ユダヤ・キリスト教史 1997.1.13
講義「ユダヤ・キリスト教史」
第31回 ――ブルトマン思想の考察とパウロの神秘主義 (1998.1.13)
野呂芳男
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グノーシスでは、人間の魂が霊によって満たされて光の世界への帰還の旅を始めることになった時には、人間の魂に宿ったその霊は人間の所有物になり、人間はその霊を戦々恐々として守り育てるのであった。ところがブルトマンによると、「?コリント」(5:13、12:1−10)などに見られるように、パウロにもこのように霊を自分の所有物として守って行かねばならないとする傾向は確かにあったし、また、グノーシスと同じように、霊を超自然的な物質のように考えるところもあった(「ローマ」8:11、「?コリント」15:42−58)。ところが、パウロはグノーシスと違ってこれらの点には重きを置かず、これらのグノーシス的な傾向はパウロにおいては、信者が新しい命の道を歩いて行こうと決断することの中へと解消されてしまっている(「ガラテヤ」5:16)とブルトマンは言う。自分が所有しているものであれば、決断して霊との関係を保とうとする必要はないのであるから。(ポケットに入っている所有物は、盗まれない限りはいつまでもそこにある。霊はそのようなものではなく、絶えず私たちがそれとの関係を保とうとして決断しないと、関係が切れてしまう。ブルトマンによれば、パウロの本音は、グノーシスの影響を抜け出てしまっていて、霊と人間とは「我−汝」の人格的な関係になってしまっているのである)。
これ迄のブルトマンについて述べたところからはっきりと分かってきたことは、第一に彼が(シュヴァイツァーなどに見られた)イエスの徹底的終末論は既にパウロやヨハネによって克服されたと見ていることである。つまり、ヨハネには未来の終末への期待は殆どなくなり、神の裁きと救いが行なわれる終末は既にイエスの到来によって起こってしまったとされている。そして、パウロにおいても、まだこれから起こる終末への期待が完全には消えていないけれども、既にイエスの復活の霊によって信者がとらえられる時には、信者は「神の国」の中に入れられてしまっているのである。つまり、終末は未来の事柄ではなくなり、私たちがイエスの十字架と復活を信じるかどうか、イエスの愛の道を歩むかどうかを決断しなければならない、この今の時、決断を迫られている今が、私たちの終末なのである。
第二に、グノーシスの霊の考え方も克服されて、霊は、私たちが霊との関係を保ち続けようと決断する相手と考えられており、これも今、絶えず、私たちに問われる事柄になっている。
このようなブルトマンの考え方には、私も多分に影響されており、彼の学問的貢献には感謝しているのであるが、どうしても若干の保留をしてしまうのである。聖書に見られる徹底的終末論をブルトマンのように解釈した――ブルトマンは自分の解釈の方法を、神話的であった黙示文学的終末論やグノーシス神話を今の自分の決断の中へと解消したという意味で、実存論的解釈学とか、非神話化論とか呼んでいるのだが――後でなら、この世の終わりについて考えても一向に差し支えがない、と私は思っている。但し、どのような経過を辿って、また、どのような仕方で私たちの地球が終わりを迎えるかは、天文学、地質学、環境学、政治や経済の考察するところであろうが、神学が言えることは、この世の終わりは神との関係でも考察されるべきであること、その終わりの時もキリストと無関係ではあり得ない、ということであろう。徹底的終末論の神話には、イエスの再来がこの世の終わりに起こると言われており、そこには、この世の終わりにも、私たちは霊のキリストと共にいられるという真理が隠されているのだ。
