ユダヤ・キリスト教史 1997.7.29


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第13回 ――モーセと出エジプト?          (1997.7.29)


野呂芳男







 「出エジプト記」(19:1-19)によると、神は鷲の翼に載せてユダヤ人たちを連れてきた、とあるが、勿論これは、自分の子供たちを翼に載せて運ぶ鷲に喩えて、神が奇跡的にユダヤ人を出エジプトさせたことを言っている。アメリカ・インディアンたちの間でも、鷲は神のおられる天空と地上とを結ぶ象徴動物であったが、ユダヤ人たちの間でもかつてはそうであったのかも知れない。預言者イザヤが神殿において神の召命を受けた時にセラフィムがいたが、この動物は鷲から空想された鳥のようなものであろう(「イザヤ書」6:1-7)。しかし、カナンの地に行くにしては、ユダヤ人たちは随分と遠回りさせられているけれども、これには恐らくシナイ山で、自分がそこで出会った神にユダヤ人たちを会わせてやりたいという、モーセの願いがあったのではないか。つまり、ユダヤ人をシナイ山で宗教教育しようとの意図がモーセにはあったのだ。そして、注意したいのは、神が天からシナイ山に下りてくるとなっていて、神がシナイ山の地域に縛りつけられていないことである。

 この記事によると、モーセはユダヤ教の後の祭司たちのように、神と民との間に立って、神の言葉を民に、民の感謝や願いを神に伝える役割を初めから行っている。自分たちの役割はモーセのやったことを繰り返し行うことなのだという、祭司たちの自己権威づけが、このような記事を書かせたのだと見ることもできるが、私はやはり、モーセ自身の中に後の祭司階級を生み出すような行動があったのだと考える方が正しいと思う。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(「出エジプト記」19:6)という神の言葉は、モーセ当時の文章をそのままとは言えないかもしれないが、モーセの願いを的確に表現しているように思える。

 神と出会う前に、ユダヤの民には浄めが要求されているが、このような記事から察すると、(道徳的な、また、そうでない)清さも汚れも、(区別なく)人間に付着するものだという思想があったことが分かる。それと同じように、神の聖も神の来臨するところに付着する。神がシナイ山に下降すると、シナイ全山が聖によって付着され、許しもないのにその聖に触れたものは殺されねばならないのだ。







 旧約聖書の最初から五番目までの書物を普通「モーセ五書」と言うが、これらの書物は大体においてモーセが主人公であるので、そのように呼ばれるようになった。これらの書物はJ、E、D、Pの資料よりなると通常言われている。Dは「申命記」を指し示しているが、Pは祭司による伝承であり、Jはヤーヴィスト文書(神のみ名にヤーウェを使う)、Eはエロヒームを神のみ名に使う文書のことを指し、Jは恐らく南の王国ユダ、Eは北の王国イスラエルの伝承であろう、と言われている。「出エジプト記」の記述はJとEが取り入れられて作られているけれども、作られた年代は大体紀元前650年頃ではないかと思われる。実際のエジプト脱出からおおよそ570年も経っているのだから、「出エジプト記」20:1-17 に見られる「十戒」の記事なども、後のイスラエルの体験がモーセの時代に投影されたものだ、とよく言われるけれども、私は根幹は、モーセがシナイ山で神から与えられたと信じて、民に順守を要求したものであると考えている。その根幹とは、聖なる神への献身と隣人への憐れみに満ちた愛だと思う。







 この機会に、カナンに侵入する前の(そして、侵入後も強い影響力を持っていた)ユダヤ人の世界や人間に対する考え方を見ておこう。紀元前2、3世紀になると、ギリシャ思想の影響でユダヤ人も死後の命を信じるようになったけれども、それ以前は、人間はユダヤ人にとって、血があり、息をしている限り、生きている存在であったが、死ねば息はなくなり、肉と血が大地に帰るに過ぎなかった。この考えは唯物論的であると言わざるを得ない。人間の息はルアハと呼ばれ、これが人間の生命エネルギーとでも言うべきものであり、実は神も測り難く偉大なルアハとして考えられていた。

 ユダヤ人は頭脳の機能、血液の循環、神経組織については無知であった。そこで知性と意志は心臓に、感情は腎臓と腸にそれぞれの場を持っていると考えていた。また、ある身体の器官は独立して心理的な力を持っていると考えられていた。誇り、ねたみ、同情は目の中に宿り、人は眼差しで、それらの感情を他に送り出せる。語られる言葉は、それを語る人の持つ力を送り出す。その言葉が聞かれても聞かれなくても、言葉の持つ効力は同じで、善意も悪意も、語られると相手に向かって出発する。仮に呪いの言葉が送り出されると、呪われた人の力が強い場合には、それは無害であったり、逆に送り出した人に害を及ぼしたりする。人間の言葉でさえ、このような力を持つのだから、まして神の言葉は大変な力を持っている。更に、人間の心理的な力は、その人が持つものにまで浸透し付着する。ダビデがゴリアトの剣を欲しがったり、エリシャが師エリヤの外套を大切にするのはその為である(「サムエル記上」21:9-10、「列王記下」2:14)。

 外から人間を襲う影響も沢山ある。悪鬼の影響はいつも恐れられていたし、戦闘は互いの(相手に影響を及ぼすと信じられていた)呪いの言葉で始まった(「民数記」22:4-6、23:4-12、「申命記」23:4-7、30:7、「詩編」109:6-29)。心の平安は神体験が深まって初めて達成された(「イザヤ書」26:3-4)。



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入力:平岡広志
2003.2.2