野呂芳男「人間論」4
4 罪
パウロは「律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである」(ローマ2:14-15)と言っているが、こういう聖書の箇所が基礎になって、良心とは神の声を記録する人間の器官、人間が生まれつきもっている神の律法の声の代弁者、というようにキリスト教神学においては伝統的に考えられてきた。ところがその同じパウロが、神の律法や声というよりもその当時一般的であった倫理観、やがては過ぎ去り行く慣習の反映にすぎない「弱い良心」について語っている(第一コリント8:7-13)。すなわち、良心は必ずしも神の律法の反映や声であるとは隈らないのであり、罪深い償習をいつのまにか我々が吸収し、それが我々の良心となっていることがあり得るのである。したがって良心の間題は、律法と罪との両方にわたるもの、両者の境界にあるものである。
ネルス・フェレーは、人間生活における良心と神の像との衝突について語っている(19)。神の像とはフェレーにとっても我々が考えてきたものと同じように、人間が本来的な自己を実現するために、その中に生きなければならない愛のことであるが、フェレーにとっての良心とは、社会の慣習に適応した行動をとることを我々に要求する内なる声である。ところが、現状への黙従こそそ罪ではないのか。神の像よりも良心をえらぶことは罪なのである。罪深き杜会への適応は、神ヘの適応とは反対のものなのであるから。
要する良心と言っても、いろいろな角度で考えられた良心があるのである。人間が他者との共存によって生きている社会的存在である以上、社会生活の規約である倫理がなければならない。そして人間は、自分たちの長い期間にわたる歴史の体験に基づいて、どうしたら皆の人間が一番人間らしく生きられるかについての知恵を集積する。それが倫理なのであるが、移り変わり行く時代の流れに立って、一体現在行なわれている倫理が、ほんとうに人間を人間らしく生かしているかどうかの反省が常になされなサればならない。そのためには、現在の倫理に支配されている良心ではなく、倫理を神の像から創作し続ける良心、ティリッヒの言葉を借用するならば、超倫理的良心(transmoral conscience)が必要なのである(20)。これを我々が既に論じてきた事柄との関連で言えば、倫理を徹底的に世俗的なものと考え、委託された世界管理に属する事柄とみなして、人間が理性的に考え抜いて創作して行かなければならないものと認めることである。
更にティリッヒは超倫理的良心と心という観念の中にルターの洞察にならって、慰める良心、愛の苦闘に破れ罪責感に悩む鋭敏な心に、罪の赦しを語り慰めを与える良心という意昧も含めている。罪を弾劾し我々を非難する悪魔的な律法主義的な良心ではなく、キリスト教の福音は、この慰める良心について語らなければならないのである。
ところで以上の論述から、我々が罪を律法主義的に考えていないことは明らかであろう。罪とは神の愛ヘの裏切り、人間における神の像ヘの背反、敵さえも愛せよ(マタイ5:44)と言われたイエスの隣人愛の教えヘの不従順なのである。要するに、それは愛への違反であると言えるが、その愛は神の愛を土台とするものであって、ヒューマニズムの愛ではない。罪は徹底的に信仰の事柄として把握されているのであり、ヒューマニズムヘの違反というような倫理的なものではない。
イエスにとって罪とは、父なる神に対して人間が子としての愛を捧げないことであり、また、父なる神の愛のもとに、あらゆる人間は兄弟たちであるのに、その兄弟に対して愛をもたないことである(ルカ15:11-32, 10:25-37)。そして、神を父とせず、したがって周囲の人々に対して兄弟愛をもたないものとイエスが判断された、律法学者やパリサイ人に対するイエスの非鍵は激しい(マタイ23章)。
愛に対する違反としての罪は人間の意志によるものであることもちろんであるが、イエスによればその罪の根とも言うべきものは、人間の意志の根底にあるところの心の中にある。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(マタイ7:17)。「ロにはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」(15:11)。
使徒たちにおいても、罪が意志的なものであり心の中から出てくるものであることは変わりがない。そのことは、例えばパウロがあげている罪の一覧表とでも言うべきもの(ローマ1:29-31)を見れば一目瞭然である。
ところで、罪は個々の意志的な行為であるが、既に見てきたようにそういう行為は人間の罪深い心から来ているのであり、しかも、聖書においては個人が罪人であるということぱかりではなく、人頚全体が罪深きものであるとされている。そのことから教理史上、原罪説と呼ばれるものが生まれてきたのである。
原罪説はテルトリアーヌスやアウグスチヌスたちを通して形成されてきたものであるが、その聖書的根拠としてよくあげられたのはローマ人ヘの手紙5章12―21節、および、創世記第3章などであった。人類の始祖アダムが、神によって食べてはならないと命じられたエデンの園の中央の木の実を、その命令に違反して食べて罪を最初に犯したのであるが、そのアダムの堕罪が原因となり、人類全体が生まれながら罪人となるに至った、と原罪説は主張した。それはあらゆる人間が、少しも具体的な罪を犯さない時でも、赤児であっても、生まれながらにして罪ヘの傾向をもっていると主張し、その罪への傾向が世々代々伝えられるのは、性の行為を通して遺伝的になされるものであり、また、アダムの罪の結果、神の怒りは罪人なる全人類におよぴ、刑罰として死が全ての人を支配するようになったとなした。
