ユダヤ・キリスト教史 1997.7.1
講義「ユダヤ・キリスト教史」
第9回 ――三つの贖罪論 ( 1997.7.1)
野呂芳男
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『ファウスト』第二部の初めにある、ファウストがグレートヘンに対する罪に苦しむ姿で、ゲーテは忘却の大切さを私たちに教えているが、それと共に、私たちにイエスの生涯と十字架をどのように考えたらよいかについても教えているように思う。イエスのなされた事が、どのような仕方で私たちに繋がるかを考えたものが、所謂「贖罪論」であるが、私たちを自分の(罪深い)過去に縛りつけないで、かえって私たちを自分の未来に向けて希望を持って歩ませるような仕方で、贖罪論は考察されねばならない。つまり、私たちの罪の始末を神がつけて下さったのだから、私たちは身も心も軽くなって未来を作るように歩み出さねばならないのである。私たちが自分では、始末しようにもできなかった自分の罪を、くよくよと未練がましく、まだ自分で始末しようと願っているような過去回想を、忘却の彼方へ押しやることが大切なのである。回想にもいろいろあって、一概には言えないものだが、自分で自分の過去を、こうすべきであったと今更考え込んで嘆いている状態を、私は過去に捕らわれた生き方、相も変わらず自力本願で生きている姿だ、と言うのである。そのような不毛な生き方を忘却するようにさせてくれるのが、神による罪の赦しを受け入れることなのである。では、神はどのような手続きで人間を、悪い過去回想から解放しようとされたのか。それを論じるのが贖罪論なのである。
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約2000年の歴史を振り返ってみると、大体三種類の贖罪論があった。第一は、原始キリスト教会以降約1000年の間、キリスト教会がその土台としてきた贖罪論であって、イレナエウス(130−200年)などの教会教父たちの説である。これは通常 recapitulatioと呼ばれている説で、英語では recapitulation と言われている。これによると、人間の代表であるアダムの堕罪によって、全人類は神から離れ、(神がご自分の像にかたどって人間を造られたために、人間の中には「神の像」が存在する訳だが、)神の像を損壊してしまった。しかし、神はイエスを人類の新しい代表としてお与えになり、もう一度人間の中の「神の像」を回復しようとなされる、つまり、失った全人類を神が新しく、ご自分の気にいるような神の民として取り戻される、という説である。
これは、その古さから古典説と呼ばれているが、この説では、罪を犯した人間は悪魔や死の中に虜となってしまうが、それをイエスが死の中や、悪魔の手中にまで入り込んで、人間たちを再び解放するという、私が無とか不条理とか呼んでいるものと、神ご自身との闘争が描写されており、更にイエスの十字架と復活が、死の中に入り込んだイエスが死の力を打ち破って復活したという形で物語られ、勝利のどよめきが聞こえてくるような説である。神が人間の罪に対するご自分の怒りを宥めて貰うのを待っているような他の説とは違って、待つどころか、神ご自身がまずイエスを死の中まで送って下さっているという説であるから、罪の赦しは、死のくびきから解放される人間たちの感謝の生涯の出発点であり、それから人間は赦しの神の恵みの中で、徐々に罪や死の国を逃れて恵みの王国に移り住むようになる、つまり、人間が浄化されてゆくプロセスが重要なものとして描かれる説である。
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第二に著名な説は、11世紀のアンセルムスが考えた説で、普通は満足説(satisfaction theory) と呼ばれている。人類が神に対して行った罪は神の栄光を傷つけてしまったので、人類はその傷つけられた栄光を満足させなければならないのであるが、人類の中では誰も神に対して満足を与えることのできる存在は一人もいない。その謝罪の行為が、神に満足を与えることができる存在は神と同格でなければならないのであって、しかも人類を代表する人間でなければならないからである。そこでイエスが登場する。彼は神であって同時に人であるが故に、彼だけがこの条件を満たしている。この説は、このように人類対神というように、公的な関係として神と人間との関係を考えているが、この背景には、当時の封建社会制度がある。
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第三は、カルヴァンの説で、その信者たちによって今も信じられているものだが、通常は刑罰代償説と呼ばれている。イエスの十字架の上で、人間一人一人の罪に対する神の怒りを、神が爆発させたというもので、このイエスの身代わりの受苦のお蔭で、信者はその罪を赦されるのである。これは個人主義的な説で基本的には(集団的な満足説に立った)カトリック教会のような、イエスが作ったとされる集団に属さなくても通用する説である。つまり、教会という集団は信じる個人の集まりとなり、集団が個人を救い取るわけではない。
皆さんがどの説をお取りになってもよいと思うけれども、私が採用しているのは古典説である。それを現代的に解釈するように努めているのだ。
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『ファウスト』に戻ると、過去から解放されて一時期ヘレナというギリシャの美人を追い求めるが、これはゲーテがプラトン主義に代表される古典的なギリシャ文化に惹かれ、それによって心の準備を持とうとしたことを表現している。そしてまた彼は、人々への奉仕の実際生活に戻るのであるが、それは海の中に埋め立てによって陸地を出現させることであった。老夫婦を殺してしまうというような罪責を背負うことになってしまうけれども、その人々への奉仕の中でファウストは喜びながら死を迎えたのである。
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入力:平岡広志
2003.1.7