野呂芳男「今日の英米神学」1983

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今日の英米神学 ――復活理解をめぐって――

野呂芳男

     

(初出: 『聖書と教会』特集現代神学の復活理解、 1983 4 月、日本基督教団出版局、 14-19 頁)。



 復活理解について書くにあたり、どの範囲内で書くべきかにまず迷う。イエスの復活について論じなければならないのは勿論であろうが、その出来事が弟子たちに与えた影響に限定した方がよいのか、それともイエスがどういう性質の身体で甦ったのかにまで言及しなければならないのか。また、「ヨハネの黙示録」に描かれているような、サタンが千年にわたって活動できないようにされ、底知れぬ所に投げ込まれたあと、第 1 の復活、聖徒たちの復活があり、やがて千年たってサタンが解放され暫らく勢を振うが、天からの火によってサタンは追い払われ、そのあと第 2 の復活が起り、死者のすべてが甦らされて神の審きを受ける、というような物語も、この小論の考察すべき対象となるのであろうか。更に、「ヨハネの黙示録」に描かれている、聖徒たちが神と共に住む新天新地も、復活に関係する以上は対象としなければならないのだろうか。復活に関して論じるからには、矢張これらすべてがその対象となるであろう。併し、この小論の追求するものが英米における復活に関する 聖書釈義 の現状報告ではないが故に、死と死後の命に関する英米現代神学の論議を大雑把に紹介すれば、何らかの形で前出の諸側面も含まれると思われるので、私の役割は一応果たされるであろう。

 英米の神学を論じる場合に、いつも我々が注意しなければならないことは、そこではデモクラティックな解放された社会で神学の営みがなされているので、例えばドイツ神学なども大いに読まれ、イギリスやアメリカの神学者たちの対話の相手とされている事情である。閉鎖的な、純粋にアメリカ的に、あるいはイギリス的に培養された神学などは、何処を探しても見当らない。ユルゲン・モルトマンやヴォルフハルト・パネンベルク、ドロテー・ゼレの書物も、多くが翻訳されて盛んに読まれているし、南米の新しい解放の神学なども真剣な論議の対象とされている。また、英米の神学界は新しい思想や行動を常に実験してみようとする。特にアメリカでは教会は、イギリスやヨーロッパ大陸の諸教会が体制教会であるのとは違って、個人の信仰的自由による参与を前提とする自由教会であるから、神学界で、教会を背景にしながらではあるけれども、神学者たち個人の主体を賭けた論議が展開され、ドイツ神学のような一貫した落着きには欠けるが個性の強い興味深い神学形成がなされて行く。

 周知のように、ラインホルド・ニーバーとパウル・ティリッヒという神学上の巨人たちが世を去ったあとのアメリカ神学界は、移り変り行くアメリカの文化や社会に対応するのに大童(おおわらわ)であった。信仰を聖書や啓示の権威への服従として把えることができにくい自由な雰囲気のアメリカでは、キリスト教の真理性への納得が、人々のその折々の文化的・社会的経験から自由に引き出されてこなければならないのであるから、当然神学は文化や社会と深いかかわりを持ち、文化や社会の病める局面をえぐり出して癒やす役割をもつ。そのようにして始めて、人々はキリスト教に接近してくる。アメリカ人にとっては、 役に立たないキリスト教 は無縁のものなのである。このような実用主義的とも言えるキリスト教への接近の仕方は、同じように経験主義的な伝統をもつイギリスの神学についても言えるものであるが、ただイギリスの神学の方が、最大の教会が国教会であることも影響して、ヨーロッパ大陸との結び付きが強く存在し、全体的に言ってアメリカ神学よりも古風であることは否めない。

  2 巨人が去ったあとのアメリカ神学の動向は、我々の国においてもよく知られているように、堰(せき)を切ったような新しい神学的実験の連続であった。実存論的神学、新自由主義神学、ハーヴェイ・コックスたちの世俗化の神学、神の死の神学、ドイツから流入したモルトマンやパネンベルクの黙示文学的希望の神学、ヴェトナム戦争への反抗、黒人解放の神学、ラテン・アメりカの革命的な解放の神学、女性解放の神学、保守主義的教会の進出、プロセス神学の再台頭などがそれであるが、もう 1 つ、どうしても我々が忘れてはならない現象は、世界大の文化的交わりをもつに至ったアメリカが、キリスト教やユダヤ教以外の多くの宗教とこれ迄に見られない程に接触することとなった事情である。晩年のティリッヒの仏教との対話、それに基づいた宗教史学的神学への試みは、もはや避けては通れないこの事情の反映である。

