野呂芳男「神学的方法論としての聖書解釈の問題」1965

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――神学的方法論としての聖書解釈の問題 <発題1>――

組織神学の立場から

野呂芳男


初出:日本基督教学会第12回学術大会シンポジウム 主題「神学方法論としての聖書解釈の問題」『日本の神学?』日本基督教学会、1965年、128−132頁。

※このシンポジウムは、1964年11月17日午後2時30分〜5時30分に行われた。司会は中川秀恭氏。発題者は、他に熊沢義宣氏、大木英夫氏。各発題ののち、参加者全員による討論が行われたが、そこでは渡辺善太、八木誠一、滝沢克己、有賀鉄太郎、山本和各氏から発言があり、とりわけ、渡辺ー野呂の間で激しいやりとりが交わされた。上記初出誌にはその記録(約半分に縮小)が残されている。





 学会の委員の方々から、このシンポジウムにおいて私の果すべき役割として与えられた事柄は、渡辺善太博士の大きな業績である正典論と、私の組織神学の方法論である実存論的な聖書解釈の角度から対話に入るようにとのことであった。年齢的にも学問的にも渡辺博士の子供程度の位置にいる自分を省みると、とても私には果せない大役であると思うけれども、これを機会にお教えを乞うという意味で、常日頃疑念をもっている諸点を並べてみよう。私の誤解や神学的過ちを指摘戴ければ非常な幸である。







渡辺博士は最近書かれた「聖書学体系論一試論」(註:雑誌「福音と世界」1964年6月号より10月号にわたって掲載されたこの論文は、シンポジウムの会場での博士ご自身の否定的発言にもかかわらず、豊富な内容を簡潔に叙述された非常な傑作であり、十分に学的引用をなす根拠になると私は考える)。その?の82貢には、ブルトマン及びその系統の人々への言及がなされ、それらの人々の聖書への接近の実存的方法と歴史的方法との関係が未解明であることについての指摘がある。この点では、私は博士とある程度感想を同じくするのであり、ブルトマンの言う世界史(Historie)と実存史(Geschichte)との関係は、もっと詳細に検討されなければならない。(註:拙著「実存論的神学」226頁以下参照)。

歴史の理解は、必ず実存的なものである。しかし、このことは、歴史の意味が究極的にイエス・キリストによって啓示されているという信仰的な理解とは必ずしも結びつかない。実存的な歴史との係わり合いは、世俗の歴史研究においても当然起り得る。信仰者の歴史理解は特殊な形で、即ち、 終末論的な形での実存的な係わり合いの中に 存在するものなのである。

カール・マイケルソンの方がブルトマンより、実存と歴史との係わり合いの次元の区別において用意周到である(註:同上、142頁以下)。彼はこの係わり合いに、世界史・実存史(これらが 実存的な歴史を構成する )と、救済史・救済の出来事(これらが 終末論的な歴史を構成する )との四つの次元を考えている。実存的な歴史の次元では、信者と未信者との歴史家たちが、共通の平面で話し合いができるのであり、両者の相違は、前者が終末論的な歴史の次元をもあわせて持っているが故に、歴史に究極的な意味を認めているのに対して、後者がそれをもたないが故に、歴史に 究極的な 意味を認めないところにある。

以上のような実存論的な聖書への接近方法と渡辺博士の聖書正典の神学的解釈方法とを対照する時、両者の親近性と相違とが明瞭になる。博士によると(註:「聖書学体系論一試論」<その五>89頁以下)、人生のあらゆる面に触れるところの「前理解」をもって正典たる聖書に人間が向う時、そこに対話が始まる。この関係において聖書は「正典」としての性格をあらわにし「汝」として「私」たる解釈者に向い合う。この「汝−私」という対話の関係は、聖書との「私−それ」という世界史的探求の関係である会話とは違う。そして、「対話が深められると、それに潜在しているものが必然的に顕在的になり、〈対論〉とな」る(註:同上、90頁)。 対論 は鋭化されて遂に 対決 となり、人間は屈服し、聖書から 決答 を与えられる。

