野呂芳男「神学における発想の転換」1990
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神学における発想の転換 ――開け行く宇宙に促されて
野呂芳男
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初出:『聖書と教会』1990年1月号、14−19頁 。
(1)
読者の多くが私と同じように、米国の惑星探査機「ボイジャー2号」が1989年8月24日に、海王星に再接近した時の映像を、テレビにくぎ付けになって見守ったのではないか。四個の外惑星が大体一列に並ぶ175年に一度の機会をとらえて、1977年8月に打ち上げられた2号は、木星、土星、天王星と立ち寄り、12年たって海王星のところまで来たのである。光は1秒間に30万キロ(地球を7周半する距離)進む。そうすると、海王星の近くにいるボイジャー2号の発する信号が地球に届くのに4時間6分かかり、太陽の光が地球に届くのに8分ほどかかるのだから、両者の時間を足して、それに見合う距離を出せば、我々の住む太陽系宇宙が長円形であることを踏まえながらも、その大きさが大変なものであることが分る。そして、太陽系宇宙は一つの銀河の端の近くにある星の小さい群であるにすぎない。この銀河は一つのうずのように、2億5000万年に一回のわりで回転しているが、宇宙には1000億個ほどの銀河があり、一つ一つの銀河には平均1000億個ほどの星がある。更に、同じ数ほどの惑星があるので、合計すると100億の1兆倍ほどの星があることとなる。
以上のデータは、良く読まれているカール・セーガン博士の『コスモス』からの僅かな抜き書きにすぎないが、こんなデータからでも、カール・セーガンが「このような巨大な数を考えると、ありきたりの星の一つにすぎない太陽だけが、人の住む惑星を従えているとは、とても思えない。・・・宇宙には生命があふれているとみるほうが妥当な」(朝日新聞社刊、上巻、13頁)のだと言う時に、我々にはこれに反論することが非常に難しい。勿論、これに反対する人々もおり、人間原理に立った新天体論者ブランドン・カーターは、宇宙に存在するほとんどの惑星は生命をもたない、と予言したとのことであるが、「ほとんど・・・ない」を宇宙の星の数に掛けて考えると、実に沢山の惑星が生命をもっていることになる。
いずれにしろ、こういうことの真偽は、気の遠くなるような遠い未来においてしか判明しないであろうが、現在までに分ってきている宇宙に関するデータが、我々のキリスト教神学に及ぼす影響はどのようなものであろうか。
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(2)
まず、人間論に対するその影響から考察することとしよう。旧約聖書創世記にある天地創造の物語によると、創造過程の二日目に神は大空を造り、三日目に地と海とを造り、四日目に太陽と月とを造って、「それらを天の大空に置いて、地を照らさせ」(1:17)、五日目に生き物を、六日目にご自分をかたどって人間を造った。人間は被造物のうちで最も価値のある存在であり、その人間の生活する地を照らすために太陽も月も造られたのである。これは人間中心の宇宙観、従って人間の住む大地中心の宇宙観であると言わざるを得ないものであるが、このような大地のために天空の星がめぐるという考えは、基本的には新約聖書によっても、また続くキリスト教の諸時代によっても受け継がれたものであった。今日の広大な宇宙から見れば全く小さい宇宙ではあったが、これらの時代の教会の人々は、神によって特別に造られた自分たちが、その宇宙の最も価値ある存在であると思い、宇宙は自分たちのために存在するものと信じてきたのである。ここでは、自分たちは価値ある存在であるという主体的な事柄、存在の事柄が、人間の住む大地が宇宙の中心であるという主観的な事柄、目で見て確かめ得る――と実は信じこんでいただけなのだが――事柄に支えられていたのである。
従って、中世の教会が、二世紀のエジプトの天文学者クラウディウス・プトレマイオスの天動説を採用したのは、少しも不思議ではない。彼によると不動の地球が宇宙の中心であり、太陽はそれ自体の天球に乗って地球の周りをめぐる。天球はガラスのように透き通ったもので、他の恒星や月も、水星、金星、火星、木星、土星も、それぞれの天球をもち、それらの天球が相互に距離を置いて地球の周りに八つの層を形成しているのである。