 ここ数十年間の嵐のようなアメリカ神学界の動乱の中にあって、静かに忍耐強くどのような動きにも対話の労を惜しまず、それらの動きから摂取すべきものを吸収し、いつの間にか大きく成熟してきた何人かの地味な神学者がいる。プロセス神学のジョン・カブ、シカゴ大学のラングドン・ギルキー、南カルフォルニア大学のギーズ・マグレガーなどである。併し彼らのうちでカブに関しては、死と死後の命に関して書かれた新しい論述を私は知らないので、拙著『神と希望』 (30 頁以下参照 ) に譲り、ここでは触れないことにする。

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 アメリカ神学界が落着いた収穫期に入ってきたためであろうか、ギルキーやマグレガーによって、古典的な信条の解説という形式をとった、キリスト教信仰の全般にわたる概説書が出版された。ギルキーは使徒信条
(Gilkey,Langdon:   Message and Existence,New York, Seabury Press,1979) 、マグレガーはニケア信条 (MacGreggor,   Geddes:   The   Nicene   Creed,   Grand   Rapids,   W.B.Eerdmans,1980) を講解しているのであるが、共に死と死後の命の問題を取扱った部分はなかなかに充実している。この世での人間の幸福の追求は勿論よい事柄であるにきまっているけれども、文化的創造や社会革命 ( あるいは改良 ) によっては満足されない魂の次元に人々が目覚め始め、単に社会や文化とつながりのある所だけで思索している神学よりも、社会の動きや文化の奥底に横たわる永遠の次元を問題にしてくれる神学に興味を示し始めた証拠ともなろうか。永遠を問題にすることが、多くの人々にとって実用的に役立つような雰囲気が醸成されてきたのである。

 ギルキーがこれ迄のアメリカ神学の過剰とも言うべき生産の中から、吸収すべきものを自分のものとしている点は数多く見られるが、例えばこれ迄ならば「父なる神」という男性のイメージを神に当て嵌めてきたのに対して「親なる神」( God the Parent )という呼び掛けを用いて神が男性、女性を超えた存在であるというイメージを我々に持たせようとしているなどはその一例である。また、「神の」を人称代名詞で表現する時に、今迄ならば文句なしに「彼の」( His )であったが、ギルキーはわざわざ「彼の・彼女の」( his/her )と言い換えている。これらは女性解放の神学の真理契機、神を男性で表わすことは女性蔑視の社会構造とつながるという事情を取り入れたものである。更に、ギルキーによると、聖書のアダムの堕罪の神話は、人間が自由なる存在であって自分の生の在り方に責任をもつにも拘らず、 いつも 自分の本来の在り方から ずれた 生き方をしてしまうという、人間の 悲劇的な自由と必然との絡み合い を表現しているものであるが、この説明の中でギルキーはインド教や仏教の中に見られる 再生とカルマ の象徴が、同じ人間の苦境を表現しているものであることを指摘する。このようにキリスト教の原罪論の展開が他宗教の人間理解と対比され、そのことにより更に深められた原罪論の現代的意味がその神話的表現の中から抽出される。これはキリスト教神学が、もはや独自の領域の中に閉じこもって思索できないことの認識から生まれてきた神学上の姿勢であって、今迄のキリスト教的プロヴィシアリズムの放棄である。

 ギルキーのみならずいずこの国においても今日の大多数の神学者は、 18 世紀の合理主義的な聖書の歴史批評、 19 世紀末より 20 世紀の初めにわたってのドイツ宗教史学派による聖書解釈、ヨハネス・ヴァイスやアルバート・シュヴァイツァーなどによるイエスの使信の徹底的終末論的解釈、近いところではブルトマンの実存論的聖書解釈、ブルトマン後の神学者たちによるケリュグマと史的イエスの論議などを踏まえて、各自の神学を展開している訳であるが、史的イエスに関するギルキーの論述は大体穏健妥当なものであろう。彼にとっても、もはやイエスの生涯についての詳細な伝記を書くことは不可能なのであり、この点で多くの神学者と軌を一にする。併し、キリスト教信仰にとって必要な点では、聖書のイエス像は信頼できるとする。例えば、イエスが存在したこととか、イエスの生き方がその使信にふさわしい(言行一致の)ものであったとか、である。特にイエスがその言行を通して、人間生活の喜びの完成こそが神の意志であることを示した点を、ギルキーは強調する。イエスにとっては律法も人間のために存在するのであって、神は失われた人間をたずね求め、神の国の中へ招き入れようとする。我々は神の国とはどういうものかを、イエスの譬え話や教え、特に――罪の赦しと愛と忍耐と奉仕に基づいた――イエスの人々に接する態度から理解しなければならない。つまり神の国は愛の共同体なのであり、この神の国こそ歴史の目標なのである。そしてギルキーはパネンベルクやモルトマンの希望の神学のモティーフを取り入れ、神の国は教会がそれに則るべき規準であるばかりか、教会を取囲む社会の規準でもあるとするが、ラインホルド・ニーバーに倣って、この神の国は歴史内に実現され得ないもの、超越的なユートピアであるとし、しかもプロセス神学の用語を借りて、いつもこの超越的な神の国が歴史を改革するように我々を「魅する」 (lure) とする。

