野呂芳男「プロテスタンティズムの明日」1979

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プロテスタンティズムの明日


野呂芳男

   

初出:『聖書と教会』1979年9月(特集:プロテスタンティズムの将来)、日本基督教団出版局、8-13頁。




 将来は人間の予測をはるかに越えており、プロテスタンティズムが将来どのような状況に置かれているだろうか、また、それ自体どういう姿、どういう様相を呈しているだろうか、を論じてみても、空想の域をあまり出ないのではないか、との意見もあろう。しかし、そうであったとしても、我々は将来のプロテスタンティズムに関し何らかの予感をもたないならば、今後我々がプロテスタンティズムをどちらの方向に向けて、どのように形成していったらよいのかが皆目分からなくなってしまう。それに、プロテスタンティズムの将来がどうなるだろうかを考えることは、必然的に今日までのプロテスタンティズムのどういう要素が将来も生き延び、どういう要素が将来には消え去るかに関し我々に考えさせる。即ち、我々がプロテスタンティズムの永続する要素を探らざるを得なくなるのである。

 これだけ書いただけで、私には読者のある方々の心の中に1つの疑問が生まれたことを察することができる。このようにすぐと疑問が起こることは、我々の課題がどれほどに困難なものであるかを端的に示す事柄なのだが、その疑問とは、プロテスタンティズムは聖書の福音ではないのか。福音は永遠なものではないのか。そうであるならば、将来のプロテスタンティズムがどういう状況に置かれ、どういう様相を呈するかに関して考えたり思い煩ったりすること自体が無用のことではないか。そのような事柄を思い煩うよりかは、いつも変わらない福音を説いていれば良いではないか。

 なるほど、聖書の福音を歪曲していた中世紀のキリスト教からもう一度純粋な聖書の福音に返ったものがプロテスタンティズムなのであるがゆえに、聖書から宗教改革へといきなり飛んで、それ以後は一貫して同じ福音が守られてきたのである、と主張することもできよう。しかし、中世紀を飛び越してしまうことが良いか悪いかはさて措いて、宗教改革以後プロテスタンティズムはいつも同じ福音を語ってきたであろうか。残念ながら事実はそうではなかった。ルターやカルヴァンの福音主義と、17世紀のプロテスタント・スコラ主義とは大分異なっていたし、18世紀の啓蒙主義後の合理主義的プロテスタンティズムや、19世紀後半から20世紀の初めにかけて強い影響力をもったところの歴史の進歩主義的見解を受容したプロテスタンティズムは、宗教改革の神学と大きく異なっている。カルヴァンの神学の現代における復興といわれるバルト神学においてさえ、カルヴァン主義的予定論も自然神学も拒否され、神の自然や歴史の中での働きもカルヴァンにおけるごとくに改定論的なものとは見られていない。世界に対する見方が、カルヴァンとバルトではすっかり変わってしまっているのである。それに加えて、我々が考えねばならないのが諸教派の存在であって、各教派がそれぞれに違ったプロテスタンティズムの理解をもっている。

 あらゆるプロテスタントの教派、否カトリシズムをも含めて、ニケア・カルケドン信条でことごとくが一致しているとなすのも、これらの信条の解釈が1つでない事実や、宗教改革者、特にカルヴァンが強調したごとき刑罰代償説贖罪論が、これらの信条の作られた時代の人々の視野に全く入っていなかったことを考えると、やはり歴史的事実の問題として、プロテスタンティズムをニケア・カルケドン会議と直結させるのには躊躇を覚える。

