウェスレー自身が、個人的に自分の救いを確証することができるような信仰を、彼は追い求めていたのである。

 このような個人的な信仰こそ、メソジスト運動をあのように偉大なものにしたわけであるが、ウェスレーが、一生涯、この個人的な信仰こそ正しいキリスト教の信仰であると考えていたことは、彼の信仰論から容易に理解される。

 このことを良く示しているものが、ウィリアム・ローに宛てたウェスレーの手紙の中に表現されている確信である。周知のように、ウェスレーは、1725年に補祭となる決心をした。その時期に大きな影響を彼に与えたのは、トマス・ア・ケンピスやジェレミー・テイラーなどによる神秘主義的な書物であった。そして、ウェスレーが、その時期からアルダースゲイト街での回心を体験するに至るまで、思想的な指導者の1人として尊敬していたのが、ウィリアム・ローであった。しかし、アルダースゲイト街での回心以後、ウェスレーは、徐々に、ローの影響を脱して行った。ウェスレーは、1738年5月14日にローに宛てた前述の手紙を書いているのであるが、この手紙の中にすでに、ウェスレーが一生涯説いて止まなかったキリスト教信仰の本質に関する考えが、明瞭にされている。この手紙に現されているウェスレーの考えによると、信仰には、2つの種類がある。その第1は、悪魔さえもつことのできる、または、ユダさえももつことのできる知的な信仰である。この知的な信仰によって人間は、神やキリストや、その他の事柄についてのキリスト教の真理を、客観的に自分の所有とする。ところが、ウェスレーによると、こういう信仰は、われわれを救う信仰ではない。それは実存的なものではないのであって、われわれは、そういう信仰によっては、心の中に平和ももてず、罪からの解放も体験することができない。

 ウェスレー自身による信仰の定義をみてみよう。「信仰によって私は、キリストに関する福音の真理に対して、ただ同意することを意味していない。そうではなくて、われわれの実践に影響を与えるような同意のことを言っているのである。われわれが、心の底から感謝に満ちて、キリストご自身がおかれた条件の上に、キリストをわれらの神、また、救い主として受け入れるような信仰でなければならない。これ以下の信仰では、救いを与えることができない」(2)。すなわち、悪魔さえもそれを信じてただおののくような信仰ではなく、ウェスレーの追求したのは、客観的なものというよりは、自分の命を賭けて自分の救いを獲得するような、キリストを通して真の罪の赦しを体験する主体的な信仰であった(3)。

 信仰の主体性は、その信仰が、過去・現在・未来という時の流れのうちで、どの時期を強調するかということの中に、その特徴を現わしてくると、私は考える。主体的な信仰は、現在性を強調する。もちろん、そのことは、現在の自分の救いということに一切が集中されることであって、過去の出来事も未来の出来事も、現在の自分の救いとの係わり合いにおいてだけとりあげられるような傾向をもつことである。

 ウェスレーが、母親スザンナから強い影響を受けつづけていたことは、よく知られていることである。アルダースゲイト街でのウェスレーの福音的な回心以前においてさえ、ウェスレーが、後になってこの回心を獲得し得るような雰囲気を、既に母親との関係においてもっていたという事実を、われわれは見逃してはならない。福音的信仰に到達する以前の、高教会的立場をとっていたウェスレーの中にも、後の福音主義に咲きいずるような芽をわれわれは見出すことができるのである。その1例として、スザンナ・ウェスレーがジョンに与えた多くの忠告のうちから1つをとりあげてみよう。これは、1727年5月14日に、スザンナがジョンにおくった手紙の中の1節である。「説教の真の目的は、人々の生活を改善することです。人々の頭を、役に立たない思弁で、いっぱいにすることではありません」(4)。このスザンナの忠告と、メソジスト運動の戦いのただ中にあって書かれたウェスレーの説教の中の次の1節は、なんとよく符合することであろうか。

だから「あすのことはあす自身が思いわずらうであろう」。すなわち、明日になった時に、その時になって、それについて考えなさい。あなたは、今日を生きなければならない。今の時を改善することが、あなたの熱心な配慮でなければならない。今の時こそあなた自身のものなのであって、それがあなたのもっているすべてである。過去は無のようなものである。それは決して存在しなかったかのようである。未来は、あなたにとって無である。それは、あなたのものではない。多分、それは、決して来ないかもしれない。これからやってくるものを、あてにするわけには行かない。なぜなら、あなたは、「1日がなにをもたらすか知らない」のであるから。それ故、今日を生きなさい。一時でも失ってはならない。この瞬間を用いなさい。なぜなら、それがあなたの分け前なのであるから。……「そのよわいは尽きることがない」神を楽しむことによって、まさにこの今を楽しみなさい。「変化とか回転の影とかいうものはない」神の上に、今、あなたの目を単一に据えなさい。今、神に、あなたの心を与えなさい。今、神が聖であるように、あなたも聖でありなさい。神の喜ばれる完全な意志を行う幸福な機会を、今、とらえなさい。あなたが「キリストを得る」ために、今、「すべてを失う」ことを喜びなさい(5)。

 これは、人々の頭を役に立たない思弁でいっぱいにするようなことばではない。人々の生活を改善する言葉である。人生の今という時期に、信者が罪からの解放を体験するために、ここではすべてが集中されて考えられていると言っても過言ではない。私は、ウェスレーのこの信仰の「今」の強調を例証するために、彼の神学の若干の特徴をとりあげて、これから検討してみたいと思う。

