野呂芳男<書評>ブルトマン『原始キリスト教』(1961)  Home  >   Archive  /  biblio


R.ブルトマン著・米倉充訳
『原始キリスト教』 新教出版社
<書評> R.ブルトマン著・米倉充訳『原始キリスト教』新教出版社

 野呂芳男

  初出:『福音と世界』1961年10月号、新教出版社、50−53頁  


  ブルトマンの著書は、既に多数訳されたが、この、Das Urchristentum im Rahmen derantiken Religionen, Zweite Auflage (Artemis Verlag, Zuerich, 1954) の訳が、友人米倉君によってなされ、新教出版社から発行されたことは、非常に喜ばしい。米倉君は、ドルー神学校で勉強され、現在関西学院大学文学部の宗教主任をしておられる。米倉君の御両親の牧会45周年を記念して、この訳書を出版されたとのことであるが、私は今後、米倉君の神学的活動をますます期待する者の一人として、心から祝福したいと思う。

 翻訳も極めてていねいになされているし、また書物の終りに、米倉君の解題が加えられていて便利である。その解題中には、現在の欧州神学界におけるブルトマンの位置、および、ブルトマンの大体の、思想的傾向が要領よく書かれており、読者には非常に参考になる。この書物の内容も、この解題において大体触れられている。確かに米倉君の言うように、この書物は、ブルトマンの実存論的な立場から、見事に、原始キリスト教と諸宗教との関係に関する諸史料をまとめ上げ、しかも、その歴史的研究の中にキリスト教の本質を浮彫りにしたものであって、読む者に非常な感動と喜びとを与える。

 ブルトマンは、この書物の中で、原始キリスト教を、混淆現象として捕えている。そのような混淆現象としての原始キリスト教を歴史的に理解するために、彼は、先ず、旧約聖書の遺産をとり上げ、その旧約聖書の中に現われている神と世界についての宗教的な思想を解説し、次に、イエス・キリストの当時、すなわち、われわれが後期ユダヤ教と普通言っている時代のユダヤ教の状態を説明している。そしてさらに、ギリシアの世界観を説明し、それがヘレニズムの文化の時代には、どのようになったかを説明するとともに、ヘレニズムの文化圏におけるいろいろな宗教現象、例えば、星辰宗教・運命信仰・占星術・密儀宗教・グノーシス等の跡をたどっている。これらの歴史的背景を土台にして、彼は、キリスト教が、いかにいろいろな宗教的・哲学的・文化的な流れの混淆であるかを示すのであるが、特にグノーシスの神話と原始キリスト教との関係を注意し、パウロならびにヨハネ文書の著者等のキリスト理解を展開している。そしで、原始キリスト教のケリュグマとしては、もちろん、イエス・キリストが、われわれに与えられた究極的な神の言葉であるとして理解し、その究極的な神の言葉に出会った人間実存の、自己理解を中心にした原始キリスト教のケリュグマの実存論的理解が、展開されている。

 ブルトマンの、このような原始キリスト教、ならびに、その背景についての歴史的研究に対して、私は、歴史的な批評をなしうる力をもっていない。私は、組織神学を専攻する学徒として、組織神学の側からこの書物を読んだ後の感想を述べてみょう。

 第一に、私が問題にしたい点は、ブルトマンによるこのような原始キリスト教の理解と、彼のケリュグマ理解との関係である。この点は、必ずしも、好意的な、また非難的な批評をする人々の間に、明瞭ではないと思われる。ゴーガルテンがブルトマンを理解した方向において、これは最もよく理解されるものと、私は考える。ゴーガルテンは、ブルトマンの試みが、歴史に対する主観−客観の対立を超克したものであると評価しているが、ここに実は、ブルトマンの原始キリスト教の歴史的研究と、ブルトマンのケリュグマとを結び合わせる蝶番(ちょうつがい)がある。これはブルトマンだけの独創性ではなく、既に、英国のコリングウッド(Collingwood)の”The Idea of History”という書物の中にも展開されているが、歴史を理解する方法の、例えば自然科学とは異なった特殊性ということに関係している。過去の出来事を知るに当って、最も重要であるのは、その過去の出来事の生起した状況の中に、研究者が自分を移入することである。言わば、その状況の中から、その出来事を理解するということが必要になってくる。これは、マルチン・ブーバーの思考方法に従えば、相手を相手として認めることである。相手を「我とそれ」という次元で判断するのではなく、むしろ「我と汝」という次元で理解することである。マルチン・ブーバーの「我と汝」という書物の中でよく問題になるのは、ブーバーが、しばしば、自然的な事物に対しても、われわれは「我と汝」という関係を設定しなければならないと言っている点である。

