野呂芳男「心理学――神学と世界観を媒介するもの」1985
Home  >   Archive  /  Bibliography


心理学――神学と世界観を媒介するもの

野呂芳男

初出:『DEREK』第5号、1985年、35-41頁。 (まとめと筆記:石澤大輔氏)

 現代神学における神学と科学の関係を問題にする場合,まずはじめにカール・バルトを取り上げることから始めよう。バルトにおける神学と科学の関係は,彼の聖書解釈の中に既にあらわれている。近代の聖書解釈では,聖書を1つの歴史文献と見なし,他の世俗の諸文献を取り扱うのと同じ科学的方法論がそれに適用された。ところが,聖書のことばにおける神の啓示を強調するバルト神学では,近代の歴史的方法論を用いて,聖書の信仰の背後にさかのぼることを許そうとしない。つまりバルト神学の聖書解釈は,信仰を支えている聖書の箇所に科学のメスをふるわせないという点で非科学的であるということができる。

 バルト神学よりも科学的であると思われるものはブルトマンの非神話化論である。彼はそこで2種類の神話を新約聖書の中に見出し得るとした。1つは後期ユダヤ教の終末論であり,もう1つはグノーシスの救済神話である。これらの神話の宇宙論が我々の近代科学や近代的な生活体験と矛盾するのである。したがって彼が非神話化論で行なおうとしたことは,神話の実存論的解釈である。それは宇宙論の中に,それと切りはなせない形で混合している実存論的なものを取りだそうとした。つまり実存論的解釈とは,グノーシスや終末論に代表されるような古代宇宙論の中に含まれている実存論的なものを取りだすことによって,非科学的な古代宇宙論と神学とを,いわば無縁のものたらしめ,両者の関係を絶ったということであろう。

 バルトのように神学が科学(的な聖書研究)を抑圧する道を辿らないで,ブルトマンは一方に,実存を真にいかすような神学を置き,もう一方に,聖書解釈を含めた科学を神学と切断した形で置くことによって,両者の自由を保とうとしたのである。しかし神学が実存を問題にする以上は,どうしても科学と接触せざるをえないのであり,ブルトマンの試みは我々の日常から遊離した抽象となってしまっている。

 ブルトマンと同じように私も神学はおもに実存とのかかわり合いで展開されるものだと考えているが,そうすると特に心理学とのつながりを無視できなくなる。更に心理学を媒介にして,もう一度,世界観や宇宙論を――「我―汝」という神と実存との出会いを中心にしながらも――形成する必要があるのではないかと考えている。ブルトマンが自分の神学から科学を切断したのは抽象的である,と考えるのは勿論私1人ではなく,例えばブルトマンの弟子のドロテー・ゼレもそうである。彼女から見るとブルトマンの実存は宙に浮いてしまっており,社会学的な科学的視野が欠落している。ゼレによると具体的な社会的状況についての科学的認識なしに,実存に対して神への決断を説いても,実存は歴史にただ流されて行くだけのものとなり,歴史を改革しようという情熱などが実存に生まれる訳がないのである。神学は科学から自己を切断してはならないのである。

 実存と社会との関係は勿論重要であるが,原理的に言って,実存にもう少し近い科学の次元に心理学があるので,諸科学と神学との媒介を心理学の中に求める必要があるように私には思えるのである。

 ところで心理学は科学なのだから,これ迄の科学の概念からすれば神話とは無縁の筈であるが,併し,ユングなどを見ると,再び心理学から神話への接近が試みられている。非科学的な神話から脱却した神学が,心理学を媒介として,今度は科学を支えるような神話に至る道が,どうも開かれてきそうなのである。そして,神話は当然のこと世界観的なものを内包しているが故に,ここに新しく神学と世界観とが接触し得るのではないか。

 そのような問題を考えていく上で,文学を取り上げることがどうも役立ちそうである。と言うのは,文学はその性質上,人間の心理を描写するにとどまらず,人間と人間との関係(社会),人間と歴史の流れや自然との関係を物語として展開せざるを得ず,どうしても心理学的次元を抜け出て世界観の中へと入り込むからである。私はその意味でル・グウィンの『ゲド戦記』を取り上げてみたい。その中で著者がどのようにしてユングの心理学をつきぬけて神話に向かっていったかをたどることによって,逆に神学が今後どのような在り方をとるべきなのかを考えてみたい。

 この作品の舞台となるのはアースシーという架空の多島海世界であり,そこにガルガド帝国という全体主義的国家と自由主義連合を形成している島々を設定している。そこにゲドという若者が登場するのだが,このゲドは,ゴンド島という島で育ち,親戚の魔法使いのおばさんから魔法を習ったことになっている。このゴンド島にガルガド帝国が侵入した時に,負け戦さではあったが,ゲドは魔法によって敵を退却させる。ゲドはそれによって評判の魔法使いになり,また自分の魔法に自信過剰となって高慢な若者となる。その後,魔法学校に入り,きちんとした魔法を勉強することになる。その魔法学校に入る時に1つの出来事がおこる。学校の門をあけて入った時に,すぐあとから影が入ってきたのだ。