 ウェスレーは、悪魔の存在を信じていた。彼がチャーターハウス校の生徒時代に、彼の留守中のエプワースの牧師館で、奇妙な物音が絶えずきこえたということがあった。家族の人間は、この奇妙な物音に、ジェフリー老人(Old Jeffery)という名前をつけて親しんでしまった。ウェスレーは、この出来事に非常に興味をもち、ある超自然的な悪霊がいたずらしたものだと信じたのである。ここには、ウェスレーが、悪魔や悪霊の存在を信じたという証拠があらわれている。しかし、一体、このような悪霊の存在への信仰は、福音主義的なウェスレーの信仰に対して、どれほどの意味をもっていたのであろうか。英国の18世紀は、周知のように、非常に合理主義的な時代であった。宗教的には、理神論の全盛時代であったわけであるが、ウェスレーは、そのような合理主義に対して、たんに反動的な役割を演じたのであろうか。私は、そうは思っていない。というのは、なるほどウェスレーは悪霊の存在を信じていたかもしれないが、そのことが、彼の福音の使信の中では、ほとんど重要性をもっていないという事実を、われわれは見逃してはならないからである。むしろ、ウェスレーが神学的な発言をなす時には、この悪霊が、現代神学の言葉を借用するならば、非神話化されて解釈しなおされているという事実にわれわれは出会うのである。

 ウェスレーの悪霊のこの非神話化を例証するような説教を、われわれは、彼の「標準説教集」の中の「頑迷に対する警告」(A Caution Against Bigotry)において所有している(6)。 この説教の中で、ウェスレーは、神の霊と悪霊とを対照させながら論じているが、この説教の悪霊は、人間の魂の中の悪への傾向という形でまったく非神話化されてしまっている。悪霊が、人間実存の聖化追求という主体的努力からはなれて、客観的に存在するというような事柄に、ウェスレーは少しも重点を置いていないのである。さらに、われわれが記憶しなければならないことは、ウェスレーが、義認の場において悪霊の問題をとりあげることを非常に嫌ったことである(7)。リンドシュトレームも言っているように(8)、ウェスレーは、悪霊を聖化との関係だけでとりあげた。現代の神学的状況との関連でこの問題を理解するために、ギュスタフ・アウレンの贖罪論を考慮してみよう。アウレンは、自分も賛成している贖罪論として古典説をあげているが、それは、神と悪魔との闘争を主題にしている。神が、イエスの十字架と復活とを通して悪魔に勝利を得てくださったお蔭で、人間が悪魔から解放され、神の子たちとされるのである。さて、こういう古典説的な贖罪論は、ウェスレーの中に全然みられない。アウレンのこの贖罪論は、明らかに、義認との関係で悪魔の問題を取りあげている。人間が義とされる前に、すなわち、神に受け入れられる前に、神と悪魔との闘争が行なわれなければならないからである。ところが、ウェスレーの贖罪論の場合には、イエスが全人類の罪をご自身の身に背負われて、神の刑罰を受けてくださったというところに重点が置かれている。イエスのその贖罪の行為を通して、神と人間とが和解するのである。この和解を達成する過程には、悪魔についての思考が、ウェスレーには全然見られない。ところが、神への和解を成就した人間が、神の霊の働きによって聖化されて行くこと自体を、ウェスレーは、悪魔の力からの人間の解放と解釈したのである。だから、ウェスレーの場合には、聖化との関連でだけ、悪魔が取り扱われてる。

 このように考えてくると、ウェスレーにおいては、悪霊というようなもの、人間と神との緊張した対決関係の外側に立つ存在のすべてが、客観的に把握されていない。むしろ、人間が神に向かってもっている聖化という主体的決断の繰り返しの中に入り込んで来る限りにおいて、悪霊などが取り扱われてる傾向がある。このことは、信者の聖化という現在性との関係で、客観的なものが取り扱われていることである。信仰の現在性からの悪霊の非神話化であるという結論を出しても、それは、少しもウェスレーの意図に反しないように思われる。

 次に問題にしたいウェスレーによる信仰の現在性の強調の例証は、奇跡理解に関してである。以下に示すところから、ウェスレーの奇跡理解がカルヴィンのそれとは違っている、と結論することができるであろう。

 カール・マイケルソンは、復活の奇跡についてのブルトマンとバルトの主張の相違に言及しながら、両者の相違が結局のところ、ルターとカルヴィンとの奇跡理解の相違に溯るものであると言っている(9)。カルヴィンにとっては、復活の出来事と共に起こった地震・天使の出現、また、復活されたイエスの身体に見られた釘の傷痕は、復活の出来事の証拠としてではないけれども、しるしとして不可欠である。人々を怠慢から呼び覚まして、その注意を復活の出来事へ向けさせるのに不可欠である。ルターの奇跡に対する態度は、遙かにカルヴィンからは遠くにある。イエスが可視的であったのは、その生涯の時期だけであって、その後、彼への信仰はイエスをキリストとして説く教会の説教によって生起する。信じる前にしるしを要求する試みは、ルターによって斥けられた。どちらかと言うと、ウェスレーの奇跡理解は、これから明らかにされるように、カルヴィンよりはルターに近いのである。