我々は今、詳しい聖書釈義の間題に立ち入る余裕をもたないのであるが、創世記の第3章において、アダムの堕罪が原因となり後世の人々が生まれつき罪人になったというような思想は見出されないし、まして遺伝的にそうなるというような主張は発見できない。バウロの思想にしても、罪と死とがひとりの人(アダム)によってこの世に入りこんできたこと、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいりこんだ(ローマ5:12)ことは言っているが、それが罪性の遺伝によるとは言っていない。
罪性が性の行為を通して遺伝するというアウグスチヌスなどに見られる原罪説は、人間の性が何か悪いものであるという考え――人間の身体は神によって造られたよいものであるという聖書的真理に反対の考え――を土台にしているものであり、中世紀の修道院的倫理と直結するものであるから、我々はこういう原罪説を採用する訳には行かない。それに、アダムという始祖の堕罪が原因となって、我々が今日罪人であるという結果が起こっていると言うのでは、そこでは罪が、自然科学的な原因―結果の次元で取り扱われており、人間の自由の責任として真剣に考えられていない。私の罪の原因がアダムにあるならば、責任をとるべきなのは私ではなくアダムでなけれぱならない。
こういう原罪論は、原罪を人間の自由とは無関係な運命論としてしまう結果になる。しかし、それは人間の自由を通して、しかもその自由を土台から束縛する宿命論的現実なのである。原罪の原を、原因―結果の連鎖の最初のものとして理解するのでなく、自由の根原、自由の深みとして把握すべきであろう。
我々は原罪の宿命論的現実を、ガブリエル・マルセルの問題と神秘との区別を使用して理解してもよいであろう(21)。マルセルによれば問題とは人間がそれから離れて立って、それを理性的・客観的に処理しなければならないもの――我々の論じてきた成人した世界という立場から言うなら、マルセルの問題とは委託された管理の対象になるようなもののことであろう――であるが、それに対して、神秘とは人間がその中に含まれてしまっているもの、人間であることの目覚めをもった時には既にそれによって把握されてしまっていたようなもなのである。問題に対する場合には、人間は自分の全存在をそれとの関係の中に投入していないのであるが、神秘との関係ではいやおうなしに、人間の全存在が投入されてしまっている。
罪は問題ではないから、その起源についての説明は不可能である。原因―結果の次元で説明し得るものは、また我々の管理能力によって、少なくとも原理的には処理可能なものである。ところが罪は、それによって我々の全存在が把握されてしまっているので、説明不可能な人間の自由の神秘なのである。
罪との関連で、我々は死をとりあげなけれ.はならないのであろう。新約聖書においては、死はしばしぱ罪と結び付けられている、しかし、死が身体の死を意味しているのか、霊的な死、すなわち、人間が命の源である神から離れてしまっているので身体は生きていても、霊的な人問らしさは失われてしまっているという事情を意味しているのか、しばしば不明瞭である。こういう事情と対応して、永遠の命についても新約聖書は二重の意味合いを含めて発言している。例えば、ヨハネによる福音書の著者にとって、永遠の命はイエスと同じように、死後父なる神のみもとに行くことであるが(ヨハネ14:1-4)、しかしそれは、この地上の生においても味わい得るものである。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(17:3)という言葉がイエスの祈りの言葉として記されている。
パウロが「罪によって死がはいってきた」(ローマ5:12)と言う時、身体の死を考えていたことは疑いのないところであるが、信者はキリスト・イエスの死にあずかるバプテスマを受け、彼と共に葬られた者、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを言う時には(6:1-14)、罪によごれたみじめな死のからだ(7:24)に死ぬことを言っているのであり、生物学的には生きていても霊的には死んでいる人間存在を考えて、その死に対して死ななければならないことを言っているのである。
個々人の罪が原因となって、ましてアダムの罪が原因となって、人間に生物学的な意昧での死が訪れるようになったというような考えは、今日我々が受け入れる必要のないものであろう。生まれた以上死ぬのは人問の生物学的必然であると考えても、それは聖書の罪と死との理解から基本的には逸脱していない。死者をも生かし得る神から離れているということこそ、身体の死の出来事の前であろうが後であろうが、聖書の中でほんとうに恐れられている死なのである。アダムが罪を犯さなくても、生物学的必然によって死んだであろうとすることは、その死の後でも神の力でアダムが永遠の命を与えられたであろうとすることと矛盾しない。ところが、罪によって神から離れてしまえば、永遠の命のどんな可能性も失われるのであり、罪こそ死なのである・キリストによって神から罪赦されることを信じる我々の慰めは、この罪さえも神から我々を引き離すものではないというところにある。
さて、原因―結果の次元でその原因を説明することができないものとして、自由を包む神秘として実存的に罪を考える場合であっても、普遍的にすべての人々が、しかも個々にどういう経過を辿って罪を犯すのかを分析的に理解することはできるであろう。この点で、キェルケゴールとラインホルド・ニーバーの理解が我々を助けてくれる。
