野呂芳男「実存論的キリスト教と倫理」1965

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実存諭的キリスト教と倫理

野呂芳男

初出: 『理想』 385 号、理想社、 1965 49-58
   





 実存論的キリスト教の先駆者の 1人とも言い得るディートリッヒ・ボンヘファー(Dietrich Bonhoeffer)は、「成人した世界」(die mündigkeit der Welt)という観念を提唱し、現代人は世界が宗教の尊崇する神あるいは神々の責任によって管理されているものとは見ず、むしろ人間の管理に委託されているものと見るとし、このような事情を健康なものであると主張したのであった。人間は「神なしでも現実の諸問題に対処する(1)」ことができると言った時に、彼の意味したのは世界の説明と管理のために、神を1つの仮説として前提することの拒否であった。即ち、彼にとって、イエスが信者に与える生活は、世界の中の神の無能に参与するということであった(2)。こういうボンヘファーの主張は全く実存論的キリスト教の同意するところであり、我々は世界管理を神の責任とは考えず、人間の責任として把握するのである。そうすると、倫理は世界管理の1つの内容をなすものであるから、当然人間の責任に委ねられているものであって、倫理は信仰によってその内容を明らかにされるようなものではない。どういうものが正しい倫理であるかというような問題は、信仰に一応は関係のない理性的問題である。

 併し、キリスト教を信ずるのも人間であれば、倫理を実践するのも人間なのであるから、両者は全く無関係であると言う訳には行かない。この事情は実存論的キリスト教にとっても変わらないのである。それではどういう関係を相互にもっているのであろうか。結論を先取して言えば、その関係は、いわゆる宗教的に着色された倫理を生み出すようなものではないのである。そういう宗教的に着色された倫理は、実は自然と宗教が同一視され、その上で自然を土台にして倫理が考えられたところから来たのである。それに対して、実存論的キリスト教は、倫理を歴史的に考えようとする。ボンへファーが世界における神の無能について語った時、彼は世界の管理に自然的な生き方が無力であることを言ったのであり、世界管理は歴史的な事柄であることを主張したに過ぎなかったのである。

 ここに使用された歴史及び自然という概念は、今日実存諭的なキリスト教神学が普通用いているその用法に従ってなされたものであるが、その意味するところは、論述が進むにつれて明らかになって行くであろう。

 倫理はいつの時代でも一定不変のものであり、時代の変遷に煩わされず、それを越えたものであるという主張は 1つの倫理的な立場であると思うが、今これを私は超歴史的倫理と名付けることにしよう。超歴史的倫理という立場は、歴史から倫理を考えたというよりは、自然を歴史に優位させた倫理のギリシャ的な考え方だと思われる。即ち、自然は一応不変の軌道に沿って動く静的な秩序であり、ギリシャ人は、歴史を変わり行くもの、滅び行くものとして自然よりも価値的に言って下位に立つものと考えたのであった。そこで無に呑み込まれるところの歴史から逃れて自然の中に生の根拠を求めることの方が、ギリシャ人の尊ぶところであった。従って人間の行動の規準である倫理も可変的、歴史的なものというよりは、不変的、自然的なものと考えられた。それがストア哲学の倫理観などに典型的に現われている。ところでブルトマンが指摘しているように(3)、このようなストア哲学的な自然倫理は、結局のところ主観的なものになるのである。と言うのは、自分の魂の奥底にやどるロゴスは、自然を支配する理性的法則の心の中に現われたものであり、外のものと同質なのであるから、自分の中に宿るロゴスに忠実であれば、結果的には外側のものにも忠実であるということになるからである。このような傾向が、遂には外側のものへの興味を失わせ、自己充足的な倫理が生まれてきたのである。この点については我々はエピクテトスやマルクス・アウレリウスの遺著を通して知ることができる。