 ウェスレーは、一応、聖書の中の数多くの奇跡が、実際に起こったことを承認している。たとえば、彼によると、聖書が神から与えられた書物であるということの証拠の1つは、その中に物語られている奇跡である(10)。しかし、われわれはここでもまた、ウェスレー独特の二重性に出会うのである。その二重性とは、一応、奇跡のような客観的な事柄の事実性を承認していながら、その客観的な事柄の事実性のもつ意味を骨抜きにしてしまい、むしろ、それを実存的な真理に変えてしまうという遣り方である。だから、客観性が、一応、保存されたままであるところに、ウェスレー神学が今日の実存論的神学と相違する点を私は見出すのである。実存論的神学においては、客観的なものが、実存的なものと対立するものとして排除されるような形で解釈し直されているわけであるが、ウェスレーの場合には、客観的なものが骨抜きにされたままで保存されている、と言うことができよう。今、われわれの問題にしている奇跡問題についても、そのことが言えるのである。ウェスレーは、聖書の中に記されている奇跡を、実際にはあまり重要視していない。それどころか、今日でもわれわれの眼前にある、多くの罪人が使信の告知によって悔い改めて新しい命に進み行くという奇跡、実存的なこの奇跡に、ウェスレーはキリスト教の一切を賭けていると言っても過言ではないのである。たとえば、コニヤーズ・ミドルトン博士(Dr.Conyers Middleton)に対する手紙の中に、この事実は、きわめて明瞭に表現されている。ウェスレーは、この手紙の中で、聖書の中に記されている奇跡をキリスト教の伝統的な証拠と呼んでいる。そして、この奇跡以上に、現在イエス・キリストによってわれわれの魂が新しくされるということの方に、キリスト教の力強い真理としての証拠があると見ているのである。

 キリスト教の伝統的な証拠は、言わば、大変遠く離れて立っている。だから、その証拠は大声で、また、明瞭に語っているけれども、それでもなお、比較的に生き生きとした印象を与えない。それは、われわれに、昔行われた事柄――それは非常に速い時期と場所で行われたのだが、――についての説明を与える。ところが、内的な証拠は、あらゆる時代・あらゆる場所に住む人々すべてにとって、身近で親しいものである。もし、あなたが主イエス・キリストを信じるならば、その内的な証拠はあなたの近くにある。あなたの口の中に、また、心の中にある。だから、「これこそ、神がわたしたちに永遠の命をお与えくださった証拠記録である」、すなわち、いわゆる強調された形での証拠である。「そして、この命は、神の独り子によって与えられるのである」(11)。

 しかも、この同じ手紙の中で、私の前に言ったことを矛盾したことのように一見思われるのであるが、ウェスレーは今日の実存論者にほとんど近い仕方で、聖書の中にある奇跡への信頼を排斥するような発言さえもしているのである。そして、現在の魂の新生の奇跡にむしろすべてを賭けるような口振りさえみられる。もちろん、ウェスレーを現代の実存論者に変貌させることは学問的に許されない。その意味において、われわれは、ウェスレーを公平に評価しなければならない。ウェスレーの今日の実存論者に近いこのような口振りは、彼のきわめて稀な発言である。むしろ、ウェスレーにとって通常の思考内容は、客観的なものも一応信仰の内容として認めながら、それを骨抜きにし、それにあまり重要性を置かないで、主体的・実存的な信仰内容に強調点が置かれるというところにある。

 ウェスレーにおける伝統的な証拠と、内的な現在の奇跡との関係を、もっともよく現わしているものとして、私は次の文章を引用しておこう。

 (教理としての)キリスト教が約束したものは、私の魂のうちに成就される。そして、単なる原理としてのキリスト教は、それらすべての約束の完成である。すなわち、聖潔と幸福、被造の霊の上に印せられた神の像、永遠の命をもたらすために湧き上がってくる平安と愛との泉である。
 わたしは、これをキリスト教の真理の何よりも強い証拠と考えている。わたしは、伝統的な証拠を軽視しているわけではない。それには、それとしての場と、正当な栄誉とを与えなければならない。また、それはそれなりに、その程度では非常に有用なものである。しかし、なお、私は、それとこれとを同列に置くことはできない。
 普通考えられていることだが、伝統的な証拠は、幾代にもわたって多くの人々の手を経てきたに違いないので、時間の長さというものによって弱められている。しかし、この内的証拠の力に対しては、時間の長さが影響を及ぼすことはあり得ない。1700年たっても、それは同様に強力で、同様に新鮮である。はじめからそうであったとまったく同じように、それは信じる魂のうちに今日もなお、神から直接に手渡される。この奔流を、時間が干上げてしまうことがあると思うか。とんでもない。それは、決して中断されることがないのである(12)。

 
 さて、ウェスレーによる信仰の同じような現在性の強調は、また、ウェスレーの予定論に関しての思考の中に表現されている。既に私は、この予定論の問題について他の個所に書いているので(13)、ここでは、ただ次の点だけを指摘しておきたい。ウェスレーが、その当時のカルヴィン主義の二重予定論に反対して、条件的予定論――すなわち、神が定められたのは、信仰を持つ人をすべて救おうということである、という意味での予定論――を主張したことの中には、次のような事情があったとみてよいだろう。二重予定論によると、信者は、救いの確かさを自分の現在の進行の生の中に求めないで、決断の連続である今の生の中に求めないで、決断から逸れたところに客観的な確かさをもとうとする。永遠の昔に神が自分を救いに予定されたという、現在の決断からは距離のあるところに救いの根拠を得ようとするのである。これに対して、ウェスレーが、信仰をもつものはすべて救われるということを主張し、そして、救いの確かさを神の永遠の予定の中に求めないで、むしろ、彼の特徴ある教理であるあの「救いの確証の中」に求めたことは、ウェスレーが、救いの確かさを決断の連続の生そのものの中に求めたことを意味するのである。彼の言う「救いの確証」とは、自分が絶えざる決断の中で神と和解し、そして、罪から解放される途を歩いているという、冒険的決断のただ中での神への信頼から生じた確かさなのである。これは、後に述べるように、ウェスレーの「幸福」という観念と深い関係をもっている。