 この「影との戦い」が物語の第1部になる。ユング心理学を知っている者ならば,この影がユング心理学で言われている「影」,つまり我々の暗い部分であり,我々自身の中の,自分に対してさえ隠しておきたいような部分であることに気付くだろう。ゲドは魔法の修業中,その影に追われて逃げまわるが,やがて決心してそれに立ち向い,打ち勝つのが第1部である。

 第2部「こわれた腕環」において,舞台はガルガド帝国のアチュアンの墓場に移る。表題にある「腕環」の半分をゲドは第1部で光の世界において手に入れていた。第2部では死の世界であるアチュアンの墓場にあるもう半分の腕環を求めて,ゲドは墓場の下の迷宮に入り,それを取りだして帰ってくる。その際に,死の世界に司えていた少女テナーを光の世界へ連れだし,アースシーに平和をもたらす。

 第3部では,アースシーの人々が平和に倦き,世界に災いがおこりはじめる。その災いの源を求めて,今や「大賢者」となったゲドが1人の王子を供にして旅に出る。2人はアースシーのさいはての闇の世界に入りこみ,災いの源であった生の世界と死の世界との間に開いていた扉を閉じて帰ってくる。

 以上がこの物語の簡単な内容紹介であるが,まず興味深い点はゲドという主人公である。このゲドの行動の中には単にユング心理学からの発想のみならず,道教の仙人思想,中世の錬金術からの発想も見られる。実は錬金術はユングが非常に興味を覚えていたものであって,ユング研究家の湯浅泰雄氏は錬金術について次のように述べている。錬金術では,金属を火で溶かしてかきまぜ,最終的に賢者の石を取りだす。錬金術は,4世紀ごろ完成し,その後ヨーロッパではほとんどその足跡を残さずにアラビア方面に流れて,11〜13世紀ごろにローマ・カトリックのヨーロッパ世界に逆輸入された。そして,キリスト教世界と結びつくことによって賢者の石はキリストに変わった。このように錬金術は,当時の神学と妥協して宇宙の根底にあるロゴス,物質の根底にあるロゴスを追求するものとなる。ところでユングは,錬金術師による賢者の石の追求は,実は彼らの魂の遍歴の投影だったと考えた。魂は混沌状態に帰ることによって,そこで死んで,もう1度新しくよみがえるのである。つまり賢者の石は,再生の秘儀の象徴である,とユングは考えた。その錬金術の背景には,大地が母なる神であり,大地の中に真理が宿るという地母信仰がある。そういう信仰の中で物質は神秘的なものとされ,最終的には,その物質の中にキリストが宿っており,彼らの再生の根拠となるのである。

 以上が簡単な錬金術の説明だが,そうすると先に挙げた『ゲド戦記』の第2部の腕環の物語,つまり光の世界にある腕環の半分が,死の世界にあるもう半分の腕環と1つにならなければならないという物語は,錬金術的なものの象徴,混沌に帰り,死を経てこそ再生があるということ,混沌は母なる大地であるという地母信仰をあらわすものと言えよう。

 さて第1部にでてきた影は先に述べたように我々自身の見たくない部分,逃げたい部分であり,それ故にゲドも影に追われることになったのであった。そしてこの影から逃げ続けることになったが,ゲドは師とあおぐ魔法使いの忠告を受けたのを境にして,逆に影を追い始める。そしてついに海の上で影を追いつめるが,そこでゲドは,その影の名がゲドであることを知り,その影を吸収して1つになる。

 これは人間が自分自身の見たくもない部分と和解し,疎外状況から本来の自分に立ち戻るということの象徴であると考えられる。またゲドが影と戦った時に,そこだけ海が陸地に変ったが,影とゲドが1つになった時にはそこがもと通りに海となっていたという物語の場面は,我々に中世の神秘家の無底(我々の存在の深層を探ってもそこには底がないということ)を想い起こさせる。ヤコブ・べ−メにも,こういう底なしの思想がある。ユング心理学のいう集合的無意識も一種の底,しかも底のない底であろう。その底に身を沈めることによってはじめて,自己とその影とが和解できて,真の自己を確立する。この物語はこれを象徴しているようである。

 第2部の2つの腕環が1つになってアースシーに平和が訪れるというのは,光と闇の世界が1つになってはじめて自己が確立するというユングのモチーフの象徴だろう。深層心理にある暗い部分と明るい部分をうまく妥協させていくことによって人間は真に人間的に生きられるというユングの考え方が,その背景にある。

『ゲド戦記』第3部はこれまでの物語とは異なった様相を呈している。そこにこそ私がこの物語を引合に出してきた意図があった。第3部は文学が心理学だけに頼って書けるものではないことの証拠であり,文学はどうしても神学と同じように心理学から,はみださざるをえないということを表現しているからである。