 このようにして、プロテスタンティズムの将来がどのようなものとなるのだろうかという問いに答える前に、我々は否応無しに元来プロテスタンティズムとは何なのか、プロテスタンティズムの本質とは何か、という問いの前に立たされてしまう。 こういうものがプロテスタンティズムである ということが言えないで、どうして我々は、たとえ空想においてでさえ、 プロテスタンティズムはこうなるだろうし、こうなるべきである などと少しでも語ることができようか。ここで私は「本質」という言葉を用いたが、そのことは私が、プロテスタンティズムの本質と現象とを一応区別し、時代や教派を通じてそれがプロテスタンティズムであるならば、もっていなければならないもの(即ち、本質)がある、と考えていることを意味する。そして、プロテスタント的諸現象のあるものには、この本質が十分に包含されているが、あるものにはこの本質が不十分にしか含まれていないし、また、あるものには皆無である。しかし、本質と現象とは、人間の精神と身体のような関係にあり、二元論的に明確に区分できるものではない。しかしながら、両者を無理に区分して考えてみなければ、我々の信仰を賭けたプロテスタンティズムを、今後も存続せしめる道が全く失われてしまうので、区分は止むを得ざる抽象である。

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 我々が隣人の心を知るにあたって、我々が見たり聞いたり触れたりできるのは隣人の身体の動作でしかない。しかし、我々はそれらの動作を媒介として 直観により 相手の心を知る。精神的なものには、それ以外の知る道はない。この道は、相手の心を誤解する可能性をいつも孕んでいる危険な道であるが、我々には、なるべく多くの相手の動作に接しながら、自分の みがき抜いた直観 に頼る外はないのである。精神的なものを知るにはこの道だけしかないのであるから、プロテスタンティズムの本質という精神的なものも、プロテスタントの諸現象、特にそれらを生み出した宗教改革の現象に触れ、直観によってその本質を知ることができるだけである。

 したがって、これからマルチン・ルターの宗教改革の原動力となった福音体験に接して、私がプロテスタンティズムの本質と見做すものをその中から剔出してみるけれども、この試みには客観的な価値は初めから無いことが分かっている。もしもこの試みに価値があるとするならば、それは、同じようにプロテスタントの信仰に生きているがゆえに、プロテスタントの将来の様相に無関心であり得ざる人々が、プロテスタントの本質に思いをひそめ、何をプロテスタンティズム(精神)として将来の――今と違った――文化(身体)の中へ持ち運ばねばならないかを決断するに当たって、私の本質論が少しでも共感される時に出てくる。私は自分の考えているところを以下に箇条書きにし、幾分の注釈を付け加えてみよう。

 ? 神は愛の人格的存在である。アンダース・ニグレン (Anders Nygren)、フリードリッヒ・ハイラー(Friedrich Heiler)、カール・ハイム(Karl Heim)は、カトリシズムの本質を、ディオニシオス偽書やアウグスチヌス以来教会の中に入り込んできた、プロティノスの新プラトン主義的エロスに基づいた神秘主義としているが、これは当たっているように思う。プロティノスによると、人間の理性的把握を越え、ただ恍惚的体験によってのみ知られ得る一者(神)から神的知性が流出し、また、神的知性から世界霊魂、世界霊魂から物質界が流出した。そして、流出したものは源へ返ろうとする。人間の精神は神的理性と同質である理性や、世界霊魂と同質の魂より成り、身体は物質である。そこで、人間は身体の欲を抑制し、理性的に生き、遂には理性を越えた神秘的体験の中で神と合一しなければならない。人間は禁欲によって一者に似るその程度に応じ、一者に近付く。まさに階段の上にいる神に到達するためには、難行苦行の行為の階段を登らねばならないのである。ここからカトリシズムの行為による義の主張が、我々の聖化の程度に応じて神が我々を受け入れて下さるという主張が由来していた。そして、1人の人間が、自分の救いに必要である以上の善行を積み重ねた時には、余分の善行は教会によって集められ、善行の倉の中に他のものと一緒に入れられるのである。そして、教会は、何かの事業のために金銭が必要となった時に、免罪符を作り、それらを売って、買った人々の罪への罰を赦すのであるが、その赦しの根拠は、その人々のなし得ない善行の代わりに善行の倉から引き出した他の人の善行を用いるところにあった。周知のごとく、1517年に、聖ペトロ大聖堂建築の費用獲得のために免罪符が売り出されたが、これに、ルターが反対したことから宗教改革はその端を発した。