 もう1つの角度から、このウェスレーの信仰の現在性の強調を、考えることができる。ウェスレーは聖霊と聖書の神の言葉との関係を、どのように考えていたのであろうか。ウェスレーの福音主義運動が、多くの感情的爆発を誘発したことは、われわれは、ウェスレーの「信仰日誌」を通して良く知っている。ところが、ウェスレーは、このような感情的爆発を躊躇なしには聖霊の働きと見ていなかった。彼は、人間の自然の感情の爆発を、聖霊の働きとあやまって考えることを非常に嫌い、信仰の情熱の爆発と単なる人間的な感情の爆発とを区別するために、1つの規準を設けた。その規準は、問題になっている人の状態が、聖書の言葉にてらして良いか悪いかということである(14)。しかし、ウェスレー神学における聖書と聖霊との関係には、非常に微妙な点があった。ウェスレーは、いつも、聖書の言葉を体験に訴えて、それが実際に自分の救いに役立つかどうかを吟味する習慣があった(15)。このことを、私と同じようにウェスレーを体験主義という角度から解釈しようとしているスターキーが、ウェスレーとルターやカルヴィンとを、聖霊と聖書の神の言葉との関係を彼らがどのように考えていたかという角度から比較することによって、明らかにしている(16)。スターキーによると、ルターは、聖霊が神の言葉の中に、あるいは、神の言葉を通して与えられると主張した。カルヴィンは、聖霊の役割が、聖書の言葉が神から来た権威あるものであることを確証するところにあるとした。ところが、ウェスレーによれば、神によって啓示されている救いの意味を、信仰を通して人間に受けとらせるものが聖霊である。こういう比較によってスターキーが意味したいことは、ウェスレーの場合には、ルターやカルヴィンの場合よりも、聖霊と聖書の神の言葉との関係が、その間に体験という円滑油をさし込まれて互いに摩擦せず、もっと自由に動きがとれるように考えられている、ということである。ウェスレーは決して、聖書の神の言葉に反する様相を呈した体験的な感情の爆発を是認したわけはないけれども、単に聖書の言葉の中に、または、それを通してだけ聖霊が働くとか、あるいは、聖書の言葉が神からのものであることを確証することだけが聖霊の役割である、とは主張しなかった。そうではなくて、われわれの現在の体験に訴えて吟味し、それこそわれわれを真実に救う真理であるということを確証するところに、聖霊の役割があるとウェスレーは主張した。すなわち、ここでも、体験に訴える聖霊の現実性が強く主張されているのである。だから、聖書の神の言葉と聖霊との関係が、ルターやカルヴィンの場合よりも、ウェスレーの場合にはもっと離れている、と言って良いのではなかろうか。あるいは、もっと余裕をもった緊張関係にある、と言ったら良いのだろうか。とにかく、救いの現在の体験ということの中に、聖霊のおもな働きをみたのであるから、ウェスレーの場合には、聖霊の働きが、聖書の神の言葉をそのまま伝えるところにあるというよりも、その神の言葉を人間の体験に消化されるような形で伝えるという面が、前景に出てきていると言ってもよいだろう。これこそ、ウェスレー神学における信仰のもつ現在性の強調の特徴である。

 このように考えて来ると、神の摂理の理解においても、いろいろな事柄が新たに反省されてくるのである。たとえば、これは回心以前の出来事であるが、終始ウェスレーの生涯を通じて変らなかった傾向を示していると思われる出来事の1つに、ウェスレーが自分の生涯の重大な事件を決定するに当たって、くじに頼ったということがある。それは、彼がアメリカにおいて、ソフィア・ホプキーとの結婚に迷い抜いた時のことであった。これは明らかに、神の摂理的な働きが、実際にウェスレーの生活の中に現実にあらわれることを、彼が信じていたことの1つの証左である。もちろん、くじによる人生問題の解決を私は推奨しているのではない。むしろ、私は、ウェスレーの中にあるそういう迷信的な面を残念に思う。しかし、とにかくここには、前述した牧師館におけるあの悪霊の働きに対するウェスレーの反応の中にもみられるように、神の摂理的働きは、いつも個人の生活の中に現実であるという確信が、歪められた形ではあるけれども表現されているとみてよいだろう。
  
(1)Curnock, Nehemiah edit.: The Journal of John Wesley, London, The Epworth Press, 1938, vol.?, p. 150f.
(2)Cameron, Richard M.: The Rise of Methodism, New York, Philosophical Library, 1954, p52.
(3)Telford, John edit.: The Letters of John Wesley. London, The Epworth Press, vol.?, p. 240f.; Sugden, Edward ?.: Wesley's Standard Sermons, London. The Epworth Press, 1951, vol.?, 284-285; Curnock: The Journal of John Wesley, vol?, pp. 421ff.
(4)Cameron: op.cit., p. 53.
(5)Sugden: Wesley's Standard Sermons, vol.?, p.513.
(6)Sugden: Wesley's Standard Sermons, vol.?, p.104 参照。
(7)この点を非常によく表現したウェスレーの言葉として、次の個所を参照のこと。
Sugden: Wesley's Standard Sermons, vol.?,p.119f.
(8)Lindström, Harald: Wesley and Sanctification, London, The Epworth Press, 1946, pp. 71ff.
(9)Michalson, Carl: The Hinge of History, New York, Charles Scribner's Sons, 1959, p.203f.
(10)Jackson, Thomas edit.:The Works of John Wesley, London, Wesleyan-Methodist Book-Room, 3rd edition, 1831, vol.?, p.484.
(11)Telford: Letters of John Wesley, vol.?, p.384.
(12)ibid., pp.383-384.
(13)ウェスレー著作集刊行会雑誌「ジョン・ウェスレー」第2号。
(14)Telford: The Letters of John Wesley, vol.?. p.290f.
(15)このことについては、拙著「ジョン・ウェスレー」日本基督教団出版部刊を参照のこと。
(16)Starkey, Lycurgus M.: The Work of the Holy Spirit, New York, Abingdon Press, p.89f.

