野呂芳男<書評>土居真俊著『ティリッヒ』(1961) 
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ティリッヒ神学への好手引き
<書評>土居真俊著『ティリッヒ』日本基督教団出版部

 野呂芳男

  初出『興文』1961年3月号、日本基督教協議会・文書事業部、12頁  


 同志社大学神学部の土居教授がティリッヒについて書かれるのを待っていた者は、わたし一人ではないだろう。それ故今回、「人と思想シリーズ」の一冊として、この書物の出版されたことは非常に喜ばしいことだと思っている。土居教授はハートフォード神学校で、神学博士(Th.D.) の学位を、ティリッヒについての論文で受領されているのであるから、教授の書かれるティリッヒは信頼がおける。

 この書物は七章にわかれており、第一章はティリッヒの「人間形成と思想形成」となっており、ティリッヒ自身の書いた自叙伝的な神学的エッセイがその土台をなしている。第二章ティリッヒ神学の特質、第三章より七章にいたるまでは、彼の「組織神学」その他の論文・書物を中心にした、その神学内容の紹介であって、「理性と啓示」、「存在と神」、「実存とキリスト」、「倫理思想」、「歴史哲学」などの問題がとりあつかわれている。終りに略年譜と主要著書目録がふされている。

 「あとがき」で土居教授も言っておられるが、ティリッヒ神学を紹介するのは非常に困難である。この神学はきわめて現代的な香りの高い神学なのであるから、現代の思想・芸術・政治等の状況に通じていないと理解しにくい。このシリーズの性格上、随分やさしく紹介されようと苦労されたことだろうと、読んでわたしは感じた。土居教授の紹介でも、まだ一般読者には難かしいかもしれないが、これ以上やさしくはちょっと紹介できないであろうと思われる。

 この書物を読んでいて、この書物は非常にオットー・ウェーバーのカール・バルトの教義学の紹介に似ていると思った。このことを土居教授が意図されたのかどうか、わたしは知らないが、結果的にはウェーバーがバルトになしたことを、土居教授がティリッヒに対してなすことになった、と思う。そういう意味で、この事物はティリッヒの神学へのたいへんよい手引きであって、読者はこの書物を手がかりとして、ティリッヒ自身の書いたものにさらに深く導かれてゆくべきであろう。

 「ティリッヒ神学の特質」には土居教授自身のティリッヒ神学の評価があらわれている。実存主義的、プロテスタント的、存在論的、弁証的であるとして、ティリッヒ神学を特徴づけておられるが、同感である。

 またこの章において土居教授はティリッヒの「相関的方法論」を取りあげて、哲学に対して対話の関係に入れる神学というティリッヒの主張において、どんな哲学であっても皆神学と対話の関係に入れるものではないことを指摘し、この点に関してティリッヒが必ずしも明確ではないと言っておられるが、同感である。「存在と神」という章においては、土居教授はティリッヒの立場をとられ、存在論が人格神と一致すると言っておられるが、この点はわたしばかりでなく多くの神学者たちによって決してこれで問題が片付いてはいない、との発言がなされるであろう。土居教授白身も認めておられるように、「存在」という概念といえども象徴であって「人格」という象徴と同じようにその象徴が聖書的な神をどのように近く言いあらわしているか、その近似性によって、その象徴の正しさがはかられるべきである。ティリッヒがどれほどの論理的整然さをもって、「存在」と人格性とを結びつけても、やはりあまりにも神秘主義的であって、わたしの神経験とは一致しないと思う。存在論的思惟をいきなり神と結びつけないで、神の創造という神話で表現されているようなものと結びつけることも可能だろうと思う。


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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/
2003.7.7