 我々が忘れてはならないのは、カトリシズムのこのような行為主義の背後には、向こうから我々を愛して歩み出そうとするよりも、我々が近付くのを待っている 非人格的な神 、人間が自己の人格的存在であることを忘れて恍惚の中で出会える 一者 が立っていることである。それに対して、ルターの神は、神のほうから人間を救うために出掛けてくる。そして、ルターの場合には、人間は自分がどの程度の救いに近付いているかなどということは問題にならない。救いは人間の善行の積み重ねに依存しないがゆえに、神の愛を信じて救われるか、信じないで救われないかの「あれか――これか」であり、計算づくでない、人格的な愛の関係、マルチン・ブーバーの言い方を借用するならば、「我―汝」の関係こそが神と人間との関係なのである。

 ルターが学士の学位を1502年に、修士の学位を1505年に受領したエルフルトの大学は、当時の新神学であったウイリアム・オッカム(William Occam)の唯名論のドイツにおける1つの拠点であった。周知のようにオッカムは、トマス・アクイナスが神における本質的なものとして理性をあげたのに対し、意志こそそれであるとした。オッカムの唯名論はルターに神を意志的な存在、人格的な存在として考えさせるのに大きな影響を与えている。しかしながら、我々が忘れてはならないのは、オッカムの唯名論もしょせんアリストテレス哲学を土台にしたスコラ主義に属していたということであり、ルターがアリストテレス哲学の悪口を言っているにもかかわらず、ルターの自然・政治・経済等の考え方の根底にあったものが、まさにこのアリストテレスの哲学であったことである。エラスムスとの自由意志に関する論争の中にルターのスコラ主義的考え方がよく表わされている。ルターによれば、人間は馬のごときもので、神によって手綱をとられるか、あるいは、悪魔によって手綱をとられるかによって、全く違った方向を歩む。人間には神に対して自由に振る舞える意志など全くなく、すべてが神の独占活動によるとなしたが、神がすべてであれば人間の側は無であり、人間の救いがその行為によらないならば人間は自由であってはならない、というルターの考え方は、「我―汝」の人格的出会いとは適合しない。人格的愛の出会いにおいては、一方の全くの恵みがもう一方の主体性を最大限に働かせる。無償の全き愛の魅力によって自由に束縛されるのである。愛の力とはそういうものであって、暴力ではない。「我―汝」の出会いというルターの本音を聞き落として、今、また、これから後にも、我々が改めてプロテスタント・スコラ主義を作りあげる必要は全くない。
 ? 個人主義。これはもちろん利己主義の意味ではなく、また、人間が社会的存在であって、他者との交わりの中でのみ真の自己となり得るものだということも否定しない。ただ人間は最後のところ、単独者として神の前に立つ存在だということである。著名なルター研究家カール・ホル(Karl Holl)はルターの信仰を良心宗教といっているが、その意味は、人間には罪に汚れない神的な良心というものがある、ということでは全くない。それどころか、ルターほどに良心の汚れを知っていた人物はなかったであろう。むしろ、他人はだれも助けることのできない個人の深い内面で、自分の罪を弾劾する良心、審く良心にさらされている個人が、キリストの十字架に救いを求めるに至るのだが、その孤独な神との出会いの場を良心は表現している。元来は罪に汚れており眠っている良心が神の律法によって罪に目覚め、人間を弾劾し始めるのであり、ルターが1521年に呼び出されたウォルムス国会で、「良心にさからって行動することは安全でも正直でもない。神よ、私を助けて下さい」とその答弁をしめくくり、自分のそれまでの宗教的発言を一言も撤回しなかった時の良心は、まさにルターに対する神の言葉がささやかれる孤独な場であった。カトリシズムは、自分が良心において正しいと信じていることを、教会という集団的権威の前に犠牲にするように、ルターに迫ったのである。神の前には他人の善行は自分には役に立たないというルターの免罪符売買反対と、ルターのウォルムス国会での答弁は軌を一にしている。人間は、自分はどう生きるのか、という最後の問い、精神的な究極的な問いに対しては、最終的には他人や集団の権威を退けて、唯一人孤独に答えなければならない。プロテスタンティズムは主体性の強烈な宗教である。全体主義的思考はプロテスタンティズムのはだに合わない。