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 これまでに論述してきたウェスレーによる信仰の現在性の強調は、彼がメソジスト会の人々のために、教理的な標準の1つとして定めたあの「標準説教集」をみると、見事にその構成の中に表現されている。いわゆる標準説教の数が、44であるか53であるかということについては学者の間に異論があるが、いずれにしろその中の13篇が、キリストの山上の説教に関するウェスレーの講解説教であるという事実をみれば、そして、その他の説教でさえほとんどすべてが、義認または聖化、特に、聖化に関する説教であるという事実をみれば、ウェスレーが信仰の現在性、信者の信仰生活の今の問題に深い関係のある事柄を特に強調したことが理解される。さて、このような事柄について論じてきた私の意図は、実は、今まで論じてきたことから1つの結論を引き出したかったのである。その結論とは、ウェスレー神学においては、伝統的な神学のもつ客観的な面、たとえば、神やキリストの人格等に関する思索はほとんど強調されていない。逆に、イエス・キリストによる神の究極的な啓示との関係にはいった人間の面が、強烈な関心をもって語られている、ということである。神と人間との対話の両極のうち、人間の側に重点がおかれて、その人間の救いという事柄の中にはいる限りにおいて神が語られる、という傾向がある事実を私は言いたいのである。

 信仰の現在性を強調する時には、伝統的な神学のもつ客観的な教理からどうしてもある距離をもたないわけには行かない理由がある。伝統的な神学のもつ客観的な教理は、過去・現在・未来という時間の流れによって乱されない永遠の真理について発言しようとする。ところが、信仰が殊更にそのもつ現在性を強調する時には、いきおい決断的な激しさに冷水をあびせるような、決断の緊張とは無縁な永遠の思索は信仰の現在性の強調にとって異質なものとなる。ウェスレーが、この心の内側にどうしても起こらないわけには行かない葛藤を意識していたとは私は考えていない。まして、彼が、この葛藤の論理を把握していたとは思えない。しかし、結果的には、ウェスレーの信仰の現在性の強調が、伝統的な神学のもつ客観的な教理に、情熱的なかかわりをもたせていない傾向が見えるという事実は否定できない。これは、決して主観主義を意味しない。というのは、この人間の救いが、イエス・キリストによる神との交わりにはいることの中に存在するのであって、それ以外の場所ではないということについて、もちろん、ウェスレーは確かなのであるから。

 さらに、私は、ウェスレーが、神やキリストの人格についての客観的な発言を、完全にひかえたと言っているのではない。既に述べたように、ウェスレーの場合には、客観的な教理が、あきらかに存在するのである。そうではなく、私の言いたいのは、客観的な教理の存在にもかかわらず、神と人間との交わりの信仰者の実存の極が、きびしくも豊富に取り扱われているということ、神やキリストについての客観的な発言はウェスレーの神学に中心的な重要性をもたないで、むしろ、どちらかというと周辺的なところにその場所をもっている、ということである。このことを示す証拠は、「標準説教集」の中に、三位一体論やキリスト論に関する説教が1つもはいっていない事実である。ほとんどすべてが、聖化に関係している説教であることをみれば、この事情が承認されると思うのである。

 そうすると、ウェスレーの神学は、客観的教理の体系としての神学とは違う。むしろ、人間実存の根底の思索を問題にした神学である、と私が発言してもあまり唐突にはきこえないであろう。どのような仕方で人間実存の根底の思索を目指しているのが、この神学であろうか。

 まず、この点で、私がとりあげたいのは、ロバート・クッシュマンが、ウェスレー神学においては恩恵と自然とがカルヴィン神学のように断絶していない、と言った事実である(17)。ウェスレ一においては、クッシュマンの言うように、アダムの堕罪のあと、神が自然をそのままに放置されていない。キリストによる究極的な啓示が人間に与えられる前に、神は、ある程度、人間に恵みを与えておられるのである。だから、恵みから完全に断絶した自然という概念は、ウェスレー神学には全然なかった。これこそ、ウェスレーが主張した先行の恩恵(gratia prevenions)の教理である。

 このことは、律法の本質に関するウェスレーの考えを検討すれば明確になる。ウェスレ一によれば、原形としての神の律法は、事物の本性の奥深くにあってその根底をなしている。世のあらゆる現象は、この律法の上に成立している。だから、ウェスレ一に従えば、この事物の根底である律法に根をおろして存在しているものは良いものであり、また、栄えるものであるが、この律法に背いて存在するものは悪いものであって、自分の内部から存在を毀され、腐敗して行く(18)。