地動説は、既に紀元前3世紀にギリシアのサモス島の天文学者アリスタルコスによって主張されていた。彼は宇宙の中心を太陽であるとし、その周囲を地球と惑星が回っているとしたのであるが、このような考えは中世の教会によって異端とされ、16世紀にこれに賛成したニコラス・コペルニクスの説を、深い感動をもって自分の信念とし、それを説いてまわった修道士ジョルダーノ・ブルーノは、1600年に教会によって火あぶりの刑で殺されている。同じように、地動説を信奉したガリレオ・ガリレイも宗教裁判にかけられ、沈黙を余儀なくされた。
何故に教会はこれ程までに地動説を恐れたのか。それは、地動説が人間を宇宙の中心から追い出して、人間の価値観に対する客観的な支柱を取り去ってしまうと考えられたからである。神の好意によって特別に宇宙の中心に据えられた人間が、他の被造物と同じように、その価値をだんだん低められて、ありふれた存在になってしまうことを恐れたのである。
地動説を、人間をありふれた存在に変える第一の衝撃とするならば、教会史上における第二の衝撃はダーウィンの進化論であった、と言える。ダーウィンの『種の起源』の出版は1859年であったが、それ以前にも、例えばヘーゲル哲学において、社会の種々の組織や慣習、また人々の信仰などが、歴史の中で長い期間をかけて今日の狂態に成長してきたものであり、また今の状態に静止することなく、徐々にではあっても新しい形に移り変わって行くものであること、つまり進化するものであることは認められていた。更に自然淘汰という考えも、ダーウィンの発明であるとは言えないようであるが、併しダーウィンの進化論の貢献は、有機体の進化や自然淘汰を、経験的に実証できる仮説として提示したところにある。つまり、仮説による予想が、後の調査によって確認されるようなものとして示されたのである。
ダーウィンの進化論の構成は、「生存競争」「適者生存」「遺伝」「変異」というような概念により理解される。生物は、その環境が許容する以上に多数産出されるが故に、生存し続けるためには互いに競争しなくてはならず、環境に自己を適応させ得たものたちは子孫をもうけて繁殖できるのであるが、そうでないものたちは滅んで行く。弱肉強食の理である。その折に、よりよく環境に適応できるように生物の器官が変化したり、新しい器官が現れたりすることがあるが、そういう変異は遺伝子によって子孫に伝えられ、代が重なるにつれて変異は累積することとなる。やがて数世代のあとには、親と全く違う、新しい種が誕生することもあり得るのである。ダーウィンによると、人類の誕生もこれらの要因の相互作用によるものなのだが、今日の進化論は無機物から人類に至る進化を、なだらかに上昇する一つの直線のようには考えておらず、無機物から生命ある存在への変異を創発的なもの、即ち、それまでの要素からは予期できないような全く新しい要素の再編成が起こり、新しいものが存在するに至ったものとする。そして生命ある存在より意識ある心をもつ生物への変異も、創発的である。
やがて進化論は地質学・天文学・社会学・心理学などに応用されて多大の成果をもたらしたのであるが、我々にとって今の関心は、生物進化論が神学に対してどのような影を落とすか、にある。第一に、神の特別なはからいによって、神の像にかたどって造られたという特権的な人間の位置が揺らいだのである。人間の誕生にはそのような神による創造を想定する必要はなく、むしろそれは、自然の苛酷な諸法則の下に展開された弱肉強食の現実によって、「血みどろの歯とつめ」の自然によって、説明されねばならないのである。苦しがる蛙を今飲みこんでいる、あの大きな蛇と、我々は言わば血筋がつながっているのである。このような仕方で神が人類をこの地球上に誕生させねばならなかったとすれば、神の摂理とは一体何なのか。全知・全能の創造者のなさる事が、こんな道徳的に程度の低い、(強いもの勝ちであって)他者のために自分の命も棄てる愛など何処にも見られない様相を呈していてよいのだろうか。
このように、人間の価値観に対してなされた進化論の衝撃は、共食いしているかまきりと我々とが、生物学的には、俗に言う血のつながりにあることを自覚させて、我々の価値感の喪失を誘う。もしも我々が価値感の喪失をまぬかれようと思うならば、生物学や天文学のような実証できるものに頼って自分の価値感を築くことを止めなければならないであろう。この点についてはあとで述べることとするが、キリスト教史上、今の我々は開け行く宇宙、カール・セーガンの説明しているような宇宙の実相の知識の増大によって、第三の衝撃にさらされているのである。