 何者かが開けてしまった,生と死という2つの世界の間にある扉を,なぜゲドは閉めに行かなければならなかったのか。ユング心理学は,集合的無意識まで下がっていって,自分の中で光と闇の両者を和解させようと努める。それは最終的にいわば一元論を目指すものである。ところが,誰かが2つの世界の間の扉を開いたことから,死の世界の力が光の世界,生の世界に入りこんできて,多くの災いが起こるので,それを閉めにゲドが出掛けたということは,心理学を超えて形而上学に物語が向かっていることをさし示すものである。あるいは,形而上学的な神話,宇宙観,世界観に向かっているともいえる。死の世界の侵入を防ぐことは,ユング心理学をこえている。光と闇の両者が調和できないものであることを,それは言い表わしているわけで,そこでは光と闇の二元論が物語られている。個人の内面の心理の奥底を追求しているのであれば,一元論で話をおえてもよいのだが,人と人との関係,社会をどのように形造るべきか,また,歴史のなかからどうして悪がなくならないのか,この悪はとても妥協して善と調和させる訳には行かないものだが,というような事柄を文学は物語らざるを得ないのであって,どうしても心の奥底の一元化論で話を閉じたのでは,言い足りないものが残る。世界や歴史は,宇宙は,善は,悪は,何であるのか。こういう形而上学的な神話で最後のところを語らざるを得ないところが文学にはある。

 第3部でゲドは大賢人として登場する。折しも,腕環がひとつにつながって以来,平和の続いていたアースシーに災いが起こり始める。悪い知らせがゲドの耳にも入ってくる。それはアースシーの人々が永遠にあこがれ,不死を追い求めるようになったというものだった。人々は不死を地上の世界で持とうとし,生きることに倦退感をおぼえはじめていた。

 この不死という言葉で著者があらわそうとしたのは無であろう。(著者には死後の命が,この世の生の喜びを支えるものであるというような宗教的な洞察は見られない。)そしてこの無は,一般のアメリカ人が考えている無,つまり存在に対立する無であり,存在をむしばむ無である。この無が生の世界であるアースシーに入ってきた。光や有の世界に対する全くの無こそ死であり,それは闇の世界である。こういう著者であるから,「よみがえり」を語っても,それは光や有の世界の中でのよみがえりである。人間の身体も死んで物体にかえり,つぎには花や木となってよみがえるのである。

 生と死との間の扉を閉めることによって存在が救われると著者が考えている以上,この無は仏教的な無や空,有と無との区別を越えた絶対無ではないだろう。存在優位の哲学や神学によってつちかわれてきた欧米の人々の側からみると,東洋的な無は,存在をむしばむものとしてのみ見られる。まして,神を無と考えることには大きな抵抗がある。併し,これを単に,キリスト教世界に養われてきた人々の無知蒙昧として片付けることはできないと私は思う。存在優位の現実の見方,存在と無とを対立的にしか考えられない考え方も,長い歴史をもった現実の見方として,無の一元論と同じように尊重されるべきである。

 さて結論に入るが,このように『ゲド戦記』のような児童文学においても,人間の影との融合や,光と闇との調和といった心理学的な一元論では物語が完結せずに,逆にこの光とか闇とかがどこに起源を持つかを考えざるを得なくなっていることに我々は注目すべきである。ここで文学はその物語に,宇宙論や世界観といったものを神話的な形で導入せざるをえない。神学でもそうであって,ブルトマンのように,古代の世界観を非神話化することによって実存論を世界観から区別するところに活路を見出すだけでは,私は神学として不十分であると思う。

 人と人との物語たる文学に似て,神学は人間の孤独な決断を語るばかりでなく,神が愛であり,神が私を愛して下さるということ,しかも神の愛が先行していることを語らなければならない。人間が主体ではなくて神が主体であるのが神学なのであるから。そして,神の側で人間のために何をして下さったのかを語りだすと,どうしてもそこには世界観が必要になる。そしてそこで神学は,深く科学とかかわってくるのである。

 ユングの心理学的な努力は,結果として実存的・存在論的な神学であるティリッヒの神学に似ている。しかし両者のように,いくら自己の存在の奥底を探ったとしても,その底は結局いつも自己と結びついている。自分の底の向こう側から,自分に語りかけるケリュグマがないと,実存は他なるものについては何も語れない。『ゲド戦記』でみてきたように,人間の魂の奥底の問題を扱かうだけでは文学は成立しないが,私は神学もそうだと思っている。1人の人間が他者や宇宙とどのようにかかわるかを語らなければ,神学も文学も成立しない。そこに宇宙論的な神話が再登場してくる必然性がある。

 恐らくこの神話は,現代科学に裏付けられた世界観を内に含むもので,悪の起源についても物語る二元論的な神話となるのではないか,つまり,聖書にある神とサタンの神話を受け継ぐものとなるのではないか,と私は予想しているのである。(本学教授)



入力:黒田良孝
http://www7a.biglobe.ne.jp/~dmd-note/
http://web.archive.org/web/20051219224159/http://blog.livedoor.jp/p-3862657/

2006.06.22

>TOP