 カール・マイケルソンは徹底的に歴史的な神学を形成しつつある学者であるが、歴史と自然について非常にユニークな発言が見られる。殆んど混沌への愛とでも表現して良いような仕方でマイケルソンは――ホワイトヘッドの哲学を批判しながら――全てが相対的、動的であり一定不変の秩序など世界の中には存在しないと確言する。彼によれば自然科学といえども、そういう想定の上に十分に成り立つ。結局のところ自然の秩序というようなものも、一種の最大公約数的なものであるに過ぎない。自然科学の成立が可能な程度だけ、自然は秩序に立っているのであるが、その秩序を越えたところには、混沌と言わない訳には行かないものしか存在しないと彼は考えているのである( 4)。

 これ迄のキリスト教の理解は、特に中世紀の自然法の概念などに現われているように、倫理を 1つの自然的なものとして把握しようと努力してきた。これは明らかに、ギリシャ哲学の影響によるものであったと思われる。我々はブルトマンなどの聖書研究の成果から、聖書は倫理を自然的なものとは理解していないということを大いに学ばなければならないと思うが、特に私がこの点で思うことは、マイケルソンの発言の中に見られる私が混沌への愛と表現したものを、もう一度我々の思想の中に取り戻さなければならないのではなかろうかということである。と言うのは、混沌の中に身を置くことは、一面実に自由の可能性を更に増し加えることに外ならないからである。

 この混沌という外部的な事情を人間の生と関係せしめた時に、不条理という実存的な思想が生まれてくる。即ち、人間はどこから来てどこへ行かなければならないのか、いつまでも生きたいのに何故死ななければならないのか、一体人生には意味があるのか、神は本当に我々の存在の根底であるのか、というような質問に対する解答を与える程には、この世界は秩序づけられていないのである。人間の理性はどれほどこの世を観察してもそれらの解答を発見できないのであり、これこそ不条理なのである。

 人間は不条理なるが故に自由である。換言すれば、不条理なるが故に、自分の生が意味あるものであるかどうかについての理性的解答がないが故に人間は、決断をもって自由に自分の生を肯定し、神を信じ死後の命を信ずることができるのである。実に不条理の現実に生きているということ、混沌に取り囲まれているということは素晴らしいことなのであり、いささかも悲観すべきことではない。この故にこそ人間は、自由な存在であることの本質をなすところの情熱に満ちた生をおくることができる。真実の意味で神を愛し、人を愛することができるのである。完全に秩序づけられてしまった世界であるならば、そこには自由はなく、従って我々は愛することもできないで、単に我々を併呑している秩序の中を、その秩序に従属して走る 1つの物体のようなものにすぎなくなってしまうのである。

  勿論私の立場が実存論な神学である以上は、神がこれらの不条理を創造されたのか、もしそうであるならば、不条理の存在は何のためなのか、というような客観的な質問に答える必要はない。元来理性的に答えられないような質問に対して答えようとする我々の努力は、自由なる決断を躊躇する非実存的な態度の現われである。我々にとって重要なことは、理性的・客観的な確実性を我々に拒否する生のこれらの不条理にも拘わらず、客観的なもの・理性的なものを求めそれに頼ろうとする我々の欲望と訣別することである。その欲望は、元来それに向かって理性的な確実性をもつことなしに決断しなければならないところの未来を、確実性によって支配しようとする人間の傲慢であるが、その傲慢を十字架にかけた時に、そして未来を自分が支配するのではなくて、未来に自分を支配させるようになり全く未来に解放された時に、人間は真に生き初めるのである。新しいものを自分に運んでくる未来の中に、神の愛を信じて勇敢に身を投じて、その中に生き抜いて行くことによって真の意味ある人生に復活するのである。キリスト教的実存の体験をもつことが、我々にとって唯一の必要なことなのであり、十字架と復活はそのような意味において、我々に根元的な生の根拠を提供するものなのである。

