< 書評>
ハミルトン・アルタイザー著/小原信訳
『神の死の神学』1969年、新教出版社、311頁
野呂芳男
初出:『聖書と教会』1996年5月、日本基督教団出版局、48-50頁。
神の死の神学が日本の神学界でさわがれ出してから、既に相当の時日を経たが、ここに良き訳者小原信氏を得てやっと代表的な書物が 1 冊刊行されるに至った。まだまだ紹介されなければならない書物があると思うけれども、とにかくこの訳書の刊行によって、日本でのこの神学に関する議論が、賛成するものであれ反対するものであれ、理性的なものになってくるだろうと思う。
神の死の神学の陣営に属する神学者として誰をあげるべきかが、既に議論のあるところだと思われるが、アルタイザー( Thomas J.J. Altizer )、ハミルトン( William Hamilton )、ヴァン・ビューレン( Paul van Buren )をまずあげるのか穏当なところであろう。アメリカの神学界に意識的に 神の死 という言葉を最初に使い始めたのは、現在シラキュース大学で教えているヴァハニアン( Gabriel Vahanian )であったが、彼の場合には、現代文化が神をもたない文化であるということの分析的理解を主にしたものであって、現代文化から神が死んだのは結局のところ、神を人間の生の要請と考えたところから来ているのであり、人間がそういう要請をもたなくなる程に成長してしまえば、当然そういう神も死ぬと言ったのである。ヴァハニアン自身は初期のバルト神学のように、人間の要請とは違う 絶対他者なる神 をもう一度発見しなければならないと言っているのであり、これは我々が今問題にしている神の死の神学とは異なったものである。
最近のヴァン・ビューレンは『福音の世俗的意味( The Secular Meaning of the Gospel,1963 )を書いた頃とは幾分ニュアンスの違う発言をし出しているのであるが、しかし、「福音の世俗的意味」の中に展開された思想は、 神なきキリスト教 とでも言うべきもので、ハミルトンやアルタイザーとも違った形態での、言語分析哲学を援用した神の死の神学であった。
今まで述べたところからも分かるように、同じ神の死という言語を用いても、神学者たちそれぞれによってその意味するところが異なっている。しかし、アルタイザーとハミルトンとは共著の形でこの書物『神の死の神学』を出版する程に、自分たちの思想が接近していると考えているのであろうか。
この書物の原題は「徹底的神学と神の死」( Radical Theology and the Death of God,1966 )である。小原信氏は 徹底的 を 過激な と訳しておられるが、氏も あとがき で指摘しておられるように、ラディカルという英語は両方の意味をもっており、アルタイザーもハミルトンも自分たちの神学の性格を両方の意味のものと考えていることは確かである。この書物はハミルトンの論文が 6 、アルタイザーの論文が 5 入っており、それを 1 部と 2 部に分け、 1 部を神の死の神学の手引きとし、 2 部をその解釈としている。
神の死の神学がアメリカの教会の専門の神学者たちの間でよりも、キリスト者で文化的側面で活躍している学者たちや、学生たちの間で非常に問題とされ、もてはやされている事情と関連があると思うが、ハミルトンにしてもアルタイザーにしても実に文化的関心が強い。この書物にのっている論文を見ても、ニーチェ、ドストエフスキー、ヘーゲル、ブレイク等々の哲学者や文学者の思想が、ティリックやボンヘファーやブルトマン等の神学者の思想と同じように、あるいはそれ以上の愛着をもって引用されている。そのこと自体はよくも悪くもないのであるが、この事情が 彼らの場合には 、その思索における神学としての焦点をぼかしているという印象はぬぐい難い。
思索家としては我々はアルタイザーの方がハミルトンよりも上であると思うが、ハミルトンの強みはその 通俗性 にあるようである。ハミルトンには 1961 年出版の『キリスト教の新しい本質』( The New Essence on Christianity )という別の神学書があるが、この論文集『神の死の神学』ではその神学書での彼の立場が棄てられていることが明瞭である。ハミルトンの関心は一貫して、何故この世界に悲惨が存在するのかというドストエフスキー的問題であり、『キリスト教の新しい本質』の中では、その解決が神の 無力 という思考の中に求められていた、神は力なき愛なのであり、人間の悲惨に対してご自分で同情し苦しまれる存在である。世の悲惨に苦しむということ、それに耐えるということ、これは神にも人間にも共通の事情であり、したがって人間はこの世の悲惨に苦しみ耐えることを通して神の心と一致し、神の人間に対する同情と愛とを知るに至り、そこに信仰の喜びがあるとした。ところがこの論文集では、その解決が神の死に求められている。神はイエスにおいてご自分を死なしめ始めたのであり、その死は 19 世紀の思想家たち、例えばニーチェの思想において完結した。神は自分を死なしめることによって、人間が神に依存せずに自分の力で世の悲惨を背負い、ボンヘファーの言うように成人した世界を形成するようにさせる。成人した人間は自分で世の悲惨や人間の罪や死の問題を始末するのであり、そういう人間の主体的生の喜びを人間に味わわせるために、神がご自分を死なしめたところに、我々は神の愛を発見すべきである。そういう神の愛は史的イエスにおいて啓示されているのであり、キリスト者はイエスにならって隣人を人間として主体的に生かすために自分に死んで行かなければならない、と言う。
