野呂芳男「人間論」2
2 人間に委託された世界管理
人間に関する事柄はすべて人間が被造者であるということの中に含まれてしまうのであるから、別の項目を設ける必要はないかもしれないが、一応便宜のために幾つかの項目を設けることにしたい。ここで取り扱いたい主題は、創世記の創造物語において、人間が神から自分より低い存在に対する支配権を与えられたという叙述に相応ずるものである。
既に引用した聖句「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創世記1:31)は、
この世が人間にとって生きるに値する場であることを意昧し、キリスト救信仰が厭世観ではないことを言うものである。神による天地万物の創造への信仰は、人生ヘのある意味での楽天的見解を含む。キリスト教信仰にとって、人間が生きるということは、究極的には喜びでなければならないのである。しかしながら、キリストの十字架と復活とを信じるキリスト者にとって、その喜びは、苦しみや悲しみを通過したもの、言わばその奥底に見出されるようなものであろう。
造られたこの世界がはなはだ良いと言うことは、この世に不条理や悪や罪が存在しないということではなく、それらは実際人生の深刻な現実なのであるが、それらを回り道したり、つきぬけたりしたがら、それらにもかかわらずなおも、人間を深みに徹して生きさせ、生きることの喜ぴを体得させてくれるような、神の力が力強く我々の人生に働いていて下さるということなのである。これを知るのは、もはや論理の力によるものではなく、その中に入り込んで生きてみるという体験による。人生の袋小路、せん方つきた場所においてさえ、それを我々のために役立たせてしまう力が働いているのであり、それはイエスの十字架という袋小路、人間的にはせん方つきたところを、復活という命にまでつき抜けさせた神の力と同じものである。それゆえに、キェルケゴールの言うように絶望は罪なのであり、信仰は希望であり喜ぴでなければならたいのである。(9)
このことは、この世の生命だけで人間は全く満足しなければならないというような、死後の命の否定を必ずしも意味しない。しかし、中世の信仰者の多くがそうであったように、この世の命を死後の命のための単なる準備の場と見ることはどうしても否定されなければならない。そういう信仰の姿勢からは、この世からの逃避と人間性否定の禁欲主義しか生まれてこない。ルネサンス以来の近代における人間性の肯定の思潮、現世肯定の思想は、その基本的な姿勢において承認され肯定されなければならないものである。その意味では、キリスト教の福音はこの世の人間の生を徹底的に生かし抜く世俗性(secularity)をもつものであり、死後の命のために、たとえわずかであろうとも現世の命をそこなうことは、隣人に対しても自分に対しても許されてはならない。神による創造が善であるというのは、こういう世俗性を指し示すものであろう。
もちろん、我々はここで世俗性と世俗主義(secularism)を区別して用いている。既に述べたょうに、世俗性とは、神による創造が善であるということの感謝に満ちた承認から出発したこの世の人間性の肯定であるが、世俗主義によって我々が意味するものは、人間が神による創造において、真実の愛を求めざるを得ないものとして造られているという事情ヘの否定、したがって究極的には人間性の否定に行きつかざるを得ないようなこの世の謳歌、現世至上主義なのである。世俗性と世俗主義とは、現世に生きる人間の生き方を、来世から借りてこないという点で共通性をもつものである.か、キリスト教の福音は、世俗性の名において、世俗主義に反対しなければならないであろう。
哲学者ニーチェなどは、この世における人間の生を十分に人間らしくおくらせないという理由から、キリスト教の来世信仰、死後の命の信仰に反対したのであるが、我々は彼の神ヘの反逆や死後の命の否定が、人聞性に忠実であろうとする誠実さから出ていることを思い、彼の主張の中にひそむ真理契機を謙虚に承認しなければならない。この世の命を死後の命の準備段階と考えるところでは、ニーチェのキリスト教ヘの反逆がどうしても正当性をもってくる。この意味で彼は世俗性の擁護者であったのである。
しかし、イエスの言葉の中には、明白に世俗性の肯定と思われるものが存在する。それは復活を信じないサドカイ人とのイエスの話の中に見られるものである(ルカ20:27-40)。サドカイ人の質間はモーセの言葉、「もしある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだなら、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない」を根拠にしているものであり、七人の兄弟がいたとして、長男が妻をめとり子なくして死に、次男・三男というように次々にその女をめとり、七人とも子をもうけずに死んだとすると、復活の時にこの女は、七人のうちのだれの妻になるのか、というのであった。それに対するイエスの答えほ、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない」というのであった。