 さてこのような混沌に取り囲まれ不条理を生きながら、我々がその不条理の空隙を縫いながら生きて行く実存的姿勢をとるその軌道がどのようにして形成されるものなのか、これは我々の周囲の状況とそれに対する我々自身の反応の分析に待つ外はないであろう。併しここに、そのような状況分析だけでは究明するに足りない実存的な問題を提出しておきたいと思うが、それは人間が精神と身体との相互滲透によって成り立っている存在であるという現実から出てくるものである。これが周囲の状況と対話の関係に入る場合に、ますます倫理の複雑な問題を人間に提供していることを忘れてはならない。例えば人間の愛を考えた場合、愛は周囲の状況に応じてその形を変えるものであるというように、周囲の状況の側から注視するばかりでなく、身体が精神に影響するという面を無視できない。愛の真の姿は孤独からの解放の追求であると思うけれども、その愛の倫理の走る軌道は、ルージュモンが「愛の神話」( 5)の中で展開しているような面をもつのである。ドン・ジュアンとトリスタンという愛のとる姿の両極端を代表する神話的人物の画く愛の軌道の中間の軌道こそ正しいものであるとルージュモンは主張している。彼によるとドン・ジュアンは愛の拡散性の極端を表わす。永遠なる愛、即ち、人間の孤独を完全に解消してくれるような愛は、人間から貰うことの不可能なものであるが、人間はそれを人間から得ようとする。その場合、1人の人物からそれを獲得できないドン・ジュアンは、多数の人々に愛の対象を拡散させることによってそれを得ようとする。ドン・ジュアンの愛は、このような仕方で自己拡張でもある。他人から愛を吸収し自分を富ます(6)。トリスタンの愛はその逆の極端を表わす。彼は永遠の愛が人間から獲得不可能であると感じて、愛する当の人間と自分との問に越えることのできない距離を設けることによって、その愛を夢想に変形させ、現実から完全に駆逐する。これは完全に自己否定的であって、しかも1人の人物に完全に集中された愛の形態である(7)。

 愛のこの両極端はルージュモンによると、人間は身体をもっているが故に時間的存在であること、従って人間の愛はいつも成長することの可能な不完全なものであることの忘却から由来する( 8)。

 以上の考察からルージュモンは、愛の倫理は上述の両極端の中間にあるものと結論するのであるが、私も彼の結論に同意する。ところで、このようにルージュモンの結論に同意することは、ある意味での自然を、人間性即ち人間のもつ自然( human nature)を肯定することになる。

 我々はギリシャ的な自然的な倫理を否定して、混沌の愛と不条理の認識とを今まで勧めてきた。倫理を歴史的に、即ち動き行く可変的なものとして考え、その時その場の状況に対応した倫理、いわゆる状況の倫理に私の立場を求めてきたのである。その意味でこの小論の立場は、一応、エーリソヒ・フロムの非難する倫理的相対主義である。フロムは、時代を越えて不変の人間性というものを肯定しているが( 9)、フロムの言うような不変の人間性、人間のもつ自然を肯定することが、実存論的なキリスト教の理解に立つ倫理に可能であるかどうかが、この小論において更に論述を展開するために解決を要する当面の問題なのである。

 イエスの倫理に言及しながらブルトマンは、不変の人間性( Menschheit)という概念を倫理の基礎とすることに反対しているが(10)、その当のブルトマンがカントの形式倫理を肯定していることは注目に価する(11)。ブルトマンによれば、イエスの愛の命令は、どういう内容をもつ実践をしなければならないかを教えないけれども、いついかなる状況にあっても自分のように隣人を愛さなければならないという形式的命令なのである(12)。愛の実践の内容は、人間が隣人の状況に自分の身をおいて、その状況の中に自分がいたらどうして貰いたいかを考えれば、その時その状況に応じて知られ得るものなのである(13)。

 以上の考察から明らかであるように、ブルトマンといえども人間が他者との愛の交わりの中に宿命づけられているという意味では、時代を越えて不変な人間の本質を肯定しているのである。