  ギルキーにとってイエスの十字架の出来事は人間世界が根底から疎外状況にあることの啓示であるが、その啓示はイエスが神から送られた独特な存在であったことに支えられている。この事情の論述こそキリスト論であるが、ギルキーは、イエスの 復活を信じることがキリストを信じること 復活がキリスト論 であると言う。イエスが十字架にかけられた時に逃げ去った弟子たちが、やがて一所に帰り来った事をもって、イエスの復活の史実性の証拠にしようとするような試みに対してはギルキーは冷淡であり、復活は何かによって 客観的に 証明されるようなものではないとする。併し、神がイエスを死人の中から甦らせ、罪と死に対して勝利を得られたとの確信がキリスト教の基礎となった事実を誰も否定できない。この点からギルキーは、聖書の中の復活の記事がきわめて古い(多分西暦 33 年頃の)もので権威あるものであることを信ぜざるを得ないとする。イエスの復活は我々に罪と死とに勝利する永遠の希望を与え、神の国を待望させるのであるが、ギルキーはすべての者が究極的に神の国に受け入れられ、普遍的に救済されるとする。人間存在が神において自己を完成するように造られているものである以上は、神が人間を追い求めて神の国へ導こうとすることに、最後まで人間が反抗し続けることは不可能なのであるから。

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 ギルキーよりも年輩のマグレガーの神学に目を移すと、我々は戸惑いを感じるような神学風景に遭遇する。例えばギルキーは復活との関連で霊魂の不滅に言及し、人間の精神と身体との有機的な密なる連関にますます気付いている今日の科学的常識、また、聖書の人間観もギリシア思想と違って身体のない裸の魂の存続などを肯定していないという事情をあげ、それを否定するだけであって、イエスの復活の身体がどういう身体であったか、というような事柄には言及しない。彼は穏健なカルヴァン主義の立場で一貫している。それに比べてマグレガーの神学は最近の超心理学や、他宗教のもつ真理契機を受容するのに寛容である。

 マグレガーによると、イエスの復活は、ヤイロの娘の蘇生された身体のように、もう一度十字架上の死の時の身体をもって甦ったものではない。明らかに栄光化された身体でありながらも、弟子たちがイエスであることを認めて語りかけことのできるものであった。従って勿論、復活の出来事は弟子たちが一連の幻影をみたというような主観的な事柄ではない。復活のイエスは壁を通り抜け閉った戸から入り得るし、空虚な墓の中にはイエスの身体に巻いた布が、まるでイエスが布をほどかずにそれから抜け出したように横たわっていた。また、そういうイエスが魚を食べてみせたり、十字架上で受けた身体の傷を弟子に示したりする。マグレガーはこういう記述の背後にある現象を理解するには、人間の身体を固定観念的にある量の物質と考えることを止め、エネルギーの流れと考えるべきであると言う。超心理学から見れば、自分が自分の身体の外に出て自分の身体を見るような多くの人々の体験が示すように、我々の身体は、通常我々が身体と呼んでいるものだけではない。ある種の密教で言われてきたように、我々にはもう 1 つの気の身体 (a   subtler   body) が存在しており、それは水分とか脂肪とか言うよりも電気に似ている。大体今日においては物質そのものについても固定したものというよりも、光かエネルギーの流れの濃密地域と考えるほうが科学的なのであって、超心理学の成果を取入れてイエスの復活体を「光の身体」、「宇宙体」とする方がよい。人間の地上生活は二重の身体で行われているものであるが故に、イエスの復活体は地上体を反映して手足に釘跡、わきに傷をもっていた、とマグレガーは言う。

 生物進化論を取入れているマグレガーは、人間が進化の道程を後戻して死後動物になる可能性があるとは考えていないが、死後も人間はこの地球あるいは太陽系宇宙の外にある他の諸宇宙、または我々の認識を越えた場において輪廻転生する。キリスト教がこれ迄輪廻転生に冷淡であったのは、原始キリスト教が世の終りが間近かであることを強調したために死後に関する思索が貧弱であったからである。期待された世の終りが来なかった事実を踏まえるなら、神学はこれ迄に死んだ人々の現実をより詳しく考えない訳には行かない。