このイエスの言葉には、私が私であるということは死後の命においても存続するものであって、そこにおいても個人格は、汎神論の神の大海に没入して解消する一滴の水のごときものではないことが確認されているとともに、死後の命の状態とこの世における人間生活とが全くことなるものであり、類似的に考えてはならないものであることが明らかにされている。したがって、我々はこの世の生活を来世のための準備段階と考えてはならない。我々のこの世の生は、この世だけで一応完結しているのであり、そこでの我々の生き方は、来世のような他のところから学んでくることのできるものではない。人間がこの世から来世にもち込むことのできるものは、愛の人格だけであってどういう仕方で隣人を愛したらよいかという生き方ではない。
それゆえに、愛の人格を形成するところとしてこの世の生活を考え、愛の人格が死後更に成長し行くことを願うという意味で、この世を来世のための準備段階と見ることはできるであろう。しかし、ニーチェたちが攻撃したのは、そういう意昧でのこの世の見方ではなかったのである。そして、彼らの攻撃の正当性は、今日においてもなお残っている修道院的な理想を見れば一目瞭然である。そこには、来世を獲得するための現世における人間の生き方の規定がなされている。しかも、こういう生き方は、修道院をもつカトリシズムだけの中に見られるものではなく、修道院を廃止した.フロテスタンティズムにも見られる。
我々の見解によれば、人間は愛だけに制約されて生きねばならないとキリスト教は告げているのであり、愛は生き方ではなく、生きる姿勢である。ところがプロテスタンティズムにおいてさえ、生き方を、死によって完結するこの世の生をどうしたらもっとも豊かに人間同志が互いに生かし得るかという観点から発見しようとはせずに、しばしば安易にも、既に神から与えられている一つの生き方、この世を来世の準備とする一つの生き方を示す律法が存在するとなした。
ところがこういう態度は、修道院を廃止したルターの福音理解とも反するものである。キリストヘの信仰のみによって神に受容されるという福音の理解をつらぬけば、来世に我々が受容される条件はキリストヘの信仰のみであり、この世での我々の生のおくり方がどうであるかというような功蹟には依存しないはずである。福音の真理はこの世をこの世なりに我々に深く楽しませるものであり、世俗性に徹するもの、神による創造が善であるという事情と直結する。
今日の神学界においては、世俗性に徹しようとする神学の潮流の中にも、現世と来世との関係に関しての三つの立場が見られるように思われる。第一は、現世に徹するためには、死後の命ヘの信仰は邪魔にこそなれ益にはならないから、この信仰を棄ててしまわねばならないとする立場である。神の死の神学者と呼ばれている人々の中にその侮向が見られる。第ニは、死後の命が存在するかしないかは確定できないのであり、そういう不確実な中でこの世の生を生きることこそ、まさにこの世の生を生きることなのであると考え、世俗性を死後の生の不確実さにおいて把握しようとする人々である。例えばアルバート・シュヴァィツァーの「生ヘの畏敬」の思想には、それが見られる。第三は、正しい仕方で現世と来世との区別を把握するならば、死後の命を信じたところで別に世俗性の立場と矛盾しないとなすものである。この三つの立場の中でどれが正しいものであるかは早急に決定しかねるところがあり、世俗性をどうしたら徹底したものとして自分のものにできるかということについての我々各人の体験と反省の中で決定されるべきであろう。この拙論では、今のところもっとも一般性をもち、多数の信者が受容できるのではないかと思われる第三の立場によって一応論述を展開しておきたい。
そういう立場に立つならば、キリスト者にとって、死は二重の意朱において把握されなければならないであろう。我々もキリストヘの信仰によってバウロとともに、「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どにあるのか」(第?コリント15:55)と言えなければならないし、「わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい」(ピリピ1:23)とも告白できなけれぱならない。それは我々がこの世では許されないような神との交わりが、来世においては可能であるという、神からの恵み深い約束を信ずるからである。しかし同時に、我々はそのパウロが、この世の中に「罪」の後について「死」が入り込んできたとなし(ローマ5:12 以下)、人間を支配する悪鹿的なものとして死について語っているのに気付く。パウロにとって死は、それを迎えることを単純に喜べないもの、それに向かって抵抗しなけれぱならならないもの、「最後の敵として」キリストにより「滅ぼされ」(第?コリント15:26)ねばならないものなのである。