 それ故に、歴史的に全てを考える実存論的な神学の倫理も、次のような意味での自然を倫理の中に持ち込むことを拒絶するものではない。人間はその本質において、絶対的な永遠の愛の要求をどこかで満たさなければ真に豊かに生きられないような存在であるが、それは神に求めるべきであり時間的存在である人間に求めるべきものではない。しかも人間は、相対的なものではあっても人間である他者から愛を必要とするし、またそれを人間である他者に与えて行かなければ、生き甲斐のある命の燃焼を体験できないように宿命づけられている。それ故に、キリスト教は人間の宿命であるところの永遠の愛の欲求を、神を対象とさせることによって満足させ、人間関係の愛のもつ相対性に目覚めさせ、相対を絶対化しようとの幻想を破壊し、人間をその幻想から解放する。倫理は人間関係に属するものなのであるから当然相対的なものであり、キリスト教信仰は、倫理の幻想化、即ち、相対的な愛がその土台であることを忘れさせる幻想化から倫理を解放し、それを健康なものとする。そういう仕方でキリスト教信仰と倫理とは関係するのである。そういう訳であるから、我々が倫理を構成する場合に、常に具体的な行為の軌道の両側に立つ極端の壁を神話的に考えてみることが、非常に便利であろう。このようにして実存論的な倫理の探求は、両極端の壁をいつも発見して、その中にゆれ動く軌道を見出すということになる。しかもその壁を立てるに当たっていつも考慮されなければならないのが、可変の外的な現実なのである。

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 動的な倫理の現実を、外的現実とその中に生きる実存との関係において、今迄の論述の中で実存の極の方向から限定してきた。周囲の現実に影響されて揺れ動く実存ではあるが、併し、その揺れには、人間が時間的存在であるという人間性の限定による範囲が存在するのであった。これからの論述において私は、周囲の現実という極の方向から、実存の倫理を限定する範囲を幾分限定する試みを行なってみよう。その手懸りとしてブルトマンの思想の 1要素を取り上げることが便利である。周知のようにブルトマンは、新約聖書解釈におけるその立場を終末論的なところに求め、イエスにおいて人間存在を根抵的に揺がすような問い掛けをなした人格的な存在として神を考えた。このような立場に立つブルトマンの思想で特に我々の倫理の考案にとって重要な概念は、人間が決断をするその「瞬間」(Augenblick)である。

 彼は状況の倫理を提唱する点において、他の実存論的な立場をとる哲学者と異なっていない。併し神学者である彼が哲学者と異なっている点は、神からの神の愛へ応答せよとの究極的な問いによって問われている人間が具体的な状況の中で、これこそこの状況の中でなすべき今もっとも要求されている倫理であるというものを把握しそれに決断した時には、それはその人間自身がもっとも良いと判断した上での決断であるばかりでなく、同時にそれは、神からの要請ともなる点である。それは独言的・主観的な倫理的行為であることを脱却して、対話の倫理的行為を形成する。哲学者たちのそれが対話の世界をもたない倫理であり、結局のところ自分の孤高の倫理的努力に最後の根拠を求めているのに対して、ブルトマンは、具体的な状況の中で神の呼び掛けをきくことができるものと考え、対話の世界の中に倫理を構成しようとした。そして、自分のように隣人を愛せよという形式的命令が、ブルトマンの思想において、どのようにその具体的状況の中での内容をもつに至るか、またその内容を洞察する可能性( Einsichtigkeit)については既に述べた。その内容をその状況での神の命令として受け取り、それに向かって決断する時がブルトマンの言う「瞬間」なのである(14)。