この論文集に現われているアルタイザーの思索が、厳密な意味での神の死を問題にしているかどうか甚だ疑問である。と言うのは、アルタイザーの思索はヘーゲル的であり、バルト神学の初期の神観である絶対他者なる神(正)と被造物(反)とが、イエス・キリストの出来事において合の段階に入ったと言うのであるが、この 合 たる神に浸透された人間性、ティリックの 存在の根底 としての神に基礎づけられた人間性に表現されているものは、神の 死 ではなく、神の 内在化 であり、そういう意味での神の変貌なのであるから、それは絶対他者なる神の、内在的神への謙虚の出来事であり、アルタイザーのキリスト論がケノーシス(謙虚)・キリスト論になることは容易に想像できることである。アルタイザーはこういう神の死の思索が、既にウイリアム・ブレイクの中には見られるとして、独創的なブレイク論を展開しており、それもこの論文集に掲載されているのであるが、こういうブレイクの解釈がほんとうに的を射たものであるかどうか、ブレイクの専門の研究家のご意見をうかがいたいものである。とにかく、イエス・キリスト以後、我々を外側から束縛した神、律法の神は死んだのであり、この神の愛のおかげで人間は、律法によるのではなく、したがって罪のない――と言うのは、罪とは律法への違反であるから――その時その場の状況に応じた生き方で生きてよいし、また、そうしなければならないとアルタイザーは言う。罪の赦しとは罪を忘れることであり、死んで人間性に内在化した神に従って生きることこそ、聖霊に導かれて生きることである。
我々はハミルトンやアルタイザーの「神の死の神学」のもっている実存的な性格を、まず尊重しなければならないであろう。神を外側から人間をしばる存在とし、人間に人間らしい生き方を許さない存在と考えるならば、ニーチェのような神への反逆が起こってくるのは当然である。事実そういう神観は今でも我々の間から消えなくなってはいないのであり、そういうものへの反抗として見れば、神の死の神学は確かに大きな意味をもつ。
また、この神学が、世俗から逃避するようなキリスト者の在り方へ示している嫌悪も、大変健康なものである。それは修道院的敬虔への反逆であり、プロテスタンティズムの正しい路線の継承である。世俗の外でしか体験できないような神には、ハミルトンやアルタイザーならずとも、死んでもらわなければならないのである。
しかし、現代性を重んじる神学であるにもかかわらず、我々はこの神学があまりにも神話的なのに驚くのである。この神学は、ハミルトンにしても、いわゆる無神論ではない。存在していた神が死んだのである。人間への愛のために自殺をしたのである。神の自殺という神話を信じることは我々にとって、神の国が我々の頭上にあるということを信じる以上に困難なことではないのか。とにかく、神の死後の時代に生きる我々に対して、ハミルトンの形態の福音は、ただ史的イエスの生の在り方にならって生きよ、ということ以外何も提供してくれない。これではアドルフ・ハルナック等の近代主義神学と変わらないのではないか。
アルタイザーのヘーゲル的な図式も無理である。旧約の神は我々に対して絶対他者であるばかりでなく、人間の近くにいて下さる存在であるし、新約の神も我々への他者性を失ったわけではないであろう。この神学者たちの誤りは、その神観の貧弱なことにある。聖書が霊という言葉で神を表現している事情を、我々はもう一度よく考える必要がある。それは神が、人間が近くにいてほしい時には自分が自分に近いよりも、神の方が近くにいて下さること、また、神は人間が全く神からも離れて孤独になりたい時には、遠くにいて下さるということを表現している。その神は愛であるが故に、人間を外側からしばる存在ではなく、むしろ人間自身もしばしば誤解するところのほんとうの人間らしさを知っておられるのであるから、人間性を実現させて下さる存在なのである。したがって、罪とは律法への違反ではなく、神の愛の裏切り、つまり人間性成就への裏切りなのである。
現代のいろいろな問題の中で、もう一度聖書の神観を反省するために、神の死の神学はどうしても通過しなければならぬプロセスだと思うが故に、この訳書をおすすめする。
入力:黒田良孝
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2005.12.22
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