上述の第三の立場に立って考えて行っても、この世の生にあって既に死んだ者であるかのように生きること、神の与えて下さるこの世の喜びに目をつむってひたすらに天国に向かって目を注ぐように生きるとは、キリスト者のなすべきことではない。スペインの宗教裁判においては、異端者を処刑するに当たって、司祭たちがその異端者の身体は処刑するが、その魂は天国に救われるようにと祈ったそうであるが、こういう宗救性、この世に生きることの喜びをそれ自体として肯定せずに、天国のために生きないような人はこの世に生きる価値もないと主張するような宗攻性は、断固として排斥されねばならない。そこに一見矛盾しているようであるが、死んで主と共になりたいと顕うパウロが、アジアで出会った患難から、死の危険から救われたことを率直に神に感謝している理由があるのである(第?コリント1:8 以下)。
死によって私が私であるということ、私の個の人格が虚無に没入するという恐怖からは、我々は第三の立場に立つ限りキリストヘの信仰を通して解放されている。しかし、神が我々に、この地上で楽しむようにと与えて下さった喜びから別れて行かねばならないのであるがゆえに、死は悲しいのである。そして、死後我々は今よりも神との深い交わりの中に永遠に生きられるということが信仰によって確定している以上、我々ははそこに急いで行く必要はない。せっかく神が与えて下さったこの世の喜びを十分に楽しんで行かないというのは、神に対して申し訳ないことである。来世と現世とでは、神の与えて下さる喜ぴが次元的区別をもっているのであるから。
自然科学上の発見や宇宙への人間の探索が、その人間生活への具体的な効果は一応別としても、研究や探索それ自体が人間に喜びを与えてくれる。その喜びは必ずしも、天国に我々が救われて行くということと結ぴ付かないであろう。それでよいのである。しかし、我々の信仰によれぱ、この世での人間の最上の喜びは、それが苦しみの道であっても、身近な隣人たちへの愛の実践、また広く社会全体ヘの政治的.経済的実践を通しての愛にある。こういうものから別れて行くので、死が悲しいのである。
神の前での個人格の愛の形成というところでは、来世も現世も継続一貫しているのであるが、その愛の展開の場である生のあり方、その生の喜びの形態においては、両者に次元的区別が存在るのである。したがって、キリスト教倫理はこの世での人間の生のあり方を愛し抜くということに、世俗性に徹しなければならない。(10)
ところで、神によるこの世の創造が良きものであり、人間も他の被造物と同じように神によって造られたということは、人間と他の被造物との連帯性とともに、それヘの愛を持たなければならないことをあらわす。人間の身体は他の被造物と連なっているものであり、そして、それは良きものなのである。身体が悪であるとか、身体そのものが罪の原因であるとかいう思想は聖書には縁遠い。プラトン哲学のもっていた、身体は魂の牢獄であり、人間の救いはこの牢獄から解放されるところにあるというような思想は、聖書には見られない。一例をあげるなら、ローマ人ヘの手紙第7章などは、パウロが人間の罪を身体と接近させて論じた顕著な個所であると思われるが、それでもパウロの描く罪はむさぼりというような意志的なものなのである。身体のもつ必然的な欲求が罪とはされていないのであって、その欲求が意志によって利己的なむさぽりに転化された時に、それは罪となる。
更に、聖書において身体そのものが悪とされていないことは、その死後の命の考え方の中にも明らかである。霊魂だけが神のところに行くというような、いわゆる霊魂不滅の思想は聖書にはない。それが具体的にはどういうものであるかは分からないが、霊的な身体ではあっても、死後の命をとにかく身体をもったものである復活としてしか聖書は告げていない。
このように身体は良いものなのであるから、身体を単に責めさいなむことを良いとするような意味での禁歓主義ほ、キリスト教的と言うよりは異教的なものである。したがって、聖書においては、男女の性もそれ自体としては良いものと考えられている。中世紀的な性の禁欲をそれ自体良いとする思想は、聖書には見られない。聖書の真理にもとづいて世俗性に徹しながらも、我々の生活に禁欲が意味をもっとするならば、それは、自分の使命と信ずるこの世での喜ぴの探求のために、他の喜びヘの欲望を棄てる時のみであろう。