 ブルトマンの対話の倫理をもう少しよく理解するために、彼が信仰と哲学との関係をどのように考えているかを知ることが必要であろう。

 ブルトマンが「存在と時」( "Sein und Zeit")に表われているハイデッガー(Martin Heidegger)の時間論に大きく影響されていることは、多くの人々によって指摘された。併しブルトマンは自分の神学を、それだからと言って1つの哲学であるとは考えていない。ハイデッガーの実存論的な(exitenzial)ものと実存的な(existenziell)ものとの相違を検討すると、この点は明瞭になるであろう。個人にとっての具体的・実際的ないろいろの可能性が実存的なものであり、そして、個人の実存的な可能性が、あらゆる個人に共通する、普遍的な可能性の中に分類され得るのであるが、このような普遍な可能性が実存論的なものなのである。実存論的なものが存在する故に、実存的なもののある程度の論理的なコムミュニケーションが可能なのである(15)。

 ブルトマンによれば信仰は実存的なものであるのに対して、哲学は実存の論理的分析をするところにその使命がある以上、それは実存論的なものの解明なのである。ところで信仰者も実存である以上は実存論的な分折の対象となるのが当然である。即ち、人間の自由から生まれる不安、及びその不安の中に、悠然と生きることのできないがために起こってくるところの恐怖や思い煩い等の、いわゆる実存論的な分析が信仰者にも通用する。ブルトマンによるとそれでは、信仰者と哲学者との相違はどこにあるのであろうか。哲学者たちは、実存論的分析を通して、そうあらねばならない本来の自己( Eigentlichkeit)を知ることができれば、人間は自分の力でそれを実現することが可能であると考えているの

に対して、信仰者はそれが自分の力では不可能であること、即ち、人間は自分の現実が実存的に罪の奴隷の状態にすぎないことを確認する( 16)。信仰者はイエス・キリストにおいて与えられたところの神の愛に依存することを通して、本来の自己の実現への歩み出しが可能になることを告白する存在なのであり、この告白は全く個人的な決断であり実存的なものであって、実存論的なものの中に解消できないものである。そして、倫理が人間の実存論的なものの1つである社会性に属するところの文化的な1つの営みである以上、どうしたならば相対的な愛の交換をもっとも豊かになし得るかということの合理的な方法の追求である以上は、当然それは信仰の問題ではない。従って信仰は、ブルトマンにとっても1つの倫理を堤供するものではなく、倫理への情熱をつくる泉なのである。

 この点でブルトマンによる信仰と倫理との関係についての論理の展開が、前述したボンヘファーの「成人した世界」という思想と見事に連結し得るものであるという事情は、詳細な説明なしに理解して貰える事柄であろう。倫理は人間の合理的な世界管理の 1部分をなすものであって、何をなすべきかの考究は信仰の問題ではなく、徹底的な合理による追求の対象である。ところが正にこの点でオーデン(Thomas C.Oden〉はブルトマンを非難する。ブルトマンは、倫理的決断をする場合、人間にとってもっとも困難であるものの1つが、何をなすべきかが決断の瞬間において実に不明瞭であるということなのであるという事実を無視している、とオーデンは言う(17)。オーデンの言いたい事柄を推察するのは、それ程にむずかしいことではない。そのような不明瞭さを救うものこそ信仰及び信仰的な聖書の釈義であると、恐らく彼は言いたいのである。併し、この点でも正しいのはブルトマンであってオーデンではない。オーデンの勧める道を歩むことは、責任からの逃避であり、合理性への恐怖、倫理が徹底的に人間のためのものであって神のためのものではないという真理の前からの撤退である。