歴史もある意味から言うと、われわれにとって「我とそれ」の次元だけしかもたないかのように見える自然的現象のような錯覚を与える。しかし、われわれが、その歴史をして自己自体を語らしめるように、われわれ自身をその歴史の出来事の中に沈潜せしめる時に初めて、歴史がわれわれにその秘密を開き示してくれるというならば、これは、ブーバーの言う「我と汝」という関係の次元である。真の歴史はわれわれが主観であり、相手が対象であって、その対象に向かって、主観であるわれわれが、客観的な態度をとらなければ、その歴史的出来事を理解できないようなものではない。むしろ、歴史の理解は、このような主観−客観の対立を超克して、われわれが相手の中にもっと深くはいりこんだ時に、相手が自己開示をしてくれるのである。ところが、このことは、われわれが現在の歴史創造の場での、自分の生き方を真剣に追求している時に、可能なのである。過去の歴史的出来事を捕えるにあたって、そこにはわれわれと同じような人間が、やはり彼らの歴史を作りあげるために苦闘していたのであるから、われわれの現実の歴史創造への逞しい実存的な生き方が、過去の彼らの現実の状況の中での実存的な生き方を内面から理解せしめるというような歴史理解である。そこでは、主観−客観の対立は克服され、いわゆる、ブルトマンの実存論的な歴史理解が、展開されているわけである。

 このことは、理解困難なことではない。われわれが隣人を愛するという現実を考えてみれば分る。隣人を、真に、私の「汝」として理解するということは、彼の状況の中に、私が自分を移し入れることが必要である。私も1個の生きる人間として、私の状況の中で実存的な苦労を背負っているわけであるから、その隣人の状況の中へと自分を移入させれば、彼の実存的な苦労を理解しうるのである。それに反して、もし私が、彼に対して、客観的な立場をとるならば、彼を「我とそれ」という次元でとり扱ってしまうのであって、真に全存在的に隣人としてとり扱っていないことになる。これとの類比関係でブルトマンの実存論的な歴史理解を考えることができるであろう。

 ブルトマンのキリスト教の使信理解は、今私が紹介した主観−客観の関係を超克したところの、実存論的な歴史理解を成立せしめるような、強烈な歴史創造的な人間の生き方をわれわれから要求するものとしての使信理解である。人間が、最も創造的に、現在の自分の歴史形成をしつづけて行くような仕方で生きている時に、初めて人間は、過去の歴史的現象に対しても、最も深くその内奥の秘密に分け入って、理解しうるようになるのである。ブルトマンの使信理解は、キリストが神の言葉であり、罪の赦しの言葉であるということにその中心を置いている。われわれにとって自分自身が受け入れ難い存在であるにもかかわらず、神が、そのわれわれを、受け入れて下さっている、という喜びのおとずれこそ使信であるが、このおとずれに出会った時に、人間は、真に自分にとって透明な存在になり、自分自身を偽らないで理解するようになる、だから、神の言葉に生かされて、人間は自分の歴史創造に脇目もふらずに集中して生きるようになるのである。そのような人間にして初めて、実は、最も深く過去の出来事の内奥にまで分け入ることができる。だから、ブルトマンのキリスト教の使信理解が、最もよく過去の歴史的出来事を理解しうるような実存的姿勢を人間に提供するものである、と言って差支えないであろう。ブルトマンが、イエス・キリストの出来事を理解するにあたっても、少しもたじろがずに歴史的現実を認めるのに自由であるという神学的背景は、そこにある。

 信仰とは、自分を他者に向かって全く開放することである。自分を投げ捨てて、他者の中に沈潜させ、他自を内側から理解し、他者を他者として生かすことができることこそキリスト者の自由である。そのように自分を開放することが、キリストの出来事に出会うことによって可能とされるのであって、そのように開放された自分は、他者を真に他者として生かすことができるゆえに、過去の歴史的な現実であるイエス・キリストの出来事も、その現実ありのままの姿で、捕えることができるのである。ところが、自分を開放されていない人々、他者に対して自分を開放することのできない人々は、自分のもつ偏見のために、他者の心の奥深くに分け入ることができない。従って、過去の歴史的現象を理解するにあたっても、自分のもっている偏見のためにその目を曇らされて、その内奥にはいってゆくことができない。