神に造られたことにおいて他の被造物との連帯性を感じる人間は、自然への愛をもたねばならないであろう。そこにアルバート・シュヴァィツァーの「生ヘの畏敬」の思想や、アッシジの聖フランチェスコの動物や自然ヘの愛、「太陽の賛歌」のもつ真理契機や、詩人リルケが道端の小石のように人間は謙遜で、ただそこにあるということに満足しなければならないと言ったことに表現されているような、人間のもつ物との連帯性がある。
しかし、自然ヘの愛や物との連帯性は、人間が精神でもあること、ニーバーが言ったように人間は有限の自由をもつ存在であるということを忘れさせてはならないのである。そして聖書は我々に、人問が精神(霊)や魂や身体をもつ一つの全体として神によって造られたこと、それがそういうものとして良きものであることを語っているのである。我々は既に、人間が愛を指向する精神(有限の自由)であることこそ、人間における神の像の意味であることを見てきたのであるが、ここにこそ人間が創造の冠と言われる理由がある。シュヴァイツァーの「生ヘの畏敬」の思想は多くの真理を含むのであるが、それが人間の命の価値と、他の命あるものとの価値との区別を考えていないところは誤りであると言わざるを得ない。(11) 基本的に言って、価値においてこの地上では人間の命が他のものに優先することを聖書にならって明白に言わない限り、我々の世俗性は人間のためであることを止めて行くであろう。
創世記の物語には男女の創造のあと、人間ヘの神の祝福が書かれている。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(1:28)。すなわち、神は人間に披造の世界を管理し治めるように、そこに喜びを人間が見出すようにされたのである。もちろん・その管理は絶対的なものではない。神が最終的には世界を治めておられるのであるから。しかし、この管理は人間が神から委託された相対的なものではあっても、人間はそこで自分の有限の自由を行使しながら、自分の責任で世界を治めて行かなければならない。
ナチスの手によって処刑され、キリスト者として殉教した神学者ディートリッヒ・ボンヘファー(Dietrich Bonhoefer)が獄中から友人たちにおくった手紙は、沢山の新しい神学的洞察を含んでいるので有名であるが、1944年7月16日の手紙には次の我々の心につきまとうような言葉が見られる。
我々が成人したという状況は、神に面と向かっての我々の姿を真に認識させるものである。神なしに結構うまくやっていける人間たちとして我々が生きねばならたいことを、神は我々に教えておられるのである。我々と共におられる神は、我々を棄てる神である(マルコ15:34)。役立つ仮設として神を用いることなしにこの世に我々を生きさせるところの神こそ、我々がその前にいつも立っているところの神である。神の前に、そして、神とともに我々は神なしで生きる。神はご自分がこの世からだんだんと追い出されて、十字架にかけられてしまうのをお許しになるのである。神はこの世においては、弱く力なき方である。そして、そういう仕方においてだけ実は、神は我々ともにあることができ、我々を助けることができるのである。
残念ながらボンヘファーは、これらの神学的洞察を十分に発展させるだけの時間を持っていなかった。したがって実のところ、我々はこの手紙の言葉が具体的に何を意味していたのか、正確には知ることができない。しかしながら、ポンヘファーのこの思想をフリードリッヒ・ゴーガルテン(Friedrich Gogarten)が発展させた方向に解釈することが、その意図に忠実なものであろうと思われる。(12)
ボンへファーの言う成人した世界(die mundige Welt)――上掲の手紙の中の、我々が成人したという状況に当たる――とは、神が人間に委託されて、この世界をその有限の自由によって治めるように管理させるということを指すものである。すなわち、人問は過去の文化的に幼き時期においては、この世でどのような仕方で個人生活や社会生活をいとなまねばならないかを、神から教えられて生活した。このように、生きるための役立つ仮設として、人間は神を用いた。個人の倫理生活のみならず、政治や経済の間題の処理までも、神から啓示された律法への服従という形でなされたのである。ところが現代人は、こういう幼き時期を通過してしまったのであって、文化的に成人したのであり、もはや政治の実践のあり方、経済問題の解決、烈しく移り行く社会生活の中で個人の倫理はどうあるべきかを、いきなり神からの啓示によって解決しようとは思わない。現代人はそれらを、自分たちの自由の責任において理性的に解決して行く。こういう間題の処理においては、我々ほポンヘファーの言うように、「神なしに結構うまくやっていける」のであり、「神なしで生きることができる」のでなければならない。そして、このことが「神の前に、そして、神とともに」なされなければならないのである。換言すれば、我々がこの世のこういう問題の処理において、ひとり立ちできる成人になるようにと、神ほ「我々を棄てる」のである。この意味で、「神はご自分がこの世からだんだん追い出されて、十字架にかけられてしまうのをお許しになる」。人間を成人させて、ひとり立ちのできる存在に変えて行くことこそ、十字架のキリストに表現されている神の愛なのであり、したがってその愛は、人間が文化的に幼き時期にご自分を示したあの仕方・すなわち、・政治・経済・社会・個人の諸問題に力づくで介入するというような仕方では、現代においてはご自分を示さない。神は「弱き力なき」仕方で、人間を説得することによってご自分に引き付けられる。