 新約聖書学者のブルトマンとしては当然であるけれども、周囲の現実が倫理をどう規定するかという事情については、彼は詳細な展開をしない。私の言いたいことは、こういうことなのである。真実の自分、そうあらねばならない自分を選ぶことが倫理の根本であり、他者にもそうさせることが愛の行為の根底をなすのであり、そしてそれはその場その時の状況においてなされることは勿論であった、各個人それぞれ違うユニークな存在であり、また 1つ1の状況もそうであるのだから、当然我々は、客観的な1つの永遠不変の超歴史的な倫理を築くことはできなかった。以上は、これ迄の論述から明らかであるが、ここで我々はもう1つの事情をブルトマンから学び、また同時に、彼がもつ新約学者としての制限をそれとの関係で指摘しておくべきであろう。そういう一定不変の、どのような状況にもいつでも通用するような倫理を体系的に所有しようとする欲求は、ブルトマンにとっては、元来神の支配下にあり人間の支配できる筈のない未来を、前以て我々が支配しようとする人間の究極的な罪、即ち、未来に対して自分を自由に開放せず既定概念をもって未来に向かおうとする非実存的な神への不従順として考えられているのである(18)。

 オーデンも指摘しているように、ブルトマンのこういう立場は、人間が既にその支配下に置いているところの過去の体験から割り出してきたところの倫理的体系によって未来を支配しようとする一切の試みの拒否なのであるから、ブルトマンの意図する神への服従である真の倫理は、あらゆる完全という抽象的なものを目差す倫理、何が人間性であるかを前提としているヒューマニズムの倫理、善悪の価値の体系を抽象的にもった倫理から区別される( 19)。従って、ブルトマンがイエスを、我々がその1つ1つの具体的行動をそのままの姿で再現しなければならない、1つの倫理的理想と考えていないのは当然である。イエスは、そうあらねばならない真実の自分になれずに、どれ程努力してもそれからいつも転落してしまう人間が、そのままで常にもう一度真実の自分を選んでよいということ、生きつづけてよいということの神からの告知、神の言葉なのである(20)。確かにブルトマンの言う通りであり、未来を前もって規定し支配するような人間の傲慢な、非実存的な傾向は排斥されなければならない。併しこのことは、未来の全てが一切規定されてはならないということではないであろう。混沌の周囲の現実の中にも決断のためのある程度の足掛りは存在する。ある暫らくの期間人間が、特定の形に従って行動した万が、その状況にもっとも適応し得る行動をなすことになる、ということが存在し得る。その一定の形は暫定的、相対的、そして、いつでも変わることを認めた上での最大公約数的なものであるだろう。従って、いつでも個人の、また、その場その時の周囲の現実のもつユニークな特徴が、それから外れることがあり得るのを承知の上での形でなければならないであろう。

 換言すれば、その場その時においていつでも我々は根元的に、全くの初めからどのように行為すべきかを考えるというのは、あまりにも抽象的である。我々がその時その場で行為するのが本当の倫理的行為であると言っても、我々の状況は、時点的瞬間の断片の集合体ではなく、過去から現在を通過して未来に至る1つの流れであり、その流れがある一定の期間、 1つの方向なり傾向なりをもっていることが存在し得る。そういう事情から前述したように最大公約数的・暫定的・相対的な特定の行動の形が、ある一定の生活の流れの期間だけ、人間の生を充実させたり、また、その破壊を防いだりするために必要なものである、と想定することが可能なのである。

 ブルトマンが倫理的決断の「瞬間」という概念によって、時点的断片としての瞬間を意味していないことは、そういう誤解をしたオーデンに対するブルトマン自身の答からもっとも明瞭に知られる( 21)。ブルトマンによれば、「瞬間」は過去と未来との関係においてのみ意味をもつ。「瞬間」の決断とは、人間が過去と未来との両方に、今責任をとるということである。状況の中にある過去からの遺産が祝福なのか、それとも咀いであるのかを人間は、批判しなければならないし、未来は人間の多くの可能性の領域としてその前に立ち、人間の責任ある行動を待っているのである。

 それ故にブルトマンの状況の倫理の中に、暫定的・相対的・最大公約数的な特定の行動の形を想定し得るという私の主張のための根拠が少しも存在しないと考えるならば、それが誤りであることは明らかであり、彼の「瞬間」の概念はそういう私の主張を受容するだけの余裕がある。併し前述したように、彼が新約聖書学者であるという事情からきているものと思うが、ブルトマンにはそういう方面への展開がまだ見られないことは事実である。