もう一つ言いたいことがある。復活の体が霊の体であるというパウロの発想には、確かにグノーシスの影響があると私も思うが、だからといって私はそれを捨てて、復活は未来の(死後の)事柄ではなく、今神に向かって決断して、自分の利己心を殺し(十字架にかけ)て、他者への愛に生きれば、それが(自分が、本来あるべき姿に生き返る)復活なのだとするブルトマンの考えでは、私はキリスト教のメッセージとしては不十分だと考えている。死後の命を主張することも、永遠の命を肯定することもできないキリスト教では、有り難くもない。キリスト教はいろいろの思想や宗教の影響を受けて今のような状態になったのであって、私はブルトマンのようにグノーシスの影響だからと言って、排除しなければならない理由はないと考えている。キリスト教に対する他の宗教や思想からのあらゆる影響を排除することは、目にしみる玉ねぎの皮むきと同じで、最後には何も残らなくなる。
2
罪は神話的概念か、という質問を自ら設定して、ブルトマンはそれが神話ではないと言っているが、これはなかなかの卓見である。アダムの堕罪とか、罪の親から子への遺伝とか、キリスト教の解釈には神話で罪を包み込んでいる点が目立つが、包み紙を開けてしまった後の、罪という概念はブルトマンの言う通り神話ではない。ブルトマンによると、人生そのもの、命が、(神から)与えられたものであると思えば、与えられた命を自分のものであるかの如くに使うことが罪なのであり、この場合には、罪は今も通用する真実の概念である。人の命は勿論のこと、自分の命も自分勝手にはできなくなる。
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ブルトマンは歴史を二つの次元に分ける。一つは事実の歴史であり、彼はこれをヒストリエ(Historie) ――史実、事実史、世界史と訳されている――と言い、もう一つは、歴史の中の事実が人間にとってどのような意味を持つのかという角度から見た歴史で、彼はこれをゲシヒテ(Geschichte) ――実存史と訳されている――と呼ぶ。そうすると、ブルトマンにとっては、イエスの十字架はカルヴァリの丘の上に立てられた点などでは史実であるが、それが私たちの救いと関係してくる点では実存史の出来事である。
ところで、ブルトマンにとっては、贖罪に関する聖書の発言は――そして、それに基づいた教会の諸教理も――ことごとく神話なのであるから、現代の私たちには無意味であるとして退けてしまう。(宗教史学派に属するブルトマンから見れば、キリスト教が贖罪に関して発言する事柄は、すべて他の諸宗教にも見られるもので、現代人から見ると、元来は誰にも替わってもらえないはずの自分の罪を他人や神々や動物に押しつけるものなのだから、そこでは〈人間の自由に由来する〉罪が、他の存在になすり付けることのできる物質的なものにすり替えられている。これは神話としか言いようのない、非合理な過去の想像の産物である)。従って、ブルトマンにとっては、イエスの十字架の意味が贖罪論と結びつかずに、既に述べたように、私たちが自己の利己心に死んで行くこととなり、日常の生活の中で日々行ずる事柄になる。この場合、イエスの十字架は過去の史実というよりも、現在の私たちの魂の在り方となり、実存史の事柄となっている。復活も同様に、墓からかつてイエスが甦ったというよりは、今日私たちが本当の自分に生きることができるようになることを言っている。これも実存史の事柄である。
贖罪論を不合理な神話と考えるブルトマンにとっては、その神話が私たちに語ってくれるものは、神が無条件で私たちの罪を赦すということである。ご自分の独り子さえ送って下さって、その子を死なせてまで私たちを愛する神という、贖罪神話に包まれた神は、無条件で罪を赦す神という事柄以外には、ブルトマンにとっては何も意味しない。このようにして、ブルトマンはイエスの十字架が史実であることを否定はしないけれども、その意味は完全に実存史の事柄であるとする。復活は神話であって、史実ではないとされるが、それは合理性を破る奇跡だからである。ブルトマンは合理性を破る、人間が海の上を歩けるとするような奇跡をミラケル(Mirakel)と言って否定し、私たちが無意味な生き方を捨てて愛に生きるようになる奇跡をヴンダー(Wunder)と言って肯定している。