 ある人々にとって、信仰がこのような偏見であることがしばしばある。ブルトマンの理解によれば、信仰によってのみ神に義と認められる者は、自分の中に何も持たずして神に受け入れられているのであるから、真に開放された者である。自分の中に何か神に対して誇ることのできるものを持たなければ、神に受け入れられないということになると、人間は、正統的な教理だとか、正統的な信仰のもち方だとか、その他の自己開放的でないもの、むしろ、自己閉鎖的なものを持つことによって、生きようとする。その時には、真実の意味で、他者を他者として生かすことはできない。だから、ブルトマンは、イエス・キリストがわれわれの救い主であるという事実を理解する時にも、自己閉鎖性をわれわれに与えるような仕方で、イエス・キリストを理解することを、冷厳に拒絶するのである。

 私は、以上紹介した、ブルトマンのケリュグマ理解、および、歴史理解の方法論に深い共感を覚える。組織神学の課題は、自己閉鎖的な教理の解説に終始することではなく、自己開放性をわれわれに与えるものとして、イエス・キリストを理解するように努めることである、と私も感じているものの一人である。ブルトマンの据えたこのような土台の上に、組織神学を建てようとしても、そのことは何も、私がブルトマンに対して批判することが少しもできない、ということを意味しない。いかなる形においても完結性をもち得ないのが、神学の宿命であるから――そのような過去の完結性から切り離されて、私を、絶えず新たな創造への決断へ呼び出すものこそケリュグマである――私なりのブルトマンに対する批評を二つばかりここに述べておきたい。

 第一は、ブルトマンの言う、神学的自己理解に関してである。ブルトマンが非神話化の方法論によって、後期ユダヤ教の世の終りの出来事、ならびに、グノーシスの神話を、実存論的に理解した方向は正しいと思う。神学形成にあたって、これから一歩でも外に出るならば、そのことは、「我とそれ」という次元でイエス・キリストを理解することになり、真実の意味で、イエス・キリストにおける神の言葉と私との人格的な出会いではなくなってしまう。イエス・キリストにおいてわれわれと出会う旧新約の神は、契約を結ばれる人格的主体であって、その神をわれわれが対象化することは、信仰にとって許されないことである。しかし、これは単なる人間理解ではない。イエス・キリストの出来事という神の言葉との出会いを通しての人間理解である時には、どうしても相手側の神の出来事を、ブルトマンが実際に行なっている以上に、発言する必要が起こってくると思う。

 愛は、元来、関係の中の出来事であって、私というこちら側の問題だけではない。しかし、それが相手についての客観的な知識を意味するならば、その時は、既に愛という次元から転落して、相手を「我とそれ」という次元で取り扱っていることである。イエス・キリストにおける神の出来事を、客観的に考えないで、しかも、イエス・キリストにおける神の側が、私との愛の関係で、どういう役割を果たしているかを考えられないものだろうか。この点で、ブルトマンは、あまりにも関係のこちら側だけに集中している傾向がないだろうか。むしろ、イエス・キリストにおける神の働きを、私の愛をさらに深めるような形で取り扱うべきではないか、と私は思う。それは最後まで、「我と汝」という関係の中での取扱いであり、一歩でもその関係の外に出て、私が傍観者になり、私の愛を誘発するような神の愛の悲劇を、その神の愛を保証するような仕方で、客観的に叙述することであってはならない。その時、われわれは、歴史創造の決断を回避して、外側から他動的に動かされるのを期待している。

 この点に関しては、マルチン・ブーバーの方が、ブルトマンよりもさらに実存的である、と私は考えている。彼は、歴史における神の語りかけの出来事を語る場合に、やはり、神の側における愛について語り、しかもそれが同時に、信仰という現実においては、私の決断であるということを明言しようとする。客観的な叙述におちいることなしに、どのようにして、愛の交わりの中で相手の側を叙述しうるか、これは、組織神学がこれから検討して行かなければならない問題であろう。私の今の考えでは、神の愛の保証を求めるような客観的な神の愛の悲劇の叙述でなく、愛の交わりそのものの中での神人両者の苦悩と喜びとの叙述への方向をとることこそ、この問題への接近の仕方であると考えている。もちろんこれは、人間との交わりにおける神についての発言であって、客観的に神ご自身の本質について苦悩や喜びを語ることではない。ラインホルド・ニーバーはこの点成功しているように私には思われる。