 さて、実存論的なキリスト教の理解の立場から見ての人間の倫理的曖昧さを、即ち、周囲の混沌と実存との対話である人間の倫理的状況を、私は実存という対話の極から、また、周囲の現実という対話の極から幾分限定し、ある程度の枠の中に入れてきた。併し、このことは動的なものである筈の状況の倫理が、ブルトマンの言うような意味での未来への解放性を喪失し、未来を決断以前に把握し支配しようとしている倫理に変形してしまったということではない。と言うのは、こういうある程度の限定や枠を作ったところで、我々の倫理的状況は依然として曖昧なものであることには変わりがないからである。こういう周囲の現実の中にどの程度の枠を設けることができるかというような問題の追求は、人間の合理的な世界管理に属する事柄であり、合理的なものを合理的なものとして徹底させることを逃げない成人した人間たちこそ、ボンヘファーの言うように現代に要求されている存在なのである。合理的なものは合理的なものとし、合理性で把握できないものはそのありのままの混沌において了承すること、この区別を真実に自分のものとすることが、神を神として世界を神としない信仰の道に、世界管理は人間の合理性に神によって委託されたものとする生の姿勢に通ずるのである。

 具体的に 1つ1つの倫理的問題について、現代という暫時の期間、相対的な限定及び枠からのどういう影響があるかというような議論の展開は、稿を新しくしてなさねばならない私の仕事である。

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1)Bonhoeffer, D.:Widerstand und Ergebung ed. E. Bethge , Munich , Kaiser, 1951, p.215

2)ibid., p. 245

3)Bultmann, Rudolf : Das Urchristentum, Zürich, Artemis-Verlag, 1954 (2nd edition), p. 155

4)Michalson, Carl : The Hinge of History, New York, Charles Scribner's Sons, 1959, pp. 63 ff.

5)Rougemont, Denis de : The Myth of Love, trans. by R. Howard, London , Faber & Faber, 1963, The original title―"Comme Toi-Méme", published by Éditons Albin Michel, 1961.

6)ibid., pp. 99 ff.

7)ibid., pp. 39 ff.

8)ibid., pp. 149 ff.., p. 152

9)エーリッヒ・フロム著、加藤正明・佐藤隆夫訳、「正気の社会」、東京、社会思想社、昭和33年、26頁以下。

10)Bultmann, Rudolf : Jesus, Tübingen J. C. B. Mohr, 1951, p. 74

11)Bultmann, Rudolf : Glauben und Verstehen, (Vol. I), Tübingen, J. C. B. Mohr, 1954, pp. 234 ff.

12)Bultmann :Jesus, p. 82

13)ibid., pp. 84 ff. ; Bultmann : Das Urchristentum, pp. 78-80

14)Bultmann :Jesus, pp. 76 ff.

15)ハイデッガーの 両語の区別については次の箇所に多くを負っている。Macquarrie, John : An Existentialist Theology, London , S. C. M. Press, 1955, pp. 34 ff.

16)Ogden, Schubert M., edit. by: Existence and Faith (Shorter Writings of Rudolf Bultmann), New York, Meridian Books, Inc., 1960, pp. 94 ff.

17)Oden, Thomas C. : Radical Obedience (The Ethics of Rudolf Bultmann,) Philadelphia, The West-Minister Press, 1964, pp. 123 ff.

18)Bultmann, Rudolf : Glauben und Verstehen, (Vol. 2), Tübingen, J. C. B.Mohr, 1952, p. 70

19)Oden : Radical Obedience, pp. 43 ff. p. 33

20)ibid., p. 95 を参照のこと。

21)ibid.. pp. 126-127 ; pp. 145―146


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入力:黒田良孝
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2005.06.01

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