キルケゴールによれば(22)、罪は人間の不安にその源をもつ。人間は自分の自由の貴任において、まだどういうことになるか分らない未来に対処して行かなければならないがゆえに、不安なのである。したがって、不安そのものは、人聞の自由に当然伴うものであるから罪ではないが、しかし、それは原罪の根である。人間にとって未来は、自分がそこで人問らしく生きて行かれるのか、それともそそこで虚無の中に転落してしまうのか分からないものをあらわし、そして人間は虚無に対しては嫌悪を抱く。ところがその嫌悪や僧悪が逆にそのままで人間にとって恐ろしい魅力になり、人間は自ら虚無の中におち込んで行き罪を犯す。このように、虚無ヘの転落の魅力を内に湛えた不安が、ほとんど必然的な力としか言い表わし得ないような仕方で、すべての人を(普遍的に)とらえてしまうことが、キェルケゴールにとってて原罪なのであり、もちろんキェルケゴールはアダムの罪が遺伝するなどとは考えなかった。むしろアダムは人類の代表なのであり、我々は彼と同じような仕方で堕罪するのである。
しかしながら、代表としてのアダムは、我々と全く同じなのではない。と言うのは、神話的表現を借用すれば堕罪の前のアダムの不安、この善と悪とが区別されていない不安は、我々の体験にはならない。その堕罪の後の不安は、我々の体験する不安と同じであり、善・悪の知識の下における不安、過去の罪の状態から将来ヘ決断する時の不安、更に色濃くなって行く罪の状態ヘ転落するのではないかとの不安である。それに我々の場合にはアダムと違い、世々の人々の体験した不安の記憶の堆積によって、体験する不安はより強烈にされているのである。
以上で明らかなように、キェルケゴールは虚無ヘの不安のもつ魅力によって、我々が虚無に引きずり込まれて
行くという事情を虚無の側について語ったのであるが、どうして我々が虚無に魅力を感じるのかというこちら側の事情については、ニーバーの不安の分折の方がすぐれている。
ニーバーによれば人間が罪を犯すのは、不安の中での安全ヘの欲求から来る。前述したようにニーバーは人間を有限の自由をもつ存在と理解している。生きて行くに当たりいろいろな条件によって人間は限定されつつも、自由によりその条件の中で新しい歴史を創作して行く。その時、将来がどういうものを自分にもたらすか、また自分の決断してなすことが果たして将来のもたらすものを十分に生かし、将来を人間の生きるよりよき場になし得るのか、人間は不安なのである。その不安を逃れるために、人間は傲慢にも自分を神的な存在のように空想してみたり、または、感覚的なものや物質的なものの中に自分を埋没させる。そのようにして安全感を獲得したいからなのである。前者は、人間が神になろうとする精神的な罪であり、後者は官能的な罪である。
キェルケゴールやニーバーによる不安と罪との関係についての洞察は、生物学的な死との関連でも我々が考えなければならない事柄であろう。死が一体何を我々にもたらすのか、誰も確実に知っている訳ではないから、それは不安を我々に与えるのであり、そのため死は我々が罪を犯すきっかけとなり得るし、いつ死ぬか分らないこの不安な人生を、できる限り自分中心に、他を犠牲にしても自分だけ豊かに生きたいし、しかも、早急にあらゆる楽しみを自分のものにしたいとのあせりを生み得る。こういう恐れやあせりは、死さえも我々にとって良いように利用する力をもっている神ヘの信仰のみが解決してくれるものであろう。
死はこの世の生の敵であるが、その敵さえも我々は愛さなければならないのである。「しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向うな。もし、だれかがあなたの右の頬を打っなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイ5:39)や「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(5:44)というイエスの教えは、死に向かっても実行されなければならない。そうしたからと言って、死が不条理な敵であることを止める訳ではない。相変わらず敵であるけれども、そのままで我々の善のために神が利用されることを信じて死を愛するのである。その時「死は勝利にのまれ」(第一コリント15:55)るのである。その時でも死は人生のはかなさを相変わらず示すけれども、そのはかなさは快楽をむさぼろうとのあせりや虚無ヘの恐怖ヘ導かずに、一日一日、刻一刻の尊さの体験、一時でも生かされていることのありがたさの実惑を与えるであろう。
罪とは神への愛、人ヘの愛に対する違反であったが、愛することはいつも不安なのである。愛することは、それが精神的なものであれ物質的なものであれ、自分のもてるものを隣人のために捧げることを意味する。それをすることが、自分の生の安全を脅かすものと感じられ、人間は逆に、他者からそういうものを集めようとする。パウロによれば、イエスは「死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリビ2:8)のであるが、このイエスに従い、イエスとともに自分を十字架にかけても、神が自分を支えて下さり、そこでこそ自分の生を真に豊かにし(復活の命を歩ませ)て下さるという信仰があって始めて、人間はほんとうに隣人を愛し得るのである。逆に、そういう愛の行為が自分を豊かにしてくれるという体験の中でこそ、真の神ヘの信仰がはぐくまれるのでもある。
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