奇跡については私もブルトマンに教えられて、合理性を破るものは信じない――但し、病気を癒す奇跡については、心身医学の発達などで、必ずしも不合理でないことが明らかになりつつあるので、私は肯定的であるが――けれども、復活の奇跡は合理的な科学ではまだ解明されていない、死後の永遠の命と関連があり、イエスが永遠に生きている事実を神が人々に示された出来事として、合理に反しないものと考えて信じている。贖罪論についても私は、罪が他の存在になすり付けられるようなものではないという点ではブルトマンと同じに考えているが、死後の命を信じないブルトマンと違って、私はそれを信じているので、イエスが死後も生きておられ、私の今犯す罪を嘆き悲しみ、私のために今も苦しんでおられることを信じている。つまり、史実としてのイエスの十字架は、霊のイエスの今も続く苦しみの象徴なのだ。
以上のブルトマンに関する叙述から、彼にとっては、十字架も復活も実存史だけの意味に集中する傾向がある。彼の神学のためには史実は殆ど要らず、イエスが存在したこと、人を愛して十字架上で殺されたことぐらいが必要なのだろう。また、すべてが今の人間の生き方に集中しているために、神に関しても人間の生き方を方向づける点――点には、位置があっても、占める空間もない――であるかのように、人間が自分の本当の行き方を実践する決断の方向づけとしか語られない。これでは、私には不十分としか思えない。私は彼から大きな影響を受けて、いわゆる実存論的神学を自分の立場としてきたが、人間だけに集中するのではなく、神と人間の「我−汝」関係を語ろうとしてきた。前に話したブーバーの影響が強かったからである。神について語らない場合には、十分に私たちに対する神の恵みが語れないので、神学は人間の独り言に近くなる。私は、神学は神と人間との永遠にわたる愛のロマン(物語)を展開するものだ、と信じている。それに対して、ブルトマンの神学は、孤独に悟りを開こうとして、前の壁に例えば丸を墨で書いた禅画を懸け、それに向かって座禅を組んでいる僧侶を私に思い出させる。丸の替わりに十字架であるかもしれないが。私には、十字架の方から、神の側から、積極的に私に働きかけるキリスト教の方が向いている。
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時代的にはブルトマンの(上に挙げた)論文よりも古いものであるが、私にとっては大切な論文があるので紹介したい。それはアドルフ・ダイスマン(Adolf Deissmann)の『キリスト神秘主義』(Die Christus-Mystik,1925)である。詳しく説明できないのが甚だ残念であるが、ダイスマンも宗教史学派に属する神学者であった。彼の論文は主にパウロ研究であるが、幾つかの点で今日の新約聖書研究では通用しない、少なくとも弁明しなければ受け入れられないところもあるが、それについては私はなるべく触れないでおく。とにかく、この論文は二つの重要点から成り立っている。一つは、パウロにおける霊のキリストとの神秘主義的な交わりである。ダイスマンによると、パリサイ派として育てられてきたパウロには、自分の中に神の律法をことごとく守らねばならないという信念があったが、それを全て完全には守り切れていないという罪の意識が存在した。それが彼を熱狂的なキリスト信者迫害に駆り立てたのだが、この自己矛盾の最中にダマスコへ行く途中、復活のキリストに出会って、とうとう彼自身が迫害していたキリスト信者の一人になってしまった(「使徒言行録」9:1−31)。その後のパウロには、彼の内に霊のキリストが生きるようになった(「ガラテヤ」2:20、「?コリント」1:9、10:16、「ピリピ」3:10、「?コリント」12:9、13:3)。その親密さは、パウロを通してキリストが語る程であり、キリストはパウロの創造的エネルギーであって(「ピリピ」3:21、「コロサイ」1:29)、パウロはキリストを自分の身中に入れて持ち運ぶ人間になってしまっている。
確かにパウロにとっても、キリストは一方では天に昇って父なる神のところにおられる「神の子」であり、やがては裁き主として再びこの地上に来られるのではあるが、霊なるキリストは天におられる訳ではなく、すぐ近くにいて下さり、パウロと一つになって下さるのである(「?コリント」3:17、「?コリント」15:45、6:17)。そして、パウロにおいては「キリストにおいて」という表現が「(聖)霊において」という表現と平行的なものとして使われている、とダイスマンは言う。つまり、霊なるキリストと聖霊とが、パウロにとっては同一なのである。また、ダイスマンによると、「キリストにおいて」とか「主において」という表現がパウロの手紙には164回も出ているとのことである。