 ? 世俗性の尊重。キリストの十字架への信頼、信仰だけが我々を救うというルターの立場が、「万人祭司主義」に至ったことは周知の通りである。司祭のつかさどるサクラメントにあずかるという善行によって救われるのではないので、司祭はもはや救いには必要でない。牧師は一般信徒と同じく、キリストへの信仰によって救われる人間であり、特殊な、救いになくてならない存在ではない。信徒の間の、聖書に明るい人間であるだけである。教会も司祭の経営する恩恵配布機関ではなく、信者同士の交わりであるにすぎない。聖なる場所も聖なる時間も聖なる人間もあってはならない。聖なるものは神だけである。したがって、キリスト者は特別な人間、聖なる人間ではなく、普通の人間で、ただ深く人間らしく神を信じて生きようとしているだけである。神を信じることこそ人間らしくなることなのである。これは汚れてよいという世俗主義とは違う。汚れは人間らしくないから避けたほうがよいのである。

 修道院という聖なる地域から解放されたプロテスタンティズムは、この世を人間らしくするために働く。つまり、修道院の中で自分の救いを善行によって獲得するために注がれたエネルギーは――自分の救いはあまり確かなのでそのために努めることはもはや忘れていてもよいのであるから――歴史を人間らしくすべての人が生きられる場にしようとする努力に向けられる。プロテスタンティズムは歴史創作的である。神の前にただ1人良心において立たされている主体性は、自分は周囲の物体や自然と違って責任を問われる存在、つまり、歴史を正しい方向に作るべき存在であることを人間に強く自覚させる。

 最近は女性解放の神学などによって、この歴史創作的姿勢が自然破壊、環境破壊の元兇であるかのように言われ、歴史主義の神学者フリードリッヒ・ゴーガルテン(Friedrich Gogarten)などが批判されているが、しかし、この批難は当たっていない。自然と歴史を旨く調和させていくことも、人間らしい歴史創作の1つの工夫なのであり、たまたま歴史創作の仕方が間違っていたからと言って、歴史創作そのものを批難するのは奇妙である。

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 これまで述べてきたようなプロテスタンティズムの要素が将来にも生き延びていくであろうし、またそうでなければ、プロテスタンティズムは死ぬと言うほかはないであろうが、将来の政治・経済・社会状況の中で私はきわめて楽観的に、プロテスタンティズムは生き延びていくと思っている。否、それどころか、今後プロテスタンティズムにはますます明るい展望が開かれると考えている。その理由は簡単である。人間が人間である以上、その主体性の尊重は消えないし、主体性をもっとも尊重する宗教――他宗教を考慮しても――はプロテスタンティズムだからである。ところで、これまでに述べたプロテスタンティズムの本質にはイエスに関する我々の告白に触れていないが、それは、イエスがキリストであるとの告白がプロテスタンティズムの特産ではなく、キリスト教である以上は当然のことだからであった。しかし、将来のプロテスタンティズムは、イエスに対する告白を、私がこれまでに述べてきたプロテスタンティズムの本質に神学的に言ってもっとふさわしい仕方で、なすべきではないだろうか。具体的には、イエスが神の言葉であるということの徹底である。つまり、イエスご自身の宣教と、イエスの存在そのものとが、神から人間への人格的な語りかけ、神が人間の罪にもかかわらず人間をもう一度交わりの中に入れて下さるとの語りかけと解すべきである。ゴーガルテンやブルトマンの路線を生かして、イエスを言葉の出来事としてとらえることである。「我―汝」の話し合いにおける神のイニシアティヴの言葉と解するのである。イエスにおいて神性と人性とがどのようにして一人格を形成しているかを探求することは、神に対する 眺める角度 の強調であるが、この強調を神に 聞く という姿勢の強調に変えるのである。イエスにおいて神の愛の語りかけが事実起こったし、今もそのイエスにおける神の語りかけが 説教される時 に、その語りかけが起こっているのである。

