野呂芳男「永遠の命について」

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永遠の命について


野呂芳男


     


初出: 『聖書と救会』(7月号)日本基督教団出版局、1986年、20頁




(1)

 現代文化の中で、死の問題が科学と哲学と宗教との接点になりつつあることは、我々が少しでも注意深く新聞や雑誌の記事を見て行く時に、ただちに了解できるところである。まだ議論されている段階であるから、どういう結論が出るかは分からないけれども、人間の死を脳死と同時であると考えている人々の多くは、臓器移植を正当化したいという希望を抱いている。死者の使用可能の臓器を病人の病めるそれと交換することによって、治療するのであるが、この事実は改めて我々に、人間の精神(魂)と身体との関係について考えさせる。まさか今の時代に、他人の心臓を移植されたら自分の人格が変り、自分が自分でない者になってしまうことを恐れる人はいないであろうが、身心医学の発達などを考えると、精神と身体とのかかわりは、きわめて密接不離であるとの感想を我々はもたざるを得ない。そこで多くのキリスト教国では、今も尚土葬の風習があり、死者の身体が復活の時に、そのまま役立つかの如き印象を人々に与えたりしている。実際には、世の終りの復活の時までには、土葬された身体は腐敗し土にかえってしまうのに。

 確かに近代科学は、人間の精神と身体との密接不離を我々に実証してみせてくれたのであり、それを土台にして我々の生存は死によって一切が終るものであって、永遠の命などというものは存在しないと信じる人々が多くなってしまった。こういう人々から見れば、殆どの宗教が何らかの形で教えている永遠の命は、死を恐れる人々が生み出した慰めにすぎない。ハインリヒ・オットが『信仰の書』(496頁) の中で批判する人々の言葉として紹介しているところによると、これは 願望思考 (Wüunschdenken)であり自己欺瞞であるということになる。

 我々の周囲にもキリスト者であって、しかも永遠の命を信じずに、死で一切が終わると信じ、キリストを信じることは、この世の生を十分に生き抜くためのものであると考えている真面目な人々が増えている。こういう人々にとっては、死後の命への信仰はキリスト教信仰にとって、どうしても必要なものとは思えなくなっているのである。ところがやはり、死後の命への信仰はキリスト教信仰にとって本質的に重要なものである、と考える人々も相変わらずに多い。私もその一人であるが、そういう人々にとっては、死で一切が終りであるとすることは、結局どれ程に豊かな生をこの世で送っていても、それがそのまま無意味でむなしいのであり、永遠の命は人間の願望思考であるかもしれないけれども、人間は そういう願望をもたずにいられないような存在 なのである。人間がそのように造られている以上は、それを率直に肯定して思考することのほうが正しい思考なのである。ハインリヒ・オットも大体そのように考えている。

 ところで、死後の命を考える場合に、西欧の思想史の中には二つの流れがあったように思う。一つはプラトン哲学などに見られるギリシア思想の考え方であるが、これによると人間の魂は元来身体とは全く異質のものであり、あとから身体の中に閉じこめられたものである。その証拠に、人間の生は多様な展開を示すものだが、それぞれ違ったその展開の様相にもかかわらず、それらの様相を貫いて、私は私であるという自己(魂)の同一性はなくならない。この事実から考えて、死という身体が役立たなくなる状況を迎えても、魂は同一性を失うことなく不死であろう、という訳である。これがいわゆる霊魂不滅論であって、今日の神学界では、これはキリスト教の考え方とは違うと通常見なされているけれども、併し、初代教会においては、キリスト者も多くこれを受け入れたのであり、教父オリゲネスの如きはその『諸原理について』の中で、聖書の復活物語をこの立場で解釈している。