仮にセーガンの言う通りではなく、全宇宙の何処にも、地球以外に人間のように高度な知的生物は存在しないとしよう。この事実を知ることは恐らく我々に不可能であろうが、仮に知り得るとしても、それは遠い未来の事柄であろう。そうすると、それ迄は我々は、相変らずそういう生物の存在を想定しない訳には行かない。存在するかも知れないという不安は、心理的に言って人間の価値感に関する限り、存在している事と同じ効果があるのである。そして、他に知的生物が存在しないと実証されたとしても、長い長い宇宙時間の中で繰り返される星々の誕生と死滅のドラマは、その中の一瞬の生存でしかない人類史から見ると、何の意味があるのか、という疑問が我々を苦しめるであろうし、この広大な宇宙時間のドラマを全能の神がもしも一瞬の人類史のために演ずるとするのは、およそ無意味であって理解しがたいが故に、我々の価値感が揺さぶられる事には変りがない。第三の衝撃は和らがないのである。
これ迄に述べてきたキリスト教史上の三つの衝撃を和らげるためには、否、克服するためには、私には我々の発想の転換がいろいろの面で必要であるように思える。先ず人間の価値観を、実証できる科学に置かない必要がある。客観的に実証できる仕方で、例えば人間の住む地球は宇宙の中心であるというような仕方で、人間の位置の重要性を確証し、そこに価値感を基礎付けることを止めなければならない。人間は宇宙の中心にはいないし、共食いするかまきりと血筋が同じであり、宇宙の他のところにも同じような、または我々以上に知的な生物が存在していて一向に差し支えないのである。我々は、自分が客観的にすぐれた存在であることを実証したり、感じたりする行為によって神に愛されるのではない。「信仰による義認」に生きるプロテスタントである我々は、ありふれた自分、何も愛して貰えるようなものを持たない自分、自分が価値があるとはどうしても思えない自分が、それにも拘わらず神に愛されていることを信じるのである。我々の価値は、我々の側の客観的状況に依存せずに、神が愛して下さるという、目に見えない、実証できない事実に依拠している。地球上の、あるいは他の星に住む、他の生物と、我々が自分たちを比較して作り出すエリート意識は投げ棄てられねばならない。そうすれば、他の生物との、否、全宇宙との好ましい一体感が生まれてきて、血筋の通じているかまきりが、共食いしなければ生存し得ない事情に、生存のための我々自身の悲しみをかよわせることができるようになる。
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(三)
以上で、開け行く宇宙が人間論に与える影響についての論述をひとまず終えることとし、それがキリスト論に与える影響について述べてみよう。
仮に未来の天文学が何らかの手段によって、はるかかなたの星に知的生物の存在を確認したとしよう。その時に、教会はどうしたらよいのであろうか。ある人々の反応は、そこまで宣教に出かけようということであるかもしれない。だが、一つの大きな宇宙船を造って宣教師の数家族が乗り込んだとしても、何万光年にもわたる旅の間の食料はどうするのであろうか。また、何世代もの間、宇宙船の中で生き続けたとしても、向こうの星に着いた時に、それら数家族の子孫たちに果してキリスト者がいるのだろうか。他の星にキリストを宜べ伝えに出かけることは不可能なのである。そうすると、イエスがキリスト(救い主)であることの有効性は、この地球人類に限定される、と言わざるを得ない。他の星の知的生物のためには、神はまた別の神の言葉を送っているのであろう。その神の言葉は神のロゴス(み子)の受肉ではあろうが、それがイエスのような一人の知的生物への受肉であるか、山や川や木などの自然物への受肉であるか、誰かの霊感への受肉であるか、今の我々には知る由もない。
それに、どこかの星の知的生物と交流することが我々に可能となったところで、彼らの文化と我々の文化との違いが、彼らにキリスト教を信じることを難しくさせるかもしれない。私はここ十年程、エルンスト・トレルチやパウル・ティリッヒが主張していたように、宗教は文化の核であり、一つの宗教は解(ほど)き難くその文化圏と結びついているものであると考えるようになった。同じ仏教であっても、インド・中国・日本では全く違った宗教のようであるし、日本でキリスト者はいつまでたっても人口の一パーセント内である。我々キリスト者は日本文化の周辺で、西欧文化が浸透してきているところに存在しているに過ぎないようだ。仏教が日本に入ってきて土着するためには、日本の風土を取りこみ、仏教を一挙にまるごとでなく、少しずつ、しかも変容しながら咀嚼して貰ったのだ。キリスト教も、恐らくそういう形でしか受容されないであろうと思うようになったのだが、もしもキリスト教がそういう仕方で咀嚼されてもよいとするならば、そのことは何らかの形で、日本文化の核をなしているものにロゴスの受肉を認めることになるであろう。日本文化を根こそぎにするような、キリスト教による帝国主義的侵略はするべきではないし、することは不可能である。
それはさておき、他の星の知的生物への宣教には、地球の異なった文化圏への宣教よりも、はるかに大きな困難が伴うことは、もはやこれ以上述べる必要はないであろう。