 ウェスレーのこの律法の理解は、エルンスト・トレルチの分析を借用するならば、英国的な人間理解であると言える。トレルチは「ドイツ精神と西欧」(19)の中で、英国及びフランスと比較することを通してドイツ精神を論じている。トレルチのこの文化類型学的な区別によると、英国及びフランスの精神は、人間と自然との有機的な結合を重んじる精神であり、それに対してドイツ精神は、自然に対立する人間を主張する精神である。英国及びフランスの精神によれば、自然に根をおろし、自然に従って生きるところに人間の自由がある。自然を基礎として生きる人間の実存的姿勢を正しいと考えるような精神形態が、両者の精神によって意味されている。これに対して、ドイツ精神は、19世紀のドイツ観念論哲学の中に表現されているような人間理解がその基礎をなしているわけであるが、自由を徹底的に単独者としての人間自身が、自分の根柢までも自由につくるようなものとして理解する。すなわち、自然から完全に切り離され、自然に対立するような意味で、人間の実存的姿勢が求められているのである。西欧の精神についてもっと細かい発言をすれば、フランス精神は、フランス革命に現わされたように、すべての人間に共通しているものとして理性という概念をとりあげる。理性が、共通なものとしてすべての人々の根柢をなしている自然である、と考えられている。また、英国精神は、17世紀のピューリタン革命に表現されているように、すべての人々に共通な道徳的良心の存在を予想している。人間は、普遍的に存在するこの自然に従って生きる時に、もっともよい生をおくれると理解されている。ウェスレーの神学に見られる精神は、明らかに、トレルチの言う英国型に属している。前述したように、ウェスレ一によれば、原形としての律法がすべての人々にとっての共通の根柢をなしている。人間の自由は、その原形としての律法を成就すること、すなわち、愛を成就することの中にあると見られている。その意味において、福音と律法とは究極的には1つなのである。

 トレルチのこの文化類型学的な分析は、第1次世界大戦という状況の中で行なわれたものであって、そのままの形で現在の東西冷戦の世界に当て嵌めるわけには行かない。文化は固定したものではないのであるから。しかし、トレルチのこの分析が、ウェスレーの神学の精神類型を探求するために非常こ有用であると判断したので、そのまま借用することを私はあえてしたのである。

 さて、このことが、何故ウェスレー神学にとって重要な問題であるかというと、このように原形としての律法が前もって人々の普遍的な基底をなしているということは、人間が、実存的な質問を自分の側にもって神の啓示に出会うということを、可能にしているからである。ウェスレーがその「説教集」の序文で表現しているように(20)、人間の究極的な関心事は、どうしたら天への道を知ることができるか、救われるのか、ということである。そして、ウェスレーの場合、救いとは聖化を中心にしたものであるから、どうしたら清い存在になれるのかということを中心にして、キリスト教が考えられている。その問への答として、イエス・キリストの現実が把握されているわけである。だから、その問への答にならないような客観的なキリスト教の教理は、どうしても、ウェスレー神学においては強調されていない。これは、前述した通りである。

 このように考えてくると、ウェスレー神学のもつ実存論的な傾向が、どちらかというと、トレルチの言う英国型に属するものであることが理解されるであろう。ウェスレーの神学においても、実存の根柢には、ある自然が存在する。そして、実存は、その自然に土台を置いて生きる時に自由な実存である、と把握されている。これは、もちろん、ある意味での自然神学である。しかし、それは、カール・パルトがエミール・ブルンナーとのあの現代神学史上著名な論争において、否定したような自然神学とは異なっている。ウェスレーの自然神学は、自然の領域がそれ自体の提出する問に答をもたない自然神学である。自然の領域が、問だけを形成する自然神学である。人間が、いわば、裁かれる自然神学であって赦しを発見する自然神学でほない。自分の根柢をなしている律法によって裁かれた者が、罪の悩みを背負い実存的な不安と問とをもった者が、イエス・キリストのところに来て赦しを受けるのである。だから、信者と未信者との間の、対話の可能性が存在し得る。なぜならば、すべての人々に共通の自然である原形としての律法が考えられているために、すべての人々が、実存的な悩みを背負い罪の苦しみを感じている――意識的にか、無意識的にか――と考えられているからであって、その間の領域での対話が、また、それに対する答の予想の対話が成立するのである。だから、ウェスレーの神学は、福音主義の神学と言われるのである。すべての人々に救いの音ずれを宣べ伝えようとした彼の宣教が、神学的な根拠をここにもっていたのである。

 しかし、ウェスレーの神学におけるトレルチの言う自然に当るものは、東洋人のわれわれが考えるような意味での自然では決してない。これは、イギリス経験主義にもみられるような思考形態の伝統に育てられた自然概念である(21)。すなわち、Human natureという英語がよく表現しているように、人間としての自然なのである。この自然は、一応、山や川というような東洋人が自然という言葉で把握する意味内容を含んでいるわけだが、そのような自然の中に根を下しつつ、しかも、それを部分的に超越している人間性という自然が意味されている。それは、たしかに、トレルチの言うドイツ精神とほ異なった雰囲気をもっている。この自然は、人間と対立する自然ではなくて、人間性の根柢をなしている自然である。もちろん、それは、人間の周囲の山や川という自然とも調和をもっているものなのである。しかし、東洋人の自然という観念によって表現する内容と違って、山や川の自然の中に人間性が埋没しているのではない。そこに根を下しながらそれを部分的に超越して、それから抜け出ているところがあるのである。

 ウェスレーが、そのように人間を理解したことは、人間を神とこの世界との間に立つものとして考えていることからも明らかである。東洋人が普通意味してきたような自然概念では、神と自然という対立だけしか残らないのである。人間は、神に対立するその自然の中に埋没されているのであるから。ところが、ウェスレーは、明確にそれとは違っている。彼に従うならば、人間の生の目的は神を楽しむことにある。そのことは、世界に関しては、それを楽しむことでほなくそれを使用することを意味する。人間は、神から自分の生の基礎を見出すのであって、世界からそれを見出すのではない。むしろ、神の中に自分の実存の根柢を発見した人間が、世界を神への奉仕のために用いるのである。「世界は、ただ使用しなさい。しかし、神を楽しみなさい。すべての幸福を、神の中に求めなさい」(ウェスレー)(22)。このような意味では、確かにウェスレ一にも世界と人間との対立が示されている。もちろん、それは、トレルチの言うようなドイツ的な類型ほどの断絶をみせている対立ではないけれども。