 今日の多くの神学者は、ギリシア思想と違って聖書の復活の教えは霊魂不滅の思想ではなく、人間存在は死によって全く根絶されるけれども、その無から再び神に呼び出されて復活する、と主張している。併し、こういう考え方が本当に 聖書的である かどうかは疑問であろう。何が本当に聖書的なのか、は、聖書解釈の問題とからんでしまい、答えを出すのが甚だ難しい。復活物語は神話の一つであろうが、それをそのまま文字通りに受け取って行くと、いつ我々は復活するのか、一人一人が死んで、個々別々にすぐそのあとか、それとも皆が、世の終りまで待たされるのか、もしそうなら、その間の自己は無のままなのか、など、あまりにも問題が多い。むしろオリゲネスのように、ギリシアの叡知である霊魂不死の思想を貰ってきてキリスト教の復活神話に接木することのほうが、かえって復活神話のもつ精髄をいかすことになり、身体を冷たい科学のメスにゆだねることへの了承ともつながって、今日の科学文化の中で我々を真に生かすものともなるのではないか。勿論この世に生きる限り、魂と身体は密接不離で、魂は身体の影響にいつもさらされているのではあるが、身体にすべてを委ねてしまっている訳ではない。





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(2)

 聖書の復活神話をそのまま文字通りに信じることには、さまざまな困難が伴うことを既に述べたが、復活は現在どのように神学者たちによって解説されているのであろうか。これは「終末論をめぐって」という前の拙論と深くかかわるところであって、ここではルドルフ・ブルトマンの非神話化論を中心に据えて考えて行くことにしたい。

 「終末論をめぐって」の中で既に見てきたように、未来のいつの日にか来る世の終りの描写は、黙示文学かグノーシスの神話に属し、ブルトマンにとっては非神話化されねばならないものである。非神話化という手続きを取ったあと、世の終りの意味は、我々個々人の死となり、我々はそれに対して今ここで、どのような態度をとるべきかの決断を迫られる。死は単に我々の生涯の終りに訪れる出来事であるにとどまらない。死によって一切が終り、我々の生が初めから無意味なものであるならば、無意味な生は生きるに値しないであろうから、我々の生は今ここで、退廃する。ところが、死も神の愛から我々を離し得ないものであるならば、我々の生の一切が神の御手のうちにあることとなり、今ここでの我々の生の歩みは、その神の愛への応答となる。従って、世の終りに我々が復活するという物語は神話であるから、文字通りに信じる必要のないものであるが、自分の力に頼ったり、自分が頼れるものを周囲の事物に求めて生きるような姿勢をことごとく十字架にかけ、日々見えざる神の愛に我々の全存在を賭けて生きる時に、いつも今ここで我々は真の我々自身のあるべき道を歩むこととなる。つまり復活するのである。自分の力とか周囲の事物とかは、既に出来上っている過去的なものだが、これに頼らずに、今迫りつつある新しい状況、遠い未来ではなく、今迫りつつある将来へ、それを神からの贈物と見なしてキリストにおいて決断することが復活なのであるから、ブルトマンの思索においては、現在は過去からの時間の流れが流入し、また、将来からの呼びかけ、つまり将来からの時間の流れも流入するところとなる。

 ブルトマンの非神話化論による聖書解釈を土台として思索しているゲアハルト・エーベリンク(Gerhard Ebeling) の復活理解も殆どブルトマンのそれと変わらない。エーベリンクにとっても、終末は遠い未来の出来事の描写ではなく、我々が現在どのような生き方をするのかの問題なのである。つまり、終末とは時間と永遠との境界の問題なのであるが、永遠は今ここで時間と対決している。時間の流れは我々を死に向かって押し流し、我々の全存在に対して全能の支配者であるかのようであるが、併し、死の力に対するイエスの勝利を告げる神の言葉によって、我々は時間が全能でなく、神こそが時間の支配者であることを知るのである。即ち、世の終りにおける復活の物語は、これからどうなるかを告げるものではなく、今ここでどのようにしたら正しく未来を築いて行けるかの問題なのである。個人の死後や人類の未来について伝統的にある程度明確に教えてきたローマ・カトリック教会の神学者たちの場合には、上述した二人のプロテスタントの神学者たちとは違ったニュアンスの発言が見られる。例えばカール・ラーナー(Karl Rahner) には、個人や人類の未来がどうなるかという世界観的なものと、個人の今ここでの永遠との出会いという実存的なものとを関連づけようとする思索が見られる。世の終りの事実は時間を越えている事柄なのであるから、我々には隠されているものではあるが、そこでは今の我々の人間性の成就が与えられる。そうであるならば、隠されているとは言っても、世の終りはその点で既に今の我々にとっても秘密ではない。ラーナーによれば、歴史的存在が今を十分に生きるためには、過去を知り未来を知ることが必要なのである。
 