渡辺博士の論じられるところをマイケルソンの次元の区別に当てはめると、どういうことになるであろうか。 会話 は世界史に、 対話 対論 とは実存史に、 対決 は救済史と救済の出来事とに相当する。ここで注目したい事情は、渡辺博士の論じられるところには、 救済史と救済の出来事との 、実存論的神学が強調したい 次元的区別がなされていない ことであるが、また 対論 という 実存史の次元 から 対決 という 終末論的な歴史 (救済史と救済の出来事)の次元に移る場合、博士がこの決断という飛躍による移行を媒介として、両次元の関係をどう考えておられるかもわれわれの学的興味をそそる事情なのである。






ブルトマンの聖書の実存論的解釈は、結局のところ救済の出来事(Heilsgeschehen)のみによる解釈であり、こういう立場からは、当然救済史も救済の出来事から解釈されるのである。それ故に、ブルトマンは旧約聖書の意味を 人間の実存的理解の表白 と見て、他の文献との差違を 相対化 したが、このように相対的な相違しか認めない上で、旧約聖書の人間理解が、新約聖書の救済の出来事と、実質上もっとも近くにあるものとする(註:Bultmann:Die Bedeutung des A.T.fur den christlichen Glauben,〈Glauben u. Verstehen, Erster Band.〉。このような相対化は勿論旧約聖書だけに限定してなされるものではなく、新約聖書についても行われる。

救済の出来事とはキリストの出来事であることは、改めて言う必要もないであろう。そして、ブルトマンの場合キリスト論は同時に義認論であるが故に、それに基礎を置く実存論的神学が、救済の出来事をもって旧新約聖書の救済史を解釈すると主張する時には、それは具体的には、聖書の一切を信仰によってのみ義とされるというあのプロテスタントの内容原理から解釈することとなる。ところが、信仰義認は客観的なものを把握して、それに頼ろうとする人間の行為を排斥する。こういう事情は、ブルトマンが旧新約聖書を相対化したことと無関係ではないであろう。渡辺博士の正典論の発想の地盤に、客観的に把握できるものに頼ろうとする、人間の神の愛への人格的な決断の回避がほの見えるのではないだろうかという、僭越な質問を私が抱くのもこの事情から来ている。この僭越な私の質問は、例えば次のような事柄から生れるのである。

渡辺博士は弁証法的神学の立場である、聖書は人間の言であるが神の言に なる ものであるという立論を正しいとされる(註:「聖書学体系論一試論」〈その五〉84頁以下)。そして、弁証法的神学のように聖書は神の言に なる ということは、それが神言で ある ということを否定しないと博士は主張される。それ故、ご自分の立場を「聖書は神言であるが、しかし聖霊によって神言になる」と規定しておられる。 人間の言 が神言に なる という弁証法的神学の立場が、博士によって正典論が媒介となることを通して、神言で ある 聖書が神言に なる と変えられているが、そこに形成されている正典論は、 決断によって神言になる ものを、 決断しないでも 元来神言で ある ものが神言に なる という発想の上に成り立っているのではないだろうか。もしそうであるならば、それは信仰のための客観的な確かさの追求であり、信仰義認論と矛盾するものではないだろうか。救済史と救済の出来事との次元的区別が博士に存在しないことは、博士の客観的な確かさへの欲求と密接不離のように思われる。と言うのは、その区別がないところでは、大体において、救済の出来事という決断を通して受容すべきものが、救済史という世界史の中にその跡づけを客観的になし得ると期待させるものによって、逆に保証されることになるからである。

