野呂芳男書評「ティリッヒ『芸術と建築について』」1998 Home > Archive / biblio
<書評>
『芸術と建築について』P・ティリッヒ、前川道朗訳
野呂芳男
初出:書評『本のひろば』1998年3月 ISSN 0286-7001
訳者は建築学を専門とするプロテスタントである。ティリッヒの神学が、きわめて重要な建築学に対する貢献をなし得ると感じ、この書物を訳されたようである。この書物は、ティリッヒの愛弟子の一人とも言えるジョン・ディレンバーガー教授と、その夫人ジェインさんとの共同編集によるが、私は一九八七年にこの書物が出版されてから暫くして読み、この書物の持つ現代神学における重要性、また、その内容の面白さに圧倒されたのであった。今回この書物が(若干の論文を除いて)翻訳され、日本語で読めるようになったことを、とても喜んでいる。これは私一人ではないのではないか。翻訳者が神学者でないのも面白い。ティリッヒの神学思想は根源的に芸術的なものであって、彼の芸術的体験と神学の構築は同じ体験なのだから、建築の専門家が訳しても少しも不思議ではない。それに、彼は幼い時に建築家になることにあこがれていたのであるから尚更である。彼自身、自分の神学思想は概念による建築だと言っている。
ティリッヒにとって、芸術体験がそのまま宗教的体験であったことを知るのは容易である。この書物でも彼自身が書いているが、従軍牧師として第一次世界大戦に参加したティリッヒは、戦争の恐怖と醜悪さから自分の人間性を守る手段として、安物の複製画を集めて、塹壕の中で折りあるごとにそれらを見ていた。そのうちの一枚であるボッティチェッリの「聖母子と歌う天使たち」がティリッヒをひきつけたので、休暇の折、彼はベルリンのカイザー・フリードリッヒ美術館を訪ね、その絵の前に立った。そこで彼は、――彼自身の言葉によると――「啓示が私に開示された」(五六頁)のであった。この文章で「啓示的脱自」と書かれている宗教的事がらが、一つの絵画の前で起こっていることを見れば、彼に我を忘れさせる啓示が神学的なものでありつつ、同時に芸術的なものであったことは明白である。第一次世界大戦の終結後に、彼は友人に助けられて二〇世紀の芸術運動である表現主義を理解し、それに強く影響されるようになる。ティリッヒは表現主義という一つの芸術運動の根源にあるものを、「表現的なもの」と言い換え、どの時代にも通用する概念として用い始める。私たちの生の一番深いところ、人は何故に生きるのかという問いを発しない訳には行かない深層が、日常の生活である表層を突き破って出てくることが真の芸術であり、また、宗教であるとするのである。深層が表層を突き破るこの「突破」は、表層に安住している日常性の破壊を示す。この「突破」こそが宗教的啓示であり、芸術における「表現的なもの」を私たちに体験させるのである。このように考えるティリッヒが、制度を持ち、特定の神や神々を礼拝する個々の宗教を狭義の宗教とし、それらの宗教の深層、すなわち広義の宗教こそが真の宗教であると主張するのもうなずける。そうすると、個々の宗教が持つ個性的なものは、また、史的イエスに固着するキリスト教は教義の宗教となる。これで良いのだろうか。
同じ疑問がティリッヒの教会建築に関する考えに対しても提出されるだろう。一九〇〇年前後に見られた美化的自然主義の氾濫した教会建物に嫌気がさした彼は、「聖なる空虚」を勧める。それは今の私たちの心に嘘をつかない象徴的事物が生れてくるまで、教会建物の内部を空虚にしたままで待とういうことと共に、真の神は一切の存在事物を超越していることを証するためである。だが教会は、超越の神が一切事物との断絶を自ら越えて、史的イエスとともにこちら側に来て下さったことを証するのではないか。教会建物は、そのことも考慮して建てられねばならないのではないか。
読者はこのような対話をこの書物とすることになるだろう。現代の神学や哲学、芸術、建築に興味を持つ人々の必読書であろう。
入力:林昌子
2008.05.21
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