 第二は、ブルトマンにおけるルター主義的な色彩である。特に、このことは、ブルトマンが、われわれに対しての自己開放性の要求として、神の言葉を理解する点に関わっている。ブルトマンは、将来がわれわれに、どのようなものを持ち来たらそうとも、それをすべて、神からの恵みの賜物であるとして受けとるように要求する。原始キリスト教のパウロの使信を理解するにあたって、彼はパウロの苦難の理解に、この書物の中で触れているが、そこには、明らかに、ブルトマンのルター主義が強く滲み出ていると言えよう。ブルトマンの主張は、われわれの将来にどのような苦難があろうとも、それをすべて神の恵みによるものとして受けとるべきだ、と言うのである。これは明らかに、ルター的な神の独占活動の思想を、パウロから汲み取っているものと言える。しかし、パウロは、もっとグノーシス的ではなかったのだろうか。これは、恐らく、新約聖書の理解における非常に大きな論点の一つであると思うけれども、われわれは未来に迫ってくる出来事はすべて、必ずしも神からだけのものと理解されてはいないであろう。

 しかし、もしわれわれが、神以外に、悪魔とか、そのほかの客観的な存在を思索するならば、それは神話的・客観的な思索になり、少しも実存論的な思索ではない。けれども、われわれが、われわれの側の問題として、われわれの苦難のあるものが、われわれが自分たちの目をひたすらに集中していなければならない相手である、神から出たものではなく、何かほかの原因があって、不条理としてしか理解できない仕方でわれわれに与えられたと考えても、少しもさしつかえないではないか。例えば、われわれの道義的な責任を少しも伴わないような天災地変、病気というものが、われわれに与えられた時に、それが、神といえども防ぐことができなかったような仕方で、不条理にもわれわれに与えられたものである、と理解してさしつかえないであろう。もちろん、その時に、なぜ神がそれを防ぐことができなかったかと言うような思索をし始めるならば、それは、もはや、客観的な思索であり、実存論的なものではない。実存論的に言えることは、われわれの目をすべて神に集中している上での発言であるから、神は、最後には、そのような神がお与えにならなかったものさえも、不条理さえも、私のために見事に征服しうる方であるという勝利についてであろう。それこそ、十字架と復活の出来事の、深い実存論的摂理理解ではないだろうか。神の子の十字架の死という不条理を越えて、神が、勝利をわれわれにお与えになるのである。

 こ打点で私は、ブルトマンの独占活動の神よりはむしろ、アルベール・カミュの不条理の思想に心惹かれるものである。メソジストのエドガー・ブライトマンやエドゥィン・ルイスの影響が私に強いからかも知れない。われわれを不条理の中におとしこむものが神ではないという発言は、非実存的なものではない。むしろ、われわれの心を、われわれをその不条理から救い出して下さる神へと向けるものである。われわれが自己の決断方向を神に集中しようとする時にもつ悪の問題を、その集中を妨げる雑音であるその問題を、われわれから取り去るものこそこのような不条理の思索である。

 このような私の発言は、ある人々には、非常に神の主権を脅かすものとして映るかも知れない。神の主権をどのように思索するかの問題であろう。私は神の主権を世界観的には考えない。むしろ、自分がどのような不条理の中にあっても、神の愛から切り離されることはないのであって、最後には、神は、私のために、その不条理にもかかわらず、私にとっての最善をなしうる方なのだと信じているのである。

 とにかく、原始キリスト教理解でのブルトマンの貢献は非常に大きい。残念なことに、ブルトマンの方法論の上に立った組織神学を、誰も未だ提供していないために、多くの人々は、ブルトマンの思想を、自分たちの信仰を破滅させる危険なものと誤解している。われわれは、今まで自分たちがもって来たものにすがりつきやすいのであって、自己閉鎖的になりやすい。しかし、それこそ、最も非福音的なことであろう。

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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/
20037.7