 こういうマグレガーの考え方からすれば、イエスの神性とは、イエスという場で神の特別な愛のエネルギーが放出された事情を指す。このエネルギーに浴してキリスト者は聖化されて行くのであるが、自由意志をもつ人間は自分の運命を最終的に神から遠ざけ死滅し得ると考えて、マグレガーは普遍的救済は主張していない。

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 我が国でも広く読まれたロビンソンの『神への誠実』は、アメリカの実存諭的神学や神の死の神学に対するイギリスでの平行現象であった。そして、ロビンソンのこの書物がパウル・ティリッヒの影響を多分に受けたものであることは一読して瞭然である。ロビンソンよりも遥かにスケールの大きい神学者で、自己の神学を体系化した人物には、良く知られているジョン・マコーリーがいる。併し彼の神学は、独自の思索の結晶であるとは思うが立場がティリッヒと殆ど変らないので、ここでの論述は省く。

 ロビンソンをめぐっての論議の後イギリスでの大きな問題提起は『受肉の神という神話』( The Myth of God Incarnate, 1977 )であった。これは一群の新進の神学者たちが、キリストが神の受肉であるという教理を 1 つの神話と見做し、その解釈を各自の立場から展開した論文集であるが、その編集者がジョン・ヒック( John   Hick )であった。ヒックはその後も精力的に研究業績を積み上げ、我々の見るところでは今日のイギリスにおける代表的神学者となった。

 聖書釈義に基づいてヒックは、復活の身体は地上の生と違った次元に生きるようになった人間に、その新しい環境にふさわしく神があらたに与える身体、霊の身体であるとする。このようにヒックも復活の身体がどのようなものであるかに関する客観的興味を示しているのであるが、インドなどの幾つかの宗教に見られる主張、人間は この地上でだけ 輪廻転生するという主張には同意しない。ヒックもこの地上の ただ一度 の人生だけで人間の永遠の運命が決定されると考えるのは、偶然に生れた場所や社会環境、遺伝などを考慮する時、あまりにも神が不公平であるが故に賛成しない。併し、ヒックによると、個が輪廻転生しながらも個であり続ける証拠は、前生の記憶を保有していることと、主要な性格が存続することである。ところがヒックによると、超心理学が提供する前生の記憶をもつ人々の実例は、まだ科学的な証拠として不十分なものであり、主要な性格の存続ということも、似ている性格が目立つが故に特定の人物の再生であるとするには、一見して性格の似ている人々が多すぎるし、遺伝子の組合せの多様性と性格類似の問題も未解決である。

 この再生否定のヒックの論理に承服する再生論者は恐らく 1 人もいないであろうが、ヒックも再生の教理がこれからのキリスト教会の教理になり得る可能性を排除してはいない。新約聖書の中に明らかな形で存在するとは言えない三一論や、神・人二性の一人格としてのキリスト論が、後の教会の教理になったことを考えても排除できない。ところで興味深いことに、ヒックはこの地上を超えた霊の世界での我々の転生を積極的に主張しているのである。彼にとって地獄は、我々が輪廻転生の途上で神から愛の鍛錬を受けることを意味する。人生はこの地上では 1 回限りであるが、死後において複数のものである。ヒックによれば、前生があって我々は地上に生れてきたのではなく、この地上の生が最初のものであり、地上の死のあとで複数の生を経た終りは神の中での救いである。但し、ヒックの場合には、究極的な神との一致もすべての者が共通の神の至福の観想の中に入るということであり、実体的に神と 1 つになることではない。

 人間が自由なる主体として造られているということは、ヒックにとって普遍的救済の事実を妨げはしない。人間の自由は有限であって、アウグスチヌスが『告白』の中で言ったように、人間は神の中に憩うまでは安きを得ないように造られている。人間が自由の奥底であこがれ、根源的に追い求めているものは神に他ならないのである。神の愛の導きと人間の自由とは相剋しない。

 紙数はつきた。シモーヌ・ヴェイユもそうであったが、今日のフランスでは 12 3 世紀のカタリ派の研究が盛んである。それに呼応するかのようにイギリスでもカタリ派の研究から出発したアーサー・ガーダム( Arthur Guirdham )の二元論的神秘主義がある。また、ヒンズー教や仏教との対話の中で、それらの宗教とキリスト教との根源的一致を求めるアメリカのヒューストン・スミス( Huston Smith )などにも触れたかったが、他の機会に書くことにする。

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入力:黒田良孝
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2005.12.16


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