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(3)

 ブルトマンがその実存論的解釈(非神話化論)の手続きを経て、復活の出来事を、我々が自分の力で確認できるものに頼って生きることをやめて、我々の全存在を支える見えない神にゆだねる今の我々の決断により、あるべき自分の姿に今生き始めている状態として理解したときに、その理解はあまりにも主観的であって、復活が日々の出来事、時間内の出来事となり、死によって結局のところ我々の存在は無となってしまう。つまり、こういう復活理解は死で一切が終わるという虚無主義ではないか、と考える人々も多いかと思うが、これは誤解である。ブルトマンの立場においても、死という出来事も含めて、それを越えて尚も我々を支えてくれる神の愛の支えを信じているのであり、彼にとっても信仰は、神と人との交わりが死後も続くことを含んでいる。

 併し、本来実存論はそういう抽象とは無縁のはずであるけれども、ブルトマンの場合には、実存が周囲の状況や歴史の動向の具体相から切り離されて、それらとの相互影響なしの単独存在として理解されている。実際には我々一人一人、社会の動きに反応しながら神の意思を行おうとしているのであるが。ブルトマンにおいては社会的視野が欠落している。非神話化されたあとの復活、日々の行としての復活も、社会の諸問題と取り組みながらの行でなければならない。そうであれば、社会をどの方向に動かして行くのが正しいのか、歴史の目標は何か、という世界観的な問題が再び問われねばならなくなる。そうすると、世の終りの神のさばきや神の国の到来という聖書神話の実存的な意味が重要なものとなってくる。これらの神話的象徴は、我々が できる限り 、今我々の生きている歴史をその目標(倫理的基準)に近いところまで引き上げねばならない、そういう基準を意味するものとなるであろう。つまり、その神話の意味するものは、歴史の終りではなく、歴史を越えた永遠の倫理基準なのであり、その意味するものは、徐々に歴史が進歩して神の国となるとか、革命などによって突然神の国が実現するとか、ではないであろう。つまり、パネンベルクやモルトマンの希望の神学やシャルダンの思想は受け入れ難いのである。

 既に述べたように聖書の復活神話は多様であって、一つにまとめて筋の一貫したものとすることが難しい。我々の復活は個々別々に死後ただちに起こるのか、それとも、世の終りまで皆が待たされるのか、もしそうならそれ迄の間どのような状態で我々は待つのか。また、個々が死後ただちに復活して、しかも世の終りのさばきを待つとしたら、復活したあとも救いが確かでなく、滅びへの恐怖を抱きながら世の終りを待たねばならなくなる。

 霊魂不滅のギリシア思想は、神との関係なしに自然的に霊魂が不死であることを主張するので、キリスト教信仰としては受け入れ難いとよく言われるが、それならば、神が霊魂を不滅のものとして造られたと考えればよい訳だし、死後裸の霊魂となると考える必要もない。パウロが言っているように朽ちない栄光の身体、霊の身体で我々は死後直ちによみがえるのである。朽ちる身体の死と共に我々の精神も無となり、その無からまた、神が無からの天地創造を思わせるような仕方で、 いつの日にか 我々を別の身体をもつものとして甦えらせて下さると考えるよりも、同じ霊魂が死後直ちに朽ちぬ身体を与えられると考えるほうが、 自己の一貫性 をよりよく象徴できるのではないか。

 とにかく我々が今述べていることは、おぼろげにしか元来が理解できない事柄に属する。併し明確に言えることは、神と人間との関係が死によっても、少しも断絶しないということであり、ハインリヒ・オットも言うように、死によって中断されたものが甦りで再開することではない。勿論、キリスト教の場合には、永遠の命と言っても、神の支えがなければたちまち虚無に飲み込まれてしまうのであって、その意味では、いつも無の深淵の上に吊り下げられている。虚無に飲み込まれることがないと我々が信じるのは、神がイエス・キリストにおいて我々を救って下さると約束されているからであり、それ以外に根拠はない。


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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/

2002.9.11





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