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(四)
神観への影響も大きい。宇宙が知的生物にあふれていて、我々がごくありふれた存在であり、自然の一産物にすぎないものであっても、そのことは我々の信仰を壊すものではないこと、発想を転換して神の愛に価値観を据えればよいことは前述したが、我々もその一産物にすぎないこの広大な宇宙に賛嘆の声をあげ、(共食いするかまきりを含む)精妙な自然との一体感に酔うことは、信仰を深めこそすれ、妨げにはならない。ボイジャー2号の成功は、地球上に通用する科学的法則が海王星の付近でも、否、全宇宙にわたって通用するという信仰によって支えられていた。その信仰が実際に確証された訳であるが、科学ではいつも信仰のあとを実証が追うのであって、その点では神を信じることのあとを信仰体験が追うのと変らない。人間はそのようにしか生きられない(未来へ賭ける)存在なのである。
拡大されて行く宇宙空間によって、ひげの濃い老翁の如き、宇宙空間のどこか一定の場所に住む神はとうの昔に消え失せた。今日我々が信じる神は目に見えない、霊的存在であることは当然であろう。ある人々は、存在するものはことごとく相対的なもので絶対ではないという理由から、神をたとえ霊的なものであっても存在とは言わない。そしてむしろ、宇宙のあらゆるものを根底づけるもの(無とか絶対無とか存在の根底とか)とするが、私は矢張りこういう神はイエス・キリストの父なる神、聖書の啓示する神とは通うと思う。パスカルの真似ではないが、それは哲学者の神ではあっても聖書の神ではない。存在するすべてを根底づけるもの、弱肉強食の生物世界の土台をなすもの、共食いかまきりをそのように存在させるものが神であり、宇宙空間の星々をブラックホールの中に消滅させる無駄を平気で展開するのが神であるなら、私はむしろ正直にニヒリストとして生きたい。こういうものは、どうしても新約聖書の告げる愛の神とは異なる。何故に我々は、神が相対的であると言われることを恐れて、表面は愛で、裏では被造物を勝手に抹殺する残忍な絶対を神と呼ばねばならないのか。
愛の想像的な創造性こそが神であろう。想像的と言うのは、この愛が少なくとも人間の愛のように人格的で、愛を行使する時の状況に応じて、最適の方途を想像のうちに組み立て、実行するという意味である。丁度人間が自分を囲む状況をどのようにしたら乗り越えられるかを想像能力を駆使して模索するように。創造性とは、愛の実現のために絶えず新しい工夫で局面を打開し、神と被造物との愛の共同体を、この宇宙空間の可能な場に造りあげて行く神の力である。神が全知・全能であると言っても、それは愛の想像の駆使を可能にする程度に、すべてにわたって知っていること、愛の創造性を貫徹するのには十分の力をもっているということであり、何でも知っているし、何でもできる、という意味ではない。神にとっては石を上に落とすことができるとか、二と三を足したら八になるとかはノンセンスである。従って、そういう意味では神にもできないことがある。生物進化を経なければ人間を地球上に誕生させることができなかったし、進化の途上で残酷な弱肉強食の事実に妥協しなければ、神が想像のうちに夢見た人間の創造を実現できなかったのである。聖書が悪魔神話の形で我々に教えてくれているように、宇宙には神の働きを妨げる破壊の力も働いているのである。今日の言葉で言えば、不条理が不気味にも神の働きとせめぎあっているのである。宇宙空間に共通している科学的法則とは、神の愛の働きと、不条理の気持ちの悪い狡知との(神の側から言って)止むを得ない妥協の産物である。
宇宙空間の中で、あるいはそれを越えた所に、知的生物と共に愛の共同体を創造しようという夢を神は決して諦めない。環境の不条理や、人間の心に巣くう不条理から人間によって裏切られても、神の愛は暴力を使わず、強制せずにいつまでも待つ。人間の魂は永遠に生きることになっているのであるから。不条理を克服し、逆にそれを利用できるところでは利用し、克服できなければ迂回して、神はどうしても人間との愛の交わりを実現する。その実現の確かさは、神のなんでもできる全能の中にはなく、聖書がそういう風になると物語ってくれているところに、物語への信仰にある。
信じた上で、これが真理であるかどうかを実験し実証するのである。その信仰に立てば、不条理にも拘わらず自分という実存が、どうやら自分らしく生きる勇気を与えられ、また、生きられるということを。
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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/
2004.2.16