現形の聖書の中で各文書がどういう位置を占めているかという事実が正典としての聖書の解釈に積極的な意味をもつという博士の主張、及び、聖書の中の種々な思想が相補って一つの高次の全体を形成するという主張の中には、自分の実存の問題と切り離しても現形の聖書が客観的に頼れるものであるという保証の追求が前提となっていないであろうか。勿論実存論的神学といえども、聖書がプロテスタント教会の形式原理であることを否定しない。併し、それは代々のエキュメニカルな教会の決断により絶えず告白されるべきであり、一度決定された正典が客観的に永遠不変にそうであるということを意味するものではないであろう。そういう客観化された権威として正典を理解しない私は、あまりにも精細な現形の聖書の正典としての統一の論議は、現形の聖書の客観的絶対化になってしまうのではないかという僭越な質問を抱くのである。渡辺博士はあるところで(註:「聖書学体系論一試論」<その五>86頁)、新しい意味の正典結集の可能性を認めておられるが、その場合、私にとって疑問となるのは、この可能性と現形の聖書のあの精細な正典論とを、博士がどのようにして結合調和されておられるかなのである。







ゴーガルテンは、真の神信仰に生きる者が、世界の中のあるものを偶像視することから解放されて世界を真の意味で科学的に支配することができると主張したが、私は彼のこの論理を聖書の文献的・歴史的研究と神への信仰との関係にも適用した(註:拙著「実存論的神学」235頁以下)。神への信仰は聖書の文献的、歴史的研究を少しでも信仰の情熱によって歪曲したり、その科学性を失わしめてはならないし、その科学性の領域において信仰なき人々の研究と努力とに対して少しの障碍ももたない話し合いが可能でなければならない。信仰はそういう科学的研究の具体的成果に依存しないから、こういう自由な態度が可能なのであり、もしこういう自由な態度が失われる時には、その信仰は世界の中のあるもの、人間が理性的に支配しなければならないものを偶像視し、それに隷属している。正しい信仰と歴史的、文献的研究の間に介在するものは、 ただ信仰という決断のみ であって、信仰の前にも後にもその決断を支えるなにものもあってはならない。それ故に、信仰と文献的、歴史的研究との間には、渡辺博士の主張される形での正典論は元来必要がないのではないだろうか。これこそ、イエスという人間において神ご自身との出合いを体験する、キリスト論的出来事と相応ずる態度ではないだろうか。イエスを主なりと告白するのは聖霊の働らきによるのであって、人間の側からは決断だけが要求されており、その決断を保証するものはなにも、信仰の前にも後にも存在しない。これこそカルケドン信条のキリスト論が、神性と人性とが混合せず分離せずに一人格であると言った時の神学内容ではないだろうか。

信仰と文献的、歴史的研究という両次元は勿論相互影響的である。信仰に徹すれば徹する程、信仰のためにその研究の結果に依存することがなくなり、その研究に徹すれば徹する程、信仰をこの世のあるものへの依存から解放する。そして、両者の次元を区切りかつ結合するものが決断のみであることが明瞭にされる。

こういう実存論的神学の立場からみるならば、歴史的解釈と信仰とは、「首くくり」の論理(註:「聖書学体系論一試論<その五>93頁」のように相互否定が相互肯定になるというのではなく、歴史的研究の只中で信仰が真に生き、信仰の只中で歴史的研究が生きるものとなり、「一巻としての現形聖書の解釈には・・・今まで用いてきた〈歴史的批評的方法〉が全然役にたたない」という渡辺博士のお言葉とは違った事態のものとなるのではないだろうか(註:同上88頁)。

要するに私は、現形聖書の内容の合理的な―それが信仰の後の合理であっても―また、内容的、総合的な調和の追求が信仰の決断の保証となることを恐れるのであり、むしろ信仰は、ある場合には現形の聖書の中に調和や統一をみずに、矛盾や対立をみ、そのあるものの中に聖書の本音への裏切りをみて、その神話的表現を棄てる可能性もあると思う。

以上は僭越きわまりない私の渡辺博士への質問であるが、これは博士の正典論形成の学的功績をもっとも高く評価している若輩からの質問としてお受け取り戴ければ幸である。と言うのは、客観的な神学の立場に立つ限り、その論理的帰結は正典論において、当然博士の説かれるところになるのであり、そこまで誰も今までに行きついた人がなく、博士がそこまで論理を徹底させて下さったのは、日本の神学界の誇るべき業績だからである。




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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/

2003.12.11