霊なるキリストは霊的な体を持っている。それは肉ではなく、天的な体で、霊体としか言いようがない(「?コリント」15:45以下、「ピリピ」3:21)。ダイスマンは、パウロがこのようにキリストの体をエーテル体、光の体として考えることができたのは、恐らく神についてもそのように考えていたからだろう、という。そして、その背後には、旧約聖書のギリシャ語訳の、ギリシャ思想による神秘的な雰囲気があったのではないか、と想像する。その証拠としてダイスマンは「使徒言行録」17:22以下にある、アテネのアレオパゴスの神の考え方は、ギリシャ的になってしまっていると言うのである。
パウロの霊なるキリストは、史実としてのイエスの十字架と密接不離である、とダイスマンは言う。霊なるキリストは、十字架にかけられたままのキリストなのである(「ガラテヤ」3:1、「?コリント」1:23,2:2)。ダイスマンによれば、キリストとのこのような神秘な交わりが、私たちを神との神秘な交わりの中へと導くのである。
霊なる、十字架にかけられたままのキリストは、今苦しんでいる信者の苦しみまで、今も背負って下さる。そして、歴史上のイエスがなし得なかった、今の私たちのために苦しむことを、霊なるキリストが現在して下さっているし、このようにしてイエスの悩みには欠けている苦しみ、――つまり、今の私たちのために苦しむことが史実としてのイエスにはできなかった――を、霊なるキリストが今、補って下さっているのである(「コロサイ」1:24)。(「コロサイ人への手紙」は現在はパウロによるものではないという研究者も多いが、パウロの信仰的グループから出てきた思想だと思うし、パウロの思想の当然の発展とも言えると思うので、ダイスマンのこの主張を私は認めたいと考える)。
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ダイスマン論文のもう一つの中心は、パウロの神秘主義が、大きな神秘主義の歴史の中で、どの類型に入るかを見定めていることである。ダイスマンは二つの角度から神秘主義の類型を形作る。一つは、人間と神との関係を、神が人間に向かうか、人間が神に向かうかで二つの類型を区別する。彼によると、パウロのキリスト教神秘主義は前者で、関係において先ず神が人間を救おうとして先手を打つ。パウロの神秘主義は、神に愛されようとして人間が禁欲したり、行動を起こして、恵みを神に懇願するのとは類型が異なるのである。
もう一つの区別は、神秘主義には神と合一することを目指すもの(unio mystica)と、神との親密な交わりを求めるもの(communio mystica)との間にある。つまり前者は、一滴の水が大海の中に落ちて、海の水の中に消えてしまうように、神の中に人間が自己を失うような神秘主義であるのに対して、後者は、どれ程一つになっても、最後的には自己を失うことがない神秘主義である。ダイスマンは後者こそがパウロのキリスト神秘主義であるとしており、キリスト教はそのような宗教であるとしている。
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「我―汝」の関係を土台として神学を考えるのが私の実存論的神学であるが故に、私はブルトマンの(個人の実存を中心とした)実存論的な考え方に、大雑把に言うと、ダイスマンの考えを加えて考えているが、このお陰で、神についても、霊なるキリストについても、イエスの十字架は霊なるキリストが今も私のために背負って下さっている苦しみを表すものであることについても、永遠の命についても、ブルトマンには見られない仕方で語ることができる。しかも、非合理を一生懸命に信じることもない。
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入力:平岡広志
2003.4.17