 したがって、こういうキリスト論は 神の言葉性 を重要視する。しかし、これはハイデッガー哲学を土台にした存在の言葉とは違う。「存在そのもの」が人間を通して言葉を語る、というのでは、幾ら言葉について語られていても、そこには「我―汝」の対話はなく、「存在そのもの」の万華鏡的モノローグがあるのみである。人間と人間、人間と自然との対話はあるだろうが、そういう対話のすべてが、そこで「存在そのもの」が声を出している場なのである。存在することごとくのものが、それらすべてを存在せしめ生かしているところの「存在そのもの」の発声器官なのである。こういう発想はプロテスタンティズムよりはカトリシズムに近い汎神論的なものである。

 今後、特に日本のような風土では、プロテスタンティズムは他宗教との対話をこれまで以上に密になさざるを得ないであろう。この点ではパウル・ティリッヒ(Paul Tillich)の方法論が非常に役立つであろう。その方法論は、各宗教を類型的に分けて考えるものであるが、プロテスタンティズムに関して私が述べてきた事柄は、まさにその類型の特徴として 人格的なもの を指摘したことになる。ところで、ティリッヒはむしろ前述したハイデッガーの哲学に近く立ち、神を「存在そのもの」としている。したがって、私は彼の他宗教との対話における方法論を受け入れるが、彼の神学の根本からは離れて立っている。彼はどうも人格的な思考を嫌ったようで、仏教とキリスト教の類型的相違としても同一性(identity)と参与(participation)ということしかあげなかった。即ち、究極的なもの(仏教の場合は無、キリスト教の場合は「存在そのもの」)と存在しているもろもろのものとの関係で、仏教は両者が1つであることを、キリスト教は存在しているものが「存在そのもの」に根を下ろしていることを主張する、となしたのであるが、私の見るところでは、同一性と参与とには差がない。この類型論の具体相は失敗である。

 仏教とキリスト教との間にある共通的なもの、最大公約数、公分母的な原理を探ることと、類型論は異なる。そういう共通のものを探って、今度はその共通なものこそキリスト教の本質であるというのは、人間それぞれが個性ある人格なのに、手2本、足2本、頭1つあることが人間の本質であるというに似ており、普遍への愛着が個を殺している。プロテスタンティズムの個性の中に安住の地を見いだしているものには、こういう普遍への傾きはあまりにも哲学的に見える。

 プロテスタンティズムが他宗教と対話する時には、他宗教をソクラテスのいう産婆さんと見做すべきである。他宗教もプロテスタンティズムをそう見て欲しい。産婆さんは既にあるものを取り出してくれる。プロテスタンティズムが自分の中にもっていて、自分でも気付かなかったようなものを、他宗教が気付かせ引き出してくれる。個性ある有機体が、自分を失わないで、しかも変わる方法はこういう方法である。他宗教にも個性を失って欲しくない。プロテスタンティズムも他宗教も、それぞれ個性的変革をとげた結果が、たまたま1つになってしまったというなら、別に文句を言う理由はない。そういうことがあり得るかどうかは別にして、仮にそれがあり得るとしたところで、それに至るまでは違った個性ある諸宗教のうちのどれに身を投じて、自分の救いを成就するかは、相変わらず我々1人1人に問われている。  

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入力:黒田良孝
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2006.01.30