野呂芳男「万霊節にあたって」
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説教
万霊節にあたって
野呂芳男
2002年8月3日 於 ユーカリスティア
※ このメッセージはは、キリスト教会ユーカリスティアの礼拝説教のために入院中の病院で録音された内容を、林牧師がテープからおこして下さったものです。
聖書: 「サムエル記上」28章1-25節
テキストは、武将でもあった国王サウルが、かつての大先輩、預言者サムエルの霊を訪ねていくという場面であります。ご存じのように旧約聖書では、人間が死んだ後どこに行くのかということがあまり明瞭ではありませんし、それに関する記事も少ないのです。しかしサウルがサムエルの霊を訪ねていくこの場面は、その代表的なものであります。私は今、皆さんに、このような死後の命という問題と、死んで生き続けていることが、どういうことなのかということを、今の私たちの状況との関係でお話してみたいと思っております。と申しますのは、今、日本はお盆であります。京都の古い習慣などによりますと、家の者が近くの山に死者を迎えに行って、お招きして自分の家に連れて帰り、お盆が終わるとまたその死者を背負って、山の上に帰っていただくという風習があります。日本人が持っている、このような死者との交わりという思想を、どのようにキリスト教は考えていくべきなのか、それについてしばしば私は構想を重ねて今日に至りました。そしてそれに関して書こうとして参りましたが、とうとうそのような機会が、これまではありませんでした。
さて、私は最近よく転ぶようになりました。明るいところから、しばらくの間暗いところにいて、また明るいところに出て参りますと、まるでユトリロの白い壁が私を包んでいるような感じの風景しか目に映らなくなることが、しばしばありました。しかし、そんなことは大したことではないと思っていたのです。しかし恐らく私の体全体は、転んでしまうような、栄養的にも、気分的にも辛い時期にあったのだと私は想像します。そして、7月24日、私は見事に転びました。救急車に連れられて、この病院の中で今、治療を受けています。そして私が転んだときに、驚くべき体験をしました。
今の若い人々は私たちの時代と違って、人々にかなり無関心な生活を送っていらっしゃるのではないかと、私はいつも思っていました。ところが、私が転んで、道路上に腰をぶつけて、そして立ち上がろうとしても立ち上がれない、あがきの姿を見たときに、7、8人、あるいは10人を越えていたかもしれませんが、男の方が3分の1位、あとは女の方が「どうしました、立てますか」「大丈夫ですか」「荷物を揃えろよ」「とにかくあなたはこれじゃ動けないでしょう。あそこの、腰掛けに当たる階段のところまで担いでいってあげますよ」と言って、2人の男の若者が、私の両脇に肩を入れて、担いで階段のところまで行こうとしたのです。けれども、それは不可能でした。私にはもの凄い苦痛だったのです。ところが、私が小田急のデパートの買い物袋を持っていたことに気づいた誰かが、小田急の人を呼んできました。そして、小田急の人に交渉して、救急車を呼んでくれとおっしゃっているのが耳に入りました。私は前から、人前に自分の転んだ姿など晒すのは大嫌いでしたけれども、今は、こういう人々は温かい人々なのだ、自分の不様な姿をさらけ出してもいいんだ、こういう人々と一緒に、まだ生きられるんだ、というような思いを持ったのです。そして驚くべきことに、小田急の人々が救急車を呼んでくれるまで、いや、私には見えなかったけれども、感じとしては、救急車が傍に来るまで、私の肩に肩を入れてくれた若者2人は、それが実行されるのをじっと見守っていて、やがて去っていったようです。私はびっくりしました。これほどに、この付近の人々は温かいんだ、いや、人間にはその温かさが、まだあるんだ、なぜだろう、そういう思いに駆られたのです。
我々人間にとって、一番身近な存在は、両親であり、家族であり、兄弟であり、また親戚であり、家の死んでいった人々です。そして私は、そこにこういうことを感じ取ったのです。長い間、死のことを考えてきたせいかもしれません。ロゴスが神様から遣わされて、この世の中に下りてきて、不条理と闘いながら(人間の心の中の不条理とも闘いながら)、ロゴスが闘っているのは、何もキリストの時代だけではないのです。今でもそうなのです。だから、あの私が転んだ場面というのは、ロゴスが不条理を押さえつけて、そこまでギリギリいっぱい来ているということだったのです。それを応用して考えますと、死んだ人々が私たちに対して持つ感情も、ロゴスによって支配されているとしか思えないのです。
私は、死んだ人々が祟るということを考えたことがありません。祟りというのは、不条理が勝っていることです。神と不条理との闘いの中で、神は人間に祟りを起こさせない程に見事に不条理をセーブしながら、できる限り人間を、死んだ人々によって守らせているのです。死者からの祟りなど、キリストを信じる者にはあり得ないのです。こう考えるのが、本当の「死後の命」の考え方だと、私は思います。ですからお盆などを、あまり軽く考えない方がいい。事実のところ、アイルランドでは万霊節といって、カトリック教会が死んだ人々の霊を慰めます。そして万霊節には随分と騒ぎもします。けれどもそういうことではなくて、万霊節の本当の意味は、皆さんの身近に死んでいる人々を心の中で改めて想い、キリストによってまだ救われてない人々だったら、救ってあげようとするところにあります。その死者のために、お祈りしてあげて下さい。そして、そのように死者と語ることを決して恥ずかしいことと思わず、大切なことだと思うようにしてください。以上のようにして、神とロゴスと死者と、そして悪霊だとかその他の不条理との闘いを考えてみて下さい。これが、本当のキリスト教が日本に土着する、ひとつの道になるかもしれないのです。
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