ボンヘファーは、人間の歴史的に幼き時期に、神がカづくで人間の生活の中に介入されたことこそ、宗教の本質をなすものであると考え、そういうように宗教的に見られた世界を、成人した世界に住む現代人は非宗救化しなければならないとする。キリスト教の福音は宗救ではないからである。
ボンへファーの思索の跡をこのように辿ってくると、我々は既に検討してきた事柄と全く軌を一にすることを知る。ボンフェファーの言う成人した世界とは、世俗性に徹した人間の生き方を意味するものであり、神の前に神なしで生きるとは、来世と現世との次元的区別の承認である。また、弱き力なき神こそ我々とともにあることができ、我々を助けることができると言うのは、神の愛の自由が人間の有限の自由を逆説的に捕えるということ以外の何ものでもない。すなわち、神の全能を愛の全能として理解する方向なのである。
人間に委託された世界管理を真剣に考えるならぱ、この世での神と共なる生活は、何よりもまず愛を基礎とした人間の主体性の確立に向かうものでなければならない。すなわち、キリスト者の聖化とは、まさにそういう事態を言うものなのである。
ゴーガルテンによれば、ボンへファーに見られる成人した世界の思想の萌芽は、既に次のようなパウロの言葉の中に見られるのである。(13) 「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれぱ、相読人でもある。神の相続人であってて、キリストと栄光を共にするために苦難を共にしている以上、キリストと共同の相統人なのである」(ローマ8:14-17)。
キリスト教が入り込んできた世界は、地中海沿岸の文化的世界、グレコ・ローマンの世界であったが、パウロはこの世界に住む人々の精神性の特敏をここで恐れをいだかせる奴隷の霊と表現している。その恐れはどこから来たかと言うと、聖書の中にも書かれている「空中の権をもつ君」(エペソ2:2)によっても表現されているような、人間の生活にいつどのような仕方で介入してくるか分からない、気持ちの悪い・脅かす諸勢力ヘの顧慮からであった。当時広く行きわたっていたところの、こういう諸勢力ヘの恐れ、それヘの奴隷状態から人間を解放できたところに、キリスト教の勝利の大きな要因が見られたのであるが、それはキリスト教が、創造者なる神、これらの諸勢力よりも偉大なる神が、キリストにおいてこれらの勢力に勝たれ、これらを征服されたのであり、キリストを通して神の御霊を授けられたキリスト者は、神の子たる身分を授ける霊を与えられたのである、と告げたからであった。キリストを長子とする神の子たちの中に数えられる以上は、キリスト者はキリストと共同の相続人となったのであり、神から相続財産を与えられたのである。
ところで、コーガルテンは、この相続財産こそ、創世記の創造物語において神が人間に与えられた祝福、神の委託による世界管理であるとするのであるが、これはバウロの思想の解釈として正しいものであろう。
この世界をどう管理すべきかについては、人間は自分の理性能力を用いつつ、また、創意工夫をこらしながら、自分の力に信頼して行なえばよいのであって、神にそうすることを委せられているのであり、この世以上の不合理の諸力を恐れる必要はない。そういう世界管理の合理性こそ、福音の中に萌芽として存在していたものであり、それが西欧の歴史の中で徐々に芽を出し成長開花し結実したものが、ボンへファーの言う成人した世界なのである、とゴーガルテンは主張する。
ところで、念のためにもう一度ここで我々は、こういう成人した世界が世俗主義ではないことを断わっておいた方がよいかもしれない。世俗主義は罪深き人間の倣慢、神よりも自己を高く置くところから生まれる。人間の世界管理は絶対的なものではなく委託されたものである。世界を絶対的に支配するのは神のみである。被造者である人間は、愛に向かって神により造られているという自分の制限を無視する時に、自分の人間らしさも文化の人間らしさも根底から崩壊するものなのである。こういう立場から、我々はいつの時代においてもそうであるが、今日の文化に対しても強い警告を発して行かなければならない。真の世俗性を守るために、世俗主義と戦わなければならない。
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