 ここで、私は、1つの古典的な問題に対して、ウェスレーが、どのような神学的な態度決定をしたかを調べてみたい。それは、今までに問題にしてきたことに関連している。律法は、正しいものであるから神が意志されたのか、それとも、律法は、神が意志されたから正しいのであるか、というスコラ哲学が大いに問題にしたことである。言い換えるならば、善を意志されるのは神の性質だから、神といえども善以外のものを意志することができないのか、それとも、善とは神が意志されるものを言うのであって、神の意志されるもの以外に善はないとするか、という問題である。ウェスレーは、これに対して、はっきりと自分の意見を表明している(23)。彼によれば、律法は、神の意志されるものであるから正しい。すなわち、正しい神が律法を意志されるのではなく、神が意志されるから律法は正しいのである。このことは、一体、ウェスレーの神学にどのような色彩を与えているのであろうか。人間性の根拠をなしているものが、神の存在というよりは神の意志であるという角度から、神と被造の世界との関係が取り上げられているのである。このことを現代神学の状況に移して発言してみよう。ウェスレー神学の占める位置を明らかにするためである。ウェスレ一にとって人間性という自然の根柢をなすものは、神の形而上学的に思考された実体というようなものでほない。ウェスレーの神学は、ポール・ティリックが展開しているような意味での、人間と神との存在論的な関係にこの点で非常に近いのではないだろうか。

 ティリックの存在論は、多分に実存論的であって、彼の神は存在の根柢(Ground of Being)であるが、それは思弁的な神ではない。むしろ、あらゆる存在を存在せしめる存在の力である。ティリックの用いている神についての象徴は、実存の根柢をなすものを指し示しているのであって、それは、実存に関連している限りの範囲で思索されている。だから、ティリックの存在論は、神と人間との思弁的な関係とは違って、実存的な関係を論理化しようとの努力である以上、ウェスレーが実存の根柢を神の意志と考えたその思考ときわめて近い。と言うのは、意志に対しては、実存的な応答という態度決定を迫られるのであって、思弁はそこに場所をもてないからである(24)。

 また、もう1人の神学者をあげて、ウェスレーのこの点での思考との近似性を言うことができるであろう。アルバート・シュヴァイツァーは、周知のように「生への畏敬」の倫理を形成した。それは、彼が、生きようとする意志を人間性の根柢に、また、生あるすべてのものの根柢に感じたところから来ている。その意志は、同時に、神の意志でもある。シュヴァイツァーは、神の存在を思弁的には問題にしなかった。しかも、その意志は人格的な意志であり、漠然とした汎神論的なものでは決してなかったのである。

 さて、ある人々には、トレルチの言う英国型のウェスレーの神学を理解するために、私がドイツの神学の系統に属していると普通に考えられている実存論的な神学者たちの思想を借りて用いたことは、辻褄が合わないと思われるかもしれない。もちろん、これに対しての弁解を私はもっている。1人の人物の思想を分析し、それを理解するにあたっては、そのための道具または手段として、どの精神類型に属する人々の思想を用いても許されることである。しかも、今問題にしている点では、もっと内容的な理由が存在するのでる。トレルチの言ったドイツ精神とは、ドイツ観念論に浸透された形態を指したものであるが、実のところ実存論は、こういうドイツ観念論の思考形態への反動であり抵抗である。むしろ、ドイツ観念論をさかのぼって、まだ啓蒙主義に浸透されたドイツ精神が西欧と深く結びついていた頃、たとえば、ゲーテ――シュヴァイツァーとゲーテとの関係ほ、このことを示している訳だが――の自然への復帰であると言えないであろうか。トレルチの言ったような、自然に根柢をおいた思想と観念論的思考との対立は、むしろ今日の状況では、アルベール・カミュの指摘するように(25)、西欧デモクラシーとコミュニズムの世界との対立に、おきかえられているのではないだろうか。とにかく、ドイツ神学が一般によく知られている日本の状況の中で、ウェスレーの神学を理解するために、今日のドイツ系統の――ティリックや、シュヴァイツァーを純粋にドイツ的だとも実は、私は考えていない訳だが――実存論的神学者の思索を私が借りても、少しも不思議ではない。

(17) この点に関しては、このパンフレットに掲載されているロバート・クッシュマンの論文を参照のこと。
(18) Sugden: Wesley's Standard Sermon, vol.?, p.48f.
(19) Troeltsch, Ernnst: Deutscher Geist und Westeuropa, edit. by Hans Baron, Tübingen, J.C.B. Mohr, 1925.
(20) Sugden: Wesley's Standard Sermons, vol.?, p.31f.
(21) 社会思想研究会編、現代教養文庫(33)、「社会思想史十講」(上)に掲載されている大田可夫氏の「イギリス経験主義」という論文を参照のこと。
(22) Sugden: Wesley's Standard Sermons, vol.?, p.521.
(23) ibid., vol.?., p.49f.
(24) ティリックの存在論の性格を知るためには、彼が日本で行なった講演「宗教哲学の諸原理――第3講〈宗教の象徴〉」が非常に役立つ。高木八尺編訳ティリッヒ博士講演集「文化と宗教」、東京、岩波書店、昭和37年、62頁参照のこと。
(25) Camus, Albert: The Rebel, trans, by A. Bower, London, Hamish Hamilton, 1953, pp. 246ff.

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 さて、ウェスレーの神学を、英国の経験主義的な地盤をもった自然に、基礎づけられたものと考えると、よく非雉されるあのウェスレーの神学が心理主義的であるということへの答が見出される。その非稚は、確かにある程度、ウェスレーの思想の周辺的なものに当て嵌る。しかし、中心的なものには、全然当て嵌まらないと私は考えている。1つの例をあげて、このことを説明しよう。ウェスレーの神学にとって中心的なものであるといわれ、しかも、よく心理主義的であると非難されるものに、幸福追求がある。魂の喜び、平和、幸福を追求しなければならないものとして、キリスト者の生活をウェスレーはしばしば画いている。そこで、多くの人々は、このことを単純にウェスレーの信仰の姿勢にある利己主義的なもの、または、心理主義的なものと理解しているが、果たしてそうであろうか。ウェスレーの説教の1節をとりあげてみよう。

 人間は両者に、安らかに兼ね仕えることができないということを、誰もが知っていないのか。神とこの世との間に生きる方向を調整することが、両方に失望し、また、どちらにおいても安息をもたないための確実な道であるということを知っていないのか。神を恐れるが、しかし、愛さない人は、なんと不愉快な状況の中にいることか。彼は、神に仕えるが、しかし、心の底からそうするのではないがために、ただ宗教の苦労だけを味あうが喜びをもたない。彼は、自分をみじめにするには十分な宗教をもっているが、自分を幸福にするのに十分な宗教はもっていない。彼の宗教が、この世を楽しむことを彼に許さないし、この世が、神を楽しむことを彼に許さない。だから、両方の間に躊躇することによって、彼は両方を失い、また、神にも、あるいは、この世にも、そのどちらにおいても平和をもたない(26)。

 ここで、明らかにウェスレーは、神における幸福、神を喜ぶことを、キリスト者の生活の当然の状態として描写している。それでは、ウェスレーの言う幸福とは、一体、どういうものであろうか。この引用されたウェスレーの言葉を念頭に置きながら、今、それを明らかにするために少し回り道をして、私は、ポール・ティリックがこういう問題について論じているところに言及しつつ、論議を進めて行きたい。
 ティリックは、ある論文の中で(27)、人間の喜びの状態の4つの次元をあげている。すなわち、快楽と幸福と歓喜と祝福とである。ティリックによれば、快楽とは、ある特定の刺戟によって起こった喜びの感動である。これは、もっとも皮相的な人間の喜びであって、誰もこの喜びの追求のためだけに生きる人はいない。幸福とは、快楽よりも深いもっと永続する性質のものであるが、これは、不快感とも、または、苦痛とも共存し得る。しかし、幸福は、大部分、外的な状況に依存している。すなわち、幸福は、家族や友人たち、または、われわれがその中に生きている社会からのわれわれに対する尊敬などに、多く依存している訳である。そして、人間は、ティリックによれば、この幸福の次元での喜びの追求だけで生きて行くことができる。しかし、その場合には、次にとりあげる歓喜というもっと深い次元に到達することは不可能である、とティリックは主張する。歓喜とは、われわれの存在のもつ本質的・中心的なものの成就の表現である。これは、しばしば、快楽や幸福と衝突するような仕方で所有することのできるものである。しかし、これも、人間にとってもっとも深い喜びでほない。もっと深い喜びこそ、祝福なのである。ティリックによると、これは、歓喜の中の永遠的な要素である。祝福は、歓喜が永遠を対象としてもたれた時に、存在するのである。歓喜は、内面の心理的な事柄に集中するものではない。他者のための完全な自己放棄の中に見られるものである。たとえば、歓喜は、仕事そのものを追求するための自己放棄の中に見られる。ところで、歓喜の向かう他者が、地上の一切のものではなく永遠者である時に、祝福という要素が歓喜の中に生まれてくるのである。

 さて、ティリックのこういう喜びの分析に従うならば、ウェスレーの言う幸福は、この4つの喜びのどれに当るであろうか。躊躇しないで私は、祝福であると言うことができる。

 引用されたウェスレーの幸福という観念のもつ意味内容を示している文章の中に、見事にこのことは表現されていると、私は考える。その文章の中で、ウェスレーは、この世と完全に切り離されこの世に自分の実存の根拠を置かないで、永遠者に実存の根拠を置いて生きる者のもつ幸福について語っている。しかも、その幸福は、主観的な所有物ではなく、一度もったら失うことがないような所有物ではなく、この世に根拠をもつまいという絶えざる決断の中で、永遠者へ自己を依存させようとの絶えざる決断の中でもたれるもの、その決断の繰り返しそのものの中に現われてくる動的な幸福なのである。これこそ、ティリックの言う祝福ではないだろうか。

 この幸福に、ウェスレーは救いの確かさをおいたのである。すなわち、ウェスレ一によれば、われわれが神への決断を繰り返すことの中に、この動きの中に救いの確かさがある。決断をのがれたところ、客観的に決断をはなれて存在するいこいの場所の中に、救いの確かさを求めなかった。

 ウェスレーの神学のもっている実存的な傾向は、以上論じてきたように、英国的な精神の中で形成されたのである。

(26) Sugden: Wesley's Standard Sermons, vol.?, p.501.
(27) Smith Huston edit.: The Search for America, Englewood Cliffs, Prentice-Hall, 1959, pp.172ff.

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入力:
